終章
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
砂浜を二人の少年が駆けていく。時折後ろを振り返りながら、懸命に砂を蹴っていた。傍から見ると駆け鬼でもしてるのかと、微笑ましい光景だったが、少年達の表情はまるで鮫にでも追いかけられているかのように必死であった。
「わぁっ!」
片方の少年が足を取られ、地を滑った。
「バカ! 何やってんだよ!?」
「ご、ごめんよぉ……」
手を貸すも、転んだ少年は苦痛に顔を歪めるばかり。
「いたた…… 足挫いたみたい……」
「くそっ! 悪いけど、置いてくからな!」
「えっ!? ま、待ってよぉ……」
少年はただがむしゃらに走り続けた。これ以上時間を食っていたら、追いつかれてしまう。多少良心が痛んだが、ぐずぐずしているとすぐに肉食魚に食われてしまう。これは自然界の厳しい掟だ。
ややあって。
急に辺りが薄暗くなってきた。空を見上げると、もう一人の少年が転んだ辺りの空だけ、黒い雷雲が立ち込めていた。少年はこの黒雲を知っている。身震いを覚えながら、駆けてきた砂浜の道を振り返るしかなかった。そして、
「ぎゃあああああ……」
琥珀色の光と共に、聞き覚えのある悲鳴が、辺りを震撼させた。がくがくと、少年の足も震え出す。
走れ、走れ! 少年はただひたすらに、逃走本能の赴くままに駆け抜けていった。
捕まったら、殺られる。
頭の中には先ほど耳にした友人の悲鳴と、鬼のような形相をした女の顔が頭から離れない。
どれくらい走っただろうか。岩場の陰から一人の青年が姿を現した。
「あっ!」
「やれやれ…… 君、津久見さんのところの子だろ?」
青年は面倒くさそうにしなだら少年と相対する。
「りょ、涼太郎にいちゃん……」
「もう観念して、村に戻ろう? 僕も一緒に謝ってあげるから」
涼太郎と呼ばれた青年は、できるだけ優しい声で少年に語りかける。
「お、お願いだよ涼太郎にいちゃん! 盗った魚は返すから見逃してくれよ!」
少年は涙目になりながら懇願する。こんなにも必死な様子であれば、仏心が芽生えてきそうだが。
「だーめ。僕だって奈美が怖いもん。捕まえたのに逃がしたとあったら僕までカミナリ落とされちゃうから…… あ」
涼太郎が途中で言葉を止めた。少年の背後からはずんずんと険しい空気を身に纏った女が、二人に迫ってきた。
「あ…… あわわ…… わぁっ!」
少年は鮫に睨まれた鰯のように、走り去っていった。
「あっ!? リョータ! 逃がしちゃダメよ!」
「はいはい…… ごめんね」
涼太郎が口笛を軽く吹くと、一羽の黒飛鷹がどこからともなく飛んできた。
「いつもごめんね、鳳華。あの子を捕まえてきて」
鳳華は主人の言葉に軽く頷くと、すぐに少年の後を追う。
「ったく。どうしてすぐに捕まえなかったのよ!?」
「いや、本人も反省しているみたいだったし……」
「甘い! だからリョータは童子たちにもなめられんのよ! 童子の間で『涼太郎にいちゃんだったら泣いて謝ればすぐに許してもらえる』なんて言われてんのよ!?」
それは涼太郎も知る範疇の噂だった。ついでに言うと、「奈美姉ちゃんに捕まったら命がない」と囁かれているのを、奈美本人は知っているのだろうか。
しばらくすると、鳳華が少年の肩口を掴み、舞い戻ってきた。少年は恐怖のためか、泣きじゃくり最早抵抗すらしない。全てを諦めさせてしまうほどに奈美が怖いのか。気持ちはわからないでもないが。
尻餅をつきながら、少年が下ろされる。見上げると、そこには凶虎鮫すら尾を翻す、仁王立ちの奈美の姿。
「あわわ……」
「まぁ、アンタ達の歳のくらいなら、ちょっとした悪戯をしたくなるのもわかるわ。そこまではいーの」
膝を曲げ、奈美は笑顔で少年に語りかける。蛇と蛙どころか、鯱と烏賊だ。
「でもね……」
懐から、奈美は数珠を取り出す。蒼白に煌いているその輝きは、奈美の怒りが頂点に達していることを意味する。
「あんた友達を置いて逃げるってのは一体どういうことなの!? 男の子でしょ! 庇ってあげるなり背負ってでも一緒に逃げるって選択肢はなかったわけ!?」
論点がずれているような気がするが、頭上で今か今かと青白い雷が放電しながら奈美の命令を待っている。
まずい。奈美のやつ、本気だ。あんなの叩きつけられたら鯨だって絶命しかねない。
「奈美」
見かねて涼太郎は、奈美の手を取る。
「何よ、リョータ! この子の味方すんの!?」
「そういうわけじゃないけど…… ほら」
見ると、少年は泡を吹きながら気絶していた。
「これだけ怖い思いしたら、しばらくは大人しくなるでしょ」
「……ふん」
雷雲が晴れ、元通りの青空が広がる。奈美は数珠をしまうと、涼太郎に吐き捨てるように言った。
「さっさと帰るわよ。その子連れて帰るのは任せたわ」
「はいはい」
涼太郎は少年を担ぐと、日向の奈美の後を追うようにして日向へ向かっていった。そんな主人の背を、鳳華はどのような思いで眺めているのか。それは誰も知る由のないことだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
捕まえた少年を両親に引き渡すと、奈美はいささか上機嫌だった。
「ありがとうございました。村長さんらに叱られたとあれば、この子も少しは大人しくなるでしょう」
少年らの母は、笑いながら奈美に頭を下げた。
「いえいえ、このくらい大したことないですよ」
「こちらこそ、気絶させるほど怖がらせてしまいまして……」
「いいのよ、それくらいしてやった方が、いい薬になると思うわ」
どうして日向の女性にはこうも過激な人間が多いんだろう。涼太郎は思った。
二人の少年は、水揚げされたばかりの魚を二匹、周囲の目を盗んで逃走したのだった。最近、日向の村では度々、幼い子供たちの中でこういった悪戯をする者が後を絶たなかった。そこで奈美は、自ら子供たちを取り締まり、躾ける役を買って出たのである。母親達の間では、「奈美ちゃんに叱られれば一安心」と、評判は上々であった。
今や日向の村には、三人の村長が存在していた。伊勢涼太郎、若狭奈美、そして天草漣だ。前村長の失踪後、村長に挙げられたのは涼太郎だった。前村長と関係が深かったことと、鯨羅討伐の生還者であるということがその所以だろう。物怖じした涼太郎は当然首を横に振ったが、村民からの圧倒的な熱意と、陸奥の民からの薦めがあった漣も村長を担うという条件のもとに承諾をした。奈美もまた、涼太郎の補佐としてその役を務めることとなった。が、あまり表舞台に立つことを良しとしない二人に代わり、奈美が最も村民と接する機会が多かったため、三人目の村長として認められているのは周知の事実だった。
「でも、おっかしいのよね」
「何が?」
「あんだけ私が叱ってやってんのに、なかなか悪戯が減る様子もないっていうのは…… 何でだろ?」
不可解な疑問に首をひねる奈美だったが、涼太郎は、その答えを知っている。
童子の間で、度胸試しとして奈美は扱われていた。悪戯をし、どれだけ奈美から逃げられるかというのが、流行っているのだ。
無論、その事実を涼太郎は言い出せずにいる。そんなことが奈美に知れたら、村中の童子が雷に打たれてしまう。それに、やっぱりこんな風に童子に混ざって駆け回っている方が、奈美には似合っている。
「おう、村長さん」
道端で品を広げている行商人に、声をかけられる。品物から察するに、薬売りらしい。
「あ、また日向にいらっしゃっているんですね」
「そうなんす。毎度村長さんにはご贔屓にしてもらってますからね」
涼太郎は見たこともない薬草や漢方に顔を綻ばせるが、奈美はむすっとしている。この商人を前にすると、涼太郎も無駄遣いが荒くなる。この間も家中の真珠がなくなったかと思うと、新しい薬の包みが十も増えていたのだ。それ以来、涼太郎の買い物は全て奈美が管理している。
「ちょうど良かった。村長さんらにもお勧めの薬がありまして」
「へー、どんなの? ちょっと見せ……」
目を輝かせる涼太郎と商人の間に、奈美が割って入る。
「間に合ってるよ。うちは漁で怪我なんてすることないし、病気だってしないから」
「まぁまぁそう言わずに、ちょっと見てくんなせぇ」
奈美の醸し出す威圧感にも気圧されず、商人は包みを開いた。紫色の見るからに怪しい粉状の煎じ薬だ。
「何なの、これ」
「へえ。一言で言ってしまうと媚薬の一種でさあ」
「な……!?」
涼太郎が一歩、後ずさった。
「リョータ、媚薬って何?」
「え? あ、あの…… それは、つまり……」
涼太郎が言い淀んでいると、商人が口早に説明する。
「要するに、夜に使う薬ですよ。恋人同士が燃え上がるために使うんでさぁ」
「へー、面白そう」
「な、奈美ぃ……」
しゃがみこみ、奈美は商人の話に熱中している。涼太郎もまた耳を欹てているが、とても真昼間から聞ける内容ではない。話が終わると、すっと立ち上がり奈美は、
「リョータ、この薬ありったけもらお」
「ええええぇぇぇ!?」
涼太郎の絶叫が空に吸い込まれていった。
「な、ななな何言ってんの!? ちゃんと話聞いてたんでしょ?」
「だってぇ…… リョータ最近夜つまんないんだもん」
「つ、つつツマンナイって……」
「だって私がねだってもすぐ気絶しちゃうか元気なくなっちゃうし。誘いがいがなくって…… でもこの薬を飲むとリョータの方が我慢できなくなっちゃたりするんだって。面白そうじゃない?」
「ななな奈美! こんなとこでそんなこと……」
涼太郎は全身を紅潮させながらも高潮する。
「あとさ、私が飲んだらもっと楽しくなるかもよ? ネコみたいに甘えてみたり、逆に押し倒したりしちゃったり…… そんなウチ、見たくない? それに……」
商人の目も憚らず、涼太郎の首に手を回してくる。奈美の提案はとっくに表現し得ない過激なものへと進化していて、想像するだけで目の前が真っ白になった。
「というわけで、おじさん。今手持ちがないからちょっと待っててね」
奈美の言葉にはっと我に返る涼太郎。駄目だ。このまま奈美を放っておいたら毎晩とんでもないことになってしまう。
「おーい、村長さんら!」
そこへ、遠くから、一人の村民に声をかけられた。天の助けだ。
「あぁ、石狩のおやっさん。どうしました?」
「へぇ、村長さんが、村長さんを見かけたら村長さんの家の裏の浜辺に寄ってくれって……」
奈美は何を言ってるかわからないといった体であったが、
「わかりました。ありがとう」
涼太郎は軽く手を振り、謝辞を述べた。
「何だったの? 今の」
「漣さんだよ。漣さんが僕らを呼んでくれって」
「あ…… あぁ、なるほどね」
しばし黙考して、奈美は合点がいったと頷いてみせた。
「そういえば、今日……」
忘れられない。今日というこの日。きっと漣も同じことを考えているはず。
一人の青年と少女が、日向から姿を消した一年前のこの日を。
「行こっか、奈美」
「もう、なーんかはぐらかされた気はするけど。じゃ、おじさん。また今度ね。今回はいつまで日向にいるの?」
「へえ。あと三日くらいは……」
「じゃあ明日、家にあるありったけの絹織物や真珠を持ってくるから、それと交換ね」
背後で恐ろしい取引が交わされているが、気にしなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
浜辺では、珍しい光景が二人を待ち受けていた。村の童子たちが集まっており、その中心に紫舜と漣が腰掛けていた。
「ぎゃ、奈美ねーちゃんだ」
「今日は紫舜ねーちゃんの琴が聴けるって言うから来たのに……」
「お、おいどーする?」
過去に奈美の鉄槌を食らったことのある少年達の間に、見る間に動揺が広がっていった。
「こら悪ガキども。何も悪さしてないんだったら無闇にカミナリ落としたりしないわよ」
奈美がそう言っても、安堵の表情を浮かべたのは半分くらいだった。残りの半分は身に覚えがあるのだろう。
奈美と涼太郎は童子たちを掻き分け、紫舜のもとへ向かった。
「シュン、琴出したんだね」
「えぇ。実は子供たちには度々弾いて聴かせていたんですけどね」
「そうだったんだ。それなら教えてくれれば良かったのに」
「……思い出させてしまうかと、思ったので」
漣が申し訳なさそうに答えると、奈美の顔に翳りが生じた。涼太郎がすっと、奈美の肩を抱く。
「ちょうど、一年前ですね」
「うん……」
紫舜の「才」である琴を目にするのも、実に一年ぶりであった。最後の祈神祭と、鯨羅をうち倒したあの日以来だ。
「今日は、皆さんにも聴いて頂こうと思いまして」
奈美は静かに目を閉じた。
今でも、目を瞑ると思い出す二人の姿。
紫舜が琴に指を滑らせ始めた。慈愛に満ち溢れた、母なる神海を思い起こさせる調べが、波音に紛れ辺り一面に広がる。
歌うのは村の平和を脅かす悪魔の所業と、それを滅する勇敢な若者の冒険譚。そして、永遠の平和を綴る祝福の歌。
「でも不思議。懐かしいはずなのに、つい昨日のことみたい……」
奈美が慈しむかのように琴を見つめた。琴の音色に合わせて、紫舜の歌声が重なる。
そして、潮人に見守られながら歌う渚の姿が浮かんだ。
ねえ、ナギ。
今、どんな気持ち?
きっとすごく、幸せな気持ちだよね。
あんなに大好きだった潮人と一緒になれて。
……でも、ずるいよ。
潮人のこと、ひとり占めしちゃうんだもん。
誰にも言ってなかったけど、
ウチだって潮人のこと好きだったんだから。
小さい頃からずっと、ずっと。
まぁ、でもいいか。
ナギだったら許してあげる。
潮人ってさ、ぶっきらぼうで、冗談も通じなくて、
女の子の気持ちなんて全然わからなくて、
ほんと、こんなやつのどこがいいんだろ、って思ってたけど、
でも、そんなこと言ったらナギが代わりに怒っちゃうよね。
潮人。
あんたもさ、こんなに可愛い娘が一緒にいてくれてるんだから、
精一杯、優しくしてあげなよ?
それから、姉さんや、隆道や、紫苑がさ。
多分喧嘩ばかりしてると思うけど、
潮人が止めないといけないんだからね。
隆道が姉さんに突っかかって、
姉さんがあしらって、
紫苑が呆れて、
また隆道が怒り出して……
きっと毎日、そんな感じなんでしょ?
……ちょっと、羨ましいかな。
ん? ウチ?
ウチもね、幸せだよ。
潮人たちがいなくなっちゃったのは寂しいけど、
村の童子たちの面倒見るのに大忙しだよ。
でも、もうすぐウチもお母さんだから。
ちょっとは静かにしてないといけないね。
名前ももう決めてあるんだ。
…………って。
え? 男の子だったらどうするのって?
大丈夫。若狭の血筋は女の子ばかりだから。
ねえ、潮人。
時々でいいからさ、
ウチらのこと、思い出してね。
そして、
ずっとずっと、この神海と、日向の村を、
見守っててね。
奈美の目から零れ落ちる雫が、蒼碧の海に消えていった。
《終》
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。




