第4話 決意
この2週間、明奈と直人は調停の準備に追われていた。
元気のない母親に調停の話を持ち出すのは酷だったが「明奈と直人のためにも、自分のためにも頑張る。」と言って応じてくれた。
そんな母親のために2人は今よりもさらに母親との時間を増やした。
数日後、翔が仕事を終え、自分のアパートに戻って来たときのことであった。
この日は久しぶりに明奈と会う約束をしていた。
直人が「今日は俺も仕事が早く終わりそうだし、調停が始まる前に久しぶりに翔さんに会いに行って来たら?」と明奈に提案してくれたのだ。
明奈との約束の時間まであと少し。翔は自分の部屋がある2階に人影が見えて、足を速めた。
「長瀬君…先日はどうも。」
しかし、階段横にいたのは、明奈ではなく明奈の父親だった…。
翔は一瞬怖気づいたが、
「あなたと話すことは何もないはずです。」
と言って、その場を去ろうとした。
しかし、明奈の父親は翔の前に立ちはだかる。
「今日は悪い話をしに来たわけじゃないんですよ。前回、あなたと明奈はもう一緒にはいられないと言いましたが、それを撤回するつもりでしてね…」
「…?」
翔はとりあえず話だけは聞くことにした。
「ただし、長瀬君が、明奈に調停を止めさせるよう説得してくれたらの話ですよ。」
「また、そういう話ですか。」
翔は呆れかえった。
「今のままでは、明奈は二宮家が決めた見合い相手と結婚することになるんですよ。悪い話じゃないでしょう。」
「あのですね、僕も明奈ももう大人なんです。自分のことは自分で決めます。」
普段は、口論したり、怒ったりするのが苦手な翔であったが、前回同様、ここで絶対に負けてはならないと思った。
「何言ってるんだ。明奈が私の娘であることにはいつまでも変わらない。だいたい私は明奈のことを…家族のことを…愛しているから調停を止めさせて、また家族4人で仲良くやっていきたいと思っているんだ。明奈のことを愛しているんでしょう? 調停を止めさせてくれたら、お見合いをなしにするって言ってるんだ。もちろん明奈と別れろなんて言わない。」
明奈の父親は不敵な笑みを浮かべた。もちろん、この男にお見合いをなしにする気など毛頭ない。
「僕は明奈を悲しませるようなことはさせません。それだけです。」
翔がそう言うと、明奈の父親は翔の胸ぐらを強くつかんだ。
「またそれか…。お前は俺の家族への愛を踏みにじるっていうんだな。愛する者をいつでも自分の手の中に入れておきたい。愛する者には自分の思い通りに動いてほしい。お前だって、明奈のことを愛しているなら俺の気持ちがわかるだろう?お前が明奈を愛しているように、俺も明奈を愛しているんだ。」
「…わかりません。…僕は、明奈を苦しめたりしない。」
そう言って、翔は自分の部屋へ去ろうとした。
「待て、このやろう!」
明奈の父親が翔の肩をつかんだ。
その時、翔は足を滑らせ、アパートの階段から落ちてしまった。
気を失う翔。
慌ててその場から逃げる明奈の父親。
その様子を急いで翔のアパートに向かっていた明奈が目撃した。
全速力で翔のもとに立ち寄る。
「翔! 翔!」
明奈が名前を呼んで、体を揺さぶるとすぐに翔は目を開いた。
「あっ、明奈。僕、足滑らせちゃったみたい。」
…とは言っても、明奈は逃げる父親の姿を目撃してしまっている。
「翔、ごめんね…。私、翔に迷惑かけてばっかり…。」
その日、明奈は結局、翔と病院へ行った後、母親の待つ直人のアパートへ帰って来た。
翔はかすり傷程度で済んだが、明奈は申し訳なさでいっぱいでその日、翔と話したことをよく覚えていない…。
「ただいま…あれ?直人は。」
「急に遅くなることになっちゃったみたいなの。」
母親がそう答える。最近の直人は先輩からの飲み会の誘いを断ることに苦戦している様子だった。断りきれなかった日はいつも悔しそうな顔をして明奈に謝ってくる。
「明奈も直人もそんなに私に付き添ってくれなくても大丈夫よ。母さんこれから仕事も家も探すから。」
そんな状況を知ってか、母は最近こう言うようになった。明奈のことも「翔君に会いたいでしょ?」と毎日のように気遣ってくれる。その度に「翔には事情を話してるから大丈夫。」と断っていた…。
「私は、明奈と直人が幸せに過ごしてくれるのが一番嬉しいんだから…。昔はお父さんの幸せも祈ったりしてたけどね…。お父さん…昔は優しい人だったのよ。どうしても私と結婚したいって言って、反対する姑さんを説得してくれたの。それなのに…結婚してから、だんだんあんな風に変わってしまって…」
「うん…」
そうなのだろうと明奈も思う。誰も最初から父のような人間を結婚相手に選ぶはずがない。結婚って…家族って…何なのだろう…。
母親の目から涙がこぼれた。
「嫌だ、変なこと思い出しちゃった。」
母親は無理に笑顔を作って見せる。
「とにかく、明奈は幸せに過ごしてね。」
「あのね、お母さん」
明奈は母親を抱きしめた。
「私の幸せはお母さんと一緒にいることだよ。お母さんとずっと、ずーっと一緒にいること。私、お母さんのそばから離れないからね…。」
「ありがとう、明奈。」
その時、母親も…もしその場にいたとしたらおそらく直人も…明奈の言葉の別の意味に気づくことはなかった。
数日後…
「引っ越し?」
直人が明奈の部屋を訪ねると、段ボールにたくさんの荷物がまとめられてあった。。
「うん、もう引っ越す家も決まったよ。お母さん、家も仕事も同時に探すのは大変だからさ、家は私が探そうと思って。それでね、私、お母さんと一緒に住むことにしたの! だから、直人はもうお母さんのこと気にしなくていいよ。」
「ちょっと待ってよ。少しは俺に相談してくれたっていいじゃん。俺だって母さんのそばにいれるよ! あの先輩のことなら、3月に異動するから大丈夫だし…。だいたい家って、職場が決まってから探した方がいいんじゃ…」
「そうだけど。私がなるべく早くお母さんと一緒に住みたかったの。直人はお母さんに会いたくなった時だけ会いに来ればいいから。」
「何だよそれ…。」
明奈の行動の早さに直人はどうすることもできなかった。
…やがて引っ越しが終わり、明奈と母親の新しい生活が始まろうとしていた。
一緒に作った夕食を一緒に食べる2人。
「明奈が一緒に住んでくれるなんて、母さん嬉しいわ。」
「うん、私も嬉しいよ。これからはずっと一緒だからね。」
「そんなこと言って、いつかは翔君と…」
明奈を茶化そうとする母。しかし…
「…翔とはそういうんじゃないんだ。」
明奈は暗い面持ちでそう言った。
その頃、翔のもとには一通の封書が届いていた。
差出人には明奈だった。
「明奈? でも、どうして手紙…?」
翔はその内容に目を通す。
翔へ
私の父親があなたに迷惑をかけてごめんなさい。その他にも、私の家族内で起こった出来事のせいで翔にまで色々と嫌な思いをさせてしまいました。でも、もうそんなことはさせないので安心してください。
私は翔のもとから離れます。別にこの一件だけのためではありません。私の進もうとしている道を考えると、このまま翔と付き合うわけにはいかないのです。私は翔を幸せにはできません。
あなたと過ごした7年間は本当に幸せでした。一生忘れないでしょう。本当にありがとう。
P.S. 最初にお母さんのこと翔に話した時、翔が泣いてたこと…私は知ってました。あなたは本当にどこまでも優しい人ですね。私の悲しみを半分引き受けてくれた…そんな気がして本当に嬉しかったです。
手紙を読んだ翔は、頭が真っ白になり何も考えられなかった…。