第十二章
◆◇◆◇◆◇◆◇
混濁とした意識の中、最初に目に飛び込んできたのは見慣れた家屋の天井と、不安げな黒髪の少女の顔だった。
「……気づかれましたか?」
やがて靄の晴れた視界は、そのまま紫舜の穏やかな笑顔の輪郭を作り出した。
「紫舜…… か」
「えぇ。よかったです。無事お目覚めになられて」
手拭いを水桶につけながら、紫舜は言った。
「俺の家か? ここは」
「そうです。あの後、漣様が運んでくださいました。海に潜った際に少し水を飲んでしまったようですね。命に別状はないと涼太郎様がおっしゃっていましたが、皆さん心配されていました」
「それより、みんなは無事だったのか?」
潮人は身体を横にしたまま、紫舜に向き直る。こうして自分の身よりも仲間を思いやるのはいかにも潮人らしい。紫舜は思った。
「はい。気絶されたのは潮人様だけですわ」
意地悪そうに紫舜が笑ってみせると、急に潮人は黙り込んでしまった。
ふふ、目には見えませんが、きっとばつの悪そうな顔をしているのでしょうね。想像してみると、何とも可愛らしい。渚さんも、こんなところに惹かれたのでしょうか。
「俺は、どのくらい寝てたんだ?」
「そうですね…… 村に戻ってから丸一日くらいだと思います」
「ということは…… 渚に助けられてからはもっと時間が経ってるってことか」
「いえ、そんなことはないですよ。帰りは奈美さんの『才』で風を起こし、船を進めましたから」
「そうか。奈美のやつ、紫苑から……」
思い出したかのように潮人は言った。あの激戦の最中、きっと潮人にとっては信じ難いことだったのだろう。まだ声に混乱の色が見え隠れしている。
「なあ、紫舜」
「はい」
「俺たち、とうとうやったんだな……」
「何がです?」
わかっていながらも、紫舜は言葉を返す。
「ついに鯨羅を…… 倒したんだよな」
「……ええ。間違いなく」
水音に隠すように紫舜は答えた。紫舜の額に、汗が滲み出る。声に動揺が表れていないだろうか。嘘は何一つついていないのだから、何も気にすることはない。しかし、何故ここまで後ろめたさを感じてしまうのか。だがきっと、この青年はすぐに気づいてしまうことだろう。
「そうか…… そうなんだよな……」
勝利の余韻を噛み締める潮人。これほどまでに声に感情が乗る青年は珍しかった。だからこそ、紫舜の見えない瞳の奥にも、容易に映し出すことができてしまった。
「これで風子も、隆道も、紫苑も…… 喜んでくれる…… かな」
「はい。そう…… ですね」
大きな絶望と喪失感に苛まれる、青年の姿が。
「潮人さん。まだまだお身体に障ります。安静にしていないと」
このままもう一度眠りに落ちてくれないだろうか。微かな望みに託しながら手拭いを交換しようとする。先延ばしになるだけだろうが、それでもいい。まだ潮人のこの達成感と幸福を、曇らせたくはなかった。
「ああ…… だが、みんなは今どうしてる?」
やはりきた。なんと勘の鋭い青年だろう。今、最も遠ざけたかった質問をぶつけてくるなんて。
「……村の皆様に報告に行かれています。あとはお祭りの準備をしようと躍起になっていますわ」
「そうか、ならば」
潮人は布団から身体を起こした。慌てて紫舜はその手を掴む。
「どちらへ?」
「村長の俺がいつまでも寝ているわけにはいかないだろう。早く無事を伝えてやらなくては。心配かけてしまったことだしな」
「ですが……!」
思わず紫舜は手に力を込めた。慌てて紫舜は声を治め、語る。
「皆様、潮人さんを驚かせたいと、おっしゃっていました。目を覚ましてすぐお祭りを始めたいと。ですから、潮人さんはここでお待ちになって……」
「紫舜よ」
「……はい?」
「君は何を隠している?」
やはり。この青年に隠しごとなど適うはずもなかった。それに、共に鯨羅と戦った同胞として、本気で騙し込むなどしたくはなかった。
「ばれてしまいましたか」
「人魚はすぐに嘘をつくからな」
苦笑し、潮人が溜め息を漏らすがまるで可笑しそうには感じられなかった。
「でも、どうしてわかったんですか?」
手妻の仕込みを見抜かれた気分であった。
「渚がいないからな」
「えっ?」
「もし立場が逆で、ここで寝込んでいるのが渚だったら……」
迷いもなく、潮人は言いのけた。
「俺はずっと、渚の傍にいる」
「……参りました。渚さんが傍にいないこと自体が、潮人さんにとっては最早不自然なんですね」
潮人を騙し続けるなど初めから不可能だったのだ。それなら早いうちに真実を告げるべきだったか。
「それほどまでに、渚さんと惹かれ合っていたなんて…… 正直予想外でした」
嘘だった。気づいていたからこそ紫舜は、真実を打ち明けられずにいたのだ。
「渚はどこだ?」
少女は匙を投げた。潮人の声から感じられる重圧からは逃げられない。
「ここにはいません」
「そんなのはわかっている。どこに行ったのかと聞いているんだ」
潮人の口調にも苛立ちが募る。
「違います。もう日向の村にはいない、ということです」
無言の返答。口を噤んでいても、潮人の焦燥が空気を伝わってくるようだった。
「……何があった?」
「潮人さんが船に引き上げられ、しばらく経った頃でした」
紫舜は切々と語った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
船に揺られながらも、涼太郎は薬湯を潮人の口に含ませると、皆を安心させるべく振り返った。
「大丈夫。少し水を飲んじゃってるけど、怪我とかはないみたい。多分安心して気が抜けちゃっただけだよ」
胸を撫で下ろしたのは、渚だけではなかった。奈美も、漣も大きく息を吐いた。鯨羅を倒してから今まで、まるで呼吸を忘れてしまったように。
「よかったぁ…… 潮人さん、潮人さん……」
渚はまだ潮人の手を握り締めながら、その名を連呼している。
涼太郎はそんな光景を眺め、ようやく鯨羅を倒した実感が湧き上がるのを感じていた。
季節がほんの半分も過ぎない程度の時間しか経っていないはずなのに。ずっと前から鯨羅に苦しめられ続けていた気さえする。それがようやく開放されたのだ。
信じられなかった。信じたくても、鯨羅のいない日々を夢見ながら、何度も裏切られる夜を過ごしてきた。しかし。
「お疲れ様でした。涼太郎殿」
漣が涼太郎の肩を叩く。悪夢は、こうして仲間との安らぎと共に終わりを迎えるのだ。
「漣さん……」
「どうしました? まだ信じられないといった顔ですね」
胸中を言い当てられる。まだ怯えている自分の臆病さが恥ずかしい。
「うん…… まだ実感湧かなくて……」
「大丈夫です。涼太郎殿もご覧になったでしょう」
遠目ながらも、涼太郎ははっきりと瞼に焼き付けた。鯨羅の頭部が弾け、神海の奥深くに沈みゆくのを。その瞬間、渚が海に飛び込み、潮人を連れて船に戻ってきたその姿を。
「私だけではありません。奈美殿も、紫舜様も見ていました。皆が証人ですよ」
漣が奈美を一瞥した。渚と共に気を失った潮人に泣きついているかと思いきや。
奈美は海の彼方を見つめていた。まるで、亡き姉の住む世界を探し当てるかのように。
「あ、な、なーに漣さん」
漣の視線に気づいたのか、奈美はばつの悪そうな笑顔を向ける。
「涙を流す役目は、渚さんに譲ったのですね?」
漣がからかうようにして言う。
「うん。姉さんが死んだときにウチはもういっぱい泣いちゃったからね。ナギに代わってもらうよ」
「嬉し涙はまた一味違うものですよ?」
「もう。漣さんはどうしてもウチを泣かせたいみたいね」
奈美が横目で漣を一蹴する。ちょっと前の奈美からは考えられない仕草であった。
「別にそういうわけではありません。ただ、奈美さんには色々と重い荷を背負ってもらったわけですから」
「ウチだけじゃない。漣さんも、シュンも、それにリョータだってみんなみんな大切なものを失くしちゃった……」
変えられない、そして耐え難い事実。漣も、涼太郎もまだ友のことを思うと張り裂けそうなほど胸が痛むというのに。しかし、この奈美という少女はその幼さとは裏腹に、清々しいほどの笑顔を見せ、未来を見つめている。
「けど、残った人だっている。そしたらウチはその人たちのためにも頑張りたいだけだよ」
「変わりましたね、奈美殿は」
「リョータのおかげ。それに、ウチも鯨羅を倒す役に立てたのは紫苑のおかげだもん」
生涯を打倒鯨羅に捧げ、その「才」を奈美に託した青年。身体は朽ち果てようとも、その魂は今やこの少女に受け継がれている。
「この数珠がなかったら、ウチなんて何の役にも立たなかった…… 姉さんの仇なんて、取れなかったもん」
「それだったら僕だって」
涼太郎が鳳華を見やり、言う。
「最初の航海のとき、僕には銛を投げることも、弓を持つことも適わなかった…… でも今回は、隆道が力を貸してくれた。僕も戦うことが出来たんだ」
鳳華が隆道の代わりと言わんばかりに、頷いたように見えた。
「だから、今回の戦いはみんなで、紫苑も風子も隆道もいて、みんなで勝ち取ったんだって…… そう思うよ」
漣は思った。日向はこの日を境に繁栄を迎えることだろう。今の二人には、かつて支那の国を治めた播磨の家と同じ光を感じる。この二人がいれば、潮人を支え続けていければ、末永く平和が訪れ続けるだろう。微力ながら、自らも生涯この地に身を捧げ、日向の発展のために全力を尽くしていこう。漣は静かに誓った。
しかし。
漣の描く未来は、決して現実となることはない。
「奈美ちゃん……」
奈美は声のする方へ顔を向けた。声の主である少女は、いつの間にか潮人の元を離れ、船縁に立ち尽くしていた。
「な、ナギ? ちょっと、危ないよ! 何でそんなとこに突っ立ってんのさ!?」
今にも波に飲まれそうな少女に目を丸くしたのは、奈美だけではなかった。
「渚? 奈美の言う通りだよ。早くこっちへ……」
涼太郎が手を差し伸べようとした、そのときだった。
「来ないで!」
激しい拒絶の意思が、涼太郎に叩きつけられた。
「もう…… これ以上優しくしないでください……」
渚は、うっすらと涙まで浮かべていた。
「これで、思い残すことはありませんから…… これ以上、皆さんと一緒にいたいって思わせないでください……」
「な、何言ってんのナギ…… 何言ってんのか全然わからないよ」
「ごめんね、奈美ちゃん…… できれば、皆に気づかれないようにしたかったんだけど……」
渚はきゅっと唇を結んだ。
「でも、潮人さんが気を失っている今じゃないと、きっと私、決心が鈍っちゃうから」
「何なの『決心』って。思い残すことないって、どういうこと? まるでもう会えないみたいに言わないでよ……」
「渚殿。一体どういう……」
極めて冷静を努めた漣の問いかけに応じたのは、
「漣様。渚様はこの地から離れないといけないのです」
もう一人の人魚、紫舜だった。
「それが、日向とそこに住む皆様のためなのです」
「ありがとう、紫舜ちゃん……」
渚の代弁者を務める紫舜に、渚は頭を下げる。伝えなければいけない。なのに伝えられない。その思いは紫舜もかつて味わった苦しみ。初めて出会えた同胞を、少しでも救いに導いてやるのが今の紫舜の役目だった。だが、
「奈美ちゃん。皆さん。聞いてください……」
そこまで紫舜に甘えるわけにはいかない。
渚は、全てを話した。かつての夜、紫舜が潮人に打ち明けたように。
渚と紫舜は何者なのか。
鯨羅は何故現れたのか。
「そ、そんな……」
「まさか…… 紫舜様が……」
様々な地を旅し、様々なものに触れてきた漣ですら、渚の語る真実に驚愕の色を隠せなかった。
「ごめんなさい…… 今まで黙ってて……」
「漣様。私もお詫び申し上げます。結果的には貴方と、そして兄様を欺き続けてしまっていました」
紫舜が深々と頭を垂れる。帆船の揺れと波音だけが、時が止まっていないことを漣たちに告げていた。
「で、でも……」
その静寂を破ったのは、涼太郎だった。
「鯨羅は倒したんだ。それだったらもう鯨羅が渚を追いかけてくることはないじゃないか」
「そ、そうだよ。別にナギが出ていく必要なんて……」
「いいえ。これはまだ潮人様にもお話していなかったのですが……」
紫舜が見えない瞳で潮人を垣間見る。
「鯨羅は蘇ります。人魚の住まうその地に、幾度でも」
三人は、一瞬で神海の底に沈められた気がした。奈美は力を失くし、その場に足を折る。
「……おわかり頂けましたね。渚さんが皆さんと離れようとしている、その理由が」
その言葉を最後に、紫舜は口を噤んだ。真実は告げた。あとは渚自身に想いを紡いでもらうしかない。
「ごめんね、奈美ちゃん…… ごめんね、ごめんね……」
人魚の少女は、ただただ泣いた。謝罪と、自責の念を涙に込めて。
「紫舜様」
漣が、二人の人魚に向かい立つ。
「では、紫舜様も……?」
漣の疑問も道理であった。鯨羅は自らに害を与える存在である人魚を追い、滅ぼす存在である。ならば、紫舜もその身を狙われることになるだろう。
だが、自らの疑問に漣は首を傾げた。
漣は過去、二度鯨羅と合間見えている。支那の国と日向の村。支那の国が滅ぼされ、漣は紫苑や紫舜と共に旅に出た。そう、その間も紫舜はずっと傍にいたのだ。なのに、渚のいる日向の地に漂着するまで鯨羅とはただの一度も遭遇しなかったのだ。
鯨羅は、紫舜を追ってくることはなかったのか。
「いえ。私は、生涯この地に留まろうと思います。漣様もそのおつもりでしょう?」
「あぁ。そのことに異存はありません。しかし……」
漣は、先の疑問を紫舜にぶつける。
「ならば何故、紫舜様は鯨羅の標的とならないのでしょう」
何か、渚と紫舜との間に決定的な違いがあるのではないか。紫舜の言葉からすれば、人魚が鯨羅に狙われずに済む方法があるはず。それさえ発見できれば、渚もまた日向の村に留まることが叶うだろう。
「……先ほどはいささか言葉足らずでしたね。申し訳ありません。少し付け加えましょう」
しかし、紫舜の独白は、ささやかな漣の期待を砕く、想像を遥かに超えた真実であった。
「鯨羅は、生きた人魚を追いかけてくるのです。人魚を滅ぼすまで、幾度でも」
一瞬、真意がわからなかった。先ほどと何が違うのか。思案しているうちに、漣は目の前の光景に息を呑んだ。
「なっ……」
紫舜の身体が煤けて見える。そして、足元が船板についていないことに気がついた。ほんのわずかながら紫舜の足が浮き、宙に揺れめいているではないか。
「し、紫舜?」
どうやら、奈美や涼太郎も同じ光景を目にしているらしい。涼太郎は口を大きく開けたまま、微動だにしなかった。
「私は、最後まで秘密にしておこうと思ったのですが…… 理知とはときに残酷なものですね、漣様」
紫舜が寂しげに笑う。
「私はこの世の存在ではないのです。鯨羅が支那の国を襲った、あの日から」
「そ、そんな…… じゃあ紫舜は…… 幽霊?」
「そうですね。皆様から見たらそうなります」
「どうして…… そのようなことが……」
「私にもわかりません。死してなおも兄様と共に歩み続けたいと願ったためでしょうか……」
涼太郎も、漣も、いっそのこと潮人のように気を失ってしまいたいとすら思った。あまりにも多くの真実が告げられ、これ以上考えることができなかった。
ぽつり、と水滴が涼太郎の鼻先を打った。波飛沫ではない。見ると、黒雲が空一面を覆い尽くしていた。まもなく、視界を遮るほどの雨が空から降ってくる。すぐに船が転覆するほどでもなかったが、漣は懸念して奈美に琥珀の数珠を使うよう促そうとした。
だが。
「ねぇ、シュン、ナギ……」
雨に濡れながら、奈美が口を開く。
「……どうして?」
「え?」
名を呼ばれた二名の人魚も、奈美の意図するところがわからない。
「どうして、今まで黙ってたの?」
奈美の肩が打ち震えている。それを視認できたのは、涼太郎だけだった。
「ねえ、どうして今まで教えてくれなかったのさ?」
「奈美ちゃん……」
渚が応えあぐねていると、
「人間と人魚は、決して共存できないからです」
紫舜が代わりに奈美の前に立ちはだかった。
「先ほどお話した通り、人魚は人間と交わることはできません。それ以前に、人魚と鯨羅との戦いに、望みもしない人間を巻き込むわけにはいきませんから。もっとも、兄様のように自ら望む人間もいましたが……」
最後の一言は、顔をしかめる渚への、ささやかな気遣いであった。
「ごめんね、奈美ちゃん。だから……」
「やめてよ、もう……」
奈美の鋭い眼差しが、雨を切り裂いて渚に向けられた。
「もうやめてよ! 自分たちのことを人魚だなんて呼ばないで! シュンはシュンだし、ナギはナギだよ! 二人が何者かなんて関係ない! そんなこと知ったって、ウチらが二人を嫌いになったりするもんか!!」
奈美の悲哀が、堰を切って奔流する。潮人と同じ言葉を吐く少女に、紫舜は涙を堪えた。
「そんなのわかってる!」
渚だ。
「だからこそ、私だって日向のみんなが大好きだからこそ伝えたくなかった! こうして別れるのが辛くなるから! また鯨羅がやって来て、みんなに迷惑をかけてでも一緒にいたいって思ってしまうから!!」
「奈美さん。渚さんのおっしゃること、察してあげてください」
紫舜もまた、感情を抑えながらも温もりを隠し切れていない。
「私は命を失ってまでも兄様と一緒にいたいと思ってしまいました。人魚の宿命に逆らい、兄様を愛してしまい、醜い幽体になってまでもそうすることを選んだんです……」
想いの大きさが二人を苦しめる。漣と涼太郎は、紫舜の言わんとすることが何となくわかる気がした。
「たとえ、今回の戦いで兄様が無事に生きて鯨羅を倒したとしても、渚さんがいればまたすぐに蘇る。そんなことはわかっていました。けれど兄様の無念は、鯨羅を滅ぼさなければ晴れることはなかったでしょうから」
「ずるいよ、そんなの……」
そして奈美もまた、二人への想いが故に深く傷つく。
「どうせいなくなっちゃうって、最初からわかっていたなら……」
続く言葉を予想し、渚が瞼を閉じる。
『会わなければよかった』
渚自身も、この日を思い描いて何度後悔したことだろう。人魚と人間の悲しい運命。それゆえに、日向の血束の儀をどれだけ羨ましく思っただろうか。
一人で生きていくのが当たり前だなんて、もう思えない。だから、大好きな奈美に出会いを否定されることが、何よりも辛かった。
だが、渚は知らなかった。
日向の民、若狭奈美が心を預けた者に対し、どれほど大きな慈愛を向けるのかを。
「もっともっと、ナギと一緒に色んなことしたかった!」
「奈美……ちゃん……」
「もっと一緒に漁に出かけたかった。ウチ泳ぎが下手だから、ナギに教えて欲しかった。ナギの歌、もっとたくさん聴きたかった。一緒に山に登ってみたかった。村の童子たちと一緒に、駆け鬼してみたかった。ナギと一緒に、ご飯作ってみたかった。もっともっと、ナギに……」
涙声が、渚の心を響かせる。それは、人魚の歌にも劣らない少女の純粋な想い。
「思い出作ってあげたかった! そうすれば、一緒にいられなくなったって寂しくなくなるじゃんか!? ナギが一人ぼっちになって泣いてるのなんて…… そんなのイヤだ!!」
人を想い、涙を流すのは人魚の性。それと同じように奈美もまた、渚を想い、涙を流していた。漏れ出す嗚咽を堪え、渚は背を向ける。これ以上少女の顔を見ていたら、抱きしめずにはいられなくなる。
初めて胸に飛び込んできた、あの日のように。
限界だった。あと一秒でも、あと一言でも、あと一目でも奈美の存在を感じてしまえば、もう引き返せない。
「ごめんね、さよなら」
渚が船縁を蹴る。
最後に奈美が、涼太郎が、漣が耳にしたのは、どこまでも悲しい別れの歌と、全てを洗い流してしまうような猛狂う波音だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
潮人は走っていた。
紫舜の告白も束の間、渚の姿を求めて海岸を走り続けた。
奈美と涼太郎は村民を率いて、渚の消えた海域に船を走らせているという。もう丸一日も経過しているのだ。そんなところにいつまでも彷徨っているはずもない。その気になれば十里も二十里も離れてしまっていることだろう。しかし、何も手がかりがない以上、そうするしか他に術がない。
それは潮人も同じだった。初めて漁に出た砂浜、歌を聴かせてもらった海岸、祈神海で櫓を立てた広場。渚の知っているであろう場所をただひたすらに駆け回るしかできなかった。心臓がはちきれんばかりに跳ね回る。身体中の水分を搾り出したと疑うほどの汗が、潮人の全身を濡らしていた。それでも潮人の足は止まらない。焦燥と、渚の別れを見届けられなかった自らへの怒りに、潮人は神ですら呪ってやりたかった。
呪う? 何を? 潮人は自らに詰問する。
神を? 馬鹿馬鹿しい。渚と出会えた運命を作り出してくれたことに感謝こそすれど、呪うなど思い違いも甚だしい。
愚かなのは自分だ。渚の胸を締め付ける想いに気づかず、鯨羅を倒したあと今の今まで意識を失っていた脆弱な己自身が、何よりも恨めしかった。
会いたい。会ってこの想いの丈を、渚にぶつけてやりたい。たった一言だけとか、一目だけとか、そんな殊勝なことなど言っていられない。捕まえたら、もう永遠に離さないでやる。頼まれたって離してやるもんか。今すぐに想いを吐き出さないと、今度は自分の胸が張り裂けそうになる。
息が切れ、自らの呼吸音に鼓膜が破けそうになった頃。
村外れの岩場。初めて渚と出会った岬。潮人は足を止めた。
傍にいなかったのはほんの一日足らずだったはずなのに。
意識を失い、時間なんてわからなかったはずなのに。
最後は、その腕の中で眠ったはずなのに。
「えへへ。やっぱり来ちゃいましたね」
その後ろ姿が、こんなにも遠くに見えるなんて。
「思い出の場所ですもんね、ここ」
「来ちゃった、ってのは俺か? それとも渚の方か?」
だが、渚はここにいる。俺はどこまでだって、渚を追いかける。そして渚は、必ず戻ってくる。
「そんなの、決まってるじゃないですか……」
人魚? 運命? 関係ない。そんなもので俺と渚を……
「私と潮人さん、両方ですよっ!」
引き離せるものか!
「潮人さん…… 潮人さん!」
渚は振り返り、潮人の胸に飛び込んだ。何度も、何度も、愛する人間の名前を叫びながら。
ここにいる。渚はここにいる。さっきまでは手を伸ばしても届かないと思っていた少女が、腕の中にいる。その喜びに潮人は押し潰されそうだった。
「戻ってきちゃいました。奈美ちゃんにはさよならって言ったのに……」
「あぁ」
言葉になどしない。ただただ、この健気で不器用な少女が愛しかった。抱きしめることでしか、伝えることなんて出来ない。
「忘れなきゃ、忘れなきゃって…… 今日一日ずっと考えてました。奈美ちゃんのことも、みんなのことも、全部、全部……」
渚の美しい髪を撫でながら、潮人は頷いてやるばかり。
「でも…… できないよぉ…… 潮人さんのこと忘れるなんて、無理に決まってるじゃない……」
子供のように、渚は泣きじゃくった。
「一人ぼっちなんて…… いやだよぉ…… 潮人さんがいなくて、暗い海の中で一人ぼっちなんて、そんなのいやだよぉ……」
「俺もだ、渚」
息を吐くように、潮人は呟く。
「ほんとに? 嘘じゃない?」
「嘘つきのお前に、そんなこと言われたくないな」
自分の気持ちを隠してばかりで、すぐにはぐらかして…… だが、今でこそ感じる。渚は心の奥底から俺を求めている。もう俺も意地悪なんてしてやらない。想いの強さを、全て、今、ここで証明してやる。
「ほんとの本当に? 一人にしない?」
「当たり前だ!」
「また私が、知らないうちに逃げちゃうかもしれないよ……?」
「そうしたら何度だって追いかけてやる! 逃げられるなら逃げてみろ!」
「それでも、私がいなくなったら……」
「生涯かけて探し出してやる!」
溢れんばかりの潮人の想いが、少女の耳を打つ吐息となって、少女を抱きとめる力となって、少女を包み込む温度となって、伝えられる。
渚は今まで、どれだけの涙を流し、そして想いを隠してきたのだろう。
初めは、日向の村民を憂い。またある日は、紫舜の悲しみを汲み取って。奈美の儚い気持ちを、代わりに流して。潮人の愛を、偽りの意志で拒絶して。
今、ここで初めて自分のために渚は泣いた。愛するものへと心を委ねて流す涙は、どこまでも美しく輝いていた。濡れた蒼碧の瞳は、どこまでも深く澄み切っていて、晴れた神海の美しさでも叶わない。
「渚」
「はい……」
渚の嗚咽が落ち着きを取り戻すと、潮人は静かに言った。
「……俺は、覚悟はできている」
言葉としては足りないながらも、潮人の言わんとすることはすぐに渚にもわかった。
「本当…… ですか?」
それは、踏み切れずにいた渚の自問であった。ずっと一人で生を歩んできた人魚の少女にとって、仕方のないことでもあった。
愛してはいけないと思っていた。求めてはいけないと思っていた。同時に、求めてきてはくれないと思っていた。たった一度、契りを交わすために、命を賭ける人間がどこにいる? そんなことをする者が、父と母以外にいるわけがない。
しかし、潮人は。渚の唯一愛したこの青年は、わかってくれた。
「あぁ、後悔はしない。お前と一緒なら」
結ばれたい。どんなに願っても叶わない、叶えてはいけないと知りながらも愛してしまった。その念は人魚の少女を深く傷つけ苛んでいった。結ばれてしまえば、愛する人の未来を、命を奪ってしまう。わかっていたのに。わかっていたはずなのに。
最初は小さな好奇心。お母さんが愛した「人間」ってどんなものなんだろう。岩場の陰からそっと覗いて。それですぐ海に戻るつもりだった。
でも。
私が見たのは、傷つき疲れた村の姿。私のせいで光を失った人間の成れの果て。悲しくなって、歌い続けた。私が代わりに泣いてあげれば、少しはあの人たちの心も紛れてくれると思って。
そんな私を、あなたは見つけてしまった。そしたら、どんどん気持ちが溢れてくる。
少しだけ、話してみたい。
少しだけ、一緒に時を過ごしてみたい。
少しだけ、私のことを見て欲しい。
少しだけ、抱きしめられたい。
少しだけ、笑い合ってみたい。
少しだけ、愛されたい。
わかったよ、お母さん。悲しいくらいにわかっちゃった。
何でお母さんが、禁忌を犯してまで私を産んでくれたか。
何でお母さんが、愛しい人と結ばれたかったか。
絶望したわけじゃない。日向の村が再び鯨羅に襲われないように去ろうとか、こうするしか他に道はないんだとか、私は死ぬのが怖くないけど、潮人さんはどうなのかとか、そんなことは考えられない。
潮人さんと結ばれ、死を迎える。
これは「人魚」ではなく、私自身が決めた「瀬戸内渚」としての運命。
「渚」
潮人が、俯く渚の頬を撫でると、すっと顎に手をかけた。
「覚悟なんて…… いりませんよ」
渚はそっと、蒼碧の瞳を閉じた。
「だって、潮人さんがこれから、幸せにしてくれるんだから」
目を瞑っていても、潮人の唇が近づいてくるのがわかる。
「私も…… 潮人さんを幸せにしてあげられますか?」
「あぁ。渚と出会えてよかった」
嬉しい。その言葉を、渚は飲み込んだ。飲み込むしかなかった。
大好きな人に、唇を塞がれてしまったから。
死と引き換えに、愛を成就する誓いの接吻。
血に染まる接吻は、日向に伝わる別れの「血束」。いつしか潮人さんが教えてくれた。でも、そんなの知らない。血に染まっていないんだから、これは未来を誓い合うための儀式。
怖くなんてなかった。ただ、愛しい人の唇が、舌が、それ以上に心地良かったから。
潮人さんは強引だった。いつもいつもからかってやろうって思っているのに、いつの間にか私の方が遊ばれちゃって。今だってそう。私の方が先に腰が引けちゃってる。ずるいよ。
ほんの少し、唇が離れた。潮人さんが熱い息を漏らす。もう立っていられない。
「潮人さん…… ちょっと……」
待って、と言おうとしたのに。離してくれなかった。目を瞑るのも忘れて、潮人さんの顔を間近に見る。優しそうな顔。伏せた睫毛が意外と長い。まだまだ、私の知らない潮人さんがたくさんいる。笑った顔も、怒ったときの声も、照れくさそうにそっぽを向く横顔も、困ったときにする仕草も、知っている。
でも、知らないことだって、きっとまだまだたくさんある。
寝るときは、どんな顔をして寝るのかな。
悲しいときには、どんな顔をして泣くのかな。
私が甘えてみたら、どんな顔をして笑うのかな。
こんなこと私が考えているなんて知ったら、どんな顔をするのかな。
もっともっと知っていきたい。なのに。
私も目を瞑った。涙が流れそうになった。嫌だ。せっかく潮人さんと結ばれているのに、泣きたくなんてない。
何で潮人さんは平気なの? こんなにも強く、抱きしめていられるの? 段々力が抜けてきた。だめ。もう立ってられない。
渚は膝を折り曲げる。再度潮人の求愛から離れると、その場に崩れ落ちた。呼吸が心臓の動きと共に加速する。息を止めていたから、だけではなかった。
潮人が渚の身体を支える。が、渚は気づいてしまった。渚を抱きとめるその腕が、震えているのを。渚を座らせるようにそっと下ろすと、潮人もまた呼吸を荒げ、片膝をついた。
「潮人……さん……」
「大…… 丈夫…… だ」
笑顔とは裏腹に、額には汗が滲み出ていた。口から入り込んだ異種族の一部が、確実に互いの身体を蝕んでいる。唇の端からは、血が滴り落ちている。それは渚も同様だった。脳内が痺れ、思考が何者かに遮られるような感覚だった。
それでも。
「渚……」
求め合う気持ちは、もう止められない。
潮人は最後の力を振り絞り、渚を抱き上げた。右腕は渚の背を支え、左手は初めて名前を教えたときのようにしっかりと繋ぎ合って。そして、どちらからともなく、二人は再び口づけを交わす。思考さえもが溶け、血と共に混ざり合うような感覚。舌先から、お互いの想いと命が一つになり、収束されるようだった。
風が吹きつけた。だがそんな風の冷たさよりも、腕の中の少女の身体が、潮人を暖めてくれる。
何度目かの口付けの後、渚は呟くようにして声を出す。掠れてしまった、少女の命を乗せた歌声。
(ねぇ、潮人さん)
(何だ?)
(潮人さんは、この海が好き?)
(……何を今さら)
(もう、ちゃんと答えてよぉ)
渚は少し拗ねた振りをする。こうすれば、潮人は照れながらも欲しい言葉をくれるからだ。
(渚が生まれて、そして俺が生きてきたこの海を…… 愛していないわけないだろ)
(よかった……)
微かな声だったが、渚の耳に優しく響く。きっと、視線を逸らせながら、私の好きな笑顔しているんだろうな。
……もっとはっきり、見たかったかな。
(それなら、ねぇ、潮人さん?)
(あぁ、わかってるよ)
波音が掻き消すまでもなく、二人の声は既に形を成さなかった。
抱き合ったまま、二人は神海へと目をやった。潮風に乗せながら、潮人はほんの僅かに少女の髪を香る。命の火が消える最後の瞬間まで、潮人の心を優しく宥めてくれた。
動かなくなった手を、渚はもう一度潮人の胸に添える。逞しく、暖かく、渚の全てを受け入れてくれる心地よさがそこにはあった。
海原に向かって突出する岬。初めて出会った日、渚は自ら身を投げた。その瞬間から、潮人の心に少女の存在が刻み込まれた。そして、今日というこの日を迎える。
その岬に向かって、二人は歩いた。見えなくても、聞こえなくても、お互いの消えかけた生だけは、見失うことはない。
愛してる、渚……
私も、愛してます、潮人さん……
そして、二人の姿は、神の住まう蒼碧の海へと消えていった。




