九
男は何度か後ろを振り返ったあと、六飛たちを撒いたと安心したのか、歩調を緩めた。
六飛も走るのをやめた。男の歩く速さに合わせ、男を見失わないだけの距離をとって、瓦の上を歩く。とこどき屋根から屋根に飛んだりもするので、紅珊は背負ったままだ。
にぎやかに明るい一画が近づいてきた。六飛は辺りでいちばん高い建物の屋根に立ち、男の行き先を俯瞰する。男は飲んだり遊んだりする店が集まる華やかな通りを進んでいく。その中の一軒に男が入っていくのを見届けて、六飛は高層の屋根から下層の屋根へ飛び、そして地面に降り立った。この先は明るく、人の往来も多い。屋根の上を歩くなんて怪しいことはしないで、道行く人に紛れて普通に歩いた方がいいだろう。
膝を折って、紅珊の足を地面に下ろした。だが、自分の肩に回された紅珊の手が離れようとしない。それが、がちがちに強張って自分にしがみついているのに、やっと気づいた。そういえば、自分が走り出してから、紅珊はひと言も発してなかった。
肩から腕を外してやると、紅珊は、ぺたん、と地面に尻をついた。自分では一歩も走っていないのに、息切れしている。
心配になった。
「腰、抜けてないよね?」
「……抜けてないわよ……!」
予想外の大きな声。紅珊はあわてて自分の口を両手でおおい、六飛も思わずその上から手をかぶせた。
しばらくじっとして辺りをうかがったが、暗い裏道は静かなままで、ふたりしてほっと息を吐いて手を離した。
「……うどん八杯食べるなんてタダモノじゃあないとは思っていたけど」
声を潜めて紅珊がささやく。
「まさか、さっきのカアサンセンリダケドって冗談じゃなくて……」
心臓が、どきっ、と跳ねた。
「……なんてはずはないし。仙狸の子はすっごい美形のはずだもの。いったい、どこでどんな修行をすれば、あんなことができるようになるの?」
いや、すっごい美形って。どこでどんな、って……。
「……白風山で、すっごい修行……」
いろいろと動揺して、正直に言っていた。
紅珊の目が丸くなる。
「うそ。伝説の?」
「ええと、その、子どものころ、迷い込んで」
自分を見る紅珊の目の表情が少し変わった気がした。
「それであんなことができるんだ……」
あんなこと、って、うどん八杯か? いや、うどん八杯は福平だっていけた。屋根から屋根がまずかったのか? ひさしぶりの人間界で加減がわからなくなっているようだ。
「それで……なのかな……」
紅珊がもう一度ささやいた。
「さっき、六飛にいろんなことをしゃべっちゃったの……。会ったばかりなのに、なんとなくほかの人とは違う感じで……」
ほんの少し首をかしげて六飛を見つめ、ハッと何かに気づいたように尋ねてきた。
「ねえ、まさか、白風子さまに修行をつけていただいたの? それで猫の名前が白風子さまのハクなの?」
答えようとしたら、その前に首の後ろをかぷと噛まれた。師匠だ。──言うな、ってことだろう。わかっている。
「山であったことは、ヒトに話しちゃダメなんだ。仙界との約束にたいなやつで」
紅珊は少し残念そうに、けれども納得顔でうなずいた。六飛は胸を撫でおろす。
だが、『白風山ですごい修行』はこれからも使えそうだ。普通の人間ができないことをうっかりやってしまったときは、全部これの成果にしよう。
白風子を肩に乗せ、紅珊と並んで歩きだす。
高い屋根の上から見下ろした、華やかな通りに出た。並んだ店の門前には洒落た飾り提灯が揺れ、明るい格子窓から、浮き立つような楽曲や高い笑い声が聞こえてくる。
店の前に立つ幇間が、ちらり、と不審そうな視線を投げてきた。いや、幇間だけじゃない。前から歩いてきたふたり連れの男たちがやはり同じ目でこちらを見て、すっと自分たちを避けた。で、六飛は気づく。決して裕福には見えない若者と道服の少女の取り合わせが、完全に場違いなことに。
案の定、というか、男の男が中に消えた店に入ろうとして、扉の前で慇懃無礼に止められた。
「申し訳ございませんが、一見さまはお断りいたしておりまして。どなたかのご紹介状などはお持ちでしょうか」
驚いた。紹介状? そんな高級店なのか。でも、あんなチンピラくさい男だって入れたんだぞ?
「ないけど、でも、あの……」
「あいにく紹介状はありませんが」
おたおたする六飛をぐいと押しのけ、紅珊が前に出た。まじめな顔で拱手してから、懐から細長い紙を取り出し、店の男に差し出す。
受けとって、店の男が表情を変えた。
「これは、県令さまの」
「私どもは道を学ぶ者。県令さまが近ごろ方士を使われていらっしゃることはご存じでしょうか」
「仙狸の子の──。では、あなた方が」
男の腰が低くなっている。その紙、県令が方士たちの身分を保証する手形のようなものか?
「弟子の身ではございますが。少し気になる卦がこちらの方角に出ましたので」
「まさか、仙狸の子が? まさか、うちの店に?」
「いいえ、あやかしの気配はありません。けれど、建物の中に悪い気が溜まっている場所があるようです。簡単な祈祷で祓えますが」
不安そうだった男の顔に、警戒の表情が現れた。
「それは……お礼は如何ほど」
紅珊は、にこり、と微笑む。
「心配はご無用です。城市の安寧は県令さまのご依頼のうちと心得ております」
男はほっと緊張を緩めた。
「では、お願いいたします」
中へ入ると、普段着では居心地が悪くなるくらい洗練された内装の店だった。西域風の音楽が耳に心地よく演奏されている。衝立からのぞく客たちの髪のつくりや装束も何気なく品がいい。
高級店だ。自分たちが入り口で止められたのはわかるけれど、あのチンピラがなぜ入店できたのか、謎だ。
ともかく、辺りの音と気配を探り、六飛は前を行く紅珊にささやいた。
「二階に個室があるんじゃないかな。さっきの男の声がするけれど、内容までは聞き取れない」
紅珊は小さくうなずき、二階への案内を男に頼む。
予想通り、二階には個室がいくつか並んでいた。六飛は耳を澄ませ……。
「いちばん奥の部屋にいる」
気配はふたつだ。男と、もうひとり。
「ちょうどいいな、手前の部屋、誰もいない。そこなら、話が聞こえると思う」
紅珊は六飛が目で示した部屋の前で足を止め、店の男を見上げる。
「この部屋が問題の場所です。祈祷が終わるまで、誰も入らないようにお願いできますか?」
承知しました、と頭を下げて男が階下へ去っていくのを見届けて、六飛と紅珊はささっと扉を開き部屋の中に滑り込む。
六飛はすぐに奥の部屋側の壁に耳を当てた。──が、そのとたん。
がたっ、と椅子が動く音がした。誰かが椅子から立ち上がったのだ。そして、
「──では、当家、これで」
え? と、思った。立ち上がった誰かの足音は廊下に出て、階段を降りていき……。
六飛は紅珊を振り返った。
「あの男、帰っちゃった」
紅珊が口を開きかけたので、静かに、と目顔で制する。男は帰った。だが、
「中に、お頭がいる」
男は相手に当家と呼びかけていた。紅珊はハッと片手を口に当て、素早く六飛のとなりにきて壁に耳をくっつける。
ほとほと、と酒を杯に注ぐ音がした。しばらくとなりの部屋に神経を集中していたが、酒器を動かす音と衣擦れくらいしか聞こえない。横で紅珊が難しい顔をしている。六飛以上に何も聞こえないのだろう。
六飛はふっと目を閉じる。感じるのは、窓から見える月を相手に手酌の酒を楽しんでいるような風雅な気配。だが──六飛は表情を引き締めた──スキがない。
どうする? と、考えた。ここで聞き耳を立てていても、お頭は独り言なんかしゃべらないだろう。こんな高級店を使えるということは、お頭は陰で悪事を働く上流の人間かもしれない。
六飛は静かに壁を離れた。自分を見上げた紅珊に、
「先に帰ってくれる? 俺、お頭が店を出るのを待って、あとをつけるから」
思いもよらないことを言われたみたいに、紅珊が目を瞬かせた。
「ちゃんと店の誰かに送ってもらって帰れよ? 俺のことは適当に言っておいて。──明日も廟堂で会える?」
「……会えるけど。廟堂で毎日仙狸のために祈るように先生に言われているから。だけど……」
「先生は廟堂には来ない?」
「たぶん。先生は宮城にいらっしゃるか、城市を回ってらっしゃるか……」
「うん。じゃあ、明日、廟堂で」
紅珊はその場を動かなかった。胸の前で両手をぎゅっと握った。
「帰れ、って……私、足手まとい?」
「え?」
そんなことは思ってなかったが、紅珊の真剣な目にちょっとたじろいだ。
「いや、だって、相手はお頭だから、手下をつけるより危険かもしれないから……」
自分ひとりの方が動きやすい……って、あれれ? これは、足手まとい、ってことになるのか?
紅珊がうつむいてしまって、六飛なんだかは悪いことをしてしまったような気分になる。だけど、やっぱり一緒に連れていくのは……と、考えていると、紅珊が不意に顔を上げた。まっすぐに六飛を見た。
「わかった。帰る。でも、絶対に無茶しないで。明日、廟堂で、待っているから……!」
一拍、強く六飛を見つめ、紅珊は身をひるがえした。
六飛は紅珊が出ていった扉を、ほんの少しの間、眺めた。いつの間にか唇が笑みのかたちをつくっている。今の紅珊はちょっと可愛かったぞ。思いつめたように俺をじっと見つめたりして。俺、ひょっとして、女の子に心配されたのか?
ぺしっ、と頭がはたかれた。猫の前足に。
「えへえへしおって。この不肖の弟子が。好みか? あの娘、実は好みなのか?」
笑っている場合ではないのだぞ、という意味だと解釈した。その通りだ。
窓を開くと、軒があった。ひらり、と窓を越え、明かりの届かない位置に身を潜めて奥の部屋の主が店を出るのを待つ。
長くは待たされなかった。部屋を出る足音がしてしばし、笠を被った上背のある男が店を出ていった。部屋を出た人物と同じ足音。間違いなく、当家、と呼ばれていた男だ。
男が、ふと、笠を傾け、軒を振り仰いだ。六飛は暗がりに潜めていた身をさらに低くする。が、その一瞬、男の顔が月に照らされて六飛の目に飛び込んだ。
すぐに視線をもどして歩き始めた男の後ろ姿を、六飛は目を見開いて見つめる。
今の顔、見覚えがある。岬の小屋に娘たちを助けにきた……県令?
まさか、と思った。あの県令は悪い人間に見えなかった。見間違えたか?
六飛は、誰にも見咎められないように、建物と建物の隙間に降りた。するり、と道に出て、男のあとを歩き始める。
県令なのかどうか、悪い人間だったのか、確かめればいいだけだ。