第2話 訪れた悲しみ
明奈が自分の部屋に戻ってきた頃には、すでに弟の直人が待っていた。
「姉ちゃん!」
「直人、どうしたの?」
「詳しくは中で話すから。」
家の中に入って落ち着いた二人は早速本題に入った。
「直人、話って…」
「姉ちゃん…あのな…」
「…?」
「親父が…母さんに暴力振るってたんだ。」
直人が絞り出すような声で言う。
「えっ?」
明奈は一瞬戸惑った。
「俺、昨日久しぶりに母さんの所に行ったんだ。そしたら、ちょうどその現場に居合わせて…」
「それで…」
「すぐに荷物まとめさせて、親父のいない隙にこっちに連れてきた。母さんは今、俺の部屋にいる。最初は、姉ちゃんには心配かけたくないから黙ってようって思ったんだ…。でも、さっき親父から電話が来て…まあ、適当にバックレたんだけど。近いうちに姉ちゃんのところにもかかってくるかもしれない。だから隠しきれないと思ったんだ。」
確かに明奈の父親は自己中心的で、何でも妻に命令したり、ストレスがあれば家族に八つ当たりしたりするのは当たり前、自分に非があっても何でも家族のせいにして責め立てるような人間だ。それにしても、とうとう暴力を振るうようになってしまうなんて…。
「俺が自立したころから始まって、どんどんエスカレートしていったらしい…。ちくしょー!何でもっと早く気がつかなかったんだ!」
直人がテーブルに拳をたたきつける。
「そんなの、私だって…。」
明奈も悔しかった。自立してからの明奈は母と連絡を取る頻度がどんどん減っていった。弟が自立してから2回ほど電話した時は元気そうだったのに…。もっと母のことを気にかけていれば…何らかのサインに気付けていたかもしれないのに…。一番辛いのは母なのだからという一心だけで涙をこらえていた。
「辛いとこ悪いけど、これからのことな…」
直人が深呼吸をして自分を落ち着かせながら口を開く。
「しばらくは俺と姉ちゃんが交代で母さんのそばにいよう。」
「もちろん。」
明奈は目に涙をためながらもしっかりとうなずく。
「それから、母さん、離婚したいって言ってる。」
「当たり前だよ。とっととあんな奴から離れなきゃ。もし離婚しても、私も直人も自立してるからお母さん1人ぐらいなんとかなるよね。」
「ああ、それに母さんも落ち着いたら働くって言ってる。…だけどな、向こうが離婚に応じてくれないんだ。」
「…そっか。家族のことなんてどうでもいいくせに、世間体が大事ってことね。」
「ああ、あいつはそういうやつだ。だから今度の日曜、俺と姉ちゃんとで押しかけてケリをつけたいと思ってるんだけど…」
「うん。もちろん協力する。」
「良かった。とりあえず母さんが安心して過ごせる環境を作らなきゃ。」
2日後…明奈は翔の部屋に行き、すべての事情を話した。
「ひどいよ…。どうしてこんな…。お母さんがいったい何したっていうの…?」
翔の前では涙をこらえきれなかった。
「私が今まで楽しく過ごせたのはお母さんのおかげなのに…。お母さんのおかげで、家族の楽しい思い出もちゃんとあって、人を信じられて、友達も出来て、こうして翔と一緒にいられて…。あのね、翔と私がお互いに告白したあの日、覚えてる?」
「うん…」
「あの前の日、沙枝も背中を押してくれたんだけど、お母さんも電話で背中押してくれたの。だから、私、もっともっと頑張れたの。あの時だけじゃない…お母さんは、いつだって、どこだって私のこと見守ってくれた。そんなお母さんがどうして? 何でこんなひどい目に遭わなきゃいけないの!?」
明奈の目からさらに涙があふれ出す。嗚咽がもれるのをこらえきれなかった。
翔は、明奈の震える肩を抱きしめる。
「明奈…僕に出来ることがあったら、何でも言って。」
小さくうなずく明奈。
明奈の辛さを思うと心が痛む。翔は明奈を自分の胸の中に抱きすくめた。
「大丈夫…きっと大丈夫だから。」
絞り出すような声でそう言った翔も明奈に悟られないよう静かに涙をこぼしていた。
次の日…
仕事帰りに、明奈は翔に電話していた。
「翔…昨日はありがとう。」
「ううん、明奈の方こそ…大丈夫?」
「うん…大丈夫じゃないなんて言ってられないからさ…」
「そっか…」
「翔…私これから実家に行ったり、お母さんのところに行ったりで、しばらく会えないと思うんだ。連絡もしょっちゅう取ることはできないと思う。」
「うん、それはわかるよ。だから、安心して。あと、僕にもできることがあったら手伝うから遠慮しないで言ってね。」
「うん、ありがとう。じゃあ、これから早速お母さんの所に行くから…。」
…翔からの電話が終わるとすぐに弟から電話がきた。
「もしもし」
「姉ちゃん…親父が乗り込んできやがった!」
「えっ?」
「この件については、日曜日にゆっくり話そうって言ってるのに、親父は母さんを連れ戻すって言って、埒が明かない。」
「分かった。今、行くところだったから。 急ぐね!」
直人の部屋に入ると、母親が明奈を迎えた。
母親の体にはところどころ痣が見受けられ、頬は痩せこけ、すっかり弱った表情をしている。
「お母さん!」
明奈は母親に抱きつく。
「お母さん、本当にごめんね。」
「だからどうして…明奈が謝るの?」
「だって…」
この数日間…母親の姿を見るたびに明奈は謝ってばかりだった。
部屋の中では、父親と直人が激しい言い争いを繰り広げている。
「お前がなんと言おうと、コイツは連れ戻す!」
「ダメだ!また暴力振るう気なのは分かってるんだ。」
「だから、もう暴力は振るわないと言っているだろう!」
「暴力は振るわないって言ってるそばから、母さんをコイツ呼ばわりかよ!」
その光景を見た明奈は父親に怒りを感じた。彼らのやり取りを見ている母親はすっかり怯えていた。きっと実家では、もっと怖い思いをしていただろう…。
父親が明奈の存在に気づいた。
「おい、明奈!母さんを家に帰るように説得しろ!」
「私も直人と同じ意見だよ! …母さんは渡さない。」
…絶対に負けない、と明奈は思った。
「何?お前まで俺に恥をかかせるつもりか! 母さんを帰すつもりがないんだったらな、明奈、お前が仕事辞めて、うちに来て家のことやれ!」
「そんなの無理に決まってるでしょ! それに私も直人も離婚したらお母さんの方につくから、あなたとはもう関係ないんだから!」
「何だと? 離婚なんて絶対に認めない。それに離婚したってお前は俺の娘であることには変わらないんだ。母親の代わりに家のことやるのは当然だろ! それにお婆ちゃんの見合い話も受けてもらうぞ!」
「それは前から何回も断ってるでしょ! それに、今その話は関係ない!」
その時、直人が口を開いた。
「姉ちゃん、母さんと一緒にここから出て!」
「えっ…」
「こんな奴と話しても無駄だ。早く!親父は俺が何とかする…!」
「わかった。」
「おい!」
父親の怒鳴り声を無視し、明奈は母親の手を引いて直人のアパートから飛び出した。
明奈は母親の手を引く道すがら、母や直人との楽しい時間を思い出していた。
家庭を顧みない父親をおいて、3人でおいしいものを食べたり、河川敷に散歩に行ったり、買い物に出かけたり、遊園地に行ったり…。
もう一度、直人と母親と3人で笑いあいたい…。
結局、当初の予定通り、日曜日に実家で話し合いが行われることになった。
母親には直人の部屋で留守番してもらい、明奈と直人、父親…そして父親の母、つまり明奈の祖母も話し合いに参加することになった。
…その前日
翔が自分のアパートを出ると、見知らぬ男性に呼び止められた。
「長瀬翔くんだね。」
「…はい、そうですが。」
翔は不審に思いながらもうなずく。
「二宮明奈の父です。」
そう聞いて、翔は背筋が凍りついた。しかし、明奈の父親はあくまで紳士的な態度を装っている。見た目だけは暴力を振るうような父親には見えなかった。
「これからお仕事でしょうから手短に終わらせますね。」
そう言う父親に翔はおそるおそるうなずく。
「明奈からいろいろ聞いてるでしょうが、明奈の母親というのはその…ヒステリックなところがあるんですよ。今回もちょっとケンカしただけなのに暴力だなんだって大ごとになって、私も参ってしまって。明奈はお母さんっ子ですから、すっかり母親の味方をして。私としても、家族4人いつでも仲良しであることを願っていますし、このままじゃあ、母親も直人も明奈自身もかわいそうでしょう?。そういうことですから、明奈に母親を実家に帰すよう説得するように言ってもらえませんか? そして、私たちが夫婦が仲直りすれば、今回のことは丸く収まるんです。明奈も女の子ですから、恋人の言うことなら聞いてくれると思います。お願いできますよね。」
翔に笑顔でそう持ちかける父親。しかし、翔は笑顔の奥にある父親の冷酷な目に気づいていた。その目は冷酷なだけでなく、草食動物を見つけた肉食動物のように翔をとらえている。どのように翔にたどり着いたのかは謎であるが…しつこく調べて回ったに違いない。
「…僕には、明奈を悲しませるようなことはできません。」
翔はそう言って、その場を去ろうとした。
しかし、父親が力強く翔の肩を押さえつけた。
「そんなこと言ったら、明奈は君とはいられなくなるよ。母親がうちに戻らないなら、明奈にうちに戻ってもらうまでだからね。あっ、どっちみち明奈はもう君とはいられないか…。」
父親は不敵な笑みを浮かべてそう言い残し、静かに去って行った。
恐怖にとらわれて放心状態になった翔だったが、すぐに首を振って気持ちを整理する。
「大丈夫、きっと大丈夫。」
翔は自分の胸に手を当てて、そうつぶやいた。
その夜…
翔は明奈に電話をかけた。
「明奈…明日は大変な一日になると思うけど頑張ってね。僕には応援することしかできないけど…。」
「ううん、電話くれて嬉しいよ。ありがとう。」
「明奈たちは何も悪いことしてないんだから、きっと大丈夫。」
「うん…ねえ、翔。」
「何?」
「このことが解決したら、いっぱいお出かけしようね。」
「もちろん。」
(僕もこのことが解決したら、話したいことがある)…そう言う前に、明奈が口を開いた。
「よし、私、頑張るからね。」
「…うん、それじゃあ、明日気をつけて。」
「おやすみ。」
…翔は窓を開け、闇夜に光る星を静かに眺めた。