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第2部 第4章「王女の託宣と蒼海の狼煙」2部完

『叛逆の灰狼と蒼の騎士 2巻:湖畔の姫君』

第4章:王女の託宣と蒼海の狼煙

静寂の湖を脱出してから二日。

一行は荷物持ちの馬の背にエルシア姫を乗せ、王都の追手を眩ますように、鬱蒼とした北方原始林のさらに奥深くへと逃げ延びていた。

深夜、獣の遠吠えだけが響く切り立った岩陰で、彼らはごく小さな焚き火を囲んで野営を張った。パチパチと爆ぜる微かな炎が、旅の泥にまみれた一行の顔を照らす。

「――おぞましい事実、ですか」

アルトは、エルシア姫が静かに紡ぎ出した言葉に、背筋が凍りつくような戦慄を覚えていた。

旅の疲れも見せず、炎を見つめる姫の横顔は、神聖なまでの真剣さに満ちていた。

「はい。私が古塔に幽閉された理由……それは、王宮を裏から支配する『魔王』の復活に私が気づき、それを阻止しようとしたからです。ですが、彼らが私をその場で殺さなかったのは、慈悲などではありません。より酷悪な目的のためです」

エルシア姫は、自らの白い細い指先を見つめながら、声を一段と低くした。

「かつてこの世界を闇に陥れた魔王の魂は、今、王宮の地下で完全復活の時を待っています。タイムリミットは、次の『蝕の月』が昇る夜――あと数ヶ月もありません。そして、魔王が完全なる肉体を取り戻したその時、この地上と魔界を繋ぐ巨大な門が開かれ、無数の魔族が呼び寄せられます。彼らの目的は、ただ一つ……人間の完全なる抹殺です」

「人間を……抹殺……っ」

アルトは息を呑んだ。隣で腕を組むナナの表情も、驚愕に歪んでいる。魔族の存在すらまだ公になっていないこの時代に、それは世界の終焉を意味する預言だった。

「では、なぜ姫様を生かして塔に?」

シャドウが闇の中から鋭い声をかける。

エルシア姫は悲しげに瞳を閉じた。

「かつて魔王を封印したのは、我がレガリア王族の先祖です。魔王が本来の力を取り戻し、完全復活を遂げるためには……かつて己を縛った『王族の血肉』を喰らう儀式が必要不可欠なのです。私は、その日のための『生贄』として、新鮮なまま生かされ、保管されていたに過ぎません」

「ふざけやがって……!」

リチャードがパイプを噛み締め、低く唸った。腰の双剣が、主の怒りに呼応するように小さく鳴る。

アルトの胸の内で、激しい憤りと、この姫を絶対に死なせてはならないという使命感が爆発しそうになっていた。彼らが救い出したのは、一国の姫であると同時に、世界の破滅を止めるための、唯一の鍵だったのだ。

一方その頃、王都の軍務局は、静寂の湖からエルシア姫が奪還されたという凶報に、文字通りひっくり返っていた。姫の存在は、魔王復活の儀式に絶対に欠かせない。

王宮の影に潜む黒幕たちは、即座に動いた。

リチャードたちが逃げ込んだ北方原始林の目と鼻の先――東方国境守備のために駐屯していた**『第四騎士団』の正規兵一〇〇〇名**に対し、緊急の勅命が下されたのだ。

「標的は『灰色の狼』の残党四名、および強奪されたエルシア王女! 手加減は不要、最悪、王女の四肢を叩き折ってでも連れ戻せ!」

一〇〇〇人対、わずか5人。

狂気とも言える圧倒的な戦力差の包囲網が、原始林に向けて狭まりつつあった。

しかし、その包壊網の進軍を、執拗に足止めしている影があった。

「……そこだ」

闇の中から放たれるシャドウの単弓。指揮官の馬の足を射抜き、街道に仕掛けた罠で前衛の足を止め、偽の足跡で敵の本隊をあべこべの方向へと誘導する。シャドウの天才的な隠密・撹乱術によって、第四騎士団の進軍は大幅に遅れ、5人は貴重な時間を稼いでいた。

だが、数の暴力はあまりにも容赦がない。どれほどシャドウが網の目を乱そうとも、一〇〇〇人の兵力は地網を張るように、確実に5人の逃げ道を塞ぎつつあった。

作戦開始から四日目。

視界の悪い霧深い森林を、馬の足を労りながら進んでいた一行だったが、最悪の事態が発生する。

「誰だ! ――そこにいるのはっ!?」

藪をかき分けて突如として現れたのは、第四騎士団の斥候隊、およそ十名だった。互いに完全に鉢合わせる形となり、静寂は一瞬で破られた。

「チッ、見つかったか!」

リチャードの双剣が閃き、瞬く間に先頭の二名を斬り伏せる。

「アルト、ナナ! 瞬殺しろ! 警笛を鳴らされるな!」

「ハァッ!」

アルトの長剣が敵の槍を弾き飛ばし、ナナの大剣が横一文字に空間ごと敵を薙ぎ払う。ムーンライトの正確無比な狙撃が退路を塞ぎ、シャドウの短剣が残る斥候の息の根を止めた。

わずか数十秒の電撃戦。斥候隊を全滅させることには成功した。

しかし、最後の一人が倒れ際、泥まみれの手で腰の「呼び鐘」を激しく打ち鳴らした。

カン! カン! カン! カン! ――ッ

静かな森に、不吉な金属音が鋭く響き渡る。

「……場所が、知られた」

ムーンライトの言葉に、全員の緊張が最高潮に達する。

「落ち込んでる暇はねえ! あいつらの馬を奪うぞ!」

リチャードの号令で、彼らは斥候隊が残した軍馬に飛び乗り、エルシア姫を中央に据えて猛烈な勢いで森の中を走り出した。

原始林を抜けた先。視界に飛び込んできたのは、遮蔽物が一切存在しない、ひらけた赤土の平地だった。

背後からは、地響きのような馬蹄の音と共に、第四騎士団の追っ手の騎馬百名が猛烈な勢いで迫ってくる。それだけではない。赤土の平原を進むにつれ、左右の地平線からも、こちらを包囲するように徐々に敵の歩兵たちが集結し始めていた。

「正面の敵、さらに増えていきます! 前に進むしかありません!」

アルトが叫ぶ。地を蹴る軍馬の息が白く弾ける。

しかし、必死に赤土を駆け抜けた彼らの前方に、突如としてそれ以上の進軍を阻む「青」が現れた。

見渡す限りの蒼い海。断崖絶壁の下で、激しい白波が岩を噛んでいる。

後ろを振り返れば、赤土を真っ黒に染め上げるほどの、第四騎士団一〇〇〇名の軍勢が、鉄の針山のような槍を揃えて迫ってきていた。

左右も後ろも敵。前は底知れぬ海。

万事休す。完全に退路を断たれ、崖っぷちに追い詰められた。

「……包囲された」

ナナが漆黒の大剣を構えながら、静かに、しかし冷たい汗を流して告げた。

敵の指揮官がほくそ笑みながら馬を進めてくる。

「ここまでだ、不平分子の泥狼ども! 王女殿下をお渡しすれば、貴様らの命だけは一瞬で終わらせてやる!」

目の前を埋め尽くす一〇〇〇人の大軍を前に、アルトの胸に絶望が過った。いかに先輩たちが超人的であっても、この平地でこの数を相手に生き残る術はない。

誰もが死を覚悟した、その時だった。

遠く、海の向こうから、低い重音が響いた。

ゴォン…………

腹の底に響くような、重々しく、そしてどこか厳かな鐘の音。

突撃の構えをとっていた第四騎士団の兵たちが、一瞬、ざわついた。

「何だ……? 音は、海からか?」

敵兵たちが不審に思い、一斉に背後の海へと視線を向ける。

立ち込める白い海霧。その向こうから、波を切り裂いて巨大な影が次々と姿を現した。

十隻の、黒塗りの軍船。

風を孕んで膨らむ巨大な帆の頂点に、一つの旗が、毅然と翻っていた。

「な、なんだあれは……」

第四騎士団の兵が、驚愕に声を震わせる。

白霧を割って現れたその旗に描かれていたのは、王宮の紋章ではない。

月光に吠える、獰猛にして気高き【灰狼の紋章】。第7騎士団の軍船だった。

直後。

――ドンッ!! ズガガガガァンッ!!

十隻の軍船の砲門が一斉に火を噴き、強烈な艦砲射撃が赤土の平原へと炸裂した。最前列にいた第四騎士団の重装歩兵たちが、悲鳴を上げる間もなく爆炎の中に吹き飛んでいく。

その大混乱の中心、戦艦の艦首に、一人の男が静かに立っていた。

豪奢な銀髪を潮風に流し、一切の汚れのない白銀の鎧をまとった青年。その佇まいは、戦場の硝煙の中にありながら、冷徹なまでに美しかった。

第7騎士団本隊を率いる男――ラインハルト・ガロウド。

彼は激しく燃え盛る戦火を見下ろしながら、腰の長剣の柄にそっと手をかけ、ただ一言、静かに、しかし戦場のすべての騒音をかき消すような透き通った声で告げた。

「――遅くなりました、団長」

その瞬間、戦場の空気が完全に変わった。

長々とした名乗りも、激しい怒号もない。ただその一言だけで、彼が敵の誰よりも底知れない【静かな怪物】であることが、その場にいる全員の脳髄に叩き込まれた。

「……フン。相変わらず、良いタイミングで現れるじゃねえか、ラインハルト」

リチャードがにやりと不敵に笑い、双剣を抜き放つ。

「今だ。合図を。」

ラインハルトによる静かな号令と同時に、赤土の平原の左右、森林の影から、地響きと共に別の「狼たち」が躍り出た。

あらかじめこの地に伏せられていた、第7騎士団本隊、総勢八〇〇名の精鋭。

艦砲射撃と船に乗っていた二〇〇の弓兵による一斉射撃と同時に、陸上の八〇〇名が、背後から第四騎士団へと一斉に奇襲を敢行したのだ。

「ウオオオオオオ!」

「挟撃だ! 後ろからも敵が来てるぞ!」

形勢は完全に逆転した。海からの無慈悲な砲撃の雨と、陸上からの八〇〇名による完璧な背面奇襲。一〇〇〇名いた第四騎士団は、その圧倒的な練度と指揮の前に完全に統制を失い、文字通り「半壊」へと追い込まれていく。

「アルト、姫様をお連れしろ! 船に乗るぞ!」

リチャードが叫ぶ。

「はい!」

アルトはエルシア姫の手を引き、シャドウとナナが周囲の敵をなぎ倒して道を切り開く中、接岸したラインハルトの主船へと飛び移った。続いてリチャードとムーンライトも船甲板へと滑り込む。

「出航」

ラインハルトの静かな、しかし絶対的な号令が響き、十隻の船団は、壊滅していく第四騎士団を赤土の平原に残したまま、ゆっくりと岸を離れた。

激しい戦火の煙と、敵の断末魔が遠ざかっていく。

船の甲板で息を切らすアルトの隣で、ラインハルトは一礼して、エルシア姫の前に静かに跪いた。

「お怪我はありませんか、エルシア姫。これより、我らが第7騎士団が、貴女の剣となります」

エルシア姫は海風に髪をなびかせながら、その白銀の騎士を見つめ、深く頷いた。

九死に一生を得た。

本隊八〇〇名、船隊二〇〇名、そして「静かなる傑物」ラインハルトとの合流を果たした『灰色の狼』。王国の命運を握るエルシア姫を乗せた軍船は、魔王復活を阻止するための次なる戦いに向けて、蒼き海原を力強く突き進んでいくのだった。

(第2巻 完 / 3巻へ続く)

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