序章
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嵐が悲鳴を上げる。それに負けじと競せるように、潮人の叫びが舟上に轟いた。
「掴まれ!」
「わあぁ…… 駿河の! 助け……」
潮人の手が届く前に、一人の若者が黒い波の中へと姿を消す。潮人は船縁に手をかけながら顔を出した。海面から白い腕が二度三度と伸びる。空気を求めもがく男の顔が一瞬見えたかと思うと、背後から押し寄せる波に飲まれ、何も残さずに沈んでいった。
「ぅわああぁ!」
歯を噛む間もなく新たな悲鳴が背を叩いた。だが振り返った頃には、既に視界に捉える筈だった同胞の姿がまた一つ消えていた。助けるどころか、駆け寄ることすら叶わず。
「くそおぉ! 鯨羅あぁ!!」
潮人は雄々しく吼える。憎むべき名をその咆哮に乗せ、銛を掴んだ。呼応するかのように舟が傾く。足を取られ、背を打ちつけながらも潮人は決して銛を離さない。
「でりゃああ!」
嵐の隙間に垣間見た、白い巨体に向け銛を投じる。しかし潮人の渾身の力を秘めたその銛も、遥か彼方に浮かぶ悪魔の元へは届くことはなかった。
多くの同胞が死んだ。
水平線と見紛うほど彼方の海に鎮座する、あの白い怪物の起こした数多の波に呑まれ。
初めは一波で三艘の舟が転覆した。そしてまた一艘、一艘と指を折るように数を減らしていく。
反撃に転じようと櫂を取る舟は次々と無人の木屑へと化し、気弱なばかりに発狂した者は海に身を投げ、渦に巻き込まれていった。
「くそおおおぉぉ!!」
狂ったように、いや、このときの潮人はとうに狂気と恐悸の狭間を彷徨っていたことだろう。届かぬと知りながらも、舟に積まれた僅かな銛の刃へと少しでも怒りを乗せ、投じるしか成すことを知り得なかった。
絶えぬ風雨にその身を叩かれても、海面に突き刺さる銛が空しく水柱を立てても、潮人はただただ銛を放つのみ。
「止めんか潮人! 潮人!!」
豪雨に掻き消されんとする、太い声が潮人の耳を貫いた。父の声だ。
「親父? どこだ!?」
視界に色を取り戻すと、三丈ほど離れた舟から父が手を振っているのがわかった。村を出たときには五人乗っていたのに、今やその舟には父の姿しかない。それでも潮人は安堵する。まだ父が生きていてくれたことに。
父なら何とかしてくれる。いや、父と力を合わせれば、鯨羅に一太刀浴びせることが出来るだろう。それどころか、海中深くあの巨体を沈めることだって不可能ではないはずだ。
「潮人! 生きてたか」
「なんとか…… な。でもみんなが……」
「話は後だ潮人! 引き返すぞ!!」
その言葉は、潮人の予想していたものとは違っていた。そのためか潮人の視界が再び黒く染められた。
「何…… 言ってんだ親父!? このまま…… 鯨羅に一矢報いずにおめおめ帰れっかよ!」
「そのようなことを言っている場合か!? 潮人! このままだと全滅だぞ!!」
頭に血が昇りかけた潮人を諌めたのは、「全滅」という父の言葉だった。
「儂も同じ気持ちだ。だが見よ! この惨状を!」
空を切るように父が手を広げた。舟の形など認めることも出来ぬ木片の残骸。最早舟に二本の足で立つのは潮人と父のみ。あとの者は海に投げ出され、必死に舟にしがみつくか、暗い海の底で無限に水を飲み続けているかのどちらかだった。
「でも…… だからって……」
「生き残ればまだ望みはある。だが死ねばそれ限りなのだぞ!」
父の言うことは正しい。それは幼い頃からいつだって変わらなかった。だからこそ潮人は、父を慕い、尊敬していた。
だが今ここで初めて、卑しくも命にしがみつき生き恥を晒そうとする父が醜く見えた。まだ成人したばかりの若者にとって、それは止むを得ないことなのだろうか。
「嫌だ! 俺は戦うぞ! 倒せないまでも、せめて鯨羅に銛一本打ち込んで……」
「その銛の届く場所にも、儂らには近づけないというのがまだわからんのか!」
父の激昂が、今度は耳ではなく胸に突き刺さった。あれだけ力を込めて投げ放っても、鯨羅には掠り傷一つつけられない。それは散々身をもって知ってしまった。せめて二十丈の間に入らねば、仕留めるどころか傷をつけることすらままならないだろう。
「それでも……」
潮人は腰に携えた、古ぼけた銛に手をかける。
「このまま逃げ帰ったら、死んだみんなの家族に……」
「潮人!」
父が叫ぶ。その眼は潮人を捉えていない。
振り返ると、空を見上げるような高さの水壁が押し迫ってきていた。鯨羅の起こした波が、ついに二人を押し流さんと迫り来る。
潮人の、思い起こせる記憶はそこまでだった。
呼吸を封じられた苦しみよりも、口の中が塩に塗れることがおぞましかった。海は水というよりも塩の固まりなのではないかと疑ってしまう。そんな間の抜けた思考を巡らせるのも束の間、すぐに身体が空気を求めあがき始める。
「ご…… がぼっ……」
水泡の弾ける音がいくつも谺する。そのうちのいくつが自らの吐き出したものなのか。そして、海に住む魚達はこんな音を聞きながら泳いでいるのだろうか。だとしたら海はなんて暗く、不気味な世界なのだろう。
次に潮人を襲うは、身を引き千切るほどの激しい水流。流されながら、珊瑚の欠片や貝殻の破片が潮人の四肢を切り裂く。暗闇だったはずの水が深い臙脂色に染め上がった。傷口からも塩が侵食してくる。痛みを感じるよりも、全身が海水に支配される気がした。
腕も、指も、脚も、自分そのものが海の一部となるような。
……思考が次第に閉じていく。
これから俺はどうなっていくのだ?
痛みも感じぬまま鮫に喰われるか。
海底に伏し、海草に吸われていくのか。
それとも鯨羅に一飲みにされるか……
……鯨羅!
それだけは我慢ならない!
俺と、俺の住む村に災厄をもたらした、鯨羅!!
奴の腹に呑まれるくらいなら
せめ、て…… この…… 銛を…… 突き刺して……
そ、の血に…… 溺…… れて…… 息絶えて、やる……
……誰だ?
俺の手を引くのは?
そういえば村のじーさんが
海には神様が住んでるって
そうなのか?
……駄目だ。目が開かねぇ。
神様ってのはどんな姿をしてるのか、見たかったのに。
どこに連れていくんだ?
どうせなら親父のとこに連れて行ってくれ。
親父はどこへ行ったんだ?
親父もまた同じように海に溶けているのだろうか。
それならば俺は、親父と一つになるということなのか。
あの追い続けていた背中に追いつく。
それならばこの暗然とした世界も悪くない。
すまねぇな、親父。
最後まで情けねぇ息子でよ……