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都・開封、その最奥。
権力の腐臭が漂う高俅の私邸では、梁山泊の伏兵撃退の報が届いても、主の眉ひとつ動かなかった。
「……野犬どもが、少々吠えたか」
高俅は、池の金魚に餌を投げながら、背後に控える男に声をかけた。そこにいたのは、軍師でも将軍でもない。影のように薄暗い気配を纏った、朝廷の秘密工作を司る官僚であった。
高俅の謀略は、武力でねじ伏せるような生易しいものではなかった。彼は、梁山泊という組織の「心臓」が、宋江という男の「病的なまでの忠義」であることを知り抜いていた。
一、 偽りの御真筆
高俅が仕掛けた第一の矢は、**「偽の特赦状」**であった。
皇帝の筆跡を完璧に模したその書状には、こう記されていた。
「宋江の忠心は聞き及んでいる。先の衝突は高俅の独断によるものであり、朕の本意ではない。宋江、貴殿ひとりが都へ来い。膝を交えて、この国を救う策を練ろうではないか」
これは、宋江個人の「認められたい」という虚栄心と、仲間を救いたいという自己犠牲の精神を同時に突く、猛毒の餌であった。
二、 離間の計
同時に、高俅は梁山泊の内部へ「噂」を流した。
潜伏させていた間者に、好漢たちの耳元で囁かせたのである。
「宋江は、自分だけが助かるために、我々の首を朝廷に売るつもりだ」
「林冲や武松のような『前科者』は、特赦の対象外らしいぞ」
戦い疲れた好漢たちの心に、疑念という名の小さな火種が落とされた。昨日まで背中を預け合っていた仲間の視線が、わずかに、しかし決定的に冷え始める。
三、 血の署名
さらに、高俅は最も非情な一手を用意していた。
彼は、かつて梁山泊に家族を殺された者や、彼らに土地を奪われたと主張する民を都に集め、彼らに**「血判状」**を書かせた。
「梁山泊は義賊ではない。彼らは我々の暮らしを壊した賊だ。宋江を許すことは、天理に背く」
この訴えを天下に布告し、宋江を「民から最も憎まれる男」へと仕立て上げたのである。
宋江が掲げる「替天行道」の旗印は、その足元から崩れ始めていた。
四、 聚義庁の亀裂
梁山泊の陣営に、その「皇帝からの特赦状」が届いたとき、空気は凍りついた。
「兄貴、これに行っちゃいけねえ!」
李逵が吠えた。「罠だ、目に見えてる罠だ!」
しかし、宋江の瞳には、抗いがたい熱が宿っていた。
「……もし、これが本物だとしたらどうする。私ひとりの命で、お前たち百七人の罪が消え、この国のために働ける場所が与えられるのだとしたら、私は行くべきではないのか」
「宋殿!」
林冲が鋭く声を上げた。
「高俅は、貴殿を殺すのではない。貴殿の『義』を殺そうとしているのです。貴殿が都へ行けば、梁山泊は魂を失った死体となる」
呉用は、一言も発せずにいた。
彼は知っていた。この謀略の恐ろしさは、宋江自身が「これが罠だと知りながら、行かずにはいられない性格であること」を完璧に計算に入れている点にあるのだ。
外では、再び雪が降り始めていた。
高俅が仕掛けた、血を流さぬ「精神の包囲網」。
宋江という巨大な宿星は、自らの忠義という重力に引きずられ、破滅へと続く都の門へと、その身を傾け始めていた。




