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第一章

             ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



神の住む世の荒れしとき

人でなきもの怒り狂わん

海の山かと見紛うほどに

その口腔は冥府の門か

天を従え海を統べ

生きる息吹を滅さんと欲す

忘れるなかれ恐るる民よ

因果は全て所業にありと



世が闇に閉ざされしとき

人でなきもの嘆き歌わん

神の使いと紛うほどに

その謳吟は歌仙も魅せる

地に立ち空翔け水を舞い

怒りを鎮め無に返さん

望むなかれ勇ましき民よ

歌は運命を奏ではしまい




一羽の海猫が岩を蹴って飛び発った。潮風を羽根に受け、空を切るその姿を見ていると、先日のことがまるで嘘のように思えてくる。

もしかしたら自分も空を飛べるのではないか。

潮人は手にした銛を地に突き刺し、天を仰いだ。だが当然ながら羽根が生えるわけもなく、日々の生活で培われた屈強な腕に涼みを感じるだけだった。

潮人は海を見渡した。生まれたときから共にあった、この母なる海を。

雲一つない空と、同じくらい透き通った薄藍の海原。

村人からは『神海(しんかい)』と呼ばれていた。

この世の最果てにまで続いていそうな、そんな幻想さえ抱かせるこの海には、その名の示すように神が住んでいると言われている。だが潮人はおろか、神海の浜辺にある、ここ、日向の村の誰もがそのような存在は垣間見たことすらない。今やそのようなお(とぎ)(ばなし)を信じるのは、自身が伝説にでもなりそうな、僅かな長寿達だけだった。

銛をかつぎ直し、潮人は再び歩き出した。まだ父から授かってから半年ほどの時を刻んだだけだが、銛は既に潮人の一部と化していた。

日向(ひなた)の村の子供は十八度目の誕生日と共に成人の儀を迎え、親から様々な物を引き継ぐ。それは技であり、才であり、志であり、夢であった。その証として、親は稼業に合わせた物を子に授ける。

村を統べる村長の名を持つ父・裕作から、潮人はこの銛を授かった。そしてようやく父から離れ、漁に出ることを許されたのだ。

この半年の間、時を同じくして成人した仲間達とはもう何度も海の上で共に過ごした。

日の出と同時に目覚め、まだ魚も泳ぎださないうちから船を出す。時には銛を投げ、時には網を張り、時には潜り、獲物を捕らえる。海が朱く染まる頃に村に戻り、家族の出迎えを受け、そして共に一日を感謝しながら床につき、日を終える。

それが潮人の、いや、日向の村に生きる人間の全てだった。

潮人はこの海が大好きだった。

仲間と、この海と共にあることを幸福に思わずにはいられなかった。

だが。

変わらぬ日々は、嵐の到来を見据える、風鳴(かざな)(どり)の警告も無しに突如、崩れ去った。



「よ。今日はもう帰りなの?」

背後から声がかかる。波の奏でる静かな音色というよりも、どちらかといえば雷雲でも思い起こさせるような声。彼女の威厳と風格が潮人の耳にそのような印象を与えるのだろうか。

風子(ふうこ)

 そう呼ばれた女の(かたわ)らにも、見慣れた少年の姿があった。

「それに(りょう)太郎(たろう)…… か」

潮人は特に顔を変えることもなく応える。

「何だ」

「別に。まだ日も沈んでもいないってのに、もう上がるのかって」

「そういうお前らこそ何だよ。いつもならとっくに沖まで出てる頃だろ?」

「ま、そうなんだけどね」

潮人はふと、風子が銛をかついでいないことに気づいた。涼太郎を上回る風子の体躯(たいく)と、そんな風子自身を覆い尽くしてしまうような、丸太ほどもある銛。いや、すでに銛と呼ぶのも相応しいかどうかわからない。村でもかつげるのは女ながら指折りの怪力を誇る風子を含め、数人しかいない。潮人同様、成人の儀の際に風子が父から受け継いだのがその巨大な槍は、『(ごう)(らい)』と呼ばれている。風子の目印ともいうべくその巨槍がなかったため、声をかけられるまで風子に気づかなかった。

……そう、そのせいで気づかなかっただけなんだと、潮人は自らに言い聞かせる。

「今日は奈美が牡蠣(かき)が食べたいんだってさ。それだったらわざわざ沖まで行く必要もないから」

 銛の代わりにいくつか貝の詰まった網を持ち上げてみせる。

「僕も。母さんが同じようなこと言ってて。そしたら風子とばったり会ってね」

風子とは裏腹に、細く透明な声。冠礼の時にも、涼太郎を見慣れぬ者からは性別か年齢を偽っていると思われていた。

漁に出ても涼太郎は、自ら獲物を狙うことは少ない。だが風や波を読む勘が人一倍鋭く、気候や魚の動きなどもぴたりと当ててしまう。もし涼太郎のこの知識や感性を借りなければ、潮人や風子も満足に獲物を採れるようになるまであと五年はかかっていただろう。

「ま、同じ物が食いたきゃ同じトコで会うわな。私としちゃ今日は(ふか)でも殺りたかった気分だったんだけど」

腹いせとばかりに涼太郎の背をはたく。

「もう! 奈美のわがままは今に始まったことじゃないでしょ。僕のせいじゃないよ」

「わかってる。単なる八つ当たり」

「僕はいい迷惑だよ。でも風子の言うとおり、今日は沖に出たらきっとたくさん採れたと思うよ。そろそろ黒雀(こくじゃく)(ちょう)の産卵の時期だからね。その卵を狙って魚が集まってくるんだ」

水平線を眺め、涼太郎が言った。

「何だ。だったらますます沖に出たかったなぁ」

「でも、奈美が『あれ食べたい』って言い出したら聞かないからね。それに、風子も逆らう気もないだろうしね」

「……まぁね」

目を細める風子が少し小さく見えた。妹、奈美の話をすると決まって風子はこんな顔をする。風子の唯一の弱点だ。

「風子も奈美だけには甘いんだから」

「……へぇ。よくわかってんじゃない。つまりそれは、私が他の奴には甘くないっての、わかってるってことだよねぇ?」

風子の目が光る。同時に涼太郎が危険を瞬時に察知した。回遊魚の如く素早く身を(ひるがえ)すが、一瞬の間の後、風子の腕が涼太郎の首を捉えていた。

「モガ…… もがが……」

「ふっ…… まだ爪が甘いね、リョータ。もう半歩、距離が遠かったら逃げられたものを」

今回は風子に軍配が上がったらしい。背後からがっちりと涼太郎の上半身を固める。女ながらも『剛雷』を振るう風子の腕だ。これが自然の掟の中なら涼太郎は風子の胃袋の中に納まってしまっていることだろう。だがもちろん、本気で締め上げるような真似はしない。涼太郎も腕をほどこうとしながら笑みを浮かべていた。

そう。潮人も同じように笑っていた頃があったのだ。風子と共に涼太郎をからかったり、どれだけ大きな魚を採れるか競い合ったり、潮の流れを感じたり……

あの日を境に潮人は笑うことをやめてしまった。いや、自らを(あざけ)り、(ののし)り、侮蔑(ぶべつ)するだけの笑みは残されている。ただそれだけだった。それだけしか今の潮人は欲していない。必要としていない。

「お、おい。どこ行くんだよ?」

無言で立ち去ろうとする潮人を風子が慌てて呼び止める。

「どこって…… 帰るんだよ。今日は気が乗らねえんだ。お前らはこれからまた海に出るんだろ?」

「そう、だけど……」

涼太郎は思った。少し前の潮人なら「気が乗らない」なんて理由で、こうして一人で帰ることなどなかったのに。

「じゃあな」

こんな気持ちで潮人の背を見つめることもなかったのに。だが涼太郎も、風子も何も言わない。

「やっぱり…… 元気ないね。潮人」

「あぁ。全部背負い込んじゃってんだろうね。親父さんのことも、ヤツのことも……」

涼太郎は、風子の拳が固く握り締められていることに気づいた。

「ま、あいつらしいといえばあいつらしいけど……」

そして、明るく振舞う声とは対照的に、その拳が小刻みに震えていることにも。

涼太郎は去り行く潮人の背と、たなびく髪に隠れた風子の横顔を見比べると、重く瞳を閉じた。



       ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



潮人の住む家は、他の村人のものと何ら変わりはなかった。潮風の当たりにくい場所に建てられてはいるものの、老朽化は確実に進んでいた。土壁や柱には鼠に喰われた痕があり、障子も何度か張り替えられたのが(うかが)える。暖を必要とする季節が年に数日もないため、囲炉裏(いろり)も滅多に使われず、(すす)を被ったままだった。 

父、駿河裕作の村長としての名はあっても、それは決して豪華な暮らしを約束されているわけではなかった。そもそも村長に任命されるだけの人望を持つべき人間が、他の村人をさしおいて豪遊するなど許せるはずもない。逆に、そのような所業を率先してしまう者が、長として認められるはずもなかった。

「今帰ったよ、親父」

「あぁ」

裕作は布団の中でゆっくりと身体を向き直させる。

「どうだ? 身体の調子は」

「昨日よりはいい。海も穏やかなようだしな」

言葉通り、裕作の声は晴れていた。そして神海も、静かな波音を立てている。裕作もまた、長年この村にて生を歩んできたことを示すべく、戸の隙間から流れる風でさえ神海を感じ取れる。そんな父の微笑みにつられてか、潮人の頬も緩む。

「今日は赤貝を採ってきたぜ。こんな日は目をつぶってたって大漁だ。さて、どうやって食おうか」

潮人はさっそく貝殻の隙間に(きり)を挿し込む。

「潮人。今日もまた海に出なかったのか?」

潮人の手から貝がこぼれ落ちる。二、三度畳を跳ねると、裕作の枕元まで転がった。

「……今日は沖まで出ても魚なんていやしないと思ってさ。それに親父、赤貝好きだったろ? 久しぶりにいいかなと思って」

「そうか。お前ももう少し涼太郎君に波の読み方を教わらんといけないかもな。こんな日に潜れば(まぐろ)でも海苔でも好きなだけ採れただろうに」

ゆっくりと身体を起こし、裕作は貝をつまみあげる。

「それにいくら好物といっても、砂抜きもせん貝など食えんな。それとも汁にでもするつもりだったのか?」

「は、はは…… すまねぇな、親父。俺もまだ……」

「潮人」

裕作の目が見開かれた。背を向けた潮人はそれに気づかない。

「……いつからお前はそんな腑抜けになったのだ?」

風が吹きつけ、波音も僅かに遠のいた。

「いつからお前は、この駿河裕作の息子であることをやめたのだ!」

屋根から一房の(わら)が舞い落ちる。普段なら、これだけの激昂を見せたとあらば、顔を殴りつける程度では済まないほどの喝を潮人に与えていたことだろう。だが裕作は立ち上がらない。綿の毛布を跳ね飛ばすも、潮人の背に視線を強くぶつけるだけだった。

「悪いな、親父。まだ俺も料理は不得手なもんでさ……」

それでも潮人は振り返らない。いや、父の目を見ることを(おそ)れ、振り返ることが出来ずにいた。

「潮人。儂がそんなことに激を飛ばしているのではないことはわかるな? それとも、お前はそれすらもわからないほどにまで堕ちてしまったというのか……」

錐を置き、ようやく潮人は振り返った。だが視線は父の眼ではなく、足を捉えていた。そこには……

「もう気にするなと言っただろう。儂はこんな身体になったことよりも、今のお前の姿を見ている方が何よりも辛い……」

 膝から先が失われていた。



       ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



その怪魚は、(げい)()と呼ばれていた。

最初に目撃した漁師の言葉では、その姿が巨大な鯨に酷似していたという。ある嵐の日、無謀にも漁に出たその男は村でも手練(てだれ)の漁師であった。初めは、目の前の島が突如、揺れ出したのかと思ったらしい。だがそれが生き物だとわかったのは、身も凍るような視線を感じ、乗っていた小舟の十倍はあろう尾鰭(おびれ)で津波を起こされたときであった。

命からがら村に戻ったものの深手を追い、その男は妻の顔を見たと同時に息絶え、今やこの世にはいない。

鯨羅が神海に現れ、村は急激に衰えていった。鯨羅は嵐の起こった日から三日三晩、神海を荒らしていく。無論、その間に海に出ることは死を意味する。そして四日目の朝、無数の魚の死体が、嵐の過ぎ去った穏やかな海面を覆い尽くす。

漁に出られぬ漁師は嵐を恐れ、女達は黒雲に怯え、やり場のない怒りと恐怖に(さいな)まれていった。

村の歴史の中でも数知れぬ一大事に立ち上がったのは駿河裕作であった。ある日裕作は、有数の屈強な男達を連れ、嵐の中神海へと舟を出した。

このとき潮人も名乗りを上げたことには裕作自身、きっと誇りに思っていたことだろう。

だが舟は鯨羅の一撃で転覆。男達も、ある者は舟ごとその命を砕かれ、またある者は鯨羅の鰭が生み出した渦の中へ消えていった。

帰らぬ彼らの生命を誰もが諦めかけたある日、浜に流れ着いた裕作と潮人が発見された。奇跡的に潮人は命に別状はなかったものの、裕作は右足の骨が粉になるほど砕かれていた上、壊死(えし)しかけていたため、やむを得ず切断することとなった。



もう月が四度欠けるほど前の話であった。



風は少し()いでいた。陽も傾きかけ、沖に出た風子達もそろそろ戻ってくる頃だろう。だがまだ水平線を染めるわけでもなく、童子(わらしご)達が隠れ鬼をする姿も見受けられた。

ふと潮人は過ぎた時間を省みる。ああして遊ぶことがなくなったのはいつの頃からだろう。

成人する前から潮人は、一人で海に出ることが許されるその日を心待ちにしていた。年が十を過ぎた頃から、潮人は父の真似事をして浅瀬を小舟で駆けずり回っていた。一度だけ父には黙って沖まで出たときの興奮は今でも胸の中に蘇えることがある。そして海岸で待ち受けていた裕作の心配そうな顔と、生まれて初めての激しい叱咤(しった)も。

海の優しさも厳しさも皆、父に教えられ、そして自ら学んでいった。そんな父も今では立ち上がることもままならぬ姿へと変わり果ててしまった。

潮人は近くに(そび)える椰子(やし)の木に拳を打ちつけた。

いつかは父を乗り越えてゆかねばならぬと思っていたのに、これではそれすらも叶わないではないか……!

音を立てて実が一つ、足元へ転がると、再び潮人は歩き出した。

「潮人―!!」

明るく、かん高い声が届いた。随分遠くから叫んでいるらしい。と思いきや。

「もう! 潮人ったら無視しないでよ!」

背中が少しだけ重くなった。ついでに耳元で鐘でも鳴らされているかのように頭蓋骨が鳴る。いや、実際に顔の傍で怒鳴っているのだろう。吐息が首筋に吐きつけられる。

「コラ! 無視すんなってば! いつからそんな偉くなったんだ!?」

おぶさりながら声の主は首を締めつけてくる。別に苦しくとも何ともなかったが蒸し暑いことこの上ない。

「奈美…… わかったから離れてくれ」

「何だ。やっぱ聴こえてんじゃん」

「今度はお前の耳が遠くなったか? 暑苦しいから降りろって言ってんだ」

「……ったく、ノリ悪いなぁ」

渋々と少女が潮人の背から飛び降りる。

「姉さんの言ってた通り、本当に腑抜けになっちまったんだな」

「風子のやつ、そんなこといってたのか」

「うん。もうタコみたいにふにゃふにゃで、ついでに干しワカメみたいにしなびちまったって。姉さんもうまいこと言うなぁ。にゃははは」

反論しようにも本人がその場にいない以上怒りのやり場もない。代わりに奈美にぶつけるのも筋違いというものだ。

「で、だな、奈美。お前に一つ聞きたいんだが」

振り返り、少女の頭をぽんぽん叩きながら言った。

「お前は姉貴に、俺が落ち込んでるって聞いてたんだな?」

「うん。ちょうど漁の帰りに会って。ウチは子供達と遊んでたし、まだ帰るにも早かったから…… っておい」

 少女の声が少しばかり歪んだ。

「人の頭、軽々しく叩くなよ」

「それで、お前にゃそんな人間をいたわってやろうとか、そっとしといてあげようなんて気はないのか!?」

少女の訴えとは裏腹に、潮人の手はどんどん速まる。少女の肩がわなわなと震えた。

「頭たたくなって言ってんだ…… ろ!」

目を見開き、潮人の手を跳ねのける。と、同時に、

「せりゃあ!」

少女の体が回転し、横蹴りが飛んできた。だが潮人も動きを読んでいる。

「おっと、そんな蹴り、みすみす喰らって…… んが!?」

少女の右足が、潮人の脇腹にめり込んだ。

「ふっ…… まだまだ甘いね、潮人も」

「う……ぐ…… 二段か」

片膝をつき、今まで眼下にあったはずの少女を見上げる。得意そうに勝ち誇る目が憎らしい。

「それに、さっきなんか言ってたっけ? 今はしょげてるから気を使えって? ウチがそんなことするわけないじゃん! なはは!」

言われてみればそうだな。腹を抱えて笑う少女に、我ながららしくないことを言ったもんだ、と思った。

風子の妹、若狭奈美。村中の女でも、潮人にこんな態度を取れるのはこの姉妹だけだろう。蹴りを放つ者などは言うまでもない。他の村娘達は村長の息子だという畏敬(いけい)を払ってか、「潮人さん」などと呼んでくるのに。

それは潮人が姉と親しいから、という理由かもしれないが、今思えば小さい頃からこうだったような気がする。思ったことは何でもぶつけてくるし、こちらの身体が頑丈なのをいいことにいつも新しい蹴り技の練習台にさせられてきた。

そんな奈美だったが、村の誰かれにもこんな顔を見せているわけではない。

以前、風子にこんな話を聞いたことがあった。

日向の村には度々、山の麓にある陸奥の村から野菜売りがやってくることがある。海岸沿いの日向では野菜や芋や穀物は採れないため、山を降りてくる行商人から魚や海草と交換に得るしかないのだ。

ところが、奈美の母が所用で出かけてしまう日に、行商人がやってくることになった。そんなときはいつも風子に任せていたのだが、運悪く風子も父の使いで出払ってしまっていったのだ。奈美は風子と一緒なら商人に接するのも初めてではないので、『ウチに任せてよ』、と頼もしい言葉で母を見送った。ところが、その日に限って違う商人がやって来てしまったのだ。商人が若狭の家の戸を叩いても、奈美は柱の陰に隠れてやり過ごしてしまったという。

思い返してみれば、奈美が同年代の少年達と話している姿など、見たこともない。潮人や姉達といるか、村の童子の遊び相手をしているかのどちらかだった。

まあ、それでも、

「それとも、あれ、潮人、何? ウチに慰めてほしかったわけ?」

自分達の前ではしゃぎ回ってくれるのだからいいか、と潮人は思った。

「ふふ、いいわよぉ。ほら、こっちにおいで。よしよしって頭なでてあげる」

……けれど、こんな満面の笑みは見たくない。

潮人は立ち上がると、奈美の髪結いを素早く(かす)め取った。結い上げられた髪が、はらりと流れる。

「うわぁ!? ば、ばか! 返せよ!!」

「お前ももう少し髪でも伸ばして、ついでに出るとこ出てくれればな。甘えてみたいとも思うんだが」

紅潮しながら突進してくる奈美を、ひょいと横にかわす。

「う、うるさいうるさい! 潮人なんかに甘えてほしくないやい!」

「さっきと言ってることが違うじゃねーか。ったく、童子の中じゃ威張り散らしてるみたいだが、まだまだだな」

一気に形成逆転だ。

「うー」

奈美の吊り上った目がさらに傾く。と、思いきや。

「ねえ、潮人」

急に声が下がった。

「ウチだって、心配なんだよ」

視線までも落としながら奈美が呟いた。波音にかき消されそうなほど弱々しく。

「ここんとこ、姉さんもおかしいんだ。昨日なんか漁から帰って来たかと思ったら、お酒飲んでそのまま床に入っちまうし…… 祭りのとき以外は(ほと)んど飲まないはずなのに……」

潮人を油断させる新たな技かと思ったが、そうではないらしい。

「何も言ってなかったけど、多分、姉さんも潮人のこと気にしてんだよ。それに、リョータだって……」

薄紅色(うすべにいろ)の唇を少しだけ噛む。

奈美は滅多なことで弱音を吐いたりはしない。恐らく弱さを見せることが恥ずかしい、と思っているのだろう。

それはこの砂浜のような白い心を持つが故なのかもしれない。太陽の光を浴び、まばゆいほどの輝きを発しながら周囲の人間にも明るさを振り撒く。

それがこの若狭奈美という少女であった…… はずなのに。

今や自らの堕落のせいで父や友だけではなく、こんな少女の笑顔までもかき消されてしまうのか。

潮人は拳を握る。爪が皮膚に食い込んだ気がするが、痛みなど感じない。奈美の方が、奈美の心の方がひどく傷ついてしまっている。それこそ血も流れないほどに。それを思えばまだ傷痕が目に見える分だけましというものだ。泣けない少女の涙の方が遥かに残酷で、重い。

「奈美…… ありがとう」

謝罪ではなく賛辞。奈美は頭を下げられることなど求めてはいない。逆に頭を上げ、目を見開いて自分の現在と未来から目を背けないこと。それが奈美の願いのはずだ。ならば『ごめん』などと言葉をかけることは不必要である。そのことに気づかせてくれた少女に礼を言うのは至極当然のことだった。

「な、何言ってんのさ…… 急にかしこまっちゃって」

少しだけ笑顔が戻ってきた気がする。

「ウチは、あんたが早く元に戻ってくれれば、それでいいからさ」

「……ああ」

そう言い残し、潮人は背を向けた。その笑顔が作られた笑いであることは、奈美にも伝わってしまっていることだろう。だが、これ以上苛(さいな)むことは奈美にも出来なかった。

そして少女もまた涼太郎と同じ想いを胸に(まぶた)を閉じた。



       ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



奈美と別れ、潮人は海岸のはずれへと足を進める。緩やかな坂が続き、登るにつれて足元を徘徊する蟹の数も減ってくる。海草の死骸だけが辺りを飾り、このあたりまで来ると、浜を敷き詰めるはずの石もまだ波に削られてはいない。さすがに村人もこんな辺鄙(へんぴ)な場所まではそうそう足を伸ばさないのか、辺りは波の音に包まれているばかり。

岬の先で、潮人はようやく足を止めた。水面は遥か眼下にあり、落ちるまでに何秒かかるか、見当もつかない。もう一歩でも踏み出せば、或いは風に押されてしまえば、水面に叩きつけられ、神海の一部へと果ててしまうだろう。

だが潮人はしっかりと岩を踏みしめ、そんな風の悪戯(いたずら)に流されてしまうようなこともなかった。

空の青と、海の緑しか目に入らず、一瞬、この世にあるのは自分と神海だけなのではないか、と錯覚してしまうような場所。

もう何度も思い起こした変貌の瞬間。幾度めかの悪夢。それらが潮人の胸を今再び締め付けた。

愚かだった。思い上がっていた。鯨羅を倒し、英雄にでも(まつ)り上げられたかったのか。

それも無いとは言わない。だが若さ故の過ちとするには、あまりにも失ったものが多い。

波間から垣間見た、同胞の形相を思い出す。あんなに必死にしがみつこうとした生を、何も出来なかった自分がのうのうと手にしている。

だが最も苦しいのは、あの時の父の判断に抗おうとしたことだった。

膝から先のない、父の足を思い出す。あの姿は、一つ間違えれば今の自分の姿だったかもしれない。少なくとも、あのとき父に従い、素直に引き返していれば父も五体満足で舞い戻れたかもしれない。

運命を分けたのは何だったのだろうか? 何故俺だけが無傷で生き残れたのだ。

残酷で無神経な神の仕業だと言うのか。だとしたら神は、命を永らえた俺に何をしろというのだろう。鯨羅に怯え、惨めな日々を送ることを望んでいるのか。

……神?

冷たい海の中で感じた、暖かな感触が右手に蘇ってくる。確かに、あのとき手を引く者がいた。まさか昔話にあるように「人でなきもの」が村まで導いたとでもいうのか。

耳が澄んでくる。静寂の中に神海の音だけが真綿となって潮人をくるむ。母の胎内にいたときから聞いていたこの音は、潮人の知る唯一の音楽と言えるかもしれない。

その風と波音の中、微かに聴こえてくる調べがあった。

潮人は軽く辺りを見回すが、誰もいない。それでも、聴こえてくる。海燕の鳴き声よりも高く、晴れた日の神海よりも透明なその調べは、歌だった。誰かが岩場の向こうで歌を歌っている。澄み渡るように綺麗で、そして何だか悲しい歌。

潮人は小さな岩山を乗り越えると、首を伸ばして岩の向こうを覗き込む。


潮人の頭に、村に言い伝えられる二つの歌がよぎった。

一つは海に住む神の恐ろしさを切々と物語ったもの。

そして、もう一つは……


(誰だ……?)

 一人の少女が岩山に背を預け、たたずんでいた。薄い衣以外は一糸(まと)わぬ姿で、両手を胸に掲げ、まるで何かに祈るようにして……

 泣いていた。絶望の中に身を置きながら、神に助けを求めるかのように。

 何に怯えているのだろう。

 何に悲しみを()せているのだろう。

 潮風に流れる少女の涙は、しかし、何も語ってはくれなかった。ただ想いだけを乗せ、少女の心から溢れ出す。

「あ……」

 潮人の喉から声が漏れ、少女が振り返る。

「やっ……!?」

白い肌。隠された胸元に目を奪われつつも、潮人の心を貫いたのは、見たこともない濡れた瞳。神海の底までも映し出すかのような、透き通った深い、深い蒼。

 その蒼碧(そうへき)もまた、潮人を見つめる。

 何かに恐れるような、悲しみの影は消えていた。少女は、単純に予期せぬ男の姿に驚いているように見えた。年のころは奈美と同じか、少し上くらいだろうか。だが少女の創りだす透き通った空気に覚えはなかった。村にいるこのくらいの娘で、見知らぬ顔は殆んどいないはず。日向の者ではないのだろうか。

「何を…… 泣いているんだ?」

 様々な疑問はあった。だが潮人の好奇心を刺激したのは、少女の素性でも、晒された素肌でも、初めて耳にした純白の歌声でもない。こんな人の気配のしない岩場で流した、その涙の理由だった。挿絵(By みてみん)

 鯨羅に家族を奪われ、涙する者を見る機会は幾度かあった。だがこの少女の涙は少し違う気がした。自らの心の痛みよりも、他者のために流した涙。

 自失したまま問いかける潮人に対する少女の答えは、

「……ごめんなさい」

 目を背け、その細い身体を(ひるがえ)す姿だった。だが彼女の、肩までも届かぬ髪がそっと浮かび上がったかと思うと、

「くっ……」

 強い風が潮人に吹き付けた。磯の香りのしない、初めて感じる風だった。思わず潮人は顔を覆い、風を遮る。

 そして風が止むと、そこにはただ少女の背にしていた岩山が立っているだけだった。

「一体どこに……」

 気配を感じ、振り返るといつの間にか少女は、先ほど潮人の立っていた海角にたたずんでいた。

「な…… おい、お前……!」

 慌てて駆け寄るが、遅かった。潮人の目に飛び込んだのは、やはり祈るように手を組み、突出した岩の淵から身を(おど)りだすその背だった。

崖に顔を覗かせると、波に飲み込まれる少女の身体が、

……なかった。水音も、少女を迎えるはずの水柱も、初めからそんなものは起こる道理もないかのように、水面は静かにさざめいている。どこか途中の岩にでも引っかかっているのかと見渡すが、とうとう見つけることは出来なかった。空中で突然空気の粒に紛れたのか、いや、そんなことがあるわけもないと自らに言い聞かせるが、ともかく、少女は消えてしまった。

脳裏に唄が流れる。人と、人でなきものの哀しき運命を綴った唄。

 ただ、詞をなぞりながら風を浴びることしか、潮人には出来なかった。


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