最終部 第4章「王都進撃、砂時計の残り火」
『叛逆の灰狼と蒼の騎士 5:蒼穹の双剣』
第4章:王都進撃、砂時計の残り火
1
窓の外には、暗澹たる夜の帳が広がっていた。新都市ヴァルフェンの作戦会議室を支配する沈黙は、バザルタやグランガルドの防衛成功という勝利の熱気を、瞬時に凍りつかせるに十分な重さを持っていた。
部屋の中央、大きな戦術机を囲む面々の視線が、一人の男に集中する。
夜露に濡れた漆黒の装束を纏い、足音もなく現れた隠密――シャドウ。彼の口から発せられた「あぁ。いけそうだ」という短くも確信に満ちた一言の真意を、誰もがすぐには理解できずにいた。
「おい、シャドウ……『いけそう』ってのは、一体どういう意味だ?」
沈黙を破ったのはカインだった。満身創痍の身体を無理に引き剥がすようにして身を乗り出し、その赤髪の下の瞳で隠密を睨みつける。真正面から王都に布陣する数万の魔王軍を、たった2週間という絶望的な猶予の中で殲滅し、魔王の元へ辿り着くなど、軍事的な常識から言えば「不可能」の三文字で片付く自殺行為でしかなかった。
シャドウはカインの問いには直接答えず、ただ無言のまま、懐から手垢と泥、そして乾いた血の跡で酷く汚れた一枚の古い羊皮紙を取り出した。それを、テーブルの上に広げられていた現在の王都の地図の上に、重ねるようにして広げる。
「この数週間、私は本隊の防衛戦には加わらず、単独で王都の外周を調査していた」
シャドウの低く平坦な声が、静まり返った部屋に響く。
「目的はただ一つ。王都の地下に眠る、旧時代の遺構を探すことだ。かつてこの国が建国された遙か古の時代、王族が万が一の政変や有事の際、城外へ密かに脱出するために造られ……そして今や、歴史の闇に完全に埋もれた『地下通路』。その入り口を、王都の外周を囲む荒野の、干からびた古井戸の底で見つけ出した」
その言葉が持つ意味を、部屋の誰よりも早く察知したのは、指揮官としての成長が著しいルークだった。彼は椅子から立ち上がり、目を見開いて地図に手を突く。
「地下通路……!? ということは、地上を埋め尽くしている魔王軍の大軍を完全に迂回して、王宮の内部へ直接侵入できるという意味か!」
「あぁ」シャドウは短く頷いた。「だが、通路は数百年放置され、一部は崩落の危険もある。大軍を通すような真似をすれば、一瞬で生き埋めだ。一度に通れるのは、せいぜい数人……。地上を固める魔王軍が、外の防衛に血眼になっているその一瞬の隙を突き、この通路から一握りの精鋭のみで王宮内へ潜入する。そして、玉座の間の魔王の首だけを直接叩く。……これならば、2週間というタイムリミットが切れる前に、すべての決着をつけられる」
シャドウが提示した、針の穴を通すような唯一の勝機。
しかし、その作戦の危うさを、物資と兵站を管理するマルコが即座に指摘した。
「……待ってくれ。いくら地下から隠密裏に潜入すると言っても、外を囲む魔王軍が健在である以上、王宮内で異変が起きれば、彼らは一斉に内側へと引き返してくる。そうなれば、潜入した数人は城の中で数万の敵に囲まれ、袋のネズミだ。確実に全滅する」
「だからこそ、派手な舞台装置が必要になるのさ」
それまで部屋の隅、窓際の影に佇んでいた男が、ゆっくりと歩み出てきた。
灰狼騎士団長――リチャード。
かつての凄まじい体躯はそのままに、しかし彼の右腕の袖は、魔王との激戦によって失われ、虚しく風に揺れている。だが、残された隻眼ならぬ、鋭くぎらついた両眸の輝きは、微塵も衰えてはいなかった。リチャードは残された左手をテーブルにつき、傲岸不遜な笑みを浮かべた。
「黎牙連合の全軍をもって、王都へ向けて同時に総進撃をかける。敵の全意識、全戦力を、その場から一歩も動かせないよう『外の防衛』へ釘付けにするんだ」
2
リチャードは左手の無骨な指先で、テーブルの上に置かれた各地の駒を一気に中央へと押し動かした。その動きは迷いがなく、まるでこれから始まる巨大な戦の火蓋を、彼自身の手で引きちぎるかのようだった。
「作戦概要を伝える。侵攻ルートは三路、全軍による同時包囲総力戦だ。まず北東からは、城塞都市グランガルドから出撃する鉄血のグスタフ率いる第8騎士団、そして俺たちの第7騎士団の合流部隊。南の陸路からは、商業都市バザルタから進軍するシャディヤ率いるガルザ軍。ここにはラインハルトとムーンライトも従軍させる。さらに大河の水路からは、キャプテン・ヴァルガスが海賊艦隊を率いて魔王軍の海軍を抑え込む。全軍で王都を完全に包囲し、地上で目一杯暴れ回ってやる」
その壮大な、そしてあまりにも過酷な総力戦の規模に、カインやバルカンは息を呑み、同時に武者震いをした。外の軍勢は、勝つために戦うのではない。「潜入部隊から敵の目を逸らすためだけ」に、数万の敵と正面から死闘を演じるのだ。
「そして――」
リチャードの視線が、真っ直ぐにアルトへと向けられた。
「外が戦火に包まれる一瞬の隙を突き、地下通路から王宮の最深部、魔王の玉座の間へと侵入する本隊。……メンバーはアルト、ナナ、シャドウ、そしてアルカード神官長とエルシア姫。この5人だ」
王族の封印の力が目覚めつつあるエルシア姫と、その力を引き出す神術の使い手であるアルカード。そして、圧倒的な突破力を持つ前衛。魔王を完全に討ち果たすための、これ以上ない最小にして最強の結成だった。
「俺たち外の軍勢が、死んでも敵の本隊を外に釘付けにしてやる。お前たちはその隙に、魔王の息の根を止めてこい」
その時、リチャードのすぐ後ろに控えていたナナが、きつく唇を噛み締めた。
彼女はリチャードの副官として、長年彼の背中を守り続けてきた。右腕を失い、万全とは言えない身体で過酷な陽動戦の指揮を執ろうとしているリチャード。本来であれば、自分の命に代えても彼の側に残り、その盾となり、文字通りその右腕とならなければならないはずだった。
(私は、リチャード様の副官だ。なのに……どうして私は、あの人を置いて城の中へ行かなければならないの……?)
ナナの胸の中に、引き裂かれるような葛藤と痛みが広がる。彼女の視線が、リチャードの失われた右袖へと注がれる。行きたくないわけではない。魔王を倒すための作戦なら、喜んで命を捨てる覚悟はある。ただ、不自由な身体で最前線に立とうとする最愛の主君を置いていくことが、彼女の不器用な忠誠心を激しく揺さぶっていた。
そんなナナの視線に気づいたのか、リチャードは振り返りもせず、ただ低く笑った。
「ナナ。アルトはまだまだ甘い。姫様やアルカードを護りながら魔王の元へ突っ込ませるにに、あいつ一人の剣じゃ心許ねぇ。……俺の代わりに、あいつの背中を支えてやってくれ。お前にしか頼めねぇんだよ」
「……リチャード、団長……」
主君からの絶対の信頼を込められた言葉に、ナナは目元を震わせ、やがて溢れそうになる感情を飲み込むようにして、深く、深く頭を下げた。
「……御意。この命に代えましても、アルトと共に、必ず姫様をお護りいたします」
3
重責に満ちた静寂が部屋を包む中、リチャードは自身の腰に帯びていた一本の長剣へと、左手を伸ばした。
それは、かつて彼が「灰狼騎士団長」として大陸中にその勇名を轟かせ、数々の血戦を共に潜り抜けてきた、彼の半身とも言える愛剣だった。リチャードが元々双剣使いであった頃の、左手用の剣。通常の片手剣よりもほんの少しだけ身幅が短く、しかし驚異的なまでの切れ味と、リチャードの闘気が染み付いた鈍い灰色の輝きを放つ名刀である。
リチャードは左手でその灰色の長剣を抜き放つと、切っ先を下に向けるように逆手に持ち替え、その柄をアルトへと差し出した。
「アルト。お前にこれを託す」
「これは……リチャードさんの……」
アルトは息を呑んだ。これまでアルトは、自身の蒼く輝く長剣一筋で戦ってきた。一本の剣にすべてを懸けるのが、彼のスタイルだった。
「右腕のない今の俺には、もう双剣を全力で振るってやることはできねぇ。こいつを錆びつかせるくらいなら、お前の左手に握らせた方が、剣だって本望だろうさ」
リチャードの言葉は静かだったが、そこには世代を超えた重みがあった。
アルトは、自身の腰にある最愛の長剣の柄に右手をかけ、そして震える左手で、差し出されたリチャードの灰色の柄をしっかりと握りしめた。
その瞬間、アルトの身体の芯を、言葉にできない熱い衝撃が駆け抜けた。
右手に蒼穹の長剣。左手に灰狼の短め長剣。
灰と蒼。二つの世代の意志、二つの固い絆が、今、アルトの両手の中で一つに結ばれた。形の上でも、リチャードの魂を引き継いだ「双剣使い」としてのアルトが、この瞬間に覚醒したのだ。その構えは、全盛期のリチャードを彷彿とさせながらも、アルト特有の若く鋭い覇気に満ちていた。
「おい、アルト」
リチャードは不敵に、しかし父親のような温かい眼差しを向けて、愛弟子の肩をポンと叩いた。
「世界を救って、本物の英雄になってこい。お前なら、俺を超えられるさ」
「……はい! 必ず、行ってきます!」
アルトは両手の剣を強く握りしめ、魂の底から応じた。その蒼き瞳には、もういかなる迷いも絶望もなかった。師の剣が、彼の左手にある限り、負けるはずがなかった。
4
しかし、決意を固めた一同の前に、部屋の扉が激しく開き、血相を変えた伝令の兵が飛び込んできた。その顔は恐怖で青ざめ、呼吸すらまともにできていない。
「報、報告します! 王都周辺の偵察部隊より緊急伝令!!」
息を切らす兵の叫びに、ルークが鋭く尋ねる。「何があった、落ち着いて話せ!」
「王都の……王都の全域から、禍々しい紫色の不気味な魔力が溢れ出しています! その『呪いの波動』は凄まじく、王都に近づくだけで並の兵は精神を乗っ取られ、理性を失って互いに殺し合いを始める始末……! 先遣隊の数名がすでに発狂しました! もはや、包囲することはおろか、近づくことすら不可能な状況です!!」
「なんだと……!? 近づくだけで精神を破壊されるというのか……!」
カインが絶句し、机を叩いた。
近づくだけで精神を汚染される呪いの要塞。それでは、陽動のための総力戦どころか、軍を進めることすらできず、地下通路の入り口に近づくことすら叶わない。あまりにも圧倒的で理不尽な魔王の力に、誰もが再び深い絶望の淵へと突き落とされ、言葉を失った。
だが――その絶望的な報告を聞いてもなお、部屋の片隅で、ただ一人不敵に笑う男がいた。
「ハッ……ハハハハ! さて、いよいよフィナーレに相応しい舞台になってきたじゃねぇか」
リチャードだった。彼は両眸を愉快そうに細めると、作戦会議室の奥に控えていた二人の人物へと視線を向けた。その表情には、怯えなど微塵もない。
「アルカード神官長、姫様。――例のものは、もうできてるかい?」
リチャードの問いかけに応じるように、部屋の奥の薄暗がりから静かに歩み出たのは、初老の神官長アルカード、そしてその隣で気高く、しかし力強い瞳をした王国の姫君――エルシア・レガリアだった。
エルシア姫は胸元で淡く光る王族の紋章を愛おしそうに撫で、アルカードは穏やかな、しかし決意に満ちた笑みを浮かべて頷いた。その手には、仄かに聖なる光を放つ、美しく透き通った液体が握られている。
「ええ、リチャード殿。この日のために、姫様と共に古城フェンリルで祈りを捧げ、呪いを排す秘術を練り続けてまいりました。魔王の呪いなど、黎牙連合の絆を阻む理由にはなり得ません」
アルカードの言葉に、絶望に沈んでいた一同の顔に一筋の光が差し込む。
リチャードは部屋の全員を見渡し、牙を剥き出しにするような、最高に狂暴で、そして誰よりも頼もしい狼の笑みを浮かべて吠えた。
「作戦続行だ、野郎ども! 狼の進撃を、今度こそ魔王の野郎に見せつけてやるぞ!!」
絶望の夜を超え、砂時計の最後の残り火が激しく燃え上がる。黎牙連合の、世界を取り戻すための本当の反撃が、今ここに始まった。
5
作戦会議が解散した後のヴァルフェンは、奇妙なほど静かだった。
明日には数万の軍勢が王都へ向けて進軍を開始する。誰もがそれを理解している。だからこそ、城内には祭り前の高揚ではなく、嵐の前のような張り詰めた空気が満ちていた。
廊下では兵士たちが黙々と剣を研ぎ、革鎧の紐を結び直している。
中庭ではバルカンが巨大な戦斧を肩に担ぎながら豪快に笑い、若い義勇兵たちの緊張を無理矢理吹き飛ばしていた。 「おらおら! 明日死ぬかもしれねぇんだ! だったら今夜くらい腹ァ抱えて笑っとけ!!」
だが、その喧騒から少し離れた回廊は静寂に包まれていた。
アルトは一人、月光の差し込む石造りの廊下に立ち、静かに二本の剣を見つめていた。
右手には、自身の蒼穹の長剣。 左手には、リチャードから託された灰色の剣。
重い。
それは剣そのものの重量ではなかった。
この剣には、リチャードがこれまで斬り抜けてきた戦場の記憶が染み付いている。 守れなかった命。 救った仲間。 血と泥に塗れながら、それでも前へ進み続けた「灰狼騎士団長」という男の、生き様そのものが。
(俺なんかに、本当に扱えるのかよ……)
ふと、昔の記憶が蘇る。
まだ第7騎士団に入ったばかりの頃。 訓練場で、双剣を軽々と振るうリチャードを見て、アルトは呆れたように笑ったことがあった。
『双剣なんて器用な真似、俺には絶対無理ですよ』
するとリチャードは豪快に笑いながら、木剣をアルトへ投げて寄越したのだ。
『馬鹿野郎。双剣ってのはな、器用な奴がやるもんじゃねぇ。“守りてぇもんが多すぎる馬鹿”がやる戦い方だ』
――あの時は、意味なんてわからなかった。
だが今ならわかる。
守りたい仲間がいる。 守りたい世界がある。 だから自分は、二本目の剣を取ったのだ。
アルトは静かに両手の剣を構える。
蒼の斬光と、灰色の刃。
二つの剣は不思議なほど自然に手に馴染み、まるで最初からそうあるべきだったかのように、アルトの身体へ溶け込んでいく。
「……ちゃんと使いこなしてみせますよ、リチャード団長」
その時だった。
「眠れないの?」
背後から、静かな声が届く。
振り返ると、そこには第7騎士団副長のナナが立っていた。
彼女はいつもの副官服ではなく、黒い軽装の戦闘衣に身を包み、腰には短剣を提げている。すでに潜入任務用の装備へ切り替えているのだろう。
「ナナ副長……」
ナナはアルトの左手の剣を見つめ、小さく微笑んだ。
「似てきたわね。昔の団長に」
「俺なんて、まだまだですよ」
「そうかしら」
ナナは月明かりの差す窓辺へ歩み寄ると、遠く離れた北の空を静かに見上げた。
「……団長は、昔から無茶ばかりする人だった」
ぽつり、と呟く。
「誰より前で戦って、誰より傷ついて、それでも絶対に弱音を吐かなかった。……でもね、夜になると、一人で剣を振っていたの」
アルトは目を見開く。
「右腕を失ってからも、ずっと」
ナナの声は微かに震えていた。
「眠れない夜になると、誰にも見られない中庭で、片腕のまま剣を振っていた。“まだ戦える”って、自分に言い聞かせるみたいに……」
その横顔は、今にも泣き出しそうだった。
「本当は、私が側にいるべきなのに」
副官として。 騎士として。 そして――ずっと、彼を見続けてきた一人の女として。
ナナは拳を強く握り締める。
だがアルトは、静かに首を横に振った。
「違います」
「……え?」
「リチャード団長が、ナナ副長を俺たちに託したんです」
アルトは左手の灰色の剣を見つめながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「この剣と同じです。リチャードさんは、自分が一番信頼してるものを、俺たちに預けた」
ナナはしばらく黙ったまま、やがて小さく笑った。
「……本当に、生意気になったわね」
「誰の背中を見てきたと思ってるんです?」
その返答に、ナナはとうとう吹き出した。
短い笑い声。
けれどそれは、張り詰めていた心を少しだけ軽くする、確かな笑顔だった。
遠くで、出陣を告げる鐘が鳴る。
王都決戦まで、残された時間はもう僅かしかない。
それでもアルトたちは、もう前を向いていた。
(第5巻:第5章「揺らぐ天秤、王都包囲総力戦」へ続く)




