移民
「……最近、このあたりも野良犬が増えたな」
チャールズがぽつりと呟いた。空は黒ずんだ雲が低く垂れこめ 、風に運ばれた湿った土の匂いが鼻の奥に絡みつく。ジョンはちらりとチャールズに目をやり、小さく頷いた。
ベンは「うん」とも聞こえるような短い咳払いをした。ベンは耳が遠く、ほとんど聞き取れなかったのだ。しかもチャールズは独り言が多い。聞き返すと、不機嫌になることがこれまでたびたびあった。
二人は丘の上の古い木製のベンチに肩を並べて腰掛けていた。塗装の剥げた板はざらつき、埃っぽく、手で撫でると指先がうっすら汚れる。丘の斜面の向こうには灰色にくすんだ町並みが続き、屋根の列が時の移ろいを黙って受け入れていた。
「……最近、野良が増えた」
「ん? ああ……」
「イミンノエイキョウってやつらしいぞ。おれたちと違って、奴ら基本、放し飼いなんだと」
「そうなのか。けど、飼われていることには変わりないんだろう?」
「そいつらが抜け出して、野良になっているんだとよ」
「ああ……」
「しかも、飼われているやつまで野良の群れに混ざっているらしい」
「なるほどな。荒れてるわけだ。ほら、いつもの公園にも行かなくなったろ。あそこ、野良がうようよしてるからな」
「ああ、まったく迷惑な話だよ」
「……なあ、知ってるか?」
「うん?」
「イミンのやつら、犬でも食うらしいぞ」
「え……冗談だろ?」
「本当さ。そう聞いた」
「全員が……?」
「たぶんな。腹が減ったら、そのへんのをとっ捕まえて食うって話だ」
「おぞましいな……小便ちびりそうだ」
「ひひひ、まったくだ。そんな連中がうろついていると思うと、おちおち寝てもいられん」
「危ないのは野良だけだよな? 飼われているやつは大丈夫だろ?」
「どうだかな。レイの家なんかボロいし、空き家と見分けがつかん。出入り自由だろ」
「まったく厄介だな……」
「ああ、まったくだ……あっ、来たぞ。イミンだ」
「本当だ……こっちにはまだ気づいていないみたいだが……うわ、あいつらゴミを漁っているぞ」
「野良と見分けがつかんな……あっ、こっちへ来るぞ。まずい」
「本当だ、おい、おい!」
チャールズは膝に手を当て、ゆっくりとベンチから立ち上がった。ひと呼吸おいてから振り返り、「あの野良犬どもめ……」と苦々しげに吐き捨てた。
ベンは「ん?」と短く声を漏らし、目を細めて野良犬たちのほうを見やる。数匹の野良犬が足を止め、距離を保ったまま、チャールズたちをじっと窺っていた。
「移民がこの国へ一緒に連れてきたんだ。狂犬病のワクチンとか、ちゃんと打っているのかね」
「さあな……。役所は彼らに少し甘いからな」
「少し? 少しだって? 何度苦情を出しても放し飼いをやめさせやしない! びびって強く言えないんだ。そのせいで野良犬が増えて、いつもの公園にも行けなくなったってのに、ここまで来やがって!」
「まあまあ……ほら、首輪が付いてる。飼い犬だよ」
「だからなんだ? 好き勝手に出歩いているなら野良と変わらんだろう! しかも飼い犬が混じっているせいで、駆除もできないらしいじゃないか」
「んなことないさ。やるときはやってくれるだろうよ」
「いいや、あいつらに文句言われるのが嫌で、見て見ぬふりだ。やりたい放題だよ、まったく。集まって騒ぐわ、ゴミはその辺に捨てるわ、勝手に持っていくわ、夜は音楽をガンガンかけてよ」
「えっ、犬が音楽を?」
「移民が!」
「まあまあ……あ、ほら、こいつらにはむしろいいことかもしれん。おれたちが先に死んだとき、仲間に入れてもらうかもしれないだろう?」
「野良犬の仲間にか? どうだか。いじめられはせんかね」
「犬同士はうまくやるさ。最初は反りが合わなくても、そのうち仲良くなるよ。ほら、さっきから見つめ合ってるしな」
チャールズはふんと鼻を鳴らし、風に煽られた上着の裾を押さえた。
「はあ……まあいい。帰るよ。風が強くなってきた。ほら、帰るぞ。ジョン」
「あいよ。うちもそろそろ帰るかな。三郎、立ちなさい」
ジョンはチャールズを見上げ、静かに頷いた。
「じゃあな、三郎。もう帰るらしい。イミンには気をつけろよ」
「ああ、お前もな、ジョン」
二人と二匹は左右に分かれて歩き出した。吹きすさぶ風が、どこかからゴミの匂いを運んでくる。チャールズとジョンは同時に鼻をひくつかせ、一方は顔をしかめ、もう一方はどこか嬉しそうに口元を緩めた。




