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序章

        ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



嵐が悲鳴を上げる。それに負けじと競せるように、潮人(しおと)の叫びが舟上に轟いた。

「掴まれ!」

「わあぁ…… 駿河の! 助け……」

 潮人の手が届く前に、一人の若者が黒い波の中へと姿を消す。潮人は船縁(ふねべり)に手をかけながら顔を出した。海面から白い腕が二度三度と伸びる。空気を求めもがく男の顔が一瞬見えたかと思うと、背後から押し寄せる波に飲まれ、何も残さずに沈んでいった。

「ぅわああぁ!」

 歯を噛む間もなく新たな悲鳴が背を叩いた。だが振り返った頃には、既に視界に捉える筈だった同胞の姿がまた一つ消えていた。助けるどころか、駆け寄ることすら叶わず。

「くそおぉ! (げい)()あぁ!!」

 潮人は雄々しく()える。憎むべき名をその咆哮に乗せ、(もり)を掴んだ。呼応するかのように舟が傾く。足を取られ、背を打ちつけながらも潮人は決して銛を離さない。

「でりゃああ!」

嵐の隙間に垣間見た、白い巨体に向け銛を投じる。しかし潮人の渾身の力を秘めたその銛も、遥か彼方に浮かぶ悪魔の元へは届くことはなかった。

多くの同胞が死んだ。

水平線と見紛(みまが)うほど彼方の海に鎮座する、あの白い怪物の起こした数多の波に呑まれ。

初めは一波で三艘(そう)の舟が転覆した。そしてまた一艘、一艘と指を折るように数を減らしていく。

反撃に転じようと(かい)を取る舟は次々と無人の木屑へと化し、気弱なばかりに発狂した者は海に身を投げ、渦に巻き込まれていった。

「くそおおおぉぉ!!」

狂ったように、いや、このときの潮人はとうに狂気と恐悸(きょうき)の狭間を彷徨(さまよ)っていたことだろう。届かぬと知りながらも、舟に積まれた僅かな銛の刃へと少しでも怒りを乗せ、投じるしか成すことを知り得なかった。

絶えぬ風雨にその身を叩かれても、海面に突き刺さる銛が空しく水柱を立てても、潮人はただただ銛を放つのみ。

「止めんか潮人! 潮人!!」

 豪雨に掻き消されんとする、太い声が潮人の耳を貫いた。父の声だ。

「親父? どこだ!?」

 視界に色を取り戻すと、三丈ほど離れた舟から父が手を振っているのがわかった。村を出たときには五人乗っていたのに、今やその舟には父の姿しかない。それでも潮人は安堵する。まだ父が生きていてくれたことに。

父なら何とかしてくれる。いや、父と力を合わせれば、鯨羅に一太刀浴びせることが出来るだろう。それどころか、海中深くあの巨体を沈めることだって不可能ではないはずだ。

「潮人! 生きてたか」

「なんとか…… な。でもみんなが……」

「話は後だ潮人! 引き返すぞ!!」

 その言葉は、潮人の予想していたものとは違っていた。そのためか潮人の視界が再び黒く染められた。

「何…… 言ってんだ親父!? このまま…… 鯨羅に一矢報いずにおめおめ帰れっかよ!」

「そのようなことを言っている場合か!? 潮人! このままだと全滅だぞ!!」

頭に血が昇りかけた潮人を(いさ)めたのは、「全滅」という父の言葉だった。

(わし)も同じ気持ちだ。だが見よ! この惨状を!」

 空を切るように父が手を広げた。舟の形など認めることも出来ぬ木片の残骸。最早舟に二本の足で立つのは潮人と父のみ。あとの者は海に投げ出され、必死に舟にしがみつくか、暗い海の底で無限に水を飲み続けているかのどちらかだった。

「でも…… だからって……」

「生き残ればまだ望みはある。だが死ねばそれ限りなのだぞ!」

 父の言うことは正しい。それは幼い頃からいつだって変わらなかった。だからこそ潮人は、父を慕い、尊敬していた。

 だが今ここで初めて、卑しくも命にしがみつき生き恥を(さら)そうとする父が醜く見えた。まだ成人したばかりの若者にとって、それは止むを得ないことなのだろうか。

「嫌だ! 俺は戦うぞ! 倒せないまでも、せめて鯨羅に銛一本打ち込んで……」

「その銛の届く場所にも、儂らには近づけないというのがまだわからんのか!」

 父の激昂(げっこう)が、今度は耳ではなく胸に突き刺さった。あれだけ力を込めて投げ放っても、鯨羅には(かす)り傷一つつけられない。それは散々身をもって知ってしまった。せめて二十丈の間に入らねば、仕留めるどころか傷をつけることすらままならないだろう。

「それでも……」

 潮人は腰に(たずさ)えた、古ぼけた銛に手をかける。

「このまま逃げ帰ったら、死んだみんなの家族に……」

「潮人!」

 父が叫ぶ。その眼は潮人を(とら)えていない。

 振り返ると、空を見上げるような高さの水壁が押し迫ってきていた。鯨羅の起こした波が、ついに二人を押し流さんと迫り来る。


 潮人の、思い起こせる記憶はそこまでだった。


 呼吸を封じられた苦しみよりも、口の中が塩に(まみ)れることがおぞましかった。海は水というよりも塩の固まりなのではないかと疑ってしまう。そんな間の抜けた思考を巡らせるのも束の間、すぐに身体が空気を求めあがき始める。

「ご…… がぼっ……」

水泡の弾ける音がいくつも(こだま)する。そのうちのいくつが自らの吐き出したものなのか。そして、海に住む魚達はこんな音を聞きながら泳いでいるのだろうか。だとしたら海はなんて暗く、不気味な世界なのだろう。

 次に潮人を襲うは、身を引き千切るほどの激しい水流。流されながら、珊瑚の欠片や貝殻の破片が潮人の四肢を切り裂く。暗闇だったはずの水が深い臙脂(えんじ)色に染め上がった。傷口からも塩が侵食してくる。痛みを感じるよりも、全身が海水に支配される気がした。

 

 腕も、指も、脚も、自分そのものが海の一部となるような。

 

……思考が次第に閉じていく。


これから俺はどうなっていくのだ?


痛みも感じぬまま鮫に喰われるか。


海底に伏し、海草に吸われていくのか。


それとも鯨羅に一飲みにされるか……


……鯨羅!


それだけは我慢ならない!


俺と、俺の住む村に災厄をもたらした、鯨羅!!


奴の腹に呑まれるくらいなら


せめ、て…… この…… 銛を…… 突き刺して……


そ、の血に…… 溺…… れて…… 息絶えて、やる……





……誰だ?


俺の手を引くのは?


そういえば村のじーさんが


海には神様が住んでるって


そうなのか?


……駄目だ。目が開かねぇ。


神様ってのはどんな姿をしてるのか、見たかったのに。


どこに連れていくんだ?


どうせなら親父のとこに連れて行ってくれ。


親父はどこへ行ったんだ?


親父もまた同じように海に溶けているのだろうか。


それならば俺は、親父と一つになるということなのか。


あの追い続けていた背中に追いつく。


それならばこの暗然とした世界も悪くない。


すまねぇな、親父。


最後まで情けねぇ息子でよ……



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