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夏と汗と野良猫と

作者: 高宮

その時の俺はうであがる味噌汁の中のあさりのような心地だった。

天を見上げれば、太陽が憎ましいほどに熱を照りつけていた。

気づけば俺は、天気予報が告げる平年以上の猛夏という言葉に、ふと疑問を覚えていた。平年並みの夏というのは一体何なのか。ぼんやりとした頭で記憶巡らすと自然地理学の講義で教わった「ある10年間の区切りの統計から得られたものが平年の定義」ということを思い出した。しかし、だからなんだというのだ。そんな情報が夏の暑さを紛らわすでも納得させるでもなく、ただただ現実には俺の全身から汗が滴り落ちているのみだった。

「暑い…。」

ついつい口から弱音じみた言葉が滑り落ちる。じゃりじゃりと歩みにあわせて地面から音が鳴っている。

背中を丸め、炎天下の中アイスの棒を咥えた俺は、スーパーのビニール袋を引っさげて家路への道を歩んでいた。

亀のように重たい足取りでただただ進む。目の前の黒いアスファルトからの地熱がサンダル越しに伝わってくる。買ったはずのガリガリ君は3分の1程度の帰り道で胃袋に収まってしまった。その名残惜しさか、俺は残ったアイスの棒を噛み締めていた。木の味しかしない中に若干の甘いソーダの残り香がするのがどこか口惜しく、妙な未練を掻き立てていた。


なんとかアパートに着き、ついため息が漏れた。シャツは汗で湿っており、ヤニと汗の匂いが体中からあふれ出しているのがわかった。

そんな匂いを嗅ぐ度に、自分の匂いなのに強烈だなとついつい思ってしまう。

さて、さっさと家に入ろう、クーラーが微笑む愛しの我が家に。そう思ってドアに近づくと鈴の音がした。振り返るとそこには首輪のついた子猫の姿があった。

俺の表情が無意識ににやけ、やぁ、と俺は手を上げる。夏の暑さの不快感が一瞬消えた心地すらした。猫も一鳴きして、こちらに近づいてきた。

最近近所の誰かが飼い始めたのか、この子猫はやたら人に懐いていた。野良猫なんて近づけば全力で逃げるにもかかわらず、こいつはやはり飼い猫か自ら人間に近寄ってくる。動物に好かれない俺も嬉しいことに例外ではなく、この子猫には何の警戒心もなく好かれているようだった。

自室のドアを開けると、涼しい空気が立ち込めた。子猫も自然な動作で俺のアパートの中に入っていく。そんな遠慮ない態度に俺は苦笑しつつも、やはり愛おしくもあった。


ドアを閉めて、ビニール袋をとりあえずその場に置く。汗で濡れている体が鬱陶しくて、俺はその場でシャツを脱いだ。

上半身裸の俺は、その足で洗濯物置き場にシャツを放り投げ、自室へと向かった。

向かって最初に視界に飛び込んできたものに、ついつい眼をしかめた。

Yシャツ一枚とハーフパンツで幸せそうに昼寝をする女。同居人というわけではない。彼女なのか何なのかいまいち判断のつけかねるこの女は、俺の部屋で何をするわけではなくただ安寧に浸り炎天下の地獄を避けていたのだ。

お前のうちに帰れ、などと言えたらどれだけ心が休まるか。どうにも押しが弱い自分自身に苛立ち、どうしようもなく鼻で笑うしかなかった。


ふと足元に違和感があった。足元をみると子猫が俺の足首に尻尾を巻きつけていた。

こちらの侵入者をみるとどうも顔がゆがむ。子猫の首元からごろごろと唸る音がしていた。

不意に思い立ち、急ぎ足で茶碗に水を汲んだ。子猫の元に戻り、俺はその場に胡坐をかいて水を差し出す。子猫はそれを見て、何の警戒心も鳴く口をつけた。

かわいいやつめ、と思っていると、子猫は水から口を離し、こちらを見上げた。子猫の吸い込まれるような丸い瞳が俺を見つめていた。

俺は不意にそんな瞳に見入ってしまった。ただただその瞳の薄い青みがかかった黒色が、俺を引き付けて止まなかった。

そんな刹那、急に子猫が俺の股に飛び乗ってきた。

「え、ちょっ…」

驚くいとまもなく、そのまま子猫は胸板の辺りに手を伸ばしてくる。

混乱してか俺は、体を後ろに倒すようにしてしまった。当然ながら子猫は俺の胸板に飛び乗る形となった。


そして、子猫の顔が俺の胸板へと向かった。俺の頭が混乱する中、次の瞬間、子猫は俺の汗が残る胸板に舌を這わせてきた。

「う…ぁ…」

ざらついた小さな舌が肌の感覚をくすぐってくる。声を出してしまったことが急に恥ずかしくなって、右手で口をふさいだ。

「……ふ、ッ……、くぅ…」

それでも声が止まらず、ついつい妙な汗が出た。顔も紅潮していただろう。

油蝉の鳴き声が妙に大きく聞こえた。だがうるささをそれは伴わず、むしろこの部屋のやわで歪な沈黙を際立たせるようだった。

子猫がこちらを見上げ、舐めるのをやめた。そしてこちらに一鳴き。同時に俺の息が潜水していたときのように吐き出された。その瞬間、いい加減理性が働いたのか、それとも危機感か。続けて俺の胸板をなめようとする子猫に対し、俺は首根っこをつかんで離れさせた。

そのまま、玄関へと向かって、子猫を外に出した。子猫は寂しそうな鳴き声をあげたが、かまわず俺はドアを閉め、妙なため息をついた。

ふと胸元を見ると子猫の舌跡は残っておらず、そこには噴出した汗のみがあった。そんな胸板をみると、先ほどの官能じみた感覚がよみがえってきて、俺は急に居心地の悪い恥ずかしさに囚われてしまった。

「さっさと服を着よう…」

同時に子猫などに快感を突かれたことについて、情けなく思うのだった。


俺は玄関に置きっぱなしだったビニール袋を持ち、部屋に戻って茶碗を片付けた。

そしてベッドのそばにある箪笥からシャツを取り出そうとしたそのときだった。

「…ねぇ」

背中のほうから声がした。先ほどは寝ていたはずの彼女の声だ。

シャツを手にもったまま、後ろを振り向くと、ベッドからいたづら好きな猫のような瞳で、にやけににやける彼女の姿があった。

こいつ、起きてやがったなクソ。俺はそう思ったが、そんなこと夏の暑さと平年の定義の件と同様なほど無駄な思考だった。

「胸板弱いんだね」

からかうように、弱みを握ったように、そう彼女は喜色の弾んだ声で話しかけてきた。その言葉を聴いた瞬間、俺の顔に急速に熱がともっていくのがわかった。あぁ、こうなるのはわかっていたはずなのに。

すらりとした足がベッドから立ちあがり、狩りをする猫科の動物のようにこちらに彼女は近づいてきた。裸の俺の胸板に手をねっとりとした動作であて、彼女は鼻で笑う。その動作に俺は背中がついつい弓反りになってしまった。

胸板にはマニキュアが塗られた爪が食い込むように掛かっていた。鼻には彼女のふわりとした匂いがまとわりつき始めていた。そして何より、彼女の目は、釣り目がちの彼女の瞳は、焦茶色の光を欲望のままに光らせていて、俺はそれから目をそらすことができなかった。まさに狩られる動物と狩りをする動物の光景そのものだった。

そして彼女は最終的に、こう止めを刺したのだ。

「ねぇ…、あたしも舐めてあげよっか?」

最後までお読みいただきありがとうございました。

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