表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/14

第九章

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。もし、可能であればこの章は途中でしおりを挟むことなく、一気に読み通していただければ幸いです。


よろしくお願いします。


         ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 破滅を思わせる黒雲に見守られる中、日向は目まぐるしく廻る。食料を船に積み込み、村民にも部隊の陣形や作戦を一通り伝えなければいけない。

 船はまだ三艘しか完成しておらず、予定を覆された紫苑は顔を(しか)めるが、この機を逃すことは出来ない。

 船はそれぞれ、潮人と涼太郎、風子と隆道、紫苑と漣の三手に分けられ、率いる。便宜上、順に甲、乙、丙と名づけられた。各船には日向の民が約二十名、陸奥の民は十名ずつ乗り込む。海での戦いに秀でた日向の民は主に銛で、陸奥の民は弓での攻撃が基本となる。

 鯨羅の潜む位置に関しては、潮人、紫苑、涼太郎の見解が一致した。海岸から三十五海里ほど進んだ地点に、一際深くなる場所がある。鯨羅は恐らくそこに鎮座している。浅い海に乗り上げてしまうとその巨体を動かすのも一苦労である、というのが涼太郎の意見。さらに紫苑の経験からも、支那の村を襲ったときに鯨羅がその身を沈めていた場所と、距離、方角共に一致する。

 そして何より、潮人が以前敗北し、父の足を失った海を忘れるはずはなかった。

 紫苑の風を使えば帆船は一刻で四海里ほど進む。三十五海里といえば半日もかからないだろう。食料は往復分で一日分、念のためさらに倍ほど用意しておくことにする。日持ちが効くものを優先に、陸奥の山から乾物や果物を中心に積み込む。

 出発は明後日の正午。本来、漁は早朝に出るものであるし、目の前に浮かんだ平穏な日々への鍵に一刻も早く手を伸ばしたくもなるが、これは漁ではない、戦いなのだ。準備を怠って勝てるような相手でもない。かと言って次の嵐まで待てば、どれだけ多くの魚や貝が犠牲になるだろうか。そんな光景を思い浮かべるほど、潮人らの精神も頑丈ではなかった。

 嵐の収まった神海を見るのが、何故だか数か月ぶりに感じた。横に吹く風雨を眺めながら、実に様々な思いが心をよぎったせいだろうか。ただ今は、嵐も潮人の気迫に吹き飛ばされたように静まり返り、世界は太陽の支配下に置かれていた。

 村民達が全員船に乗り込むのを見届けると、風子が梯子に足をかけながら振り返った。

「いよいよだな、潮人」

「ああ」

 剛雷の輝きに目を(すぼ)めながら、潮人も短く返事を送る。

「ひたってるのか? らしくないな」

「たまにはな」

 こんな風に、肩をすくめながらも潮人の視線を返せずにいる風子を見るのは珍しかった。もしかしたら鯨羅を倒してしまったらもう二度と見ることは出来ないかもしれない。

「びくついてんだよ。なぁ、風子?」

 隆道も船の陰から顔を覗かせた。

「潮人。やっぱこいつはそっちにやってくれ。乙の船は私だけでいい」

「ほざくな怪力馬鹿。そうしたら明らかに戦力がかたよるだろーが」

「そんな変わりゃしないよ。あんた一人ごときで」

 いつものように空気が張り詰める。普段なら溜め息を促すところだったが、何故か今の潮人には心地よい。

「……風子。出航前に九十九戦目だ。鯨羅の前に貴様に一泡吹かせてやんぜ!」

 と、隆道が構えを取ろうとしたそのとき、

「あだっ」

既に乗り込んでいたはずの涼太郎が、慌てて梯子から駆け下り、隆道の頭を小突いた。

「もう、何やってんだよ二人とも! もうすぐ出航なんだよ 喧嘩なら帰ってきてからいくらでもできるだろ」

 またも珍しい光景に潮人は嘆息を飲んだ。涼太郎が口だけでなく、手を上げて隆道を止めるとは。緊張感に潰されそうになる自分に、負けまいとする必死の抵抗なのだろうか。

「リョータ、てめぇ…… ぐはっ」

 涼太郎を睨みつけるその横っ面に、追い打ちのごとく風子の蹴りが入った。

「リョータの言うとおりだ。勝負はこれからいくらでもつけられるだろ。とっとと頭を冷やせ」

 手のひらを返し、風子が戦意喪失を見せた。先程の感傷の陰は既に消えていた。

 帰ってきてから。これからも。

 その二つの言葉が、どれだけ潮人を奮い立たせただろうか。

「風子、涼太郎、それに隆道」

 潮人の声は、あまりにも変わらない、それでいて決意を思わせるものだった。潮人が口元に指を添えると、三人も一瞬顔を見合わせ、意志を汲むように揃って親指の腹を噛み切った。

「絶対…… 生きて還ってくるぞ」

 それは、鯨羅の力を肌で味わった潮人のみ発せられる言葉だった。死を間近に感じる恐怖。神しか住んでいないと思っていた海に巣食う怪物に、命を弄ばれたことのある潮人にしか思いつくことは出来ない。隆道や涼太郎にとっては鯨羅を倒し、無事に帰ってくるのは既に確約されたことなのだ。

 弱気になったわけではない。ただ、あの恐怖を一度でも味わった者には、躊躇いと相対するのは決して避けられないことなのだ。

血に染まった指を合わせると、ようやく潮人の考えが三人にも伝播したようだった。

「俺達は…… 必ず勝つんだ」

「精一杯頑張ろう」

「一世一代の大仕事さ」

 当たり前のように平穏な日々を送る。そのためにこれほどまでの決心が必要だったなんて、幾月前には思いもしなかった。

だが今では、仲間が同じ決意を胸に秘め、共に勝利と生還を誓ってくれた。

 これで乗り越えられない海などない。鎮められぬ嵐など、決してないはずだ。

「幸運を」

 胸の前で無事を祈願する印を組み、いよいよ船に乗り込んだ。

「じゃ」

 涼太郎も振り返ることなく、潮人の後を追った。

「さて、俺らも参りますかね」

 続いて隆道。風子に先を行かれまいと、早足で自らの船に向かった。

「奈美……」

 風子が最後に祈るのは、最愛の妹、奈美に対してだった。奈美の頬にそっと手を添える。

「姉さん……」

「この戦いが終わったら…… そろそろお前も海に出る頃かね」

 来るべき未来を思い浮かべながら、風子は剛雷を担ぎ足を踏み出した。



 頭上に、白く巨大な帆が風を受け棚引いている。凪いでいるはずの海上に、紫苑によって起こされた「才」の風が舞い、三艘もの船の背を休むことなく押し続ける。傍で見守る漣の元に、鳳華が舞い降りた。その足には結われた手紙が風に(なび)いている。

「紫苑。もう少し東寄りだそうです」

「あいつら人を舵かなんかと勘違いしてんじゃないだろうな? 一人で船を動かす身にもなってみろっての」

 紫苑が数珠の構えを変えると、額に吹いていた風が、頬を打ち始めた。軽口を叩く紫苑だったが、額には汗一つかいていない。嵐の後に煌々と輝く太陽を頭上に掲げながらも、だ。

「ちょうどいい。鳳華を使って皆に休憩を促してもらいましょう」

 返事を待たずして、漣は懐から白翁樹(はくおうじゅ)の葉と墨草(すみくさ)の茎を取り出した。筆に墨草の汁を浸し、白く透き通る葉にさらさらと文字を描き出す。

「私も少々、船の揺れに酔ってしまったようでして」

 漣を知悉(ちしつ)する紫苑にとって、見通すまでもなくそれが嘘であることに気づくのは造作もないことだった。海沿いの支那に生まれた漣が船揺れに当てられるわけもない。自分をどこまでも気遣うその忠誠とも優しさとも取れる気遣いが、ただ申し訳もなく、そして鯨羅に立ち向かう今となっては心強くもあった。

「なあ、漣よ」

 鳳華を飛ばす漣の背を見ないようにして紫苑は問う。

「はい? 何でしょう」

「鯨羅を倒したら、まず最初に何をしようか?」

 相好を崩しながらも、紫苑は数珠を握るその手を緩めない。

 先の、潮人らの誓いを目にしながら思ったこと。鯨羅打倒に魂を燃え上がらせるでもなく、ただ空しさだけが紫苑を襲ったこと。

 何のために鯨羅を倒すのか。故郷も愛すべき人もなくした紫苑にあったのは、復讐という名の真理。それに突き動かされていた紫苑は、潮人の覚悟によって葬り去られた。今の紫苑はその暗鬱とした感情で得られるものなど何一つないことがわからないほど、愚かではなくなったのだ。

 ならば、今なお彼の背を押しているのは何か。

 紫舜を守るためか。それなら鯨羅などに怯えずとも良い、山村にでも住を移せばよい。あの強大な化け物に立ち向かうなどという考えに執着するよりも、それは遥かに簡単で安全なはずだろう。

「……そんなの、決まっているじゃないですか」

 そんな紫苑の懊悩(おうのう)を蹴り飛ばすかのように、漣は笑った。

「みんなで釣りに行くんですよ。紫舜様や、日向の皆様と一緒に」 

 ……あぁ、そうか。琳を失った時を同じくして、俺が失ったのは、平穏という、そよ風のような当たり前のことだったのだ。しかし、風を掴むのはこの上なく困難で、だから一層かけがえのないものだということを、俺は知らなかったのだ。

 紫苑が黙っていると、また漣が細く笑みを浮かべる。

「そのときには、奈美さんも呼ばないといけないですね」

「おい。何であいつの名が出る?」

「答えねばなりませんか?」

 今までにも増して、漣のしたり顔が濃くなる。

 こんな漣の笑顔など、見たくない。

「……まぁいい。それよりも航路が外れている。少し東にずれ過ぎだ。直すぞ」

 念を込めると、すぐに数珠が琥珀の光を見せ出した。その光の後ろに奈美の顔がちらついていたことは、絶対に言うもんか。

 紫苑は一人、悟られぬ誓いを立てていた。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 岸を離れ、およそ十刻ほど過ぎた頃。

 その白影は、一瞬にして彼らに戦慄を覚えさせた。

 島と間違えたという最初の犠牲者の話も、あながち嘘ではなかったようだ。ただ、その島は木々の緑に覆われているわけでもなく、貝殻のように白く輝いていた。そしてそれが、紛れもない生物としての呼吸を繰り返している。

 今、少し島が動いただろうか。船の接近を気取られたかもしれない。海に沈んでいるはずの眼光が、三艘の船をそれぞれ襲う。

 伊勢涼太郎は、四肢の力を奪われたようにその場にへたり込んだ。

 周防隆道は、肩に停まる鳳華の喚声と共に、視線に力を乗せていた。

 若狭風子は、口にした草笛を落としながらも、自らの「才」となる剛雷を握りしめ、息を吐いていた。

 天草漣は、やはり黒い光の宿る弓を握りしめながら印を組み、祈っていた。

 播磨紫苑は、身体中の血流を制動しようと腕に力を込めるが、その術もわからず、ただ、手にした琥珀色の光を見つめていた。


 そして、駿河潮人は。


「あと半里」

 片目を瞑り、憎き敵との距離を静かに目算。船は、粛として前進する。

他の者も、緊張に息を呑むのが聞こえた。きっと乙や丙の船も同じことなのだろう。村人達の間には、ざわめきが起こるばかりで、その圧力に負けじと立つのが精一杯だった。

「皆、行くぞ」

 静かな囁きだったが、男達にはわかる。ようやく、父の身体を奪った仇敵に再会したのだ。潮人の怨が痛いほどに空気を伝わる。そして、他の男達も日向の平和を奪われたのだ。復讐の念に駆られて何が悪い?

「綱を」

 その言葉に男達は思い出したように腰に麻の縄を括りつけた。縄のもう片端は船の支柱にあらかじめ結び付けられている。波や船の振動によって、船から振り落とされないための策だった。


「構え」

 潮人は左手を上げ、船上に響く弓の引き絞られる音と同じく、銛を逆手に持つ。


「せいやああ!」

 銛が一筋の風となり、白の影に向かって突き進む。

 様々な思いを載せた潮人の銛。それが今、ようやく宿敵の背にしっかりと突起を作る。鉄で覆った銛が突き刺さらないのではないかという懸念も、杞憂に終わった。

 銛はしっかりと鯨羅の体躯に吸い込まれ、その痕からは赤黒い血が脈々と流れ出した。

 潮人はここで確信する。

 血が出るなら…… 殺せる、と。

 鯨羅がゆっくりと巨体を動かした。

 それが(とき)となり、

「おおおおおおおおぉぉ!!」

 船全体を揺らさんばかりの振動と共に、一斉に銛が、矢が、獲物を前に解き放たれた。

 甲の船に乗り込んだのは三十四名。そのうち一度に攻撃するのは五名ほどだった。最初の五名が銛を投げると、次の五名が入れ替わってまた投げる。また次の五名が投げると、新たな銛の準備する。それを四回繰り返した後には、弓を構えた五名が矢を放つ。

銛の部隊が四、弓部隊が二。それが潮人の乗る甲の船の構成だった。

 鯨羅に攻撃を加えるにあたり、問題となっていたのは距離であった。

 近づき過ぎれば鯨羅の巻き起こす波や渦に巻き込まれ、また遠過ぎれば刃は届かず。最低でも十五丈の間合いに入らねば鯨羅の肌に傷をつけることすら叶わない。

 船を接近させずに鯨羅に近づくにはどうしたらよいか。

 数多くの思案を重ねてきた漣が、造船を目前にした際に出した答え。

 それは船首に取り付けられた吊り橋であった。

 幅は一丈、長さは三丈にもなる足場。それが船の先から長く伸びていた。男達はそこから助走をつけ、銛を投じる。

 結果は、鯨羅の白い背を汚す血流が示していた。

 あとはこの船がどの程度の波に耐えられるか……

 そう思ったとき、鯨羅の鰭が海面から姿を見せた。途端に水平線を歪める大波が船に向かってくる。

「みんな! 掴まれ」

 言うが早いか、船が大きく揺れ出し、船上を一掃するかのような高波が潮人らを洗い流そうとする。男達が悲鳴と共に船を投げ出されるも、船は転覆までに至らない。命綱に吊られた男達は海水を吐き出すと、すぐさま綱を伝い船上に戻る。

「どうした鯨羅! そんな波じゃ俺達は沈まねぇぜ!」

「神海は俺らのものだ」

 それぞれの思いを気勢に変え、男達は再び銛を手にした。

 潮人の胸にも憤然たる思いが沸々と湧き上がる。

 これなら…… やれる! 先の無念を繰り返す真似だけは、絶対にしない!

「潮人! これ」

 皆の覇気に便乗したのか、涼太郎も砕けた腰を何とか立て直し、潮人に銛を手渡した。

「穂先に毒が塗ってある。かなり強烈なやつだから、間違って手を切ったりしないようにね!」

「涼太郎、お前……」

「僕には銛も投げられないし弓も引けないけど…… こういう戦い方だってあるんだ」

 凛々しく、涼太郎が笑ってみせる。

 正直なところ、涼太郎を今回の戦いに連れて行くかどうかは、直前まで迷っていた。漁の時でさえ、魚に銛を突き立てるのに怯えていたくらいだ。今回は命を落とす危険さえもある。無駄な人員は避けたかった。本人の強い意志に触発されながらも、奈美を船に乗せなかった原因はそこにある。無論、風子の強い反対もあったせいだが。

 涼太郎も船に乗せたものの、何も出来ぬまま終わってしまう可能性の方が高いのではないかと思っていた。

しかし。

 日々の漁であれだけ多くの魚を網に収めることができるのは、他でもない涼太郎の知識と技のためではないか。

 銛を振るうだけが戦いではない。漣のように、はたまた涼太郎のように、戦いの準備や補佐をしてくれるのがどれだけ功を為しているか。

 そう思うと、この優しげな瞳と、皆と変わらぬ熱い闘志を持つ涼太郎の姿が何とも頼もしく見えた。

「隆道ぃ! くたばれえぇ!」

 彼方から、風子の雄々しい雄叫びが上がった。同時に、俊足の勢いで剛雷が空を裂く。甲の船から繰り出されるどの銛よりも速く、そして力強い。柄に長い綱が括りつけられているのは、鯨羅に突き刺さった後に引き抜き、再び投じるためだった。剛雷を除いては、他のどんな銛も風子の手には余るのだろう。

 剛雷が鯨羅の横腹に埋まり、ややおいて、

「風子の阿呆ったれええぇぇ!」

 とまた、場違いな気合いと共に矢が放たれた。

「あいつら、どうしてこう緊張感が持てないものか……」

「いいじゃない。あの二人らしくって」

 弓なら日向一だと自称する隆道だけあってか、ここからでも目視出来るほどの太い矢が鯨羅の背に向かう。よほどの剛弓でないと、あれほどの矢は射られないだろう。驚くべきはその矢の間隔。五つ数える間にはもう次の矢が追うように鯨羅に向かい突き進む。

「普段通りの方が、あの二人にとってはきっといいんだよ」

 くすっと笑みを漏らす涼太郎だったが、

「さ、次頼むよ」

「そうだな。こっちも負けてはいられない」

 漁でも狩りでもない、日向の存続を賭けた闘い。そう言ったのは他でもない潮人自身である。気を緩めている暇などない。

 すぐに表情を引き締め、毒の塗られた新たな銛を涼太郎に手渡されたその時だった。

「愚雄緒雄雄大緒!!」

 底知れぬ、地獄の釜に茹った化け物の声が、潮人らの船を揺るがした。どんな動物にも似ても似つかぬ悲鳴。  

 風子の剛雷か、隆道の矢か、涼太郎の毒か、それはわからない。しかしそのいずれかが確実に、鯨羅に苦しみを覚えさせたのだ。

 (おぞま)しいはずの鯨羅の苦悶の叫びが、潮人の勇気にまた炎を宿した。

 今、自分達は鯨羅を追い詰め始めているのだ、と。

「せりゃああああ!」

 また一つ、潮人は銛を打ち込む。その一本一本が、また新たなる薪となり、燃え上がらせる。

「それにしても……」

 攻撃の合間、潮人は丙の船を見やった。

 紫苑と漣は、まだ何の動きも見せていない。甲や乙の動向を見てはいないのか。攻撃の堰はとうに切られたというのに。

出立前の会合での、紫苑のしたり顔を思い出す。

『風が止んだら、俺らは攻撃を開始すると思ってくれ』

あの「才」を持つ紫苑は、一体どのような攻撃をするのか。自信に満ちた紫苑の笑顔を見せつけられただけに、余計に気にかかる。

 潮人はさっと頭を振ると、船縁から助走をつけ数本目の銛を投じようとした。


 が。

 潮人の目が、かっと見開かれる。

 それは本能によるものなのだろうか、それとも先の戦いにおいて鯨羅の変貌を察知する目が養われたためであろうか。

 危険を知らせる鐘が、潮人の脳内に打ち鳴らされる。鯨羅の身体が小刻みに、遠目からでもわかるくらい激しく震えていた。

 何かが、来る。津波でもない、大渦でもない、もっと恐ろしい何かが襲い掛かってくるような……

 思考はそこで中断した。銛を捨てる間も惜しむかのように、

「リョータ! 伏せろ!!」

 潮人は友の腕を掴み、地に組み伏せた。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「始まったか……」

「ええ」

 紫苑は目を閉じ、風の声に耳を傾けるかのように瞑想する。

「紫苑さん。もう他の船は攻撃を始めましたぜ」

「わかっています。皆さん、船倉からあれを持ってきてください」

 紫苑の代わりに漣が応える。

「よし、では動くか」

 紫苑は琥珀の数珠を取り出し、念を込める。途端、周りの風が嘘のように静まり返った。

 これから俺はたった一撃のために全ての力を込める。

 支那の国の人々、父と母、そして琳の仇はこの手で取る。長かった復讐の旅は俺の「才」で終わらせるんだ。

 数珠から黄金とも白色とも取れぬ眩い輝きが発せられた。周りの者は、見慣れている漣でさえもあまりの光量に顔を顰める。

「持って来ましたぜ、漣さん」

 一人の男が声をかける。そこにあったのは、漣の背丈をも遥かに越えるほどの木の柱。いや、よく見るとわずかに湾曲し、それぞれの両端はまた松の幹ほどの太さもある弦で結ばれていた。

 すなわちそれは、

「では皆さん、配置に」

 十人がかりで引く、巨大な弓だった。

 本弭(もとはず)を船板に固定する。帆柱にも末弭(うらはず)を支える部位があった。弓身がしっかりと支えられたのを確認すると、男達は弦を腕にかけ、全体重をかけてそれを引きずる。その腕には、肩までを小手のようなものが覆っている。

「では次に、矢を」

 三人の男が、抱えるように矢を運ぶ。これも常軌を逸した豪壮なものであったが、驚くべきは矢全体が陽の光を反射し、黒く輝いていることであった。

 矢は(やじり)だけでなく、(はず)までかけて鉄で出来ていた。中仕掛で矢を支えるのは不可能なので、筈を床につけ、上空に打つような角度で(つが)える。  

 当然真っ直ぐには飛ばず、放物線を描いた後に鯨羅に突き刺さることとなるが、それでも構わない。たとえ命中精度が落ちようとも、たった 一本、鯨羅の背に柱を突き立てれば良いのだから。

 

 鯨羅を必ず仕留める確証の持てる攻撃が欲しい。

 それは、日向に辿り着く前からの紫苑の悩みだった

 鯨羅にこの「才」は通用するのか。

 自然を操る強大な力を持つ紫苑だったが、試したこともないのでは必勝の策として扱うには及ばない。

 果てしなき思考と試行の末導き出したのは……

 潮人にも隠していた紫苑の策。それは奇しくも武闘祭の決着の瞬間、潮人が雷を躱した際に紫苑の頭に閃かれた。

 銛に雷を打つ。するとその力はどこに向かう?

 あの時のように、宙に浮いた銛なら辺りに放電するしかないだろう。

 だがもしその銛が鯨羅の巨躯に深々と埋もれていたとしたら……?

 鯨羅の細胞の隅々にまで雷を迸らせたとしたら?

 問題はどうやって、そのような銛を打ちつけるか。ある日、漣に思い切って打ち明けると、答えはすぐに返ってきた。

「ならば、私が紫苑の雷を導く柱を鯨羅めに突き立てましょう」

 その日から漣は手がけ始めた。岩をも貫くような強力な矢と、それを放つ巨大な弓とを。それこそ、眠る間も惜しむかのように。

 光明が見えた。無論、試射しないことにはその威力にどれほどの確証も握れないことには変わりない。だが、紫苑の勝算は揺るぎないものへと変わった。それは自分一人ではない、漣と力を合わせた結果故かもしれない。

 潮人と手を取り合い、頼もしい味方となった今でも、やはり全てを託し合えるのは幼き頃から共に歩んできた、漣において他ならなかった。 

「もう少し角度をつけて…… そう、そのくらいです」

 距離を計り、漣が指示を出す。

これが成功すれば…… そう、あの鯨羅でさえも生命の支えを失い、巨体を海の底に沈めることだろう。

 冷静な男として日向の民には知られている漣であったが、このときばかりは高まる興奮を抑えきれず、弓を引く男達に笑顔を仄めかしていた。

 姉を失った悲しみを忘れた日など、一日たりとて忘れたことはなかった。ただそれを感情に出すのは紫苑に任せ、自らはただ合理的に、或いは理知的に行動に表せばよい。もし紫苑があそこまで激情を見せることがなかったら、逆の立場になっていたかもしれない。

 卑怯な男だ、と漣は自らを罵る。感情に任せるのは何とも辛いことなのか。弱き方向に溺れ、そうと知りつつも正しい道に足を踏み出さないその惨苦は、想像を絶することだろう。修羅と化したかつての紫苑の姿がそれを物語っている。

 だがここで、今再び鯨羅と向かって初めて漣は怨と怒りの武者震いを覚える。

 弓の「才」とは、何も梓を操るばかりではない。私とて、朝も夜もお前を倒すことばかりを考えていたのだよ、鯨羅。私の弓と、紫苑の「才」で、貴様を滅ぼすのだ。

 旧友に再会したかのような懐かしささえ感じ、漣もまた、その巨大な弓に想いを馳せる。

 漣はすっと手を天に翳した。同時に、剛弓を振り絞る男達の目にも、緊張が走る。この手が振り下ろされたその瞬間から、紫苑と漣の、復讐の一矢が撃たれるのだ。

「漣。そろそろいいぜ……」

 紫苑が低く唸る。あれだけ眩しかった光も、今は全てが手にした数珠に収束する。代わりに、その光は紫苑の全身を薄く包み込み、紫苑の力の質量を見せつけていた。

 距離と方角とを正確に見定め、今、漣の腕が振り下ろされた。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 最初に銛を投げたのは隆道だった。

「待ってたぜ! この時をよおぉぉ!!」

 潮人の船が攻撃を始めたと同時に、隆道は腰に携えた銛を構え、渾身の力と共に宙へ放つ。それに(なら)い、男達も次々と咆哮に船を響かせながら船首に駆けた。

「でりゃあ!」

 そんな全ての雄叫びを打ち消さんとする怒声を上げ、隆道を蹴り上げたのは風子だった。

「ぶ、わっぷ……」

「馬鹿! 投げるのは五人ずつだって決めてただろ!」

 風子が一喝すると、皆一様に静まり風子を見る。

「すまねぇ。若狭の…… つい勢いが……」

「ほら、わかったらさっさと銛を拾いな! 潮人らはもうとっくに始めてるよ」

 気勢を削いだとしても、せっかくの闘志に水をかけるような真似はしない。風子は一瞬微笑んで見せると、

「よし、それじゃ一班! 行きな」

 風子が海原に浮かぶ憎き背を指すと、先程以上の気合いと共に男が五人、銛を投じた。一本は狙いが外れ彼方に飛んで行ってしまったものの、残りは全て鯨羅の肉を食い破り、傷を負わせた。

「一班下がって! 次は二班、用意はいい?」

「おぅ!」

 次の五人も待ち兼ねたと言わんばかりに応じ、船首へ向かって駆けて行く。

「ん…… ぎ、ぎぎ……」

「ふぅ。ようやく目が覚めたの?」

 隆道が顎をさすりながらよろめき立つ。

「てめぇ…… こんな時に本気でやりやがって……」

「あんたこそ、本気でそんな世迷言を言ってるの?」

 返す風子の目は、真剣だ。

「私たちが真っ先に統率を乱してどうするの? 今回はいつもの漁じゃないんだよ」

「ちっ……」

 風子が正しいことを察したのか、目を逸らしながら隆道は毒づいた。



 そう、いつも俺はこの女には敵わない。

 物心ついた頃から、俺は風子の背を見てきた。村のどの男よりも強く、堂に入ったこの女が…… 俺は気に食わなかった。潮人に助けられても、涼太郎に手を借りたとしても構わない。俺が奴らの助けとなり得る機会も少なくなかったから。その度に二人は肩を叩き、笑ってくれるから。

 しかし風子は、風子だけは。

 いつも俺を足蹴にしたような目で俺を見やがる。

 風のように揺蕩(たゆた)うその手を掴むことはないのだろうか。

「隆道」

 風子が眼前に立つ。珍しく、俺の目をしっかりと見据えながら。

「……何だよ」

「あんたもさっさと弓持ってきな」

 隆道はまた、唇を噛む。

「言ったろ? 漁じゃないんだから、あんたがいないと勝てないっての」

 

 あぁ。やはり、風子には一生かかっても勝てる気がしない。


「四班が終わったら、私達も行くよ」

 風子は剛雷を担ぎ、目を閉じる。一時の精神集中。

「ちっ…… しゃーねーなぁ……」

 普段は決して負けを認めない隆道であったが、唾を吐きながらも風子に従うのは、やはりそれなりの緊迫がその身に振り注いでいる証。

 隆道も船首から伸びる吊り橋に立ち、弓を構える。帆柱では鳳華が二人を見守りながら、羽を休めていた。

 男達もまた静かにその姿を見やっていた。

 大気が動き、風子の周りに陽炎のような空気の揺動が生じる。わずかに聞こえる呼吸音すらも、神海全体を圧する楽器となりそうで。

 その横に立つ隆道にも眼差しは向けられた。

 あの風子の隣で弓を引く。慣れない者にはそれだけでも想像に絶する行為であった。その凛々しさには優雅の極みさえ感じられる。弓の腕なら潮人や風子を差し置き、日向一だと豪語するだけのことはある。誰もがそう思った。

 風子の目が開いた。目指すは巨大な怪物の命。

 船板を蹴り、風子が駆けた。迅雷が唸り、尾を(なび)かせながら全てを貫く雷が発せられる。

「隆道ぃ! くたばれえぇ!」

 ……豪快な掛け声と共に。

「ぶっ」 

 剛雷と共に隆道の放った矢は当然目標を逸れ、運の悪い魚を一匹仕留めるだけの結果に終わった。対する剛雷は鯨羅の横腹に、最も巨大な穴を穿つこととなった。

「よし、命中!」

「風子おぉ!」

「ったく何だよ、やかましい奴だなぁ」

 風子はさも面倒くさそうに隆道を見る。

「んだよ さっきのは」

「あ? 単なる掛け声だって。ほら、早くお前も行けよ。後が支えるんだから」

 風子は剛雷を引き戻すべく、綱を引っ張る。

「ん…… ぎぎぎ……」

 隆道は歯を砕かんばかりに食いしばり、再び弓を引く。最早先の優雅さなど微塵も残っていない。鳳華も痛々しそうに首を振る。

「風子の阿呆ったれええぇぇ!」

 今度は狙いを外さない。矢は真っ直ぐに飛んでいき、剛雷の隣に深々と傷を負わせることとなった。それだけでは終わらない。すぐさま次の矢を放ち、鳳華が一声上げる。その鳴声が終わる頃にはすでに、四本の矢が鯨羅の腹を食い破っていた。

「うっし! 見たか風…… 子?」

 振り返る隆道だったが、すぐに風子の異変に気づく。

「鯨羅が……」

 どんなに銛を突き立てられても、どんなに矢を穿たれても身動きしなかった鯨羅の巨体が、わずかに揺らめく。

 そして、

「愚雄緒雄雄大緒!!」

 鯨羅の、全てを轟かす悲鳴が撒き散らされた。

「おっしゃ! 見たかよ風子!? 俺らの攻撃は効いてるぜ!」

「あぁ。このままいけば…… 鯨羅を殺れる!」

 風子は嬉々としてなおも剛雷の縄を引き続ける。早く次の攻撃をしたいのに。剛雷によって開けられた風穴に、海水を染み込ませてやりたいのに。

 どのくらい経っただろうか。鯨羅の身体に数百本もの矢と銛が打ち込まれたであろうそのとき、

「風が……」

 辺りを包む大気の流れが急変した。風子らもまた、得意げに語っていた紫苑の宣言を思い出していた。

「もうトドメに入るか。過ぎてみるとあっけないもんだな」

 隆道の言葉は、そのまま仲間への信頼を示す。

「紫苑か、はたまた漣のやつか…… 今まで大人しくしてたぐらいだからな。どんな手を見せてくれるんだか」

 舌なめずりをし、風子は甲板から身を乗り出した。遠目からでもよくわかる。弩弓だ。剛雷を二回りも大きくした巨大な矢が、いや、矢と呼ぶのも正確ではないだろう。丸太ほどもある鉄の塊が、船上狭しと鎮座する弩弓に装填されていた。

「本気かよ。漣のやつ……」

「あんなの打ち込んだら…… 風穴どころじゃ済まないぞ」

 見たこともない異邦人の「才」が、今ここで初めて白日に晒される。弓を「才」とする漣の知恵は、そこにいる日向の者の、誰の想像をも凌駕していた。きりきりと、弦を引き絞る音がすぐそばで鳴っているかのようで、隆道は興奮を覚えずにはいられなかった。男達もまた、今か今かと、鉄柱の放たれるその瞬間を待ちわびる。



 そのせいだろうか。

 誰も、鯨羅の新たなる異変に気づかなかったのは。

 遠く、甲の船では今まさに潮人が涼太郎と共に身を屈めていたが、隆道も、風子も、日向や陸奥の者たちも、それに気づくことはなかった。

 鯨羅は全身の力を振り絞ると、背に、鰭に、尾に突き刺さっていた異物を、放った船へ送り返すかのように一気に噴出した。筋肉の収縮を利用したのか、神たるその身には人間の理解を超えるような力が備わっているのか。そんなことは、誰一人知る由もない。

 わかっているのは、

「ぎゃああああ!!」

 仲間の悲鳴と共に、何十もの矢や銛が、横殴りの風雨の如し吹きつけている、その事実だった。

「なっ」

「銛が、返されてる?」

 船員の大半は、それすらも気づかずに今しがた放った銛に射抜かれるばかりであった。運の悪い者は心臓や眉間を貫かれ即死。致命傷を避けられた者も次々と海に落ち、命綱を伝う力も失われ、海に浸りながらもがき苦しむ。

 銛が襲うのは、村人だけではなかった。鉄で補強された銛は帆柱を削り、その欠片が頭上から降り注いでくる。海面に沿うかのように飛来した矢は、船体を貫通し、海底に突き刺さるまでその突進を止めない。それほどまでに鯨羅の放つ銛は疾風の如く滑空していた。

「くっ……」

 間一髪、風子と隆道は船室の陰に隠れ、矢をやり過ごす。

「おい! 一体どうなってんだよこれ」

「私が知るわけないだろ! わかってんのは、鯨羅のやつがやってくれたってことだけだよ!!」

 喋る間にも、風子の頭上から木片が降ってくる。

 鯨羅に打ち込んだ矢や銛も無限なわけではない。それが尽きるまで何とかやり過ごし、また剛雷を引き寄せたいところだが、

「その前に船がぶっ壊れちまうぜ!」

 考えを読んだかのように隆道が叫ぶ。既に船内に海水が浸水し始めているのだろうか。船は先程にはない不規則な揺れを見せ始めた。

「失敗…… か」

 風子は冷静に状況を分析する。

 もしこの矢雨が止んだとしても、先程までの攻撃を再開するのは不可能かつ無意味な行為だった。ならば緊急用の小舟を出し、生き残った者だけで退却するしかない。勝敗のついた戦いを続けるのは愚か者のすることである。隆道には何度もその言葉を投げかけてきたはずだった。

 が、やはり風子も若さゆえか。

「このまま何もしないで引き下がるってのもねぇ」

 風子の心には、先の戦いでの潮人と同じ感情が芽生え始めていた。ようやく剛雷を引き戻した頃、風子の瞳に鈍い光が宿る。

 もし逃げ帰ったとしても、鯨羅には何度でも立ち向かってやる。それは風子だけではない、日向の村民共通の意思であろう。しかし、同じ(てつ)は二度と踏めない。

「飛び道具が駄目なら…… 直接やるしかない、か」

 船からの攻撃が無力になるのだとしたら、空から直接剛雷で叩く。それ以外に、今の風子には鯨羅を打ち滅ぼす術が浮かんでこなかった。

「なーに。普段の漁と変わりゃしないさ」

 鳳華を使い、単身、鯨羅の上から降下。全精力でもって剛雷の一撃を叩き込む。

 それで仕留められぬ獲物など、この世に存在するわけはない。例え相手が鯨羅であったとしても。

 猛る気持ちが、風子を駆り立てる。風子は陰から顔を覗かせ、様子を伺う。


 それが、冷静さと合理性を兼ね備える風子の、最大の失敗となった。


 矢は、まさに目にも止まらぬ速さで向かってくる。

 最初、風子の目には、それはただの銀色の点に映った。視界の中心に、その矢はまさに一直線に飛んできたのだろう。

 矢の速度は、風子の人並み外れた反射神経と判断力をも超える。

 咄嗟に風子は左手で顔を庇い、目を閉じる。

「風子!」

 しかし、翳した手も、薄い瞼も、隆道の悲痛な叫びも、矢の進行を止めることは出来ない。

「ああああああああああ!」


 風子の視覚が、激痛と共に半減した。


「風子おおおぉぉぉ!!」

 隆道の見た風子の顔には、一本の矢が、屹立していた。

「風子おおお」

「馬鹿っ、来るな!」

 駆け寄る隆道。しかし、それは戦の中ではあまりにも愚かな行動であった。

「大丈夫か? ふぅ…… ごばっ……」

「隆、み……ち……?」

 風子を抱きかかえた瞬間、隆道の身体が跳ね上がる。

「ぐっ…… やりやがっ…… たな…… 鯨羅」

 隆道は、自らの背を覗き込んだ。いや、そうせずともわかる熱い感触が、背を通しまるで全身にまで広がっていくようだった。

 隆道の背にも矢が立つ。それは、隆道の引き締まった体躯を表すような、細い、細い矢だった。

 血に染まった風子の視界に、苦痛に歪んだ隆道の顔がかろうじて映った。

「ちっ…… ついてねぇ…… な」

 風子を腕に収めたまま、隆道はどっと倒れこむ。

 次の瞬間、鯨羅のもとに白色の光が迸る。

 それは、紫苑の力の全てを振り絞った、凶猛なる雷だった。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 琥珀の数珠がぼんやりと光る。ここまで自らの力をこの数珠に託したことはなかった。視界がぼんやりとして、立っているのも辛い。このままだと俺の生命までもが吸い取られてしまうのではないかと思う。

 まぁ、しかしそれもいいか。鯨羅を打ち滅ぼすためならば、惜しくはない。

 もうすぐ、漣が鯨羅に矢を突き立ててくれる。俺の雷を誘う、巨大な鉄柱だ。それに俺の「才」を叩き込んでしまえば…… 全ては終わる。

 紫舜の住む世界に、平和が戻ってくるんだ。

 頭痛がする。……まだか? 漣。早く矢を撃ってくれ。早く、俺の「才」を解き放たせてくれ。

「危ない紫苑! 避けてください」

 悲痛な漣の叫び。打ち合わせていた合図とは違っていたその声。さらに船員達のどよめきと小さな驚嘆が、おぼろげになった紫苑の耳に届く。

 そして、

「紫苑!!」

「ぐはっ……」

 鯨羅が放った銛は、紫苑の胸に穴を穿ち、肉を開け、骨を砕き、背を破り、命を襲った。

 漣は、その一部始終を見てしまった。紫苑の膝が折れ、喀血(かっけつ)し、胸からもわずかに血の雫を零し、ゆっくりと崩れ落ちる、その様を。

 周囲から次々と悲鳴が湧き上がる。鯨羅のいる海の方角から、無数の銛と矢が飛んできた。

 弩弓の矢が放たれた。しかし、不完全に引かれたままで発射されたその矢は、あらぬ方向に飛んでいき、海底に巨大な一本の柱を建てるに終わった。

「ぎゃああああ!」

 男達は状況も察せぬまま、一人、また一人と矢に貫かれていく。それが、仲間たちの放った矢であるという皮肉には、誰一人気づく暇さえなかった。

「紫苑!」

 漣は紫苑の身体を抱きかかえると、素早く船室の陰に身を隠す。

「う……ぁ……は……」

 紫苑の胸を貫いた古ぼけた銛は、心臓をも傷つけ、数多くの器官を(ことごと)く死滅させていた。医術の知識などない漣であったが、紫苑の苦しみに満ちた形相から、傷の深さを伺い知るのは造作もなかった。

「こんな…… なんて惨い……」

 そして、紫苑自身も自らの惨状を悟る。

「ぐっ…… 漣よ……」

 絶え絶えの息で、紫苑は必死に言葉を紡ぐ。

「はい、なんでしょう紫苑……?」

「数珠は…… どうなっ…… ている……?」

 紫苑の言葉に、はっと気づいたように漣は辺りを見回した。甲板の隅に転がる数珠は、いまだ黄金の光を放ち続けていた。

「……まだ、輝きは失われていません」

「すまんが漣よ。数珠を…… ごぼっ…… 持ってきてくれないか」

 大量の血と共に紫苑は頭を下げた。

「な、何を……」

「まだ俺の『才』は、終わってない」

 意志の宿る瞳で、自らの命を顧みることなく紫苑はそう言った。

「馬鹿な…… 何を言ってるんですか!? どんな傷を負ったかわからないのですか? 紫苑はもう一歩たりとも動いてはいけません! 『才』を使うなどもってのほかです!! あとは駿河殿達に任せておけば良いのです!」

「漣、まさかそんな説得で、俺が本当に…… 思いとどまるなどと…… 思っているわけではなかろう…… な?」

 またしても、漣は何かに打ちのめされたように目を見開く。

「覚えているな? 漣。あの日から俺は…… 鯨羅を倒すためだけに生きてきた…… そして潮人に出会い、命を賭けると誓った……」

 漣はただ黙って聞いていた。

「お前と紫舜以外に…… 初めて…… 大切な仲間だと思えた…… 潮人と、そして奈美…… 少しばかりの時間だったが…… 琳が帰ってきたような気がした……」

「私も…… 同じ気持ちです……」

「そんな奴らに、これ以上負担をかけさせるわけにはいくまい…… なら……」

 紫苑は壁に手をつき、立ち上がる。


「死ぬのは俺と、鯨羅だけでいい」

 今再び、紫苑の中の修羅が牙を剥く。


 漣は諦観した。もうこの男を止める術はない。

 ならば友として、生まれた時から付き従ってきた従者として、主の最後の想いを叶えさせよう。

「わかりました」

 紫苑を後ろ目に、漣は甲板を覗き込んだ。矢が飛ぶ中、身を屈め、数珠を取ると再び紫苑の元へ戻る。

「持って来ましたよ、紫苑」

「……どこだ?」

 目の前に漣がいるにもかかわらず、紫苑は遥か彼方の神海に目をやった。出血のせいか、紫苑の目にはもう何も映ってはいなかった。

「紫苑……」

 見当違いの方に手を伸ばす紫苑の姿に、とうとう漣は涙を流した。声には漏らさず、紫苑に数珠を渡す。

「すまない、な……」

 かろうじてまだ光を灯している数珠を握り締め、紫苑は念を込めた。

「紫苑……」

 漣が寂しそうに呟く。

「紫舜様は…… 悲しむと思います」

 漣の、最後の悪あがき。

「紫舜様は…… あなたの帰りを誰よりも信じ、今も待っています。なのに、あなたがここで死んでしまったら…… 私に、紫舜様のその涙を一人で抱えろというのですか?」

 卑怯かとも思った。紫舜の名を出せば必ず、紫苑は躊躇する。結果的には紫苑の苦しむ時間を長引かせるだけかもしれない。それでも、紫苑は止めたかった。それほどまでに、紫苑を慕い、いつまでも共に歩んで行きたかった。

「もう、俺の兄としての役割は終わったよ……」

 優しく、あまりにも優しく紫苑が微笑んだ。

「今は…… 紫舜にも仲間がいる…… お前や、潮人、渚、奈美…… きっと紫舜は強く生きて…… ゆけ…… る」

 息が途切れ出した。今度こそ漣に打つ術はなくなった。

 紫苑の数珠に再度、光が集まりだした。大量の血を浴び、その光もまた紅く輝いているような気がした。

「漣…… 鯨羅の位置と、方角を…… 教え……」

 涙に霞む眼で、漣はその憎き白い背を睨みつけた。そして紫苑の身体もその方角に向け、支える。

「……目標は東。距離は十八」

「すまない……」

 それだけを言い残し、紫苑は鯨羅のいる海を睨めつける。

「鯨羅ああああぁぁぁ 貴様を追い続けて生を費やしたこの播磨紫苑の一世一代の『才』、とくとその身に味わええぇぇ!!」

 呼応するかのようにまた、二筋の矢が紫苑を捕らえた。

 喉と、右脚に、深々と。

「ごぼっ……」

「紫苑!」

 紫苑は屈しない。たとえ琥珀の数珠が深紅にまで染まろうと。

 最後の「才」が始まり、瞳孔が次第に拡大していく。

 使命を終えた瞳であっても、命の輝きはそこに表れる。

 数珠の帯びるわずかな熱だけが、紫苑に自分が生きていることを伝えた。

 

 目が見えない、とはこれほどまでの恐怖だったのか。

 五感を失いつつある紫苑の脳裏に過ぎるのは、そんなことだった。

 紫舜は、こんな恐怖の世界にずっと住んでいた。

 俺は少しでも、紫舜の光になれていただろうか。

 少しでも、妹の笑顔を照らすことが出来たのだろうか。

 

 修羅と化しながらも、兄は神海に住むと言われる神に、祈りを捧げた。

 願わくば、どうかこの雷光が、妹の目にも止まりますように。


 遠く離れた日向の村。

 見えないはずの眼で神海を眺める少女。

 一条の光が空を(つや)めかせたとき、少女は涙と共に呟いた。



「さよなら、兄様……」

 


 鮮やかなる光彩が辺りを包んだ。まるで千年樹を思わせるほどの太い豪胆な雷が、鯨羅の背に吸い込まれるように打ちつけられた。

 きっと鯨羅も壮絶な怒号を発しているに違いないが、それすらも掻き消す轟音が、辺りに鳴り響く。遥か神海の果てにまで届いたことだろう。


 そして、天に住む、天草琳の元へも。


挿絵(By みてみん)


「紫苑……!!」

 漣は崩れ行く紫苑の身体をしっかりと支えた。手にした数珠は最早わずかな光しか残されていない。まるで、紫苑の余命をそのまま灯し出しているかのように。

「紫苑! しっかりしてください」

「漣…… 鯨羅は…… どうなった?」

 紫苑は咳き込むばかりで、血すらも吐かなくなっていた。身体中の血液を、全て「才」に変えたのかと疑うほどに。

 漣は神海を見た。先程まで鯨羅が浮かんでいたその海には…… もうその背を見つけることはない。

 ついに、鯨羅を仕留めた。

 命を賭けた紫苑の「才」によって、憎き悪魔はとうとうその身を海の底深くに沈めたのだ。

 そう思った矢先。

 漣は思わず目を疑った。

 海面が盛り上がり、巨大な山が(そび)え立つ。その山に押された海水が津波となり、船を襲う。

「ぐっ……」

 船を沈めることさえなかったものの、次に漣が見たものはさらなる衝撃を漣に与えた。

「あ、あっ……」

 波が引き、その跡にあったものは先と変わらぬ鯨羅の巨大な鰭、尾、頭。

 雷が降り注ぐ直前、鯨羅は海中に自ら潜った。雷は海水を満遍なく渡り、無論鯨羅にも注がれたものの、辺り四方に分散されたその力は鯨羅を打ち滅ぼすまでに至らなかったのだ。

「なぁ…… 教えてくれ…… もう何も見えない…… 鯨羅は、滅んだの…… か?」

 漣は神を呪う。この事実を、紫苑に伝えるその役を背負わせたことに。

 紫苑のしてきたことは全て、無駄だったという残酷なまでの真実を、今ここで、紫苑に話さねばならないというのか……!

 いや、決して無駄ではない。短い思案の後、漣はそう思い直すことにした。紫苑は、今ここで幸福な死を迎えるために、今まで生きてきた。 

そうでないと、本当に神なんて信じることが出来ない。

 漣は、溢れる涙を押さえ、言った。

「えぇ。仕留めましたよ。鯨羅は神海に沈み、もう浮かんでは来ません」

 それは、初めて紫苑に吐いた嘘。

「そうか…… ありがとう」

 紫苑の口から告げられるは、短い謝辞だった。復讐の念から解き放たれたことが、まるで漣のおかげであるかのように。

「漣よ…… 最後……の頼みだ……」

 紫苑は数珠を掲げ、途切れる声を振り絞る。

「この数珠を…… 俺の『才』を…… に…… 託し……」

 漣は数珠を手にし、やはり涙に途切れがちな声を懸命に絞り出した。

「はい…… わかり…… ました」

「参ったな…… もう、これで本当に…… 思い残すことがない……」

 いや、最後に紫舜の顔を見れなかったのが唯一の未練か。

 

 紫苑は空を仰いだ。

 身を挺して過ちに気づかせてくれた、潮人の顔が浮かぶ。

 生まれたときから、同じ道を歩んでくれた漣の顔が浮かぶ。

 不器用ながらも、ほんのわずかに心を開いてくれた奈美の顔が浮かぶ。

 生涯で唯一愛した、琳の顔が浮かぶ。

 そして、

 失われた視界の向こうには青い空。

 その先には、誰よりも何よりも守りたかった、紫舜の顔が浮かぶ。

 何処までも深く続く空に、紫苑は手を伸ばした。

 瞼に浮かんだ幻の中で、紫苑は最愛の妹を抱きしめた。

 妹は何も言わずに笑って、その身を委ねてきてくれる。


 こんな死に方なら、

 ふっ、悪くないかもな。


 紫苑はようやく修羅としての仮面を外し、微笑んだ。

 これが、故郷と、愛する人を奪われ、最後まで妹を愛した男の終焉だった。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 顔を上げ、潮人は辺りを見回した。もう矢も銛も飛んではこない。さすがに打ち尽くしたか。

 先の激しい雷光を思い返す。あれは紛れもなく紫苑の「才」によるものだった。しかし、憎き鯨羅はまだ神海を我が物だと言い張るように鎮座している。

 ぎりっ、と潮人の歯が鳴った。

「くっ…… な、何が起きたの?」

 涼太郎も恐る恐る目を開く。が、

「な…… 何これ?」

 辺りの惨状に、涼太郎は思わず口元を覆った。

 船の壁に、銛で身体を撃ち止められている者。

 顔半分がなくなっている者。

 船縁から、命綱に逆さ吊りにされている者。

 まさに鯨羅の描き出した地獄絵図だった。

「お、おぅ…… っぷ」

 船から顔を出し、たまらず涼太郎は嘔吐した。

「げほっ…… ど、どうなってるの、これ」

「リョータ」

「な、何?」

「気分が落ち着いたら、命綱に引っかかってる人を引き上げよう。まだ生き残っている人もいるはず」

 それだけを言い、潮人は手近な綱を引っ張った。大半は既に絶命しているか、陽が落ちる前に達しそうな有様であったが、なんとか息のある者もいたのがせめてもの救いか。

 死体を船の隅に並べる頃には、涼太郎も手を貸し、麻布をかけていった。

潮人は改めて涼太郎に向き直る。

「……俺たちの負けだ。またしても」

「なっ」

 涼太郎は、とうとう自分の耳がおかしくなったと思った。潮人が弱音を吐くなんて有り得ない。

「そんな…… どうして?」

「見ただろ? 銛も矢も効かない。効かないわけじゃないだろうが、全て跳ね返される。それを防ぐ手立てがない今、これ以上の攻撃は無意味だ」

 冷淡に事実だけを告げる潮人の声が、涼太郎の神経を無常にも撫で回す。

「そんな…… だって、これだけ頑張っているんだよ? 今だって鯨羅を追い詰めているかもしれないんだよ? もう少しで鯨羅を倒せるかもしれないじゃないか!」

 血気に早まるのは、鯨羅に相対した者の共通の症状なのだろうか。あの怪物は、ここまで人の心を狂わせるものなのだろうか。

「紫苑の雷を見ただろう? それでも鯨羅は倒せなかった。それが現状なんだよ」

 残酷な光景から目を背けずに対峙するのに、これほどまでの勇気がいるとは思わなかった。

「わかってるよ…… そんなの……」

 涼太郎はついに、涙を零す。

「でも、みんな…… これだけ頑張ってきたのに…… 何日もかけて船を作って、作戦立てて、銛を作り直して……」

「それでも、力が足りなかったんだ」

「う、うわあああ……」

 涼太郎がその場で泣き崩れた。潮人は軽く一瞥すると、他の船を見やった。

 風子と隆道、それに紫苑や漣はどうしているだろう。出来れば連絡を取り、退却を促したいのだが。

「駿河様ぁ……」

 遠くから声がする。見ると、こちらに近づいてくる幾艘(いくそう)かの小舟姿があった。

「あれは…… 漣」

 漣と、何人かの男達が沈痛な面持ちで潮人を見上げている。

不思議に思ったのは、紫苑が傍にいないことだった。

「漣。無事だったか?」

「えぇ。話があります。とりあえずそちらの船に」

 潮人は縄梯子(なわばしご)を下ろすと、漣を迎える。

「手を」

「ありがとうございます。ですが先にこちらを……」

 言って漣は、肩に担いだ布包みを託そうとする。人の大きさほどもあるそれは血が滲み、ずしりと潮人の腕に沈んだ。

 続いて、漣や他の男達も船に上がる。

「漣、こいつは……」

 問いかけるも、漣は長い髪に顔を隠し、語ろうとはしない。

 血に塗れた船上を見ても、漣は驚こうとはしなかった。それだけで、丙の船にも何が起こったか、察することが出来た。

 ややあって、漣は重い口を開く。

「丙の船はほぼ全滅。生き残った者だけでこちらの船に移って参りました。全員を弔うことも出来ず、申し訳ございません……」

 やはり。鯨羅の反撃は、どの船も均等に襲い掛かったらしい。漣の他数名の手負いの男達は、傷の深い者から涼太郎の薬草を身に当てている。

「漣。紫苑は一体……」

 聞かずにはいられなかった。それは、潮人自身、事実を認めたくなかったせいかもしれない。

 漣は傍らにある布包みに目を流し、言った。

「紫苑は、鯨羅めに討たれた後、『才』に全ての力を込め……」

 潮人は、先の巨大な雷を思い起こす。あれが紫苑の、最後の命の(きらめ)き。

「名誉の戦死を遂げました」

 何も言わず、潮人は布をめくる。

「紫苑……」

 安らかな顔。短い間ではあったが、同じ志を胸にし、共に戦った友の死に顔は、今までに見せたこともないような静かな微笑みであった。

 潮人は親指を噛み切ると口に添え、紫苑の顔を引き寄せた。

 唇にて伝う、別れの「血束」であった。

 鯨羅という憎むべく因縁に引きつけられたが、それでもこの出会いに感謝したい。これほどまでに頼れる男に、俺は出会ったことはなかった。  そんな男と共に生きてきたことを、そして涅槃(ねはん)への旅立ちを見送るその運命を受け入れ、紫苑の命を背負いながらこれからを生きてゆこう。

 唇を離すと、続いて涼太郎も同じ別れの「血束」を交わす。

「ありがとうございます、お二方とも」

「先ほどから礼を言ってばかりだな、漣」

「そう…… ですね」

 これで少しは漣の無念を晴らせればいいが、と潮人は思う。

 紫苑の遺体を戻し、潮人は改めて漣に向き直った。

「さて、これからの動向なんだが……」

「わかっております。引き返すのでしょう?」

「なっ」

 その言葉に驚いたのは、涼太郎だけだった。

「そんな…… どうして?」

「これ以上戦っても、無益です」

 きっと涼太郎は、漣は紫苑の無念を引き継ぎ、最後まで戦い抜くと思っていたのだろう。だがそこにいたのは、戦況を冷静に分析し、冷徹な決断を下す一人の軍師だった。涼太郎は悔しさからか、目を背け、

「……怪我人の手当てをしてくる」

 言い残し、背を向けた。

「大丈夫でしょうか、涼太郎殿」

「思い悩むのは後回しだ。とりあえず、漣だけでも生き残っていてくれて良かった」

「ですが、乙の船の様子が伺えません。私も、先に近かったこちらの船に向かったので……」

「隆道がいるから、何かあれば鳳華で連絡をよこすとは思うのだが……」

 鳳華も無事ならば、とはあえて言わなかった。

 船がぐらつく。恐らくは返された銛の数本が船体に穴を開け、海水の浸入を許しているのだろう。そう長くは持たないかもしれない。

 潮人は今一度、鯨羅を見やった。幸いもう攻撃の意思はないのか、津波を起こしてくることもなかった。それどころか、こちらに尾を向け、逃げ帰ろうとしているようにも見える。

「では、私が乙の様子を見てきましょう」

「だが漣、お前も……」

「いえ、私は大丈夫です。それに、この船が沈みますと巨大な渦が発生し、小舟で戻ろうにも飲み込まれてしまうでしょう」

 時は一刻をも争う。潮人もそれは感じていたことだった。

「すまないが漣、頼めるか?」

「えぇ、辿り着いたらすぐに連絡を……」

 と、漣が縄梯子を降りようとしたそのときだった。

「待て! あれは……」

 ちょうど乙の船の上空に、一つの鳥影が羽ばたいているのが見えた。

「あれは…… 鳳華?」

 この距離からも見える黒い鳥。よろよろとふらついてはいるが、空を飛んでいる。

「隆道からの伝言か?」

「無駄足にならずに済みましたね」

 だが引っ掛かる。どうもこちらに向かっているように思えない。それどころか、一直線に鯨羅の方に向かっているように感じる。

 潮人の胸が、急にざわざわと騒ぎ始める。目を凝らしてみると、鳳華の足には二つの人影。その片方は、長い槍を手にしていた。

「あれは…… まさか……」

 最悪の事態が、潮人の頭をよぎった。

「まさかお前ら…… やめろ! 風子! 隆道いぃぃ!!」

 これ以上仲間を失いたくない。命を捨てるような真似はするな!

 しかし、潮人の声は届かない。鳳華の影は少しずつ小さくなっていた。

 それが鯨羅の真上にまで差し掛かったとき。

 二つの人影が鳳華の足から放たれた。

 一瞬の静寂の後、


 巨大な、雷を思わせる水柱が神海の真ん中に(そび)え立った。



        ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 隆道は目を見張った。

 紫苑の雷に撃たれたにも関わらず、鯨羅はまだその姿を海上に曝け出していた。

「打つ手なし、か…… ごはっ……」

 脳髄まで痺れるような鋭い痛みが、隆道を刺激する。こんな細い矢で膝を屈する自分が恨めしくてたまらなかった。

 鳳華が傍に寄ってくる。その眼力からか、身のこなしからか、矢と銛の雨を潜り抜け奇跡的にも無傷でその羽を広げている。

「無事だったんだな…… お前だけでも…… 生きてて良かった……」

 自らの言葉に、隆道は再度涙を呑む。

 船上で息をしているのは、隆道と風子、そして鳳華だけだった。鯨羅との距離が最も近かったせいか、乙の船はまともに鯨羅からの洗礼を浴び、崩壊していた。血と脳漿と死体の撒き散らされる中、隆道は柱に手をつき立ち上がる。

「潮人に…… 伝えねぇと……」

 呟いて隆道は筆を手にしようとする。助けを乞うつもりだった。甲の船もただでは済んでいないだろうが、この船よりかはましだろう。これ以上の悲劇が他でも起こっているなどとは思いたくもない。

「隆道」

 風子が隆道の手を取る。

「待て」

「風子…… すまねえな。助けてやれなくてよ……」

「馬鹿。怪我なら隆道の方が重症でしょ?」

「大したことねえよ。いつものお前の一撃の方がよっぽど堪えるっての」

 血に染まりながらも、隆道は笑ってみせる。

「けど、お前は…… 目が……」

 風子の顔には、まだ一筋の矢が立っていた。

「これ? こんなの……」

 そう言って、風子は矢を掴む。そして

「風子」

「くっ…… あああああああ」

 一息入れたかと思うと、勢いよく矢を抜いた。細い血の橋が宙に架かり、光を跳ね隆道の顔にも降り注いだ。

「怪我のうちに入らないわ」

 ぞくり、と隆道の背が凍った。

「そんなことより隆道、お願いがあるんだけど」

「な、何だ?」

 己の目から光を奪った矢を『そんなこと』呼ばわりしながら、風子は言った。

「鳳華を貸して欲しいんだけど」

「は?」

「鳳華を使って、上空から鯨羅を仕留めるわ」

「な……」

 一瞬、目の前の女が何を言っているかわからなかった。しかし隆道がそれを考える前に、風子の言葉は続く。

「隆道も見たでしょ? 紫苑の『才』も鯨羅には通じなかった。かといって普通の銛や矢は何本打ってもこの有り様。それなら……」

 ようやく、風子の考えが読めた。まだこの女の闘志は損なわれてはいない。

「私が剛雷で、叩くしかないでしょ」

 風子は朱に染まる瞳で、鯨羅を見つめた。その視界とは裏腹に、白く輝く憎き背。それを深紅に染め上げるまで、風子の戦いは終わらないのだと、隆道は暗に悟った。


 やはり、風子には敵わない。


「ふっ…… ふはははは」

 隆道は笑った。傷に障ったが、痛みなどもう感じないほど愉快で仕方なかった。

「なにあんた、ついに気が触れたの?」

「そうじゃねぇよ。やっぱり、お前は食えないやつだなって思っただけだ」

「あんたにまで言われるとはね」

 何かが吹っ切れたような気がする。風子と一緒なら、何も怖くない。

 そう、たとえ死ぬことになっても。

「それで、勝算はあるのか?」

 何気ない隆道の言葉に、風子の顔がわずかに曇る。

「……わかんないわ。あの紫苑の雷さえ駄目だったんだから。それに、片目しか見えないから、間合いもわからない。一瞬でも好機を外せば、それだけで威力は損なわれる」

「そうか、なら……」

 隆道は傷を庇いながら、鳳華の背をそっと撫でた。

「俺がお前の、目になってやる」

「……え?」

 今度は風子が戸惑う番だった。

「お前と一緒に飛び、一緒に落ちてってやる。剛雷を打つ瞬間は、俺が合図するから、お前はただそれに従って振り下ろせばいい」

「な…… あんた馬鹿じゃないの!?」

「なら、それを一人でやろうとしているお前はもっと大馬鹿だ」

「それに、たとえ成功したって、鯨羅を倒せないかもしれない……」

「『かもしれない』か。それだったら俺は、鯨羅を倒せる『かもしれない』に賭けるぜ」


 風子は思った。

 ここに、私の意志を同じくする男がいた、と。

 悟られぬよう、掴まれぬよう今まで生きてきた。それが私らしい生き方だと信じてきたから。潮人でも、涼太郎でも、決して私の心を知られたくはなかった。

 だからこそ、いつも自分の感情を全てを広げて向かってくるこの男が嫌いで、疎ましく思っていた。

 こんなにも私にぼろぼろにされて。

 それでも何度も向かってくるのが勘に障って。

 羨ましくて。

 この男に負けるのが悔しいなんて。

 認めたくなかった。

 けど。

 誰かと心を重ねるのは。

 こんなにも心地よいものだったのか。



「鳳華」

 息も絶え絶えになりながら、鳳華を呼んだ。

「二人も抱えて飛ぶなんてきついかもしれないけど…… いけるか?」

 鳳華は鋭い眼光で主人を射抜く。これから隆道のしようとしていることを悟ってしまったのだろう。鳳華は(かたく)なに瞳を閉じようとする。

「鳳華…… お前の気持ちは有難いけど……」

 隆道の、最後の命令だった。

「死ぬときは、惚れた女と一緒にさせてくれ」

 大空にどこまでも響く声を上げ、鳳華の翼が広がった。

 命よりも、誇りを尊重するのは、何よりも隆道を慕う証。

「行くぞ、風子」

 優雅な黒飛鷹(こくひよう)に捕まり手を差し伸べる、血塗れの幼なじみ。

「よし、行こう」

 その手を取り、風子は今再び、風であることをやめた。



 鳳華の足に捕まり、宙を行きながらいつしか二人は、幼き頃の話をし始めていた。

「なぁ、覚えているか?」

「何を?」

「初めて、私達だけで漁に出たときのこと」

「あぁ。結局お前が一匹捕っただけで、あとは惨敗だったな」

「帰ったら潮人の親父さんにこってり絞られて……」

「その後、うちの親父にも怒られたんだぜ」

「うちも同じだよ。でも怒られてるのは私のはずなのに、奈美の方がわんわん泣いちゃって……」

 ほんの少し、風子が下を向いた。

 一つだけ、風子の心に穴が空いていた。

 最愛の妹、奈美。

 いつでも私の後をひょこひょこついてまわって。

 友達も作らず、私の真似ばっかりして。

 気がつけば潮人や涼太郎とだけ打ち解けて。

 こんな私を追いかけても、何もいいことなんかないってのに。

 我が妹ながら、全く馬鹿だった。

「奈美のことか?」

 隆道に気づかれた。……ったく。いつからこの男は人の心を読めるようになったんだろう。

「ん、あぁ……」

「お前は、いい姉貴だったぜ」

 そうだろうか。妹を残して逝ってしまうような姉が、本当にいい姉であるのだろうか。

「それに、いい女だ」

「何言ってんだか」

「本当だぜ。そろそろ妹離れして、俺のところに来るってのもいいんじゃねえか?」

 そして、こんな状況でも私を口説こうとする隆道は、もっと馬鹿だ。

「……そうね。それもいいかもしれない」

 けど、そんな馬鹿な奴らが大好きで仕方ない私が、一番の大馬鹿だった。

 


 鳳華が鳴く。ちょうど鯨羅の真上にさしかかった。

「ありがとうな、鳳華。俺らが行ったらお前は潮人のところへ戻ってくれ。それからは野に帰るなり、お前の好きなようにしろ」

 しかし鳳華は、不審な目で主人を見つめる。

「……なんだ、嫌だってのか?」

 初めて、主人の命に背く。

「もう俺なんかの無茶な命令に従わなくてもいいんだぜ?」

「隆道。それは違うぞ」

 風子が間に割って入った。

「いつか、渚ちゃんが食ってかかった話、聞いてなかったのか?」

「あ……」

「鳳華は別にお前に従っていたわけでも、(へつら)っていたわけでもないって」

 仲間。隆道達と同じように、ただ日向で時を過ごしてきただけ。違いはその身に翼があるかどうか。それだけのこと。

「……悪かったな、鳳華」

 隆道の目から涙が零れ落ち、神海の水となる。

「そうだな…… じゃあこれからはリョータの力になってやってくれ」

 誰よりも優しき心を持つ友。最後には、共に歩んだ同身とも言える黒飛鷹を、そんな男に委ねたかった。

「それに、あいつなら奈美のことも任せられるだろ」

「なっ……」

「これで、心残りはないな」

 やや置いて、鳳華が頷いた。隆道の最後の命を、誇り高き黒飛鷹は胸に刻む。

 風子は思わず、血に染まる右目を開こうとした。

 この男はどこまでも私の意志を汲み、叶えようとしてくれる。

 風子の右目から滴り落ちた血も、神海の一部となり果てた。

「それじゃあ、そろそろ行くか」

 死に彩られた吐息と共に、隆道が告げた。鯨羅から受けた矢傷も限界に近い。目が霞み始める。風子の目の代わりを果たす以上、更なる出血は避けたかった。

「あの世に行ったら、まず最初に何をしたい?」

 悪戯心に、風子は尋ねてみた。

「お前と百戦目の手合わせ、かな」

「……同じこと考えてた」

 

挿絵(By みてみん)


 二人は笑う。気づけたのはついさっきだけど、愛し合ったのはきっと生まれたときからだ。

 風子はそっと首を傾け、肩を寄せた。初めて見せる女としての顔に、隆道の鼓動が早まる。何も言わず、隆道は察した。唇はもう血に塗れているので、わざわざ指を噛み切る必要もないだろう。

 目を閉じ、隆道は唇で、風子の唇に触れる。

 死の間際に交わす、別れの「血束」。

 

「じゃあね、奈美……」


 そして、鳳華から二人の手が離され。

 天まで届かんとする水柱と共に、二人の世界は閉じられた。


 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ