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第十一章


              ◆◇◆◇◆◇◆◇



 今や日向の村は、その名とは裏腹に深夜の海辺のごとく暗く(よど)んでいた。砂浜を駆ける(わらし)の声も、漁に精を出す屈強な男たちの声も、今はもう聞こえない。ある者は日向を離れ、またある者は酒に溺れ、またある者はその日その日を、陽射しを浴びることなく過ごしていた。

 奈美が髪を切り落とし、また、紫舜が全てを打ち明けた日から十回ほど陽が沈んだある日。嵐はやってきた。

 先の戦いで無事だった船は、潮人の乗っていた一艘(そう)だけだった。漣は丙の船を捨て、甲の船に逃げ延びた。船頭の失った乙の船は中破し、鯨羅の眠るその海に沈んでいる。

 幸い船は三日もせずに修復をすることができた。紫苑の力がない今、航路は自然の風の気まぐれに任せるほかなかった。だが、帆をうまく操れば倍程度の時間で鯨羅のもとに辿り着ける。

「渚。覚悟はできているな」

「……はい」

 浜辺に現れたのは二つの人影。夕刻まで神海を荒らしていた嵐は息を潜め、満月がひっそりと静寂の夜を照らしていた。

 不気味な夜だ、と潮人は思った。(おびただ)しい数の魚の死骸が船の周りを取り囲んでいる。潮人の心中を暗示するかのように。

死ぬなら渚と二人でもいいか。そう思った。

 自分は今、死地へと向かっている。そこへ渚を連れて行くなど心中となんら変わりはないのかもしれない。愛する者と一緒に死ぬ。そんな道を選ぶのは幸福なのか、それとも愚行でしかないのだろうか。神海に住む神を冒涜する行為なのだろうか。しかし、その神の住む海へと還るのだから、神も許してくれるだろう。

「大丈夫ですよ」

 渚が言った。

「きっとまた、帰って来られますよ」

 潮人は、目も眩むほどの笑顔に、先ほどまでの考えを振り払った。駄目だ。この笑顔を失いたくない。必ず、生きて帰ってみせる。確信なんてなかった。渚の持つ「才」をあてにしているわけでもなかった。だが、先の敗戦の惨めさを払拭するほど、渚の存在が頼もしく思えた。何もしてくれなくていい。ただそこにいるだけで支えになってくれる。

 銛を握り締め、潮人は今一度祈りを捧げた。

 今ここに、渚と共にいることだけを感謝しよう。

 それに、きっと……

 荷を担ぎ、片足を梯子にかけると一本の矢が爪先を(かす)った。小さな黒羽の矢だった。

「どちらに行かれるのですか」

 冷徹ともいえる鋭い声。

「ちょっと、漁に、な」

「こんな時間にですか。小魚一匹、網にかかりませんよ」

 長髪を(なび)かせ、漣が言い放つ。

「そうだよ、潮人。やっぱり潮人は波を読むのが下手だよね」

「悪かったな」

「せめて鳳華に潜らせでもしたら、一匹や二匹くらいは獲れるかもしれないけど」

 涼太郎の肩で、鳳華が鳴いた。その哀鳴に潮人の頬が綻ぶのを渚は見逃さなかった。

 そこへ、一人の少女が台風を思わせる形相で涼太郎と漣を跳ね除けた。

その少女が奈美だと気づくのに三呼吸ほどの間が必要だったのは、髪型が変わっていた故だけではないだろう。あり得ないくらいに目が殺気立っている。奈美は何も言わず、砂を蹴って駆け寄ると、

「このバカ潮人!」

 必殺の回し蹴りを潮人に放った。鳩尾(みぞおち)に深々と突き刺さる。

「な…… 奈美……」

 一撃では終わらない。肩膝をつく潮人に次々と奈美の足が襲い掛かる。

「な、なな奈美ちゃん!?」

 渚の驚嘆も掻き消すほどの勢いで、潮人の身体が砂浜を滑った。

「何で…… 何でこんなことすんだよ! 潮人!!」

 それはこっちの台詞ではないのか。心中を言葉にする代わりに、潮人は口中の砂を吐き出した。

「ウチらだって同じなのに…… 潮人と同じ気持ちなのに…… 何で黙って行くような真似すんだよ!?」

 涙を溜めながら奈美の怒りが悲哀へと変わる。

「潮人」

 奈美の肩を両手で包みながら、涼太郎が続ける。

「奈美の言うとおりだよ。僕は潮人の考えてることも、やりたいことも想像がつくよ。長い付き合いだしね。でも……」

 涼太郎の唇が真一文字に結ばれた。そして、

「僕らがこうして追いかけてくるとは、潮人は思わなかった?」

 呆れたように幼馴染がふっと一息。いつの間にこんな頼もしい顔をするようになったのだろう。

「どうなの? 潮人」

 そんなわけないだろ。言葉にこそしなかったが涼太郎の瞳を見つめ返し、応えた。

「……もう少し、早く出発しちまえばよかったかな」

 砂を払いながら潮人は言った。

「何でだよ!? 連れていってくれたっていいじゃんか! ウチらだって姉さんたちの仇を取りたいよ!」

 再び奈美が声を荒げた。

「そりゃウチなんかじゃ役にも立たないかもしれないけど…… でも、だからって黙って出て行かなくたって!」

「奈美ちゃん」

 今度は紫舜だ。

「潮人様は、我々の身を案じてくださったのですよ」

「でも、でも……」

 涼太郎と二人がかりで奈美を宥めると、紫舜が向き直った。

「潮人さん、奈美ちゃんに見つかってしまったら、もう逃げられませんよ」

「すまなかったな」

「何がです?」

「君の決意は、知っていたはずなのに」

 潮人は軽く頭を下げた。

「もう。お姫様扱いはやめてくださいって申しましたのに。それに、こうして間に合いましたからもう結構ですよ」

 支那の少女の明るさもまた、潮人の心に光をもたらした。

「奈美も、すまなかったな」

「何だよ今さら。姉さんが死んで、ウチがずっと泣いてるとでも思った?」

 図星だったが、口には出さない。

「そりゃ辛かったよ。頭ん中に姉さんの顔がずっと浮かんできたり、最後に話した言葉って何だっけって、考えちゃってたり……」

 ふと、少女の目が曇る。

「でも、リョータに思いっきり怒鳴られちゃって。このままでいいのかよって。ね、リョータ?」

「え? あ、あああ、あの…… な、奈美……?」

 きゅっ、と袖を掴んでくる少女に、涼太郎の顔がみるみるうちに紅潮する。隆道がいたらきっと(はや)し立てるくらいではすまないだろう。

 ……ったく、いつの間にこいつら。

 場違いな温かさに思わず潮人は苦笑する。

「潮人さん。みんなで…… 行きましょう」

 負けじと渚が潮人の手を握る。涼太郎のように、たじろぐわけにはいかなかった。

「そうだな」

 月が煌々(こうこう)と辺りを照らす夜。六人の若者を乗せ、一艘の帆船が優雅に岸を離れた。



 誰も、口を開かなかった。涼太郎が風を読むと、帆の向けるべき方向を潮人に告げる。会話はそれだけだった。

 不安を表すのも、お互いを奮い立たせるのも躊躇われる、そんな航海であった。各々が出立の際の思いを胸にただただ船に揺られていた。

 そして。

 船が陸を離れてから、月が少しだけ欠けた頃。悪魔の白い背が、月明かりに照らされながら大海原に横たわるのを発見した。

 鯨羅は穏やかだった。先の戦いの傷を癒しているかのように、その体躯を静かに休めている。

「あれが、鯨羅……」

 奈美がぽそりと呟く。そこには初めて目にする悪魔への恐怖も、未知なる生物に遭遇した驚きも、姉を奪われた怒りさえもない。

 それは潮人も同じであった。

「鯨羅……」

 銛を立て、潮人は鯨羅を見やる。

「……お前は一体、何なんだろうな」

 平和だった頃の日向の活気を、胸に抱きながら潮人は言った。鯨羅と対面するのは三度目。漣と並び、今この世に生を受けている者の中で最もその数は多いだろう。敵であるはずの鯨羅に、なぜか郷愁の念さえも感じる。

 潮人は鯨羅の頭の中を、覗き込んでみたいと思った。何を感じ、何を憂い、日向に絶望をもたらしたのか。人魚を滅ぼすという本能のためだけに、かけがえのない父や友人や同胞の命を、あざ笑うかのように掻き消していったのだろうか。問いてみても、答えなど出るはずもない。銛を握る手に汗が滲み出た。

「潮人さん……」

 渚がそっと潮人の腕を掴む。

「私、私……」

 見ると渚の肩が小刻みに震えていた。

 鯨羅を倒す使命を帯びた人魚。その使命が今まさに果たされようとしている。

「どうした? 怖いのか」

「……いえ!」

 気を奮い立たせるように渚は言い放った。

「鯨羅を倒したら…… お前はどうしたい?」

 いつの日か、尋ねた質問を潮人は繰り返す。

「え? えっと、そうですね……」

 渚はしばらく答えあぐねていたが、やがて、

「潮人さんと…… ずっと一緒に暮らしていきたいです。死が二人を分かつ、その日まで」

 笑顔でそう言った。

「潮人様……」

 紫舜もまたいつの間にか琴を取り出していた。

「始めます。渚さんも、よろしいですか?」

「はい!」

 目が覚めたように渚は胸の前で手を組み、口を開いた。

 旋律が始まった。

 それは、祈神祭のものよりも遥かに神々しく、遥かに透き通った調べだった。潮人も、漣も、奈美も、涼太郎も、鳳華も、みな一瞬にして紫舜の琴の音に心を奪われていた。美しく、それでいて胸の奥から興奮とも歓喜ともいえる波が押し寄せてくる。

 渚の歌声が流れてきた。世界中に浸透するかのように響き渡るその吟詠は、湧き上がる感情を静かに(いさ)めた。

 暗雲が立ち込める。太陽が翳り、瞬く間に世界が(くり)(いろ)から漆黒に染まっていく。

 空だけでなく、鯨羅にも変化が表れた。海面に鎮座するだけであった鯨羅が、しきりに尾や鰭で海面を薙ぎ払った。

「愚緒雄雄雄お雄…………!!」

 その度に波が潮人らの船に襲い掛かる。船が大きく揺らぎ、涼太郎と奈美が船柱に叩きつけられた。

「くっ…… おのれ!」

 漣が細い木の枝のようなものを取り出す。風子との戦いで見せた妖弓、梓だった。先の戦いのように矢が返されてしまうとも思ったが、(はや)る気持ちからか、その手を止められずにはいられなかった。

 細い糸のような矢が鯨羅の背鰭へ一直線に向かう。

 同時に、紫舜の琴から一際高い音節が鳴り響いた。琴から一筋の光が舞い、矢に(まと)わりつく。矢は光の尾を棚引かせながら勢いを増し、鯨羅の(ひれ)を貫通した。一瞬遅れて、血飛沫と共に鰭が破裂する。

「こ、これは……!?」

 驚いたのは潮人だけではなかった。矢を放った漣自身、その威力に言葉を失っている。そこへ、苦しみもがく鯨羅の起こした津波が、大きく船を揺らした。漣が紫舜の身体を支え、琴を爪弾く紫舜の手を止めさせない。

「ありがとうございます、漣様。ですが、私に構わず矢を放ってください」

 紫舜が振り返る。

「私の『才』は、皆様の『才』を増幅する力…… 鯨羅も、その体内に矢が留まらなければ、こちらに返すこともままならないでしょう」

 潮人はようやく理解した。紫舜が鯨羅を倒す力を持つ、と言いながらも何故「才」を持つ人間を探していたのか。紫舜の「才」が直接鯨羅に死をもたらすわけではなかったのだ。

「感謝します、紫舜様! この私に、紫苑の敵を討つ力を与えてくれたことを!!」

 倒れぬよう両の足で船床を踏みしめ、漣は続けざまに矢を撃つ。翡翠の輝きを放ちながら、(まばゆ)い粒子が矢を囲み、一筋、また一筋と長い光の矢に変わっていく。矢は次々と鯨羅の巨体を貫き、神海の彼方へと消えていった。その度に、鯨羅はおぞましい雄叫びを上げ、津波を引き起こして反撃してきた。しかし、それも束の間、八本目の矢をその身に浴びると、鯨羅は巨体を海中に沈めていった。

「やったのか?」

「いえ、私の矢は鯨羅めの鰭や体皮を傷つけたに過ぎないでしょう。急所を貫かねば……」

 漣が一歩、船縁へ足を進めると、潮人は息を呑んだ。船高の倍以上もある大津波が押し寄せてくる。漣も数瞬先の惨劇を予想し、梓から手を離した。

 誰もが絶望した。自然を読む涼太郎の勘でも、様々な軍略をはじき出す漣の智能でも、この目の前に迫る大津波を避ける術は見つからない。飲み込まれでもすれば、その水圧で見るまもなく船は破壊されてしまうだろう。

 甘く見ていた。鯨羅の力がここまでだったとは。

 潮人は歯を噛んだ。皆を死なせてしまうことに。三度(みたび)挑んでも、鯨羅を倒すことが適わないことに。

 水壁がもう目の前にまで迫ってきたそのとき、渚の歌声が辺りを包んだ。

 波が弾かれるように霧散していく。船全体が透明な球に囲まれているように、海水が船を避けて滑り落ちていく。気がつくと、津波は姿を消し、神海の果てには再び白き鯨羅の背が見えた。

「私の『才』は……」

 歌をやめ、渚が鯨羅を睨みつける。

「鯨羅を倒すこと! そして……」

 涙声になりながらも、その場にいる者に更なる勇気を与えた。

「もう誰も死なせないこと!!」

 潮人の血が熱く(たぎ)る。

 渚が守ってくれる。

 紫舜が力を与えてくれる。

 恐れるものはもう、何もない。

「今度は私の番だよ!」

 背後で少女が立ち上がった。その手には琥珀色の数珠。

「奈美?」

 潮人と涼太郎が同時に振り返った。

「漣さん。紫苑や、姉さんたちの敵を討ちたいのは漣さんだけじゃないんだ!」

「私としたことが失念しておりました。奈美殿、お願いします」

 二人は顔を見合わせ、不敵に笑う。

「あれは…… 紫苑の数珠! 漣、どういうことだ!?」

 潮人が漣に疑問を投げかけた。

「……私も、最初は目を疑ったのですが」

 漣が弓に矢を(つが)えながら、切々と語る。



 それは、昨晩のこと。

「奈美殿。これを」

 先の戦いで潮人らが流れ着いた海岸。漣は一人の少女に琥珀の数珠を差し出した。

「何…… これ。漣さん、どういうこと?」

「奈美さんもご存知でしょう。紫苑の…… 形見です」

 淡々と話す長身の青年に、奈美は身震いを覚えた。

「そんなのはわかってる。これをどうしろっての?」

「受け取ってください」

 奈美は驚愕した。思わず一歩後ずさるが、漣は眉一つ動かさない。

「なんで…… なんでよ!? 紫苑の形見なんていうんだったら、漣さんやシュンが持ってた方がいいに決まってるじゃない!? なんでウチなのさ!」

「それが紫苑の望みだからです」

 返す言葉が見つからない。漣は一旦数珠を下ろし、続けた。

「最後の雷を落とした死の間際、紫苑は言っていました。もしかしたら奈美殿ならこの数珠の力を操れるかもしれない。この数珠は奈美殿に継いでくれ、と」

「だからどうしてウチなのさ! ウチなんて紫苑にバカにされるくらいガキで、『才』も何もなくて…… そんなの…… そんなの無理に決まってるじゃんか!」

「本当にそうでしょうか?」

 漣もまた一歩、奈美に歩み寄る。

「奈美殿。紫苑と一緒に山に木材を調達しに行ったことを覚えていますね?」

「え……?」

 奈美の脳裏に、いつかの光景が蘇った。地から乱立した枝や根に貫かれた獣の姿。

「あの日、紫苑と奈美殿は猪に襲われたと伺いました。その窮地を救ったのは……」

「あ、あれは紫苑が……」

「違います。紫苑はあの時、『才』を出し切れずにいた、と言っていました。つまり……」

 漣の手にありながらも、数珠が淡い光を帯び始めた。

「奈美殿が数珠の力を行使したのです」

 否定したかった。しかし、奈美は思った。思い出してしまった。

 猪に飛び掛られる紫苑を助けようと祈ったその瞬間、周囲の木々に助けを呼びかけたことを。そして、数珠から小さな光が発せられたかと思うと、次の瞬きの後にはその光景が具現化していたことを。

 偶然かと思った。自分が紫苑に代わって数珠を操れるなんて。そんなはずはない。そう言い聞かせていた。

「おそらく、鯨羅が次に現れる日はそう遠くないでしょう」

 閑話休題、とばかりに漣が言う。

「奈美殿、あなたはそれまでに何ができますか?」

 いちいち漣の言葉は、的を射抜く。弓を「才」とするが故なのか。

「銛を投じることも、弓を射ることもまともに適わないでしょう。そんな貴方に、果たして風子殿や隆道殿の敵を取るなど……」

「わかってるよ! そんなの!!」

 悲痛な少女の叫びが海岸に(こだま)する。

「ウチだって、何の役にも立たないことなんてわかってる! みんなみたいに『才』なんてないんだもん! そのことで姉さんを恨んだことだってあった! 姉さんが『剛雷』を継いだせいで、ウチには『才』がないんだって。姉さんは十歳になる頃にはもう『剛雷』を振り回してた。ウチは十四になるのに、まだ……」

「奈美殿……」

「悔しかった。悔しかったよ。みんなが鯨羅と戦いに行くっていうのに、ウチだけ置いてけぼりで…… そのせいで、姉さんが死んだんじゃないかって思って……」

 奈美の叫びに、次第に嗚咽が混ざり始めた。こんなつもりではなかった、と漣も胸を締め付けられる。

 だが、少女はいつまでも風に流される小波(さざなみ)のままではない。

「でも…… もし紫苑が力を貸してくれるっていうなら、こんなウチでも、みんなの力になれるなら……」

 静かに、奈美は漣の手から数珠を受け取る。

「姉さんの敵を討てるっていうなら……!!」

 風が流れた。穏やかだった海岸に、急激な暴雨が吹きつける。椰子(やし)の葉がざわめき、少女の決意を形にする。

「もう一度、鯨羅に雷を叩きつけてみせる」

 数珠が(あお)朽葉(くちば)に揺らめく。そして、同じ色に輝く雷が神海に吸い込まれるようにして落ちた。



「姉さん…… ちょっと姉さんの『剛雷』とは違うかもしれないけど……」

 奈美が数珠に力を込める。潮人は空を見上げた。暗雲の中、雷鳴と共に青白い光が見え隠れする。

「これがウチの…… ウチと紫苑の雷」

 風に流される髪をなくした少女は、姉の笑顔を思い出す。強く、優しく、憧れていた自慢の姉。涙はもう溢れない。

 紫舜の旋律が雲に吸い込まれると、雷が大蛇のように空を暴れ回った。

 少女の「才」が、今ここで雷鳴と共に産声を上げた。

「いっけえぇぇ!」

 奈美の腕が振り下ろされる。轟音の中、その叫びもまた掻き消されることもなく、雷と共に鯨羅に叩きつけられた。

 横殴りに吹き付ける風の中、かすかに肉の焦げる匂いが運ばれる。鯨羅はもがくように鰭を海面にばたつかせた。だが潮人の船を沈めんと津波を引き起こすわけではない。苦しみのあまりに暴れ回るだけの哀れな畜生へと成り果てていた。

 がくっ、と奈美が肩を落とした。

「はぁ…… はぁっ…… まだみたいね。しぶといやつ……」

「奈美!」

 涼太郎が駆け寄る。

「もう一発…… と言いたいところだけど、さすがに連発は無理みたい…… さーて、どうしたもんかね」

 まるで風子が蘇ったかのような口調。疲弊はしていても気力はまだ尽き果ててはいない。

「リョータ、とどめだ。行くぞ」

 潮人が鯨羅を睨めつける。涼太郎もまた、すっと手を掲げると、鳳華が舞い降りた。

「鳳華。僕からのお願いだ。隆道の無念を…… 一緒に晴らしてくれ!」

 勇猛なる黒飛鷹が戦慄(わなな)いた。涼太郎が指で合図を送ると、鳳華が潮人の肩を掴む。

「奈美、次の雷を落とすまで…… どのくらいかかる?」

「わからないけど…… ちょっと休めば平気だと思う」

「半刻でできるか?」

「その半分でやってみせるよ」

 奈美が笑った。一緒に鮫を追い回していた、今は亡き風子の顔が重なって見えた。

「潮人さん!」

 渚だった。

「船の周りでないと私の歌も届きません。どうか…… 無事に……」

「大丈夫。必ず倒してみせるさ」

 親指の腹を噛み切り、渚に向けて立てる。触れ合わない血束の儀。

 涼太郎が口笛を吹いた。鳳華が羽ばたき、雷雲の立ち込める空の彼方へ潮人を導く。振り返ることはしない。振り返らなくとも、これから嫌というほど皆の笑顔は見られるはずだ。

 鯨羅の真上で、潮人はその白き背を見渡す。紅の血流が(したた)っているのが見えた。それだけではない。目標としていたものもすぐに発見した。

 剛雷。風子の忘れ形見ともいえる巨大な槍が、鯨羅の脳天に屹立していた。鳳華が剛雷のもとへゆっくりと降下する。時折、波飛沫が鳳華の羽を濡らすが失速するほどでもない。

 鳳華が優しく足を離すと、潮人は鯨羅の頭部に着地する。

「風子……」

 一言だけ、その名を呟いた。

「みんな…… 力を貸してくれる。隆道も、涼太郎も、紫苑も、奈美も、漣も、紫舜も、そして渚も……」

 深々と突き刺さった剛雷に手をかける潮人。

「だから、お前も一緒に戦ってくれ」

 そして、剛雷を引き抜かんと力を込めた。

 途端に、足元が揺れる。鯨羅が抵抗をみせたのだ。


 鯨羅は、初めての感情に戸惑いを覚えた。


 我の身体に忌々しく埋め込まれた巨槍。今や身体の一部と化すそれを引き抜き、我を滅ぼそうと再び突き刺さんとする矮小な生物がいる。大海を統べるこの鯨羅に、災いをもたらす者がいる。人魚ではない。海を駆けることもできない人間という生物。魚がたった一町を泳ぎきる間も水に潜れない哀れな生物。つい先ほども生意気に天を操り、雷を我に落としてきた。忌まわしい。煩わしい。これ以上、我に傷をつけさせるものか。


 剛雷の柄に力を込めながら、潮人は戦慄する。二又の背鰭が、いつの間にか潮人の周囲を取り囲んでいた。凶虎鮫だ。まさか鯨羅は波や渦潮だけでなく、神海に住む生物までも操れるというのか。

 海面を跳ね、宙を舞いながら凶虎鮫が牙を剥いた。潮人の知るその姿よりも一回りも大きい鮫だった。潮人の全身など一飲みにしてしまいそうなほどに開かれた顎。口腔の奥はどこまでも闇が続いているようにも思えた。

潮人は丸腰であった。鯨羅に銛など役に立たない。(かえ)って邪魔になると判断して(たずさ)えてこなかったのだ。

 避けるか。しかし、代わりにこの剛雷の柄にでも喰いつかれ、万が一折られでもしたら。鯨羅に止めを刺す手立てがなくなってしまう。何とか素手でこの鋭い牙をやり過ごさねばならない。

 そう思った瞬間、一筋の光が凶虎鮫の脳を貫いた。遥か彼方の船から、神速の矢が放たれた。

 間違いない。漣の梓だった。

頭を打ち抜かれた凶虎鮫の遺体が、足元に転がる。続いて、二匹の凶虎鮫が同時に襲い掛かってきた。しかし、その牙は潮人のもとにまで届かない。それは、瞬く間の出来事であった。鳳華である。一匹は、(くちばし)によって目を(えぐ)られ、そしてもう一匹は鉤爪によって無残にも引き裂かれていた。

「隆道…… 涼太郎……」

 鳳華の鶏冠(とさか)が風に揺らぐ。さっさと風子の馬鹿をとっ捕まえろと、隆道に言われた気がした。

足元がさらに揺らぐ。鯨羅が海中に潜ろうとその巨体を沈め始めた。

「逃がすか……!」

 渾身の力をもってしても、剛雷は沈黙を守り続けていた。鳳華は中空に漂いながら見守るしかなかった。

「風子! なに意固地になってんだよ! お前だけじゃ鯨羅は倒せないんだ! いい加減さっさと……」

 剛雷の穂先が、わずかに動いた。そして、

「力を貸しやがれええぇ!!」

 隆道ばりの雑言に、天の風子も遂に両手を上げたのか、鯨羅の血飛沫を浴びながら、剛雷が潮人の手に収まった。不思議と、その巨大な槍身から想像されるほどの重みは感じない。風子以外の手には余る代物であったはずだが、まるで元来潮人の「才」であったかのように馴染んだ。以前風子に頼んで手にしたときには担ぐのが精一杯で、振るうこともままならなかったというのに。

「はぁ、はぁ…… 手を焼かせやがって…… 風子、でも……」

 潮人は息を切らせながらも、剛雷に微笑みかけた。

「ありがとうな」

 鳳華が滑空し、潮人の腕を引き上げる。間一髪、鯨羅がその身を沈める刹那、潮人の身体は宙を舞っていた。そのまま、天高くへと舞い上がる。

 雷鳴が蛮声を上げた。見上げると、青い雷が黒雲の中からしきりに顔を覗かせていた。

「奈美…… 丁度いい頃合だ」

 潮人は時を待った。今再び鯨羅が白き背を海面に浮かび上がらせる、その時を。

 歌が聴こえた気がした。琴の音に混ざって、美しい彩に満ち溢れた人魚の歌声。

 隆道と涼太郎が、鳳華と共に傍にいてくれる。

 紫苑と奈美が、力を貸してくれる。

 風子が、剛雷に俺の思いを乗せてくれる。

 漣が、紫舜が、そして渚が俺を守ってくれる。

 いつかの、父の言葉が胸に()ぎった。


 ようやく…… ようやくわかったよ、親父。俺の「才」は……


 忌まわしき鯨羅の脳天が、海面に浮かんだ。


 俺の「才」は、仲間の思いと志を、力に変えること。


「今だ! リョータ! 奈美!!」

 鳳華がそっと潮人の肩を離した。風を切るように潮人の身体が鯨羅に向かって放たれたかと思うと、稲妻が後を追うようにして降り注いだ。潮人は剛雷でその稲妻を受け止める。

 潮人たちの想いを乗せた、最後の一撃。奈美の「才」による(なる)(かみ)を穂先に帯びた、天空からの剛雷の一閃。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


「鯨羅あああぁぁぁ!!」

 放電する剛雷に目が眩みながらも、潮人は真っ直ぐに鯨羅目がけて空を駆け下りた。

 あと一丈、あと一間。あと一寸。

 そして。

 剛雷が鯨羅の脳天を貫いた。

 頭部が弾け、血と骨と肉片を撒き散らす。鯨羅の最後の視界は鬼気迫る青年の顔と、自らの血に染まった巨槍の刃であった。

日向と、多くの村を破滅に追いやった悪魔は、断末魔の叫びを上げることもなく滅びを迎えた。

 海中に叩きつけられる潮人。耳障りな水音と、無数の気泡に包まれながらも、潮人は感じた。まだ掌に残る、肉を砕く感触と一つの命が終焉を迎える確かな手応えを。

 気泡が次々と弾け飛んだ。海水を通して見える鯨羅の鰭が、尾が、体躯が、血漿が、神海の白群を真紅に染めていった。

 以前にも、潮人は鯨羅との戦いの果てに海に沈んでいったことがあった。無音と暗闇に支配された暗然とした世界。しかし、今やどうだろう。鯨羅の血の赤がなんと美しいことか。戸惑う魚たちも、水流に揺られる海藻たちも、祝福の舞を踊っているかのようだった。

 喜びも束の間、すぐに肺が詰まる感覚に見舞われた。潜水には自信のあった潮人であったが、限界が近い。酸素を求め海面に向かうが、沈みゆく鯨羅の巨体が渦を起こし、方角がわからない。

 だんだんと潮人の胸に焦りが生じ始めてきた。潮人は瞼を閉じる。指先が痺れ、思わず水を飲む。口内と鼻の奥に刺激が走った。右も左もわからない激流の中、必死に手足を振り回すが、指先が掻くのは冷たく重い水の塊だけであった。自分が浮かび上がっているのか沈んでいるのか、それすらもわからない。いつしか潮人はもがくことすらやめた。流れに身を任せていけば、この世界から抜け出せるかもしれない。もしそうならなければ…… 死ぬだけだ。

 遥か彼方に、光が見えた。何も見えず、何も聞こえない暗黒のこの世界で、唯一潮人の視覚を刺激するただ一つの存在であった。

光はやがて人魚の姿へと形を変え、次第に大きくなっていく。

 耳慣れた声が、耳をくすぐった。甲高い耳鳴りに混じり渚の声がする。終わりか、と潮人は思った。幻聴まで聞こえてしまっている。

 仕方ない。向こうに行ったら風子たちに報告するか。ついに鯨羅を倒したぞ、と。

 暖かな感触が、胸に(まと)わりついた。優しくも確かな力が、潮人の身体を引っ張りあげる。何だ。あの世ってのはこんなにも強引に連れて行かれるものなのか。想像していたものとずいぶん違うもんだ。風子や隆道もこうやって連れて行かれたのか? あいつらだったらきっと暴れ回ったんだろうな。

 ややあって、潮人は。

「潮人さん!」

「ぐっ…… げほっ! がはっ……」

激しい咳嗽(がいそう)と共に、有り余るほどの空気を吸い込んだ。

「大丈夫ですか!? 潮人さん! しっかりしてください!」

「はぁっ…… はぁ…… 渚…… 渚なのか?」

 眩暈(めまい)を覚えながらも、潮人は愛すべき少女の名を手繰り寄せる。

「はい! 潮人さん、私…… わたし……」

涙に溺れる人魚の声が、耳にくすぐったかった。でも悪い気はしない。間もなくして、潮人は呼吸を取り戻した。

「渚が助けてくれたんだな。ありがとう」

「ううん、潮人さんが無事だったらいいんです」

 近くに涼太郎たちの待つ船が見えた。船縁から身を乗り出す影が、しきりに手を振っている。あれは奈美だろうか。

「私たち…… ついに……」

「ああ。渚と…… みんなのおかげだ」

 喜びに満ちた渚の泣き顔を前にすると、少しずつ勝利の実感が湧き出るのを感じた。しかし、

「ぐっ……」

「潮人さん?」

 剛雷を振りかざし、奈美の雷を槍の穂先に受けた潮人の身体はまさに満身創痍であった。通常の男であれば、遥か上空から空を駆け降りたその衝撃だけで気を失ってしまうことだろう。今こうして渚に抱きかかえられて海上に出られただけでも奇跡に近い。

「すまんが、渚…… 少し眠らせてくれ……」

 返事を待たずして、潮人の意識は泥に沈み込むように深く落ちていった。

「……ゆっくり眠ってください、潮人さん。今までお疲れ様でした。そして……」

 渚の腕の中、すでに夢の住人と成り果てた潮人は気づかない。

「どうか幸せに」

 渚の頬を、一筋の涙が流れていたことに。渚の胸中に秘められた、一つの決意に。


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