第3部 第5章「新たなる旗印」3部完
『叛逆の灰狼と蒼の騎士 3巻』最終章:新たなる旗印
1
「――ですから! グランガルドの戦後処理で手に入った石材はすべて要塞の補強へ、バザルタから接収した鉄釘は城門の修理へ回しなさい! 私は『今すぐ城内の防衛線を最優先しろ』と言っているのです、ルーク!」
王国の最北端、切り立った断崖の頂に聳え立つ古城フェンリル。
かつては第7騎士団が静かに身を隠すための寂れた隠れ家だったこの城は、いまや熱病のような熱気と、終わりなき怒号に包まれていた。
内政責任者のマルコは、徹夜続きで完全にクマの浮き出た目を血走らせ、机の上に広げた「フェンリル城内の制限区域図」を叩いていた。
北東の巨大要塞グランガルドの陥落。 南西の巨大商業都市バザルタの接収。
これら二正面同時反攻作戦の大成功は、王国全土に地殻変動とも言える衝撃を与え、同時にこの古城フェンリルには、嬉しくも致命的な悲鳴をもたらしていた。
王国の圧政に耐えかねていた義勇兵、元正規軍の退役騎士、さらには住処を追われた領民たちが、文字通り「爆発的」な規模で、この地へと集結しつつあったのだ。
「まぁ落ち着けってマルコ。あの難攻不落のグランガルドをアルト隊長が落としたんだぜ!少しは勝利の余韻に浸らせろよ。釘がなきゃないで、ほら、海賊どもの紐の結び方で臨時の天幕くらいどうにでも補強できるだろ? 現場の若者たちも、お前が作った『ギチギチの詰め込み配置図』を見て、ため息つきながら丸太を組んでるぜ」
ルークは元々アルト隊の副官である。アルトの活躍にこの上ない喜びを感じているようだ。窓枠に腰掛け、リンゴを齧りながら気楽な声を上げる。
「作戦に勝ったのは天上の喜びですが、現場の現実は地獄です! 私が今やっているのは、この狭い古城フェンリルの中に、あと何百人の人間を『押し込めるか』という、限界を超えた引き算のパズルなんです! 紐で結んだだけの天幕など、北の冬の強風で一瞬で消し飛びます! ああ、もう! 食糧の配給計算も、冬越しの衣服の調達も、すべてが限界です……。このままでは、敵が攻めてくる前に、フェンリルそのものが内側から自重でパンクします!」
マルコが頭を抱えて机に突っ伏した、その時だった。
「おぅマルコ! 景気良く頭から煙吹いてるな!」
部屋の扉がノックもなしに乱暴に開いた。入ってきたのは、かつてマルコと共に王都の平民街で泥をすすり、今は北方の猟師や農夫上がりの義勇兵を束ねる大柄な男、バルカンだった。その手には、泥のついたスコップが握られている。
「バルカン……! あなたまで私の胃を破壊しに来たのですか。今、城内のスペースの割り振りが一坪単位で狂っていて、それどころでは――」
「いやさ、お前がフェンリルの山の上で、数字ばっかり睨んで『どうやってこの狭い城に詰め込むか』ってカリカリしてるからさ。ちょっと下りたあの海沿いの平原を見てみろよ。毎日、国中の元大工だの石切り職人だのが、俺も手伝うべ、私やるべって、何千人も集まって泥まみれで手持ち無沙汰にしてんだ。バザルタから帰還した第8騎士団の連中もいる。働き手なんて、それこそ腐るほど余ってる」
バルカンはスコップを肩に担ぎ、窓の外の下方に広がる、広大な白銀の平原と寂れた漁村を親指で指し示した。
「なぁマルコ。お前は『フェンリルをどう維持するか』で頭が爆発しそうになってるみたいだが、逆だよ。いっそのこと、フェンリルからちょっと離れた、あの下の海沿いに『新しい街』を作っちまったらいいんじゃねぇか? 義勇兵も領民も、働き手はいくらでもいる。バザルタからは船で物資も職人もいくらでも送られてくるんだろ? ヴァルガスの海賊どもの快速船だってある。だったら、あの海沿いの村を一気に人海戦術で拡大して、島に駐屯してる第7騎士団や、各地の義勇兵が全員集まれるような、圧倒的にデカい『本拠地(都市)』をゼロから作っちまうんだよ。そうすりゃ、この古城フェンリルは、純粋に北を守るための『戦う要塞』に引き算できるだろ?」
「あ――」
マルコの思考が、一瞬で完全に停止した。
だが、内政の天才である彼の頭脳は、バルカンが何気なく放った言葉を凄まじい速度で計算し、全く新しい未来の設計図へと変換し始める。
(そうだ……なぜ気づかなかった! この狭い城の中に人間を収める必要などない。バザルタの圧倒的な物流、海賊の海上輸送力、棚ぼたのように余っている爆発的な余剰労働力。これらを一点に集中させれば、麓の広大な平原にゼロから新都市を構築することすら、不可能ではない……!)
「バルカン……あなた、たまには脳みそが詰まっているようなことを言うのですね!」
「おい、たまにはって何だ! これでも一応、現場の隊長だぞ!」
「ルーク! リンゴを食べている暇があるなら、今すぐアルト殿とラインハルト副長、そしてリチャード団長を下の本陣から呼び戻しなさい! 決定です、これより『新都市総力建築計画』の立案に移行します! 全員、寝る時間はなくなりましたよ!」
「へいへい、合点承知! お前がその気なら、一晩で港の土台を立ち上げてみせるぜ!」
ルークが窓から飛び降りるような勢いで部屋を後にする。マルコは引き裂くように新しい白紙の羊皮紙を広げ、麓の平原と港を一気に繋ぐ、数万人規模の『大解放都市』のデッサンを猛烈な勢いで描き始めるのだった。
2
マルコの綿密な新設計図と、バルカンが率いる義勇兵たちの爆発的なマンパワーが融合し、北の大地で歴史上類を見ない「超電撃都市構築」が始まった。
港湾エリアでは、商業都市バザルタから接収した数百隻の商船と、ヴァルガス海賊団の船団が、ひっきりなしに石材や最新の建築資材を運び込んでくる。
「野郎ども、サボってんじゃねえ! これは俺たちの新しい『家』だ! 嵐が来てもビクともしねえ最高のドックを組み上げろ!」
首領ヴァルガスが自ら上半身裸になって丸太を担ぎ、刺青だらけの海賊たちが歓声を上げながらクレーンを巻き上げていく。
一方、陸側の広大な平原では、異なる出自の数万人が、まるで一つの生き物のように連動していた。
昨日までは泥だらけの荒野だった場所に、今日は整然とした兵舎が建ち、明日には民衆のための市場の骨組みが姿を現す。
しかし、その活気溢れる建築現場から少し離れた、荒涼とした練兵場からは、地鳴りをも引き裂くような、別の意味で苛烈な怒号が響き渡っていた。
「そこっ! 構えが甘い! そんな脆弱なした足腰じゃ、王都の正規軍に一瞬で首を撥ねられてしまいますよ! ほら、槍を真っ直ぐ突き出して!」
第7騎士団副長・ナナである。
彼女は自身の身の丈を超える漆黒の大剣を軽々と肩に担ぎ、集まった血気盛んな、しかし戦い方を全く知らない「烏合の衆」である新兵や義勇兵たちを、完璧な兵士へと鍛え上げるため、笑顔でありながらも容赦のない鬼教官として君臨していた。
「ナナ副長、相変わらず容赦ないな……。見てるこっちの背筋が伸びるぜ」
カインが、泥にまみれて這い回る新兵たちを苦笑しながら見守っていた。その横には、アルトとラインハルトも並んでいる。
「厳しいが、あれがナナなりの、あの実直な少女なりの『優しさ』なのだ」
ラインハルトが静かに腕を組んだ。
「戦場で無駄に命を落とさせないためには、今のうちに限界まで叩き込むしかない。グスタフ閣下たち各騎士団の長が、フェンリル城内で今後の軍事戦略の構築や、グランガルド、バザルタの防衛や付近の平定に追われている以上、現場を任せられるのは彼女のような実力者しかいないからな」
「はい。みんな、僕たちを信じて、ここで必死に変わろうとしてくれている……」
アルトは蒼き瞳を輝かせ、過酷な訓練に耐える新兵たちと、その背景で刻一刻と形を成していく巨大な街並みを見つめた。
アルトは、自身の両手を見つめた。
「グランガルドの戦いの時……僕はどうやって勝利を掴むかだけを考えていた。でも、違ったんだ。僕が立てた作戦の先には、こうして泥をすりながらも前を向こうとしている、この人たちの生きた命と未来があったんだね」
「ふっ……良い目になったな、アルト」
ラインハルトが微かに口元を緩めた。
「リチャード団長という絶対的な『反逆の象徴』がこの軍を引っ張り、君がその裏で、若手の将校や義勇兵たちから『信頼される若き将軍』として確実に根を張っている。この軍勢は、今まさに最高の形になろうとしているのかもしれないな」
若き新星としての自覚と、勝利の先にある人々の営みを守るという決意。それが、アルトがこの激闘の果てにたどり着いた、本当の「戦う意味」だった。
数週間という、常識外れの短期間で産声を上げたその大都市は、古城フェンリルと、その足元に広がる美しい狼の平原、工程に加わったヴァルガス海賊団らの名にちなんで、人々からこう呼ばれるようになった。
――解放都市『ヴァルフェン』。
これにより、古城フェンリルは純粋な「戦うための堅牢な要塞」へとその姿を戻し、北部防衛線は完璧なものとなった。
3
新しく完成したばかりの、白い石造りの大広場。
そこは、数万人の騎士、義勇兵、そして各地から集まった領民たちの熱気で、足元が震えるほどに満たされていた。あちこちに、第7騎士団の灰色の旗、第8騎士団の白銀の旗、義勇兵の青い旗、海賊団の黒い旗が翻っている。
広場の中央に設置された高い壇上。
そこに、純白のドレスに身を包んだエルシア姫が、ゆっくりとした足取りで姿を現した。
その傍らには、この泥塗れの叛乱軍をここまで引っ張り上げてきた絶対的な指導者、第7騎士団団長【灰狼】リチャードが不敵な笑みを浮かべて立っている。厳格な表情で佇む第8騎士団団長グスタフ、第7騎士団副長のナナ、同じくラインハルト、赤鎧騎士カイン、神官長アルカード、そして、グランガルドを落とした若き名将として若手たちから熱い視線を浴びるアルトといった将たちが一堂に会していた。
エルシアが前に進み出ると、あれほど騒がしかった数万の群衆が、水を打ったように静まり返った。誰もが、この若き姫の口から放たれる言葉を待っていた。
エルシアは、広場を埋め尽くす一人ひとりの顔を、愛おしそうに見つめた。そこには、王都の圧政で家族を失った者、飢えに震えていた者、それでも戦うことを諦めなかった者たちの目が、爛々と輝いていた。
「我が同胞たちよ。自由を求めて立ち上がった、勇敢なる戦士たちよ」
エルシアの声は、魔力による拡声などなくとも、その場にいる全員の胸の奥底へと、信じられないほどの透明感を持って染み渡っていった。
「私たちは、暗闇の中にいました。王都は魔の手に落ち、正義は踏みにじられ、この美しい王国は引き裂かれました。誰もが絶望し、ただ終わりを待つしかないと、そう思っていたはずです。……ですが、いま、皆さんの目の前にあるこの景色を見てください」
エルシアは両手を広げ、新しく建ち並ぶヴァルフェンの街並みを示した。
「ここにあるのは、ただの石の壁や木の家ではありません。これは、皆さんが自らの手で築き上げた、私たちが生きていくための『希望の砦』です! 王都の魔王は、私たちを恐怖で支配しようとしました。しかし、私たちは屈しなかった! 【灰狼】のリチャード団長率いる第7騎士団が、グスタフ団長率いる第8騎士団が、海を駆ける戦士たちが、そしてここにいるみなさんが、手を取り合ってこの奇跡を成し遂げたのです!」
群衆の間から、じわじわと熱い感情が込み上げていくのが分かった。ナナは熱い涙を堪えながら壇上を見上げ、カインは静かに胸に手を当てている。リチャードはパイプを咥えたまま、ふっと満足そうに目を細めた。
「今や、私たちはただ逃げ回るだけの反乱軍ではありません。人間としての尊厳を取り戻し、邪悪なる魔の軍勢からこの世界を奪還する、正統なる光の軍勢です! 私はここに、私たちの想いを一つにするため、この混成軍の正式な名を宣言します!」
エルシアが振り返り、リチャード、そしてアルトを見つめて深く頷いた。アルトが指示を出すと同時に、壇上に巨大な「新しい旗」が掲げられた。それは、暗闇を切り裂く狼の牙と、気高き騎士の剣が交差する、全く新しい紋章だった。
「――我ら、世界を拓く光の調停者! その名を、『黎牙連合』とする!!」
エルシアの凛とした宣言が、冬の澄んだ夜空へと突き抜けた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、ヴァルフェンの街全体が爆発したかのような、凄まじい大歓声が沸き起こった。
「おおおおおおおッ!!」
「黎牙連合! 黎牙!!」
「エルシア姫万歳! リチャード団長万歳!!」
「アルト将軍万歳!!」
若き兵士たちがアルトの名を叫び、騎士たちは剣を抜き放って天へと掲げ、民衆は抱き合って涙を流した。異なる出自、異なる過去を持つ数万の魂が、この瞬間、完全に「一つの巨大な牙」として融和し、燃え上がったのだ。
歓声の嵐の中、アルトは掲げられた旗を見上げながら、その拳を強く握りしめていた。
(黎牙、狼の牙の夜明け。ここからだ。僕たちの、本当の反攻が始まる――)
4
――黎牙連合が結成され、ヴァルフェンが狂熱のような歓声に包まれていた、まさにその同時刻。
そこから遥か遠く、王国の西方国境。
人間が立ち入ることを拒むような荒涼とした岩肌が続き、かつて世界を震撼させた『西の災厄』の舞台となった西の防衛線。
吹き荒れる強風の中、その国境線のさらに向こう側――見渡す限りの広大な荒野と、その先にある漆黒の森の奥深くで、王国の内乱をじっと見つめる「巨大な影」があった。
暗闇に佇んでいたのは、王国の常識を遥かに超えた巨体を持つ、数十頭もの「戦象(象兵)」の静かな群れだった。その背には、全身に幾何学模様の刺青を施した、屈強極まる蛮族の戦士たちが、息を潜めて王国側を睨みつけている。
さらにその周囲を、人間の背丈ほどもある、巨大な白銀の狼に跨った「狼兵」の集団が、不気味なほど無音で取り囲んでいた。
その軍勢の総数、およそ三万。
しかし、彼らはまだ動かない。ただ、その圧倒的な暴力の塊が、国境のすぐそばで静かに「鎌を研いでいる」かのような、極限の緊張感だけが漂っていた。
軍勢の最奥。ひときわ禍々しい装飾が施された巨象の上の玉座に、どっかりと腰を下ろしている一人の男がいた。
白髪交じりの長い髪、顔中に刻まれた無数の戦傷、そして、対峙する者すべてを圧殺せんばかりの、悍ましいまでの覇気を放つ男。
かつて第一次、第二次と、二度にわたって王国を血の海に沈め、人々に消えない恐怖を植え付けた張本人――蛮族ガルザ族の王、その人であった。
「父上。東の国(王国)で、灰色の狼と蒼い騎士が、新たな軍の旗揚げをしたとの報が届いております」
巨象の傍ら、一頭の白狼の背に跨る褐色肌の美しい姫将軍――シャディヤ・ガルザが、肉食獣のような鋭い瞳を王国の空へと向けながら、静かに、しかし苛烈な声を響かせた。
ガルザの王は、重々しく隻眼を開くと、地鳴りのような低い声で笑った。
「黎牙、と言ったか。内輪揉めで牙を研いだ気になっているか、哀れな人間どもめ……。だが、いい機会だ。我がガルザが再び世界を蹂躙する『第三次西の災厄』の刻は、そう遠くない。あの脆弱な国が、今しばらくその小さな牙を突き合わせ、互いに血を流し合うのを特等席で見物しようではないか」
王の禍々しい笑い声が、西の荒野の夜風に溶けていく。
攻め込むためのカウントダウンは、すでに始まっていた。
新しく産声を上げたばかりの『黎牙連合』に、王都の魔王だけでなく、西の地平線から世界を滅ぼすほどの大嵐の予兆が、静かに、確実に忍び寄りつつあった。
(第3巻 完)




