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第十章

        ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



三人の少女の反応は、それぞれ異なっていた。

「そ、そんな……」

 渚は何も言えず、口元を覆いながら潮人を心配そうに眺めるだけだった。

「そうですか……」

 紫舜は決して表情を出すことなく、兄の死を受け入れた。

 そして、

「う…… 嘘でしょ……?」

 奈美は、

「嘘なんでしょ? 姉さんが、隆道が…… 紫苑が死んだって……」

 信じられぬ事実と、

「潮人、冗談キツいよ。そんなのに騙されるほど、ウチだって馬鹿じゃないんだから……」

深刻な相好を崩さない潮人を目の当たりにし、

「ねえ、嘘なんでしょ? 姉さん? どっかその辺に隠れてるんだよね? ねぇ、嘘だって言ってよぉ……」

 ありったけの感情を、

「嘘だって言ってよ!!」

 潮人にぶつけていた。

「ごめん奈美…… 全部本当なんだ……」

 胸を叩かれる潮人に代わり、涼太郎が真実を再び奈美に差し出す。

「最初は僕らが優勢だったと思う。でも鯨羅の反撃にあって…… 紫苑は『才』を使い果たして、風子と隆道も多分、鯨羅にやられて…… 最後に一矢報いようと……」

 あとは言葉にならなかった。無念はこの場にいる全ての者が一緒だった。ましてや、風子と隆道に関しては遺体を引き上げることも叶わなかったのだ。

 その他にも海に投げ出され、或いは鯨羅の放った矢や銛に射抜かれて死んだ男達も数多くいる。一人一人の死を悼んでやれないことが、潮人の胸を締めつけた。

「奈美殿……」

 漣は唇を噛みながら、奈美を見下ろした。

「ちょっと…… 何なのその荷物……」

 奈美は、漣の抱えている布包みに気がついた。漣の腕に余るそれは、うっすらと血が滲み出ていた。

「紫舜様、奈美殿、見てあげて下さい」

 そう言って漣はそっと包みを下ろし、布を剥いだ。

「あっ…………」

 目の見えない紫舜よりも先に、奈美が空気を飲みこんだ。

「綺麗な顔でしょう」

 安らかな、今までには見たこともないような微笑みだった。まるで母親の元で眠る無邪気な子供のように、紫苑は笑っていた。

「さあ、紫舜様」

 紫舜が漣に導かれるように、そっと手を出した。紫舜の細い指が、確かめるように、紫苑の顔をなぞる。そして、

「今まで…… お疲れ様でした。兄様……」

 亡骸を抱きかかえ、紫舜は呟いた。時折漏れる嗚咽、それと共に震える肩が潮風を締め付ける。

 奈美が何も言わずに駆け出した。海岸の方に向かって。

「奈美!!」

 咄嗟に涼太郎が手を取る。

「隆道を…… 姉さんを探しに行く!」

「無茶はよせ! もう見つかりっこない」

「そんなことない!! 姉さんが…… 姉さんが死ぬわけないもん!! 今だって日向に向かって泳いで来てる! だから迎えに行く!! 待ってるかもしれないじゃん!」

 半狂乱に叫びながら必死に手を振り解こうとする。

「離してよ! 姉さんを…… 姉さんを助けに行くんだから!!」

 涙目になろうとも、鼻水が出ても、汗で濡れようとも、非力な少女の願いは叶わない。

「潮人! リョータをどうにかしてよ!! 隆道だって帰ってこないんだよ? 助けに行こうよ、ねえ!?」

「奈美!」

 涼太郎は奈美の背を抱き、その小さな肩を力一杯抱きしめる。

「やめてよリョータ! 離して! 離してってば!!」

「奈美! いいから落ち着いて!!」

「離してよ! 何でリョータはそんなすました顔してんのさ! なんで姉さんを助けてくれなかったの!?」

 暴れる奈美の肘が、慟哭(どうこく)が、次々と涼太郎を襲った。それでも涼太郎はその手を離さない。もう奈美を抱きしめてやれる姉の腕はないのだ。それに比べたらなんと些細な痛みなのだろうか。

「奈美…… 僕が…… 僕がいるから……」

「嫌だ嫌だ嫌だ! 姉さん…… 姉さあぁん……」

 木の枝から鳳華がそっと、涼太郎に暖かい眼差しを送る。ちょうど、隆道にそうしていたように。新しい主人の初めて見る姿は何とも哀れで、何とも儚い。

 誰もが泣いた。渚も、奈美も、涼太郎も、漣も、紫舜も。取り残された少女らの涙はただただ悲しみを増す。

「うわああああああん…………」

 いつしか奈美は、涼太郎の胸に顔を伏せるかのようにしながら、涙に溺れていた。

 潮人はそんな中、一人立ち上がりその場を後にする。

「潮人……さん?」

 渚が声をかけた。

「村に戻る。他の村人達にも伝えなければならないからな」

 死んだのは風子達だけではない。多くの勇猛なる男達が無念の死を余儀なくされたのだ。愛する人や、幼き子供を残して。それを伝えるのは村長である潮人の役目。

 涙は流れなかった。潮人自身、まだ風子や隆道の死を信じられなかった。紫苑のように遺体がその場にあるわけでもなく、巨大な水柱を後目に鳳華が戻ってきた、というだけだ。奈美の言う通り、もしかしたら生きているのかもしれないという希望が、一欠片もないわけではなかった。

 ただ為すべきは、この悪夢を皆に伝える事。悲しむのは奈美や紫舜に任せればいい。

 村の入り口に差し掛かった頃だろうか。

「おーい」

 一人の男が、駆け寄って来るのが見えた。

「はぁ…… はぁ…… やっぱり戻って来ていたんですね。船が見えたからそうだと思って……」

「ああ。これから村に戻るところだった」

「そうですか…… そりゃ丁度良かったのか…… あ、いや」

 男の顔は晴れなかった。無事に生還した潮人の姿に安堵するわけでもなく、何かを言いあぐねているようでもあった。敗北をもう察したのかと一瞬思ったが、そんなはずもない。

「何かあったのか?」

 潮人は尋ねる。

「へ、へい…… 裕作さんが、急に倒れてしまって……」


 悲しみはまだ、終わらない。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇



 潮人の家には、既に何人かの日向の民が集まっていた。皆で一様に裕作を囲み、中にはさめざめと泣いている者もいた。そんな村人に見守られながら、裕作は、

「潮人……」

 布団から身を起こすことも叶わず、皺だらけの瞼を開く。潮人は父の傍に座り込むと、やはり皺だらけになった手を握り締めた。

 潮人らの船が見えなくなった後、裕作は急に倒れたという。すぐに薬師を呼び、治療を施したと言うが最早死を待つばかりであることは見るも明らかだった。

 飽和しきってしまったのだろうか。それとも、心の隅でこんな光景を想像していたのだろうか。潮人は変わらぬ凛々しい瞳で父の最期を看取る。

「戻ってきておったのだな」

「親父……」

「鯨羅は…… 仕留めたのか?」

 空気が凍りついた。村民もやはり気になるのか、視線が潮人に集中する。一瞬嘘を吐こうかとも思ったが、潮人は無言で首を横に振った。

「そうか…… だがこうしてお前に見守られて死ねるのだから、儂は果報者かな……」

 裕作が知るはずもないが、暗に風子や隆道のことを指しているのかとも思い、潮人は目を伏せる。

「……お前には辛い荷を背負わせてしまったか」

「成し遂げて見せるさ。必ず」

 潮人の姿は薄れゆく父の意識の向こうに、雄々しき若者として、或いは誇るべき息子の顔として変わらず映っている。取り乱してさざめく惨めな姿など見せたくない。

 迷いのない意志。せめて最後にはそんな姿を見せたかった。

 裕作の呼吸が和らいでくる。そして、

「強くあれ…… お前は…… 儂の、誇り……」

 齢五十三にして、駿河裕作は息を引き取った。

祈神祭の夜が蘇る。思えばあの時から、父は死を覚悟していたのか。だからこそ潮人に村長の名を譲り、心置きなく死にたかったのかもしれない。それならばやはり、父の言葉に従わなければ良かった。そうすればまだ心残りがあるからと、死ぬこともなかったのではないか。

 やり場のない無念の静寂が流れる。

 ただ、何故か潮人の心は晴れ渡る神海のように澄み切っていた。

 雲一つない、鳥さえも舞わない無味な青空にも似た心。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇



 すすり泣くようなその(むせ)びを、涼太郎は聞き逃さなかった。

 漁船の納めてある村はずれの小さな船倉。小さな頃から村の男の子と喧嘩で負けると、奈美は決まってここに隠れる。その度に涼太郎は奈美を迎えに来て、涙を枯れさせた後に風子の元へ帰すのだ。

 いつもならどんなに奈美が泣き喚いても、連れ戻すことができたのだが。この日ばかりは自信がなかった。果たして奈美の涙が尽きることがあるのだろうか。泣き止んだとしても帰すべき風子はもういない。代わりに奈美を抱き止めてやることができるのだろうか。

 しかしきっと、自分にできなかったら他の誰にも奈美の心に立ち込める暗雲を晴らすことなどできやしないだろう。それに、その役目を他の人間に委ねるなんて、涼太郎自身我慢ならなかった。

 それがたとえ、潮人であったとしても。

 古ぼけた戸が軋み、暗い船倉に光が差し込む。奈美の姿はすぐに視認できた。膝を抱え、震えるその小さな肩はまるで子猫のようだった。

「奈美」

 小さく語りかけるが、子猫の嗚咽は止まなかった。

「くす………… 姉……さん…… 風子姉さん…… ぐす……」

 そのあまりにも小さい慨嘆(がいたん)に、涼太郎も涙を誘われながらも決して声を上げなかった。今、奈美に必要なのは一緒に悲しむことではない。涼太郎は奈美の顔を上げさせる。抵抗を予想していたが、奈美はすんなりとその涙に溺れた瞳を涼太郎に向けた。焦点の合わない虚ろな眼差し。

「リョータ…… ぐす…… ふぇ……」

「奈美、しっかりするんだ」

 軽く奈美の肩を揺さぶる。

「姉さん…… 隆道も…… みんな、みんな……」

「奈美。風子も隆道も、もう帰ってはこない。だからって奈美が落ち込んでたら、二人とももっと悲しむよ。だから……」

 そんな陳腐な言葉しかかけてやれないのか。(いきどお)りを感じながらも涼太郎は奈美に話しかける。

「リョータ…… いやだ…… 姉さんがいなきゃいやだよ…… 姉さんがいなきゃ…… イヤだ! 帰ってきてよ…… 死なないで! 死んじゃいやだよ! 姉さん……!」

 ()き止められた川が奔流し、奈美の悲哀が溢れ出た。まるでそれしか知らない赤子のように、ただただ奈美は泣いた。狂おしいほどの奈美の思いが、涼太郎を翻弄する。一緒に泣いてしまえばどれだけ楽だろうか。このままこの薄暗い小屋の中で、この呪わしき運命を憂いてしまえば、どれだけ心地よいだろうか。

 だが。たとえこの身が神海に沈められようとも、奈美だけは笑っていてほしい。それだけが、この非力な少年の何ごとにも代えられない信念であった。

「奈美……!」

 涼太郎は、無理矢理奈美の頬を掴むと、

「ん…… ぐぅ……?」

 強引に奈美の唇を奪った。奈美の手が、弱々しく涼太郎の背を叩く。だが、そんな小さな抵抗では涼太郎の炎を消すことはできなかった。やがて奈美も涼太郎の肩を抱き、舌先でその思いに応える。

 あぁ。自分の涙はこんなにも温かかったのか。涼太郎の背はこれほどまでに(たくま)しかったのか。

 そんなことを考えると、不意に涼太郎が唇を離し立ち上がる。そして、

「立てよ! 奈美!」

 優しかった唇の感触を吹き飛ばすほどの(さく)(れい)が、奈美の頭上に降り注いだ。


挿絵(By みてみん)


「もう風子はいないんだ! 奈美を守ってやれるのは、もう奈美自身しかいないんだ! いい加減そんなことくらいわかれよ!」

 奈美は思わず目を丸くした。かつて、涼太郎がこんなにも熱く何かを訴えかけたことがあったろうか。

 涼太郎は思った。命を懸けてでも奈美を守る。それはこの世の誰にも負けない決意。だが、そんなことをしても奈美は喜ばないだろう。奈美に必要なのは誰かに支えてもらうことでも、守ってもらうことでもない。あの風子のような、雷をかき鳴らすような乱暴なまでの強さ。そして誰にも寄り掛かることのない風のごとき心。 

 涼太郎はありったけの力を込め、壁を打ち据えた。小屋全体を揺るがしてしまうのではないかと錯覚すら覚える。

「僕は諦めない! 何回鯨羅に負けたって、何度でも抗って見せる! 奈美はそれでいいのかよ? 負けっぱなしで、風子を取られて…… それでいいのかよ!?」

 息巻く涼太郎の姿に、奈美は風子と隆道を重ねた。

『……ったく、あのリョータにそこまで言わせてんじゃねーよ』

「隆……道……?」

隆道の悪戯っぽい笑みが浮かぶ。

『奈美。今回はあんたの負けよ。言いたいことは全部リョータに持っていかれちゃったけど……』

「姉……さん……」

 奈美は声なき声で最愛の姉を呼んだ。

『あんたは私の自慢の妹なんだから。私の顔に泥を塗るような真似したら承知しないわよ?』

 今は亡き姉が、友が、最後に少女の手を引いてくれた。

『じゃあね、奈美。愛していたわ』

奈美は一度だけ目を擦ると、一抹の涙と共に姉の幻想を拭った。


 そう。姉さんたちの言う通りだよ。

 (かぜ)に吹かれているだけじゃ、(なみ)はいつしか鎮まっちゃうもんね。


「リョータ」

 奈美はそっと、涼太郎に身を委ねる。

「ありがとね」

 まだ息を荒げる涼太郎。

「ビックリしちゃった。リョータがそんな風に言ってくれるなんて思ってなかったから」

「そ、そうかな……」

「初めて見たよ、リョータの怒ったとこ」

「ご、ごめん……」

 涼太郎は先ほどの自分の姿を省みる。全身の血が(さかのぼ)るような感覚。

「リョータの言うとおりだね。ずっと泣いてたって何も始まらない。そんなことわかってるはずなのに…… 我慢できなかった」

 涼太郎は迷った。そんなことない、好きなだけ泣けばいい、と奈美を抱きとめてやるべきか。そんな考えも頭をよぎったが、すぐにその思いは消えた。奈美は何かを訴えようとしている。自分の意思で立ち上がろうとしている。

「今、一瞬姉さんと隆道がそこにいたみたいだった」

「え?」

「もっとしっかりしないとダメだって、叱られた気がした」

 奈美は悪戯がばれた幼子のように舌を出してみせた。

「私ももう少しだけ、頑張ってみる。今すぐ姉さんみたいに、とはいかないかもしれないけど……」

 奈美の瞳に、光が戻った。

「ウチも鯨羅と戦う。みんなに頼って、待ってるだけなんてもうイヤだからね」

 奈美の白い歯が涼太郎には眩しく映った。

 涼太郎は確信する。風子譲りの強さを身につけ、神海を駆け回る姿が見られる日もそう遠くはない、と。

 しかし、勇気を振り絞って施した涼太郎の薬はいささか効き過ぎたようだった。

「でもさ。もうちょっと甘い言葉が欲しかったかなあ。何というか、『お前はオレが守るぜ!』みたいな」

 涼太郎は絶句する。こんなにも人をからかうような、それでいて(つや)めいた声を奈美が出すなんて。

「ウチだって女の子なんだから。少しくらい優しくしてくれたっていいじゃない?」

 それに、こんな「女の子」なんて扱いを自分から求めてくるなんて。

「いや、あの…… その……」

「あ。もういつものリョータに戻っちゃった。ざーんねん。もっとカッコいいリョータ、見たかったなぁ……」

「ななななな奈美? さっきから何言ってるの?」

「ん? 優しいのもいいけど、さっきみたいに強引にクチビルを奪ってくれるようなリョータもいいなって」

 涼太郎の頭がぼんっ、破裂した。同時に、何故隆道が風子にあれほどまでに惹かれていたか。理解した気がする。



「お前や潮人はさ、風子の、何つーか、可愛さっていうか、あの魅力ってのがわかってねーんだよ」

 いつの日だったか、大漁を収めた夜、浴びるようなほどの酒に溺れながら、隆道がそんなことを言っていた。

「年に一回もねーんだけどさ、たまーに風子が妙に色っぽくなる瞬間があるんだよ。なんか男を誘うような……」

『あの風子が?』

 涼太郎と潮人の声が重なる。

「そうか、風子にそう言えって脅されてんだな……」

「違うよ潮人。きっと頭でも殴られてお花畑で風子に優しくされてたんだよ」

「ばっか野郎! 違うってーの!」



 あの時は酒のせいで変なことを言い出した、くらいにしか思っていなかったが。

 しかし。腕の中にいる十四歳とは思えぬ少女の淫靡(いんび)な視線と腰に回された手の蟲惑(こわく)的な温度と上気した頬の赤味と裾から見え隠れした眩いほど白い腿と二回目の口付けを交わしそうな距離にある唇やらそれはもう色んなことを思えば、若狭の女の魅力が嫌というほどよくわかる。きっと隆道も何かのきっかけで風子の「これ」を味わってしまったことだろう。

 そんなことを考えていると、今度は奈美が涼太郎の唇、というか舌を奪った。しかし、残念なことにそう長くは続かなかった。涼太郎が目を回し、腰くだけてその場にへたり込んでしまったからだ。

「あ、ちょっとやり過ぎちゃったかな」

 きゅう、とまるで鼠のような鳴き声を上げ、涼太郎は昇天した。そんなこの世で一番情けない男の顔を、奈美は嬉しそうに見つめた。

「今のは私からのお礼だよ、リョータ。さっきはすごく嬉しかった。でも続きは……」

 そう言って、奈美は懐から小刀を取り出すと、結い上げられた髪束に(あて)がった。


挿絵(By みてみん)


「鯨羅を倒してからね」

 奈美は切った自らの髪束を握り締め、決意を(たぎ)らせた。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇



 潮人は神海を見つめる。そして、潮風に吹かれながら父と、数多くの同胞達との時間を回想する。

 強く、逞しくあった父。

 掴めずとも、決して遠くに行くことのなかった友。

 競い、笑い、怒り、そしてまた笑い合った友。

 一度は対峙しながらも、志を分かち、手をとった友。

 涙は流れない。それを疑問に思うほどの心も忘れた。そうあるべきなんだと言い聞かせる優しさも失った。

「駿河様」

 人影があった。哀れみにも似た悲壮な瞳で、潮人を見つめながら立っていた。

「考え事ですか」

 わかりきったことを言う、と潮人は思った。そして、ようやく目の前にいる男が漣であることと、傍らに盲目の少女がいることに気づく。

「あまり追い詰めないでください。誰も潮人様を責めたりなんかしません」

 紫舜がいたわるように言った。

「気休めか」

「そ、それは……」

「気休めです」

 紫舜に代わって漣が答えた。冷たい言葉だったが、それでも潮人に束の間の安らぎが宿る。()()のごとくどんなに鋭い針で言葉を覆っても、潮人を思いやる黄金色の思いは隠れようがない。

「忙しくなります。今のうちに駿河様は休んでおいた方がいいでしょう。皆を葬るのは、駿河様には辛いでしょうから」

 漣の口調が穏やかになった。相も変わらず漣は来るべく明日を見据えていた。己を見失ってもおらず、人として生きている。

 それだけが、潮人には不思議だった。

「なぁ、漣よ」

「はい?」

「俺は、どうしたらいいと思う?」

 一瞬、漣は風に流して聞こえない振りでもしようかと思った。かつての紫苑の影が重なってしまったから。

 支那の国が一瞬にして崩壊へと向かった、あの夜の紫苑に。

「今はただ休むべきですよ。まだこの事実を伝えていない村人も……」

「そうじゃない」

 視線を交わさぬまま、潮人は言う。

「鯨羅を倒すか、逃げるか、だ」

「全ては、駿河様の心のままに、です」

 今度は紫舜が口を開く。

 何とも不思議な少女だった。漣以上に、その見えない瞳の奥で全てを見据え、そして渚のように底知れぬ何かを隠し持っているような気さえする。この少女とはまともに言葉を交わしたことはなかったが、紫苑を看取るその(たたず)まいに、潮人はそんな気配を感じ取っていた。

「では紫舜様、あまりお身体を冷やさぬよう」

 振り向きざまに、連は言った。

「何だ、漣は行くのか?」

「紫舜様がお話があるということで、案内を務めただけです」

「そうなのか?」

「えぇ。帰りは紫舜様をよろしくお願いします」

 そう言って、漣はその場を後にした。

 慣れぬ少女を横目に、潮人は少々肩を下げた。

「えっと……」

「そんなに固くならないでください潮人様。兄様や漣様が私をお姫様扱いなさるからですね。私だって奈美ちゃんと同じように接してくださっていいんです」

「あ、あぁ……」

自責の念にかられ、潮人は紫舜の顔を見られずにいる。紫舜の醸し出す空気は和やかなものだったが、それが自分を(なだ)めるためのものだと思うと、潮人は唇を結んでしまった。

「紫舜…… 紫苑のことは…… 済まなかった」

 避けようかとも思ったが、頭を下げなければ潮人の気が済まなかった。贖罪というよりも、紫舜の心を探ろうと思ったのかもしれない。

一瞬だけ顔が伏せられるが、紫舜はすぐに慈悲深い笑顔を潮人に向けた。

「駄目ですよ。先ほども申し上げましたが、あまりご自分を追い詰めないであげてください。潮人さんが可哀相ですよ?」

 おかしな物言いだったが、それでも潮人を思いやる暖かな気持ちは流れ込んできた。

「それに…… 兄様のことはわかっていたことですから」

「……なんだって?」

 潮人は耳を疑う。

「ごめんなさい。わかっていたというのは正確な物言いではありません。覚悟が出来ていた、とでも言うべきでした」

 砂を掘っていたら、埋もれていた貝を爪で引っかいてしまったような。何とも言えぬ不快感が潮人を埋め尽くす。

「どういうことだ、紫舜。俺達が鯨羅に立ち向かっても、適うわけはなかったと、そう言いたいわけか」

虚仮(こけ)にでもされているのか。束の間潮人は思ったが、そうではない。

「ごめんなさい。けっしてそんなつもりではないのですが……」

目の前の少女が放つ空気を、潮人は今までに何度も感じたことがある。

「やはり、鯨羅には人間の力は及ばなかった、ということです」

紫舜の持つ言霊は、渚の持つそれに酷似していた。更なる疑念を投げかけてくるその声は、波間に揺らめく海藻のようで。

「じゃあ俺達には一生鯨羅は倒せず、その影に怯えながら暮らさないといけないわけか」

 一抹の疑念と憤慨と共に、紫舜に迫る。

「潮人さん、貴方は何故鯨羅が日向の地に現れたかわかりますか?」

「いや……」

「では、質問を変えましょう。鯨羅と時を同じくして、貴方は誰と出会いましたか?」

「な……」

「鯨羅の暴虐ぶりに悩まされ始めた頃。貴方の前に誰が現れましたか?」

 それを境に、二人は押し黙る。

 紫舜の意図は到底掴めそうにもなかった。だが、潮人の中で生まれた因果の鎖は、およそ想像の範疇を越えて存在するものであった。

 紫舜の質問。

 鯨羅と共に出会った少女。

 何年も変わらぬ村の中で、初めて出会った村外の者。

 人知れず岩場でただ歌を歌っていた少女。

「まさか……」

 枯れ果てたような喉から、潮人は声を発する。


「鯨羅は、渚さんを追ってこの村にやってきたのです」


 遠くに、波の音が聴こえる。生まれた時から耳にした、自然の織り成す神の歌。

 そんな歌を奏でる神海すらも、逆さまになって水が全て干からびてしまう。そんな錯覚さえ、潮人は抱いた。

「鯨羅が…… 渚を……」

「えぇ。あの白き悪魔を滅ぼせるのは、人魚の奏でる歌以外にありません。それゆえに、鯨羅は自らの存在を脅かす渚さんを追ってきたのです」

「人魚……」

 その言葉には潮人も思わず嘲笑せずにはいられない。

「渚が人魚…… だと? 馬鹿な。渚は伝説に出てくるような魚の尾など持っていない! ついさっきだって俺達と一緒に砂浜に立っていたじゃないか!?」

「では何故潮人様は声を荒げているのですか? そんなに突拍子もない話なら、弁明などせず笑い飛ばしてしまえばよいものを」

 揺らめくばかりだった紫舜の独白は、転じて次々と潮人の胸を貫いた。

「本当は、そのような予感をずっと感じていたのではないですか?」

「な……?」

「人魚とまでは考えずとも、本当は渚さんが人間ではないということには気づかれていたのではないですか?」

 認めたくはない。無表情のまま淡々と開くこの少女の口を、何としても塞いでやりたかった。だが、潮人は気づいてしまった。

初めて出会った渚が、崖から消えてしまったこと。

明くる日には何食わぬ顔で潮人と対面したこと。

手首を切り裂きながらも海に飛び込み、鮫を突き放してはまた変わらぬ笑顔で舟に戻ってきたこと。

どれも紫舜の告白を肯定してしまえば、説明のつくことではないか。

崖から飛び込んでも海を駆ける泳ぎも、血を流しながらも変わらぬその身体も、人々の心を揺さぶる歌声も、全て彼女を人魚と言わしめる紛うことなき事実ではないか。

「そんな…… まさか……」

 体の震えが止まらない。恐れることなど何もないはずなのに、どうして人の身体は未知という点だけで恐怖を感じてしまうのだろうか。

いや、しかし。渚の正体がわかったとはいえ、喜びはすれど不安に怯える必要などないはずだ。例え人間でないとしても、今まで通り一緒に漁に出かけ、共に神海に潜り、帰れば一日の無事を感謝し、床につけば良い。そう、今までと何一つ変わらない。

「わかったよ、紫舜。しかし今までそんなこと知らなかったというだけで、何も変わりはしない。渚は渚だ。別の奴に()り替わるわけではない。むしろそのことを知ったおかげで今まで引っかかっていた胸のつかえがなくなったようだ。感謝する」

「そう…… 貴方は強い人なのですね」

 喜びに満ちた潮人の笑みを前にしても、紫舜の顔から陰は拭い去れない。それは、潮人の喜びが作られた偽りのものであることを知っていたから。

「では潮人様。何故私は、渚さんの正体を知っているんでしょうね」

「それは……」

 考えられるとすれば二つ。渚が紫舜に人知れずこっそりと打ち明けたのか。

「出会ったばかりの私などに、まだ潮人さんにも話していないようなことを打ち明けるでしょうか?」

 潮人の思考を読んだかのように紫舜が言った。

「だとすれば……」

 紫舜の方が、渚が何者なのかを見抜いた。それ以外に考えられない。

 そもそも、紫舜こそ何者なのか。紫舜は遠い支那という国からやって来た、王族の少女であるはず。鯨羅によって滅ぼされた異国の少女。

 潮人ははっと目を見開いた。そう。紫舜の国にもまた、鯨羅は現れたのだ。何故。紫舜の親告通りならば、鯨羅は支那にも人魚を追って現れたということになる。その支那の人魚とは……

「お気づきのようですね」

 にっこりと、紫舜は微笑んだ。紙芝居の結末を告げるような嬉々とした笑顔だった。

「私もまた、渚さんと同じ人魚だからです」

「だから、同族である渚のことがわかったというわけか」

「おっしゃる通りです」

 初めて狩りの成功を収めた子供を見守るように、紫舜は頷いた。

「一目で、とは言えませんが、渚さんが私と同じ人魚であることは祈神祭でわかりました」

「祈神祭で?」

「えぇ。あのとき渚さんが歌を歌っていましたでしょう? あの『才』こそが、渚さんが人魚だという確信に繋がったのです」

 言わずともその先は潮人にも想像がついた。

「そうだな。紫舜の琴と渚の歌。その二つはあまりにも似過ぎていた」

 そしてそれこそが、鯨羅を倒す唯一の術である。紫舜が代わってそう続けた。

人魚(わたしたち)は生まれながらに鯨羅を倒す『才』を持ってこの世に生まれてきます。私も物心ついた頃にはその使命に動かされ、鯨羅の出現を待っていました。ところが……」

「紫苑と出会った、というわけか」

「はい。正確には播磨の家には私の方から近づきました。人間にも『才』を持つ者が存在すると知ったためです。その者たちと協力できれば、と私は思いました」

 紫苑の力を、紫舜は見抜いていたのだろう。あの琥珀の数珠の威力は強大だ。鯨羅を倒すために欲したのも不思議ではない。もっとも、紫苑の雷をもってしても、鯨羅を討ち損じたわけだが。

「ごめんなさい。あの雨の降る晩、潮人様は兄様の『才』について尋ねられましたね?」

「ああ。知らない、というのは嘘だったわけか」

「申し訳ございません」

 紫舜自身、兄の敵であったはずの潮人にどこまで塩を送るか、悩んでいたことだったろう。嘘をついていたことを責める気は、潮人にはなかった。

「それで…… 紫舜。君はどうしたいんだ?」

「……はい?」

 今度は紫舜が目を丸くする番だった。

「どういった意味でしょう?」

「聞きたいことは二つ。何故今になってそれを俺に打ち明けた? おそらくは紫苑や漣も知らないことであろう」

 祈神祭の夜。紫苑ですらも紫舜の琴の本当の力を知らなかった。ただ人智を超える神がかった美しさを兼ね備えている、という程度にしか紫舜の「才」を認知していなかった。もし紫舜の琴の旋律が、或いは渚の歌が鯨羅を倒す力を秘めていると知っていたら。船に乗せて鯨羅に立ち向かわせようとしていたのではないか。紫舜はその身を案じるが故に避けたとしても、渚の力だけでも頼ろうとするはずだ。

 紫苑からすると、紫舜の正体は知っていたが、渚の方はただの日向の村民かと間違った認識をしていたのか。そんなはずはない。紫苑だって渚のあの歌を聴いている。同じ発想をするに違いない。

「それから、何故君は紫苑と共に日向の村にやってきた?」

 これは潮人にも想像できたことだったが、紫舜は、

「二番目の質問から、お答えします」

 そう言って、切々と言葉を紡ぐ。

「無論、鯨羅を倒すためです。兄様と、支那の人々の無念を晴らすため」

「……解せないな」

 潮人は紫舜の言葉を遮った。嘘はついていないだろうが、まだ紫舜は何かを隠している。

「ならば、ますます紫苑に正体を隠していた理由がわからない。もし本当に君の『才』に鯨羅を滅ぼす力があるのだとすれば、紫苑に打ち明けて一緒に戦うべきだったのではなかったのか」

 我ながら、残酷な仕打ちだと思った。盲目の上、まだ年端もないこんな少女に、鯨羅に立ち向かえと言っている。何年も漁に出て、鮫すらも恐れない屈強な男共であっても歯が立たないのだ。いかに「才」があるとはいえ、危険を免れることはできないだろう。

「先ほど申し上げました通り、最初はそう考えていました。強力な『才』を持つ兄様と協力できたら、と。ですが……」

 ふっ、と少女が見えない瞳を伏せた。

「……怖かったんです」

 最初は、鯨羅と対峙することに対してかと思ったが、そうではなかった。

「兄様に私の正体を知られてしまうこと自体が…… ただ、怖かったんです……」

「何故? 紫苑に拒絶されると思ったのか」

「逆です。私たちは愛し合っていたのですから……」

 紫舜は光の映さない瞳で潮人を見やった。

「人魚と人間の想いは成就することはありません。心の中で惹かれ合っていても、交わり、子孫を増やし、種を繁栄させることは決してできないのです」

「……どういうことだ?」

「人間の体液は、人魚にとっては猛毒だからです。そしてまた、人魚と交わることも、人間を死に至らしめるのです」

 全て繋がった気がした。何故渚が「血束」の儀をあれほどまでに避けていたのか。想いは通じたはずなのに、何故潮人の接吻を拒んだのか。

「人魚は人間と人魚が交わることでしか生まれません。禁忌を破り、命を賭して、それでもお互いを求めたその先に生まれたのが……」

 紫舜の目から一雫、涙が滴り落ちた。

「私や、渚さんなんです」

 銛で胸を突かれたかのような衝撃が、潮人を襲った。

「ですから私は兄様の、いえ、紫苑様の妹として傍にいると決めたのです。そうすれば、紫苑の婚約者でもあった琳様を傷つけることもなく、彼の傍にずっと居られる。私の琴を使えば、思考や記憶を少しだけなら操ることができますから」

 紫苑の言葉を思い出す。物心ついた頃、いつの間にか紫舜が傍にいたこと。そして、紫舜の琴の旋律によって人の心が惑わされるのではないかと危惧したこと。紫苑の推測はそう外れてはいなかった。 

「話を戻しましょう。何故兄様に私の正体を隠していたか、とお尋ねになりましたね? ではもし、兄様にこれらのことを話したら、兄様はどうしていたと…… 潮人様は思われますか?」

 もしも紫苑と紫舜が結ばれてしまったら。

 命を奪われる二人。

 婚約者を奪われる琳。

 幼い頃から仕えていた紫苑に、姉を裏切られる漣。

 誰一人として幸福を迎えることが許されない。

 そして、潮人もまた、愛する者が異種族であるがゆえに結ばれない。胸を締め付ける想いに、潮人は発狂しそうになった。紫舜を前にしながらも、大声で叫び、運命を呪ってやりたかった。

 紫苑も、もし紫舜の正体を知ってしまっていたら。たった今潮人に襲い掛かっている悪夢のような絶望を抱いていたことだろう。

「ですから私は、『才』のことも、私が人魚であることも兄様には打ち明けられずにいました。人魚としての力なしに、兄様の『才』が鯨羅を滅ぼしてくれることを願って……」

 しかし、その希望すら打ち砕かれてしまった。愛しい者を傷つけることを恐れ、成す術もなく失ってしまった盲目の少女。何とも儚く、何とも哀れなのだろうか。

「すまなかった」

 (ひざまず)き、潮人は謝罪した。自分たちの力で鯨羅を打ち倒せなかったこと。嘆きともいえる少女の告白を無理に引き出してしまったこと。言葉だけの謝罪など、何の意味も持たない。ただ自らの心を軽くするだけに他ならない。ただ、そうしなければ潮人自身が罪の意識に押し潰されそうだった。


挿絵(By みてみん)


「顔を上げてください、潮人様。私の方こそ、兄様を想うがばかりに伝えられなかったことを、潮人様に告げてしまったのです。それが潮人様にとって酷なことだと知りながら……」

 肩に添えられた手が、暖かく潮人を包み込む。一頻(ひとしき)り潮人の髪を撫でると、紫舜は立ち上がった。

「行ってください」

 そう言って紫舜は、海岸沿いに指を滑らせた。

「渚さんが待っています。お話が済んだら、潮人様を向かわせるように伝えてありますので」

「渚は全て知っているのか?」

「いえ、何も。潮人様と少しお話してきます、としか伝えていません。ただ……」

 紫舜は渚のいるだろう方角へ視線を向けた。

「もう、気づいているかもしれませんね」

 可笑しくなさそうに、紫舜が笑った。

「それで…… 君はどうするんだ?」

 潮人は微笑みも返さず、言った。少女の紫の髪が棚引いたかと思うと、

「次の嵐の晩、全ての決着をつけに参ります」

 潮人の耳に届いたのは、風に掻き消されそうな声。それでいて、様々な覚悟と決意を秘めた、悲しき誓いであった。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇



 波打ち際に、渚が銛を構えていた。裾をめくり、真剣な眼差しを足元の水面に注いでいる。まるで魚を狙っているような、いや、まさしく渚は獲物を捕らえんと神経を研ぎ澄ましていた。声をかけるのもはばかれ、潮人はじっと少女の横顔を見つめていた。やがて、えいっと何とも頼りない掛け声と共に、銛が打ち下ろされた。結果は見ずともわかる。渚が貫いたのは、数粒の砂利と水面だけだった。

「もう……」

 大して深くも突き刺さっていない銛を引き抜き、また渚はそれを逆手に構えた。

「何やってんだ、渚」

「見ての通りです。魚を捕まえるんですよ」

 意に介さぬ面持ちのまま、渚は振り向こうともしない。

「そんな腰つきじゃ、魚どころか蟹も捕れないぞ」

わずかに(かん)に障ったのか、潮人は突き放すように言った。

「いいですから、黙って見てて下さい」

 踵を返し、その場を離れようとも思ったが潮人は足を止める。放っておいてください、ではない。渚は「見てて下さい」と言ったのだ。

渚は何かを伝えようとしている。そんな気がした。

幾度か銛が水底に突き刺さるものの、やはり魚を射ることはなかった。

無理もない。魚だってそうやすやすと命を明け渡すわけにはいかない。

微弱ながらも渚の殺気を感じ取り、近づくや否やすぐに尾を(ひるがえ)してしまうのが関の山だった。銛を振り下ろそうと息を呑む瞬間の微かな波の乱れ。臆病な小魚ほどそれを敏感に感じ取るものだ。

渚の姿はそんな魚にまで虚仮(こけ)にされているような、見るに耐えないほど憐れなものだった。

見かねて、つい潮人は舌を打った。水を切る音も、渚の落胆する溜め息も、遠くで鳴く海豚(いるか)の声も、全てが潮人を逆撫でする。

そして、

「えいっ!」

 何十回目かの試みの後、ついに渚の銛が小さな魚の背を貫いた。

「あはっ、やりました! 潮人さん」

 食せば一口にも満たない、そんな小魚を仕留めたのがそんなに嬉しいものか。潮人はあきれて苦笑いを浮かべるだけだった。

「見てください、私の記念すべき獲物です」

「良かったな」

 大して共感するわけでもなく、潮人は言った。

「はいっ! とっても嬉しいです!」

「何でそんなに喜べるんだか……」

「だって嬉しいですよ。こんな私にだって魚が捕れるってわかったんですから」

 何かが、渚の言葉に染み渡った気がする。

「食べたら丸飲みだって出来そうな、こんな小さな魚ですけど…… でも」

「……渚?」

 少女の顔が、悲痛に歪む。

「潮人さんから見れば、大したことない、とっても、とっても小さな魚かもしれないですけど……」

 銛が手から離れ、水飛沫を上げた。

「潮人さんが悩んでいることだって、こんなに小さなものかもしれないじゃないですかっ!」

 涙と共に、渚は叫んだ。

「村を守りたい鯨羅を倒したい。そんなの、頑張ればきっと叶うはずなのに! こんな不器用で、銛なんて握ったこともない私が魚を捕れたんだから、潮人さんにだって出来るはずなのに! なんでそんなに下ばかり向いているんですか!?」

 渚の言わんとすることがわからない。罵倒するような痛言に、潮人が反論する。

「そんなの、だと? 簡単に言ってくれるな! お前は鯨羅を見たこともないからそんなこと言えるんだ!」

「関係ない! じゃあ村を守りたいなんて言わなければ良かったのに! 別の地に移り住めばいい。村なんて、私から見れば小さな魚と同じくらいちっぽけなことです! そうすれば……」

 渚がついに、潮人の逆鱗に触れる。

「風子さんや隆道さんだって死なずに済んだかもしれないのに!」

 血が昇る音を、潮人は聞いた気がした。両腕が勝手に渚の胸座(むなぐら)を掴む。

「お前……!」

 かろうじて手を上げるのを思い留めたのは、渚の奥底に眠る、風子らへの想い。

「そうすれば、風子さん達だって…… 死なずに…… 笑って……」

 零れ出す、渚の自責の念。

「私にも…… もう少しだけ覚悟があれば…… みんな死なずに済んだのに…… こんなに苦しまずに済んだのに…… 奈美ちゃんをあんなに泣かせずに済んだのに……!!」

 渚が責めていたのは、潮人ではなかった。

「そう…… 私の方こそ命を賭ける勇気があれば、潮人さん達の幸せが崩れることなんてなかった……」

 潮人の脳裏に、急に過去の光景が過ぎった。初めて岩場で出会った少女が、目の前の渚と重なり合う。

 この娘の涙する理由は。

 自らの心の痛みよりも、他者のために。

「渚!」

 潮人は渚を抱きしめた。そうしなければ、渚が風に(さら)われる。そんな気がして。

「何を…… 何を考えている!?」

 もう揺蕩(たゆた)う少女を追いかけるのは嫌だった。解せない少女の気持ちを何としても捉えたかった。

「話してくれ! お前は何を考えているんだ!? 本当のことを教えてくれ!」

 知りたかった。今まで渚は、いつも傍に居てくれると、信じて疑わなかった。だが、今ここで手を離してしまえば、あの歌はもう聴けない。

「駄目です! 言えません!」

「一人で…… たった一人で『才』を使って鯨羅と戦おうとしているんじゃないのか!?」

ぴたり、と渚の抵抗が止まった。

「……やっぱり、紫舜ちゃんが話してしまったんですね」

「あぁ。全て聞いた。鯨羅のこと。お前が人魚だってこと。それから……」

 人と人魚は決して結ばれない。何よりも潮人を打ちのめした事実。

 渚は潮人の手を振り払おうとするが、潮人もそれを許さない。

「渚! 何故…… どうして逃げるんだ!?」

「だって! 鯨羅が現れたのは私のせいだから! 私がこの村に近づかなければ、潮人さん達は幸せに暮らせていたはずなのに!」

「馬鹿! そんなこと……」

「風子さん達だって、死なずに済んだのに!」

 再び潮人は渚を力の限り抱きしめる。もうそんな、言葉は聞きたくなかった。

 愛しい人が自ら海に飛び込んで溺れてしまうような、そんな真似は見たくなかった。

「出会わなければ良かった! 日向のみんなに…… 潮人さんに!」

「渚のいない世界なんて考えられるか!」

 渚の力が緩んだ。潮人に抱かれるまま、ひっくひっくと嗚咽を漏らすばかり。

 やがて、

「……私、どうしても見てみたかったんです」

渚は想いを形にする。思い出話を、一つ一つ手繰り寄せながら。

「お母さんは私を産んですぐ死んじゃったけど、でも、確かに言ってたんです」

 それは、母への想いが乗せられた渚の告白。

「お父さんは素晴らしい人だったのよ、って」

 生まれてすぐに両親を失う人魚。武闘祭での射候の際、渚が紫舜と対峙したときの言葉を思い出す。

『私は兄妹とかいないから、あんまりよくわかんないけど、でも……羨ましいかな』

「だから、知りたかった。見てみたかった。お母さんの愛した人たちは、どんな風なんだろうって、思った」

兄妹どころか、家族の温もりを知ることのない種。だからこそ、血束を交わし、生まれは違えど兄弟として生を共にする日向の民に憧れたのだろう。

「……それで、どうだった?」

「え?」

「渚から見た、日向のみんなは」

「そんなの…… 決まってるじゃないですか……」

 涙に塗れた照れ笑い。

「大好きです…… 奈美ちゃんも、涼太郎さんも、風子さんも、隆道さんも…… 日向のみんなだけじゃない。紫苑さんだって、漣さんだって、みんな、みんな……」

 その瞳の向こうに、風子らの笑顔が輝いているような気がした。

「こんなにも私に優しくしてくれたみんなが…… そして、潮人さんが何より…… 私、大好きです!」

 少女の叫びに、潮人はそっと目を伏せた。出会わなければよかったなんて、もう言わせない。

 鯨羅と戦う運命に翻弄(ほんろう)される少女。父も、母も、兄弟すらもいなく、孤独に取り付かれたこの哀れな少女に、俺はほんの一欠片でも温もりを与えることができたのだろうか。仲間と共に笑い、泣き、怒り、悲しみ、そして明日を迎えるという当たり前の幸せを、ほんのひと時でも味わわせてやれただろうか。


 でも、あと一つだけ。

 もしも、本当に神海に神が住んでいるのだとしたら。

 どうか一つだけ、叶えてほしい。

 愛の成就する喜びを、渚に教えてやってくれ。

 渚の両親が命を()してまで叶えたその望みを、どうか、渚にも。


 すっと渚の顔が上がる。

「もうこれ以上、誰も死なせません」

 決意に満ちた光が、渚の蒼碧の瞳に宿る。

「ならば、俺も渚を死なせはしない」

 決意で何かが変わるなら。渚を失わずに済むのなら。

 俺は何度だって立ち上がってみせる。


 朝陽が神海を照らしつける。それは、日向を迎える変わることの無い自然の摂理。潮人はそっと渚の手を握り締める。この朝陽と同じように、揺るがない決意を誓って。

 

 もう迷わない。この手に平和を。


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