第二章
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
水平線の彼方が薄い褐色に染まる。
「あいつ…… こんな朝っぱらからどこ行ってんだよ」
駿河の家の戸を叩きながらも、潮人の不在を告げられた風子は、夜の帳が開けるその様をただ見つめているしかなかった。しかし、たとえ潮人の顔を見たところで一体どうするつもりだったのだろうか。かけてやる言葉も向けてやる笑顔も見つけられないままに会ったところで、何も変わりはしない。ただ、こんな風に考えてしまっていること自体に、風子は辟易していた。潮人に、仲間に会うのに理由など要らなかったはずなのに。
鮮やかな朝陽の輝きも、静かに奏でられる神海の息吹も、決して風子の沈んだ瞳を澄みわたらせることは出来なかった。眠れない日々が続き、重い身体を引きずっては漁に出かけ、酒を煽ってはまた訪れることのない眠りを追い求める。
いつからこんなことになってしまったんだろう。自らに問いかけるも、その答えは既に出ていた。言うまでもなく、鯨羅という名の怪物が神海に現れた日、いや、鯨羅に戦いを挑んだ潮人が、片足を失くした父親と共に浜に伏していたあの時からだろう。
誰も潮人を責められない。そんな権利があるはずもない。責めるべきは、駿河の家に過大な期待と重圧を背負わせ、さらに得も知れぬはずの怪魚の恐ろしさを軽視していた村民全員であろう。
裕作ならやってくれる。そして、その村長の血を引く潮人だったら、この吹き荒ぶ嵐さえも鎮め、村だけでなく神海さえも治めてくれるのではないか、と。
かく言う風子自身、討伐に向かう潮人の背中からそんな希望を抱いていたのは事実であった。
それももう四月も前のこと。昨日のあの潮人の背中は何と小さかったことか。別れ際に見せた笑顔の、何と乾いたことか……!
風子は木に立てかけた巨大な銛に手を伸ばした。巨槍『剛雷』であった。一丈もあろうかというその槍は、吸い込まれるように風子の手の中に収まり、天を突いた。
「はあぁ……」
風子の呼吸に呼応するかのように、槍もまた唸りを上げ柄へ、槍身へ、穂先へと風子の力が注がれる。
「……せい!」
気合と共に剛雷が空を裂く。
「はっ! せりゃ! たぁ!」
袈裟に、薙ぎに、突きに、剛雷は縦横無尽に暴れまわる。風を截つ音が殆んどしないのは、その速さゆえか、風子の技ゆえなのか。剛雷は決して風子の手を離れはしない。他の者には持ち上げるのもやっとであるというのに、まるで風子には重さを感じさせることはなかった。
この巨大な槍を操ることを認められたのが、すなわち若狭風子であった。
風子は思った。もし、自分もあのとき潮人と共に船に乗ったとしたら。
しかし、相手は村長や潮人、それに村中の屈強な男たちでも歯が立たなかった怪魚、いや化け物である。無論自分一人が戦列に加わっていたところで鯨羅を倒せていたとは思わない。だがそれでも、鯨羅に一太刀でも浴びせることくらいは出来たのではないか。三十余人もの尊い命を海の藻屑へ化すことなどなかったかもしれない。
そして、村長の片足や潮人の笑顔まで失わなかったかもしれない。
風子の無念をその身に受けながらも、剛雷は何も答えなかった。人の想いを叶えるのは何よりも人の意志。それを充分に知っている風子もまた沈黙を守っていた。無意味な考えにいつまでも囚われ、後悔の鎖に縛られるほど風子は未熟ではない。ただ、こうして人目のつかぬところで心を乱すことがあっても、仲間にそれを悟らせまいと偽物の表情を作り上げる。
潮人は必ず元に戻る。それまで待つことしか出来ないけれど、潮人をもう一度笑わせてやるのは、私の役割ではない。時の治癒力こそが今の潮人には一番必要なはず。
剛雷からそっと手を離すと、風子の仮面にはうっすらと笑みが戻っていた。
そんな理知と合理を兼ねた風子にも一つ、計りきれていないものがあった。
背後から迫るほんのわずかな殺気に、剛雷を握る風子の拳がまた固くなる。
「はっ……!?」
弾け飛ぶ袖口の布片と共に剛雷が手を離れ、地を滑った。痛みを介せず振り返るが殺気の持ち主はいない。
「誰だ!?」
返事はなかった。気配すらも感じさせぬ姿なき襲撃者。構えようにも相対すべき方向がわからず、身を隠そうにも一番近くの大岩まですら数十歩はある。
視線を戻すと、鮮やかな朝焼けの雲を背負う大鷹の姿があった。
この瞬間、風子は察した。鷹なんて神海にはおよそ似つかわしくない。あいつが近くに潜んでいる場合を除いて。
細く震える痛みと、何処へと消えた不可解な殺気は初めて感じるものではない。足を踏み出したそのとき、存在を隠していたもう一つの影が飛び出してきた。
「やっぱり、な」
地を踏んだのは剛雷のもとへ駆けつけるためではない。思わず漏れる笑みを抑えながら、風子は跳んだ。そして宙を舞いながらもはっきりと見た。大鷹が身を翻し、眼光を叩きつけてくるのを。
「ちっ! しくじったか」
さらに、数秒前まで風子が立っていたその足跡を掻き消すかのように、一人の男が足払いを繰り出しながら舌を鳴らすのを。
「……ったく、懲りないねぇ! 隆道も!」
身体を捻り、風子はそのまま男へ蹴りを放ちながら空を駆け下りた。
「さすが、としか言いようがないな。お前の動物的なまでの直感も」
「隆道が単純過ぎるの! 鳳華に先手を打たせておきながら一瞬遅れて足払いを狙う。少しは頭を使い……」
風子の解説も途中で遮られた。予想外の相手の反応。男は褐色に焼かれた胸を突き出し、そのまま蹴りを吸収する。
「……身体を張る方が、俺には合ってるんでね」
手ごたえはあったはず。だが男は両腕で風子の足を掴むと、気合いと共に弾き返した。何としても風子の体勢を崩す気だ。その目論見通り、風子は横一直線に投げ出され、片手と腰を砂に沈める。そのまま男は尻餅をついた風子に向かう…… ことはなかった。後ろに跳び、間合いを計ることを最優先に考える。呆気にとられる風子の横からは、音速で獲物を狙う大鷹が迫る。鶏冠に携えた羽が一枚抜け落ちた。
「くっ…… 今度は鳳華が本命ね?」
立ち上がる隙もない。風子は転がりながら鷹の鋭撃を躱す。
「ふん! いつもと同じだなんてタカをくくってると、痛い目に合うぜ!」
くだらないことを、と反論しようにもその暇すら見い出せない。確かに今までの攻撃とはまるで違う。
周防隆道。彼もまた潮人を慕っていた仲間の一人である。出会った経緯などはもはや記憶の彼方にしかない。ただ、妹の奈美が生まれるよりは顔を合わせたのは遅かったような気はするが。
彼も風子や涼太郎と時を同じくして冠礼を迎えた。それからというもの、武闘祭に向けての鍛錬と称して、しばしば風子に手合わせを挑んでくる。とは言っても幼い頃からよく喧嘩を売ってきたため、そういう意味ではしていることはあまり変わらない。
そして、隆道を隆道と言わしめているのが鳳華であった。本人いわく、物心ついた頃から一緒にいるとのことだが、確かに隆道のいるところでは必ず鳳華の羽音が聞こえていた。鳳華の他者への警戒心は、主人への忠義とは反比例するかのように研ぎ澄まされていた。ただそれでも風子達には眼光を飛ばさない程度には言い聞かされているようだった。普段は海に潜って魚の動向を読んだり、その嘴で獲物を捕らえたりするだけだが、一度組み合いが始まると隆道にとっては最大の武器に、相手にとっては最悪の敵となる。
「さっさと降参しな。お前の動きじゃついてこれないさ!」
しかし、風子の口元から笑みは消えない。
「と、なると……」
風子は待つ。たった一瞬、鳳華の攻撃を避けずとも躱せる、その機を。
反する隆道は決して近づかない。先ほどの言葉とは裏腹に、身体を使う、すなわち隆道自身が向かってくるのは風子が鳳華にわずかに体勢を崩すその刹那だけだ。
「ふん! 遠くからこそこそと趣味悪いなぁ。男ならもっと一撃でズバンと来なよ!」
「よくもまぁそんなに喋ってる余裕があるもんだ。そんなに鳳華と踊っているのは退屈か?」
風子はほんの少しだけ顔をしかめた…… ように見せる。
「だが違う! そう思わせるのがお前の手なんだ! まだ余裕があるように見せかけて、本当はもう体力も限界のはずだ。つくづくお前は俺を騙すのが本当に得意だからなぁ!?」
風子はそんな隆道の裏をさらにかく。そういう意味では大正解。だがなかなかその時が来ないのもまた事実。さすがに隆道も自分の弱点くらいはわきまえているのだろうか。
「遊びは終わりだ! そろそろ引導を渡してくれる!」
しっかしうるさい奴だなぁ。隆道も最近は漁にあまり出られなくて童子達と遊んだり紙芝居を見たりする機会が増えたらしいが…… ちょっと影響受け過ぎなんじゃないのか?
風子に嘲笑されているのも気づかず、隆道は鳳華に一際高い口笛を送った。鳳華は遥か神海の彼方で宙に身を停める。鳳華の動きが心もとないのも、風子は見逃さない。
「挟み撃ちね」
鳳華は飼い主と違って頭のいい鳥だ。恐らくは勘づいているのだろう。
風子は音を立てるほどに奥歯を噛み締める…… ふりをした。神海の方から一直線上に並ぶ鳳華、風子、そして隆道。
「ようやく仕掛けてきたわね」
風子の待っていた時は、来た。
「察したようだな。そう、前後からの同時攻撃! 避けようったって無駄さ。お前が左に逃げれば鳳華が、そして右に逃げれば俺が撃墜するぜ!」
「いいの? そんな手の内をさらけ出すような真似をして」
「ふん、ばれたところでこの技を防ぐ術はない!」
相手に勝ったと思わせることが勝利への鉄則。隆道はまんまと術中に陥っている。
「行くぞ鳳華!」
しかし鳳華は動く素振りを見せない。
「おい、どうした!? お前がいないとこの技は完成しないんだ!」
鳳華はようやく風子目がけて疾走するも、くえぇ、と弱々しい声を漏らす。まるで隆道の行く末を案じるかのように。鳳華の方は気づいたようだ。
声高らかに構えをとると、隆道の瞳が鋭さを増した。
「喰らえ! 風子!」
風子は神海に住むという神に祈った。来世ではもう少しまともな主人を鳳華に与えてやってくれ。
進化の過程において、陸上の世界にまで種を繁栄することを許されなかった魚類。隆道はまさにそれだった。人類である風子は網を張りながら、ただ哀れな獲物がかかるのを待つ。あとは引き上げるだけだ。
風子は目を見開いた。三者の位置と速さを考えればまさに今が勝機。
「う、わ……」
一瞬、何が起こったか隆道は理解出来なかった。急に眼前に迫った風子のしたり顔と、その後ろから迫る大鷹の姿。もしこのまま鳳華の突撃を躱されでもしたら、その鉤爪を食らうのは他でもない隆道自身である。風子の拳を受けるか鳳華とともに間抜けな姿をさらすか。
「くっ…… ほ、鳳華! 反れ!」
当然、鳳華の攻撃を止めることを隆道は選んだ。再び上空へと舞い上がる鳳華。それを確認する間も与えず隆道を襲ったのは、あの巨槍を片手で軽々と操る風子の豪腕。
「ぐ…… は」
無論、風子も本気で隆道を撃つことはないが、相手の馬鹿さ加減に思わず力がこもってしまう。
「やば」
腹を抑えながらうめく隆道。気を失わなかったのはさすがというべきか。だがさらに軽く追い討ち。隆道の足元をさっと払い、地に伏せさせる。
「ごはぁ」
やはり耐久力はあるようだ。まだ隆道の瞳は開いている。風子は椰子の木の根元に転がる剛雷を拾い上げると、穂先を隆道の胸元へ突きつけた。
「勝負あったね、隆道」
「……くっ、不覚」
隆道も無駄に足掻いたりして、これ以上むざむざと恥を見せることはない。笑顔とともに差し出される風子の手をとり、立ち上がる。
「これで九十六戦、私の八十九勝だな」
「いや、八十八勝一分けだろ。こないだは涼太郎のせいで中断させられたからな」
「……ま、何でもいいけどね」
風子は軽く肩をすくめる。そんな数字にはあまり興味がなかった。それに残った七敗は全て不意打ちによる隆道の自称のものであったし、その後喜びに舞い踊る隆道からしっかり一勝をもぎ取っていたので負けた気にもならなかった。
「なぁ、一つ聞かせてくれないか」
「ん? 何」
「途中まで追い詰められていたように立ち回っていたのは…… あれは演技か?」
何だ。気づいていたのか。でも、
「まさか。本当にヤバいと思ったわよ」
相手に華を持たせてやるのも、勝者の務め。
「あと、ついでに教えてあげる。最後、あんな風に向かってこられても慌てちゃ駄目よ。横にだって上にだって逃げ場はあるんだから」
「う」
隆道は少しだけ唇を噛んだ。
「だが、そんな忠告をするってことは、お前はそこまで読んでいたんだろ。結果は同じだったさ」
「まぁ、ね。だから……」
風子はくすりと笑顔をこぼした。
「私以外が相手のときに、よ」
「ムカツク奴だよ。相変わらずな」
つられて隆道も笑う。彼が指笛を鳴らすと、大鷹が空から舞い降り、主人の肩に停まった。
「何にしても、お前は大丈夫みたいだな。これで、今度の武闘祭、俺の独壇場なんてことはなくなったわけか」
「あんた、まだ優勝狙ってんの? 三期連続で三位のくせに」
「ふん。今度は準優勝くらいはいけるさ」
……妙に引っかかる物言いだった。隆道は決して風子の目を見ず、続ける。
「風子以外に俺と並ぶ奴はいないからなぁ。もう少し骨のある奴がいないと、見てる方もつまんないだろうし」
棘があるわけでもない。何かを攻めてるわけでもないのだが、これ以上聞いているのは何故か忍びなかった。
「……何言ってんの。潮人がいるじゃない」
本来ならば『私と戦う以前に潮人に……』と続けるはずだった。けれど、今はこれで精一杯。物怖じなど滅多にしない風子であったが、隆道から発せられる得体の知れない空気がそこにはあった。
「おい」
風子は思わず後すさる。もしこれほどの気を先ほどの勝負で叩きつけられていたら……
「その名前、二度と口にするんじゃねぇ」
隆道の肩で羽根を休めていた鳳華が、たちまちその場を飛び立ち、一瞬にして岩山の陰に姿を消した。野生の防衛本能を刺激されたのだろう。
「へぇ? あんなに愛し合ってたのに。他に好きな子でも出来たの?」
風子は臆さない。少なくともそれを悟られてはいけない。風は人の手をすり抜け、絶対に捕らえられてはいけないのだ。
「悪いけどな、風子。今はお前の口に付き合えるほどの余裕はねーんだよ。そうやって飄々(ひょうひょう)と構えているのもいいが、理性のない人間はお前でも……」
遠く離れているはずの鳳華が悲鳴を上げた。
「手に負えねぇぞ」
どうやら完全に切れてしまったらしい。言葉か機会を誤ったか。こうなってしまった人間には、こちらからも真っ向からぶつかるしかない。本音を広げるのは苦手だが、もうそんなことは言ってられないだろう。
「ねぇ、何でそんなに潮人のこと敵視するのよ?」
しばらく隆道は何も答えない。おそらく彼にとっても風子がこんなまっすぐな目をするのは予想外だったのだろう。しかしそれも束の間、隆道は重い口を開く。
「さぁ…… な。俺にもわかんねーよ、そんなこと」
「なら、もうやめなよ。そんな隆道、見たくないよ」
底知れぬ怒りは消えていた。代わりに吐き出されるのはやり場のなかった哀しみの念。
「でもよ、風子は情けないとは思わねーのか? 仮にも村長の息子なんて肩書き背負っていながら、あんな姿曝け出しやがって……」
「じゃあ、あんただったら平気でいられるっての?」
そしてそのまま、風子の無念へと形を変える。
「鯨羅に負けちゃって、親父さんも大怪我しちゃって……確かに落ち込んでる暇なんてないってことくらい、潮人だってわかってるはずだよ。けど、辛いものは辛いの。そのくらい察してやんなよ」
風子は切々と語る。だがそれは、風子の口を借りて綴られる、隆道の本心でもあった。
「私達には何も出来ない。どんなに励ましたって、綺麗ごと言ったって、結局あいつの痛みなんてわかってやれないじゃない」
「確かにお前の言う通りさ。もし俺が同じ立場だったら責任をとる、なんて都合のいいこと言いながら神海に身投げでもしてただろうさ。けど、けどよぉ……!」
隆道の声が悲痛に歪む。
「潮人はさ、そんな弱い奴じゃねーだろ! あいつは…… こんなことで潰れちまうよーな奴じゃねーだろ!?」
「潮人だって何も変わらないんだよ! 私達と同じように傷ついたり落ち込んだりするただの弱い人間なんだよ!」
何よりも友の強さを信じ続ける男。
友の傷を理解し、察しようとする女。
二人に通ずるのは、その優しさが故に受ける痛み。
思いやるからこそ刻まれる傷。
声を荒げながらも、やはり先に冷静さを取り戻したのは風子だった。
「……やめよう。第一、私達がここで言い争っても仕方ないよ」
「くっ……!」
反してまだ何か言い足りなさそうな隆道であったが、一応は落ち着きを取り戻したらしい。そしてふと何かを思いついたかのように顔を上げ、背を向けようとする。
「ちょっと、どこ行くつもり?」
だが風子には何となく隆道の考えがわかっていたような気がした。
「……このまんまだとどうも煮え切らねーからな。潮人に会いに行く」
やはり。風子の勘はいい物はよく当たるが、悪いものだと百発百中だ。
「やめときなよ。それに、家にはもういなかった」
「は?」
「私もさっき訪ねたんだ。けど親父さんにも何も告げずにどっか行っちまったって。まぁ、私とはすれ違いくらいだったらしいけど」
これで思いとどまるかと思いきや。
「何だ、風子も同じじゃねーか。それなら、俺を止める権利はないってことだよな」
隆道は指をくわえ、笛を吹く。
「行け!」
隆道が右手を掲げいくつかの合図を送ると、鳳華は瞬く間もなく東の空へと飛び立った。その方角には岩場の広がる、あまり村民の立ち入らない半島くらいしかない。
「さて、それじゃ俺は行くぜ」
反して隆道は西へと足を向ける。二手に分かれて探すようだ。
「待ちなよ」
「あん?」
「私も行く」
剛雷を担ぎ直しながら風子は言った。
「……ったく、未練たらしい女は嫌われるぜ?」
「出遅れる男にゃ誰もなびかないわよ」
二人の間に再び火花が散った。
「……構えな。九十七戦目だ」
「あんまり待ち合わせに遅れるのも減点よ。お姫様がご立腹なさるわ」
「心配するな。波が三つ寄せて返す頃には終わる」
「あんたが砂浜に突っ伏して、ね」
隆道は背から愛用の棍棒を取り出し、風子へ向かっていった。
理知と合理を兼ねる若狭風子。その想像や思考を越え、彼女を驚愕にせしめる存在は、隆道のその馬鹿さ加減だけだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
目を覚ますと同時に潮人は父の朝餉をこしらえ、岩場へと向かっていた。さすがにまだ漁に出る者も少ないためか、浜は死んだように静まり返っている。いや、一人の老人が投網の準備をしていたが、潮人が傍を抜けても気づく気配もない。顔は曇り、肩は落ち、覇気のかけらも感じられない。ただ生きていくためだけに漁に出るのだ。
駿河裕作の敗北は、村民の隅々までその影響を及ぼしていた。無論、鯨羅の現れる以前から、嵐が襲い掛かってくることもあったが、それが自然の脅威としてのものではなく、人智を超えたものの所業とわかれば、畏怖の念は倍増する。信じるものを失い、幾度となく訪れる恐怖からいかに逃れればいいのか。それだけを胸に日々は巡るのだ。
潮人の視界の端にも大網を担ぐ老人の姿は映ったが、あえて気づかなかったかのように歩を速める。普段の潮人ならば村長の息子として、或いは同じ村で生きていく者として挨拶を交わさないはずもないのだが。
砂浜を抜けると、地は岩に覆われ、潮人の足にも草履越しに堅い感触が伝わった。
海からの風が、昨日の記憶を醸し出す。ほんの一時の出会い。岩場に佇む少女の横顔が、涙が、歌声が、他の思考を留めるほどに膨れ上がっていた。
確証はない。例え昨日の場所に辿り着いたとしても少女がまた同じように歌を奏でているとは限らない。まして、その存在自体にすら疑念を抱きそうになるが、しかし出会えたのもまたあの岩場だけなのだ。手がかりもない以上、少女の消えた場所へ足を運ぶ他はなかった。
岬に辿り着くと、緩やかな風が潮人の頬を撫でた。人の匂いの混ざらない、海の生命だけが感じられる風だった。
すなわち人の、少女の存在を否定するかのような風。
辺りを見回し、昨日少女が身を預けていた岩の陰にも目を光らせるが、潮人の求める影はなかった。
潮人は神海に向かって突き出すその岬に立ち、大きく息を吐いた。
「やはり…… あれは幻だったか……」
遥か眼下で波が叩きつけられた。そして、
「……!」
波音に混ざって潮人の耳を撫でるのは、歌だった。
昨日と同じ、たった一節の旋律で聴く者を魅了するかのような歌声が、背後から潮人の耳をくすぐる。記憶のものと違うのは、それが哀しみに彩られたそれではないことだった。
歌が止まった。信じられぬほどの速さで打ち続ける動悸とともに、潮人は振り返る。
「お……」
「こんにちは」
いつの間にそこに立っていたのだろう。しかし、そんなことは一瞬で忘れさせるほどの眩しい笑みを、少女は浮かべていた。
「見られちゃいましたよね、昨日」
「あ、ああ…… 悪かった」
「謝ることなんてないです。でも、ちょっと恥ずかしかったかな」
少女は少しだけ頬を赤らめる。昨日と違って衣服はきちんとしている。久しぶりに触れる、他人の明るさであった。
「とりあえず、座りませんか? ささ、汚いとこですが、どうぞ」
岩を軽くはたきながら、少女はまた笑う。昨日の涙が嘘に思えるような自然な笑顔だった。
「……でも、何でまたこんなところにいらっしゃるんですか? まだ他の村人さん達は起きてないみたいですし、それにこんなところじゃ魚なんて捕れないですよ?」
「そういうお前こそ、何してたんだ? まさか『こんなところ』で朝餉をこしらえるでもあるまいしな」
「あちゃー、そう来ましたか……」
ばつの悪そうに顔をしかめる。
「歌を歌いに来たんですよ。あまり人のいない時間の方が歌いやすいですし…… なーんてのはダメですか?」
「何で俺に聞くんだ?」
「あ、エヘヘ。そうですよね」
おかしな娘だな、と思った。本当に昨日見た人物と同じなのかと疑いたくなるほどだった。あの哀しげな歌をこんなにも明るい少女が歌えるのだろうか。
だが、
「綺麗な歌だな」
それは本心なのでそう告げておく。
「え、本当ですか!? 嬉しいです。お母さんに教えてもらって、それ以来私の一番のお気に入りなんですよ」
きっと成人の儀に受け継いだものなのだろう。女らしい、いい『才』だなと思った。若狭の家の姉妹はどうにも女らしさとはかけ離れている。もっとも、まだ奈美の方は冠礼を迎えていないが、考えずとも風子の後を追うことになるのは、そして本人もその意志であることは一目瞭然だった。
潮人は再び、少女の横顔を見やる。
昨日の面影は海の上に浮かぶ蜃気楼のように姿をくらましてしまっていた。岬から身を投げ、そのまま涙を残し消えたあの姿は、神の織り成した幻影だったのだろうか。
ではここでこうして笑っている少女は何者なのだ。そう思ったとき、
「……何も聞かないんですね」
彼女の蒼い瞳が揺らめいた。まるで潮人の心を読んだかのような問いかけだった。だが、
「人にはそれぞれ事情というものがあるだろう。興味本位で詮索するものじゃない」
出鼻をくじかれ、気まずさを感じながら潮人はそう応えていた。疑問が消えたわけではないが、あれほどまでに気にかけていた少女の存在が、今ではあまりにも身近に感じてしまう。何も知らないはずのこの少女が、風子や涼太郎と同じように生まれたときからの親友であるかのような。
「優しいんですね…… と言いたいところですけど、何だか投げやりな気がします。まるで、他人に関わるのを恐れているような……」
しかし、そんな同胞といえども、ここまで潮人の心に踏み込む者はかつていなかった。
「私は、興味本位で聞いちゃだめ…… ですか?」
「何をだ?」
「気づいてないんですね。そんな悲しい顔をしているっていうのに」
少女の蒼碧がまた曇った。それがそのまま潮人の胸の内をそのまま映しているように思えた。
「でも案外、吐き出しちゃえばすっきりするかもしれませんよ?」
きっと少女の言葉に偽りはないだろう。ただ、間違えているとすれば、決して単なる好奇心から潮人の胸中を探り出そうとしているわけではない、ということだった。
心の底から潮人を心配している。それだけは、愚鈍になった潮人の瞳にも照らし出すことは出来た。
「お前は……」
「と、その前に」
少女が手のひらを向け、言葉を遮る。
「ね、自己紹介しませんか?」
「は?」
「なんか私ばっかり喋っちゃって全然気づかなかったけど、まだお互いの名前も知らないですよね」
手を合わせながら微笑む少女の提案に、潮人は思わず目を丸くした。
「俺のことは、知らないのか?」
「えーっ、当然じゃないですか? だって、初めて会うんですよ!? あれ、それともどこかでお会いししてましたっけ?」
日向の村は、村民が二百人にものぼらぬ村だった。それが多いのか少ないのか、日向と同じ規模の隣村、陸奥しか知らない潮人にとっては予想だにできない。だが潮人は、村民全ての名前と顔と名を一致させるくらいの交流はあった。そして自らも、村民にその程度顔は知られていると思っていた。
それとも、記憶からはすぐに抜け落ちてしまうほど、印象の薄い顔立ちであるのだろうか。
「ま、いいか」
そんな滑稽な考えと共に、潮人は軽く親指を噛むと、少女に突き出した。
「ち…… ちょっと、何やってるんですか!?」
「ん? 何って……」
「指ですよ! 血が出てるじゃないですか!?」
少女は平然と流血を見せつける潮人に思わず怒叱を飛ばした。どうやら、本当にこの村の者ではないらしい。
潮人たちの住むこの日向の村では、親愛の証としてこの「血束の儀」を行う。両者とも親指の腹に傷をつけると、その傷同士を合わせ、血を分けた兄弟であると神に誓うというものだ。赤子が生まれたときなどは、生後一月ほどしてから近所の家の者とこの儀を交わさせる風習があるのだ。
一頻り説明すると、少女もようやく落ち着きを見せた。
「そうだったんですか」
「悪かったな。驚かせてしまって」
「いえ…… でもちょっと……」
言いながら少女は親指を隠すようにして胸の前で組んでしまっている。潮人にとっては物心ついたときからの習慣ではあったが、他の村の、ましてこんな少女が身体の一部に傷をつけるというのは抵抗があるのだろう。
「いや、気にするな。こんなのは単なる儀式に過ぎない。別に傷をつけないといけないわけではないさ」
「ごめんなさい」
確かに、桜貝のような美しい爪の乗ったこの指を、朱く染める必要もない。
「それなら、私の知ってる方法でやってみませんか?」
「ん? そうだな。なら教えてくれないか?」
潮人の反応を予期していたかのように、少女は手を差し出してきた。
「手を貸してください」
「ん。それで?」
「こうやって手を重ねて……」
手のひらに温もりが伝わる。と思うと、少女が潮人の前にそっと跪く。くすぐったいような、それでいて血束の儀よりも気持ちや情が伝いあうのではないかと思わせる、不思議な感触だった。
「はい、それではお名前を、どーぞぉ」
すっと立ち上がり、少女は手のひらをかざす。
「あ、あぁ…… 潮人だ、駿河潮人」
「潮人さん、ですね。うん、覚えました」
手を離す少女の顔が綻んだ。
よくよく見れば、少女のまとっている服は見たこともない光沢をかもし出している。綿や麻ではない、不思議な布地だった。三線弾きの歌に聴く、絹という布地かもしれない。だが絹はとても高価であり、布巾程度の大きさを得るにも真珠を十粒は差し出さないといけないほどだった。服を作るほどの絹となれば、とても一日では捕れないほどの魚が必要だろう。もしかすると、少女の生まれた地は日向の村のような漁村ですらないのかもしれない。
「で、お前の名は…… ん?」
少女の手を離したとき、村の方から鳥影が飛んでくるのが見えた。
「鳳華だ。何でこんなところに」
鳳華は潮人の姿を捉えると、潮人の眼前まで降り宙に停まる。
「珍しいな。隆道と一緒じゃないのか」
声をかけるも、すぐさま飛び発って行ってしまったところから察するに、潮人を探しに来ただけらしい。
「……何だってんだ、あいつ」
隆道が敵対視してくるのは、潮人も気づいていた。無論、その原因が自分の愚かさにあることも。
以前は風子同様、潮人にも度々手合わせを申し込んでいた隆道であったが、今となっては遥か遠い昔のことに思える。さすがに七日も連続で襲い掛かられたときはいい加減呆れたものだったが、なくなってみるとやはり、堪える。
「潮人さん潮人さん」
ぐいぐいと裾を引っ張られる。そう言えば少女をないがしろにしていたままだった。
「あぁ、悪いな」
「ねねね、あのコ知り合いなんですか?」
「は?」
どこかにあの子などと称する人影があったのだろうか。
「今の鳥さんですよ。可愛かったですよね」
少女は今にもとろけそうな目で、鳳華の飛び去る西の空を見上げていた。
「鳥…… さん?」
「そうですよ。今一緒に喋ってたじゃないですか」
鳳華のことだった。しかし鳥に敬称をつけたり、一緒に喋ってたなどという言い回しをするのは初めて耳にした。
「友達の……」
言いかけて、言い直す。
「隆道っていう知り合いの飼ってる鳥だよ。俺を探してたみたい……」
「む、ちょっと潮人さん」
少女が言葉を遮った。丸く爛々(らんらん)としていたはずの目が何やら吊り上がっている。
「そんな『飼ってる』なんて言い方しないで下さい」
またわからないことを言い出した。だが本人はいたって真剣であるようだった。
「少なくともあのコと、それに隆道さんでしたっけ? 二人はお互いそんな風には思っていないはずです」
「何を言ってんだ?」
たまらず潮人は問うが、少女は別の答えを導いた。
「あの鷹は黒飛鷹です。鳥の中でも一際誇りと自尊心が高いんですよ? それにさっき、潮人さんを探しに来たって言いましたよね?」
「あぁ。多分、だけど」
「そんな風に人間の頼みを聞くなんてまず有り得ないはずなんです。でも隆道さんの言うことには従っている。それは決して隆道さんに遜っているからというわけじゃないんです」
「じゃあ、何故人間に、いや、隆道に従っているんだ?」
少女がくすりと笑った。
「仲間だから、です」
潮人は息を呑んだ。それは少女が、涼太郎に負けぬほどの知識を持っていたからでも、今までの常識にそぐわない考えを口にしていたからでもない。
一体自分が何を失いかけていたのか、それをはっきりと告げられたような気がしたせいだった。
仲間達の顔を思い出す。その中の誰が、潮人に責任を課していたのだろうか。追い詰めていたのは他でもない、潮人自身。努力の伴わない見栄に捉われるばかりで、敗北を覆す誇りをすっかり忘れ去ってしまっていた。
何も変わる必要などない。視野を広げる必要があったとしても。
そして、それを可能にするのは何よりも仲間の支え。
「……悪かった」
それを教えてくれたのは、年端も行かない初めて出会った少女だった。
「うむ、わかればよろしい…… なーんてね」
微笑みをさらに崩しながら少女は言った。
「もう。こんな湿っぽい話、やめにしましょうね。なんて、言い出したのは私でしたけど」
やはり変な娘だな、と潮人は思った。奈美みたいにころころと表情を変えるかと思いきや、涼太郎みたいな知識を持ち合わせ、隆道みたいに熱くなり、風子みたいに人の心を言い当てる。
……こんな風に、俺がいつも仲間のことを考えてしまっている、ということを。
「でも、いいなぁ」
少しだけ眉が垂れた。
「私も、あんなお友達が欲しいです」
「俺の仲間でよければ紹介するさ。黒飛鷹ではないがな」
「えー? 本当ですか!?」
「あぁ。みんな歓迎するさ。その代わり……」
駆け引き、というほどの汚さはないが、とある考えが潮人の脳裏に穿たれた。思い描くのはたった一つ。
「歌を、聞かせてくれないか」
「歌、ですか?」
「綺麗な歌だったからな。ただ、今度はもっと悲しくない方がいいかな」
潮人をここまで導いた歌。もう一度耳にすれば今度は何に魅かれるのだろうか。
「いいですけど、でも……」
今度は少女が企む番だ。
「服は着たままですよ? なーんてね」
「い、いや、そんな意味で言ったわけじゃ……」
「えへへ、冗談ですよ」
「でも、綺麗だと思ったのは本当さ」
「え……?」
今度は少女の方がうつむいてしまう。
「あのときの声が忘れられなくて、もう一度だけでも……そう思って俺はここに来たんだから」
「も、もう…… 昨日のことは忘れてください」
「だったら、忘れさせてくれなきゃ…… な?」
「わ、わかりました…… でも……」
少しだけ少女は辺りを見回す。
「誰もいませんよね?」
「あぁ、こんなところに来るやつなんていないさ」
「それと…… 潮人さんもあまり見つめないでくださいね? 本当は、その…… っている最中に見られるのだって、すっごく恥ずかしいんですから」
さっき鳳華のことで詰め寄ってきた勢いはどこへやら。潮人は破顔すると、
「わかった。約束するよ」
小さな子供をなだめるように言った。
「もう…… 人前でなんて、初めてなんですからね」
「大丈夫。昨日があるだろ? 初めてなんかじゃないさ」
「あー! 忘れてって言ったのにぃ!」
ふくれ面をするのもほんの一瞬のこと。少女は胸の前で両手を組むと、瞳を閉じた。
「……じゃ、いきます」
波の音に合わせ、ゆっくりと喉を開いた。
「ちょっと待ったぁ!」
途端に濁声に変わる歌。しかも声のする方向がさっきとは違う気が。
「しーおーとー! 貴様! そこまで堕ちたか!?」
いや、どうやらこの不快な叫びの発生源はよく知る男からであるらしい。鳳華が探しに来ていたので予想はしていたが、まさかこんなに早いとは。
訝しげに眉をひそめ、潮人は振り返った。少女も歌を止め、深海魚にでも遭遇したかのように目を丸くしていた。だが、深海魚はこんな風に奇声を上げながら土煙と共に走ってくることなどないが。
「天ちゅ…… ぐは」
潮人は何故か薄涙を浮かべながら突進してくる魚の顎に拳を見舞ってやる。まったく、進化に取り残された分際で陸に上がってくるとは、身のほど知らずもいいところだ。
「あー、一応紹介しとくよ」
今はあんまりそんな気分でもないが。とりあえず 背鰭を踏みにじりながら、潮人は少しだけ改まる。
「これが鳳華の仲間だっていう、隆道だよ」
「は、はぁ……」
潮人の足の下でもがく姿を見る渚の眼は、さながら潰れた蛙を哀れむものだった。まぁ、しかし良かったな。両生類にまで進化は遂げたぞ。
「ぐ…… んぐぐ……」
全体重を乗せた足から逃れると、隆道は潮人を睨みつける。
「負けん…… 負けんぞ! お前のような不埒者になどコケにされてたまるかぁ!」
相変わらず分からない男だった。
「……おい、何だよその不埒者ってのは。別に突っかかってくるのは構わないが、覚えのない難癖をつけられるいわれはないぞ?」
「惚けるな!」
しかし相手は本気のようだ。
「潮人…… お前、さっきそこの女の子に何をしようとしてた!?」
隆道はそう言って珍種の蜥蜴を見る目つきの少女を指差す。ようやく爬虫類か。
「おい待て。一体何を……」
「まだ年端もいかぬ恥らう乙女に向かって、アノ時の声が忘れられないだとか、もう一度だけだとか…… 純潔を奪っておきながらその言い草とは…… 破廉恥行為もいい加減にしろ!」
「お前、一体どこから聞いてたんだ?」
「くっ、そんなことを俺の口から言わせる気か!? その娘が、服は着たままとかなんとか……」
潮人は何となく自分と少女の発言を顧みてみる。考え得るに最悪の勘違いだった。
「死ね! この外道がぁ!」
「ま、待て隆道! お前は大いなる誤解を……」
「黙れ! 沙蚕も釣り餌もあるか!」
もう完全に切れてしまったらしい。やはりどんなに頑張っても鳥以上の脳を持つことは有り得ないようだ。
繰り出される拳を避けながらも何とか説得を試みる。
「お、おい。少しは人の話を……」
「黙れ! この悪辣非道の権化が! 今こそこの周防隆道が冥土に送ってやるわ!」
言いながら隆道は見たことのない構えをとる。
「来い!」
岩場の陰から小さな影が飛び出す。同時にこちらへ急降下してきた。鳳華まで使う気か。が、どうも動きにいつもの切れがない。目を合わせると、何やら申し訳なさそうにその鶏冠のついた頭を垂れている気がした。そうか、お前も苦労してるんだな。
「ちょ…… ちょっと! やめてください!」
取り残された少女は困惑したまま叫ぶばかりだった。
「あーあ、始まっちゃってたか」
さらに覚えのある声が、鳳華の飛び出してきた岩山から姿を見せた。風子だ。
「え、あの…… 潮人さんのお友達ですか?」
「おともだ…… まぁそういう言い方も出来なくはないかな」
風子は面倒臭そうに言った。そして何やら釣ったばかりの魚を吟味するかのように、少女を見る。
「へー、これが潮人の引っかけた娘か」
「引っかけ…… ち、ちちちち違います!」
「あらそうなの? 潮人のやつも、こんなところには誰も来ないさ、なんて言うからてっきり……」
「てっきり何なんですか!?」
「うふ、言っちゃっていいの?」
「じゃ、じゃなくて、早くあの二人を止めてください!」
何に慌てているのか、少女は今にも舌を噛みそうな勢いで口を回した。
「そうだ! なに呑気にかまえてるんだよ!? 早くこの馬鹿を止めるなり加勢するなりしてくれ!」
などと叫んでいる間にも隆道の拳撃は飛んでくる。鳳華はというと明らかに手加減してくれているのがわかった。鳳華もとっととこの茶番を終わらせたいのだろう。
「貴様ぁ! 闘いの最中によそ見をするなどふてぇ野郎だ! 神妙にお縄につきやがれぃ!」
気のせいか口調も目的も変わっている気がした。
「ふん、人の色恋沙汰を盗み見するようなやつには何も言われたくはないさ」
「いろ……! し、ししし潮人さん!?」
今度は違う人が違う方向に火がついてしまったらしい。うっかり冗談も言えない。
「うわーん。おねぃさーん……」
「よしよし」
何故泣く。少女に胸を貸しながらも、風子は相変わらず涼しい顔で傍観していた。
「ま、いいじゃないの」
風子は淡々と言葉を紡いだ。
「こいつらがやり合うのなんて久しぶりに見るんだし」
蹴りを放とうとしていた隆道の動きが、止まった。
それを見た潮人の時間も、止まる。
「……ちっ」
隆道は舌打ちをするだけで、何も言わなかった。潮人はわざと砂浜に足跡を残すようにして風子に詰め寄った。
「ったく、止めるにしても少しは手段を選べよな」
「別に、私は止めた覚えはないけど?」
草笛を噛みながら、風子は言った。こんな風子には誰一人として敵う者などいない。
「うぅ…… 潮人さーーん」
少女が潮人の胸に飛び込んだ。
「大丈夫ですか? 怪我とかはないんですか? それに、えーと、色恋とか、そういうのって私はもっとみんなには内緒で隠れてやるもんだと思ってたのに、あんな堂々と公言されたら私の立場がないっていうか…… あ、いや! 隆道さん!? 何聞いてるんですか? また盗み聞きするだなんてほんと、趣味が悪いですよ? いや、決して見られてまずいコトをしているわけじゃ…… ほ、ホントですよ?」
結局、何が言いたいんだか貝殻ほどもわからなかったが潮人は、
「あ……」
「悪かった。もう大丈夫」
そう言いながら腕の中で泣きじゃくる少女の頭を、静かに撫でてやった。心配させてしまったのは事実だろう。もうこれ以上、誰かにそんな想いをさせたくはなかった。
「あと、お前らも」
向き直り、二人の瞳を見つめながら軽く頭を下げる。それだけで、風子も、そして隆道も察することが出来た。
昨日までの潮人は死んだのだ、と。
「今まですまなかったな」
「謝ることはないさ。私は、あんたが元に戻ってくれたんなら、それでいいからさ」
薄い笑みを浮かべながらも奈美と同じような台詞。やはり姉妹なんだなと思った。
「ふ、ふん! お前が潰れたまんまだったら、武闘祭、俺が優勝出来たんだがな」
さっきまでと変わらない憎まれ口。
二人の態度はまるで正反対だったが、潮人を想っていたその心はきっと変わらない。それは、胸の中でまだ涙を抑えながらしゃくり声を上げている、出会ったばかりのこの不思議な少女にも、きっと言えることであるだろう。
「そんで、潮人」
風子の目から湿った威圧感が漏れ出す。潮人の苦手な視線の一つだった。
「そろそろ、あんたがさっきから抱きかかえてる娘は一体何なのか、教えてくれてもいいんじゃなーい?」
「え」
「は……!? きゃっ」
慌てて少女は身を離した。だが風子の、無言で詰問してくるようなその目つきは変わらない。
「抱き合ってるくらいでそんな様子なんじゃ、隆道の誤解していたようなことはなかったみたいだけど、紹介くらいしてくれても罰は当たらないわよ」
「あ、あぅあぅ……」
少女はわなわなと唇を動かすばかりで、まるで言葉にはならない。
「……まだ俺も昨日知ったばっかだよ」
「その割には随分とお熱いよーで」
ぼんっ、と一瞬少女の髪が逆立ったような気がした。
「とりあえず、お前らの方から名乗ってやってくんねーか」
こんな調子だから、とはあえて言わずともわかるだろう。
「若狭風子。一応潮人とは生まれたときくらいからの付き合いなんでな。よろしく」
そう言って風子は親指に口を添えようとする。
「あ、風子。悪いがこの娘、日向の者じゃないんだ。悪いけど……」
そこまで言うと風子も気づいたらしい。親指を立て、少女の前に差し出した。
「あ、はい。風子さんですね。覚えました」
朱く染まらない血束の儀は初めて目にするが、別に二人がお互いを認め合ってくれさえすれば何だっていい。
「次は俺だな。えーと……」
「あ、周防隆道さんですよね?」
「そうだけど、何で知ってんだ? まさかこいつがいらんことを……」
隆道の顔が醜悪に歪んだ。ただならぬ空気が漂い始めるが、それをいち早く感知したのか少女は、
「えー? 違いますよ。さっき自分で叫んでたじゃないですか? 潮人さんのこと冥土に送るとか何とか……」
「そうだったかな……」
素早く反論し、相手の出鼻をくじく。隆道もさっきのかけ合いを反芻するが、記憶には残っていないらしい。
「覚えてないんですね。でも、もう殴り合いみたいな、あんな真似しないでくださいね」
「い、いや。あれは……」
「しかも鳳華ちゃんまで巻き込んで。隆道さんは自分だけのことって思っているかもしれないですけど、もし鳳華ちゃんが怪我でもしたら、今と同じようなことが言えますか?」
まただ。さっきまで顔を紅潮させて混乱していたとは思えない強烈な詰問。正論だけで相手を言い負かすため、隆道も自分の非を認めざるを得ない。
「あ…… わ、わりぃ」
その証拠に、隆道が素直に頭を下げている姿を拝むことが出来た。記憶の糸を手繰り寄せても、初めて目の当たりにする光景だ。
「うむ、わかればよろしい…… なーんてね」
そして、神海に映る太陽の輝きにも負けないほどの笑顔。もしかしたら奈美や風子よりずっと上手かもしれない。
「潮人」
風子が密かに顔を近づけてくる。
「何だよ」
「あんたもやるねぇ」
それだけ言うと身体を離し、
「じゃ、次はあんたの番だね。せっかくだから潮人から紹介してやったら?」
風子はまた意味深な笑いを浮かべながら意味深な言葉を投げかけてくる。意味深な視線と共に。
「……別に構わねーけど」
反発するのもためらわれ、少女に視線を向けるが、
『あ』
少女と潮人は同時に声を上げた。
「そう言えば、まだ名前……」
「言ってなかった、ですね」
少女からの親愛の儀は受けたものの、結局鳳華や隆道に邪魔されて、まだ名を明かしていなかった。
「えーと、それでは。こほん……」
仰々しく咳払いなどをしてみせると、背中に両腕を組みながら、一言。
「瀬戸内 渚です。よろしく」
渚は、ようやく昇り始めた朝陽と共に微笑んだ。