六
五年ぶりのうどんは体に沁み込むようにうまかった。たっぷり入った鶏肉は柔らかく、膝の上の白風子にと分け合った。師匠は食べなくても平気だろうが、猫は自分と同じように腹が減っているだろう。
「ふうん、可愛がってないわけではないのね、猫」
卓に行儀悪く頬杖をついて、女の子がつぶやく。
紅珊というそうだ。方士の修行を始めて三年になると、うどんがくる前に自己紹介してくれた。
「名前、なに?」
六飛、という自分の名前はさっき言ったから、膝の上の師匠のことだろう。
「白風子……」
するっと師匠の名前が出てしまったが、ちょっとまずいんじゃ、と気づき、
「……の、ハク」
と、つけたした。というか、自分の本当の名前も紅珊に言ってしまってよかったのか?
うどんに夢中になりすぎたかもしれない。
紅珊が顔をしかめていた。
「白風子、って大昔の王様の政治を助けた伝説の仙人さまじゃない。ものすごい武術の使い手だそうだから、そこから名前をつけたの? 修行中の武芸者としてあやかりたい気持ちはわかるけど」
六飛のことを旅の武芸者とでも思っているようだ。面倒だから、訂正はしない。訂正したくても、まだ職が決まっていないし、紅珊とはここでうどんをおごってもらったらもう二度と会わない間柄だし
「でも、黒猫にハク……って」
そう言われても。師匠、通りすがりの猫の体を借りただけで、たまたま黒い猫だっただけで。
「で、お願いがある、って話なんだけどね」
六飛はずるずるとうどんをすする。聞こえないぞ。うどんを喰ったら、即、お別れだ。
「半月くらい前、この城市で、若い娘が殺される事件があったの」
箸が止まった。何その話題。食事中だよ?
「殺された娘、お腹を切り裂かれていて──」
六飛はうどんから顔を上げた。……腹を裂かれて?
「──肝をとられていたの」
「肝を」
抑揚のない声で、六飛はつぶやく。
白風子が膝の上で、ぴく、と耳を立てた。
「仙狸の子の復讐じゃないか、って言われていて」
「──え?」
「さっき、六飛も仙狸を祀る廟堂を見たでしょう?」
と、紅珊は身を乗り出す。
「仙狸が殺されたあと子どもだけは逃げたって説がある、って話、私、したよね? その逃げた子どもが百年を経て強い妖力を手に入れ、両親の復讐に舞い戻ったんじゃないか、ってうわさなの。ひとり殺されてから、娘が六人、次々に行方不明になって、先日またひとりの娘がお腹を裂かれて見つかって。それで、県令さまから先生に相談が持ち込まれて」
「先生……って」
県令とともに小屋にやってきた方士か?
紅珊が得意げに胸を反らした。
「王衛先生。若いけれど、とても力がおありになるのよ。悪い気を祓って病気を治したり、未来を占ったり、悪霊を退治したり。私、先生と一緒に修行をしながらたくさんの城市を回ったわ。この城市に来たのは三月前。この城市でもすぐに評判になって、県令さまにも知られるようになって……。先生になら、仙狸の子を調伏することだってできると思う。でも……」
ふっと紅珊の目が暗くなった。息を継いで、ふたたび口を開こうとしたが。
「あの」
箸を置いて、六飛は紅珊の話を止めた。ちゃんと聞こえていたが、聞き間違いかもしれないから、確認しよう。
「仙狸の子が、両親の復讐のために、この城市の娘さんを殺して肝をとっている……?」
「そう。お母さんが殺されたのと同じ方法で……」
「──俺そんなことしないよ?」
思わず言ってしまった。言ってしまって、ハッとしたが。
紅珊は、いらっ、と眉を寄せた。
「六飛の話なんてしてないわよ。仙狸の子の話!」
「そ……そうだね」
六飛は空になったうどんの椀に視線を落とした。食欲が失せてしまった。そんな残酷なことをするのはいったいどこの仙狸の子だろう。
「それで、お願いっていうのはね、六飛に仙狸の子を探す手伝いをしてほしいの」
「……調伏するために?」
おそるおそる尋ねた。恨みを捨てて幸せに生きようとさっき決心したばかりなのに、調伏されちゃうのか。はかない人生だったなあ。
「ううん、先生に調伏される前に見つけたいの、仙狸の子を」
ん? 仙狸の子を見つけたい? 調伏される前に?
紅珊の言葉を胸の内で繰り返し、六飛はあらためて彼女を見た。
「見つけて、話をしたいの。──こんなこと、やめよう、って」
女の子の真剣なまなざしが六飛に返される。
「わからなくはないの、人を恨んでしまう仙狸の子の気持ち。仙狸はあやかしだけど、悪いことをしたわけじゃない。それなのにむごく殺されたんだから、子どもは悲しくて辛くて、お母さんを殺した人間を憎んでもしょうがないよね。でも、子どもは半分はヒトだし、話せば納得してくれると思うの。恨みの相手はとっくに死んでいるし、無関係な娘たちをいくら殺したってお母さんは帰ってこない、って」
うん、李源のことはさっき納得した。仇を討っても母も父も帰ってこないことは子どものころから承知している。それはともかく──李源の娘を殺そうと思っていたときはあるけれど、無関係な娘さんの腹を裂いて肝をとるなんて、思いつきもしなかったぞ?
「昨夜のことも、私も一応若い娘だから、なんとか仙狸の子にさらわれて、先生たちより先に仙狸の子に会って、話をしたかったからなの」
「……紅珊をさらったの、ただの人間だったよ?」
どう見ても。指摘すると、わかっているわよ、と紅珊の頬がふくらむ。
「仙狸の子が悪い人間を操って娘をさらわせている、ってうわさもあるの。だから……。でも、その、結局……六飛に助けられちゃったけど」
紅珊の話を聞きながら、六飛はじわじわとコトの深刻さを理解した。娘さんが腹を裂かれて殺される。なんて恐ろしい事件なんだ。しかも、犯人が、俺? のんびり幸せに生きる状況にないんじゃ?
「先生には、もうあんな危険なことをしてはいけない、って強く言われたけど、でも……」
また同じことをするつもりなんだ。
「今度は、怖い目に遭っても、二度目だからちゃんと術を使えると思うけど。だけど……」
そこまで聞いて、紅珊の『お願い』の内容を悟った。
「俺に、用心棒してほしい、ってこと?」
相手が仙狸の子じゃなくて、またしてもただの悪い人間だったときのために。
紅珊の頬が赤くなった。
「あのときは『腰が抜けてる』って笑われて、腹立っちゃったけど、あとで落ち着いてよく考えたら、六飛すごく強かったし、私、『余計な事をしないで』みたいに言ったのに助けにきてくれて、いいひとかな、って……」
すがるような目を向けられた。
「気の毒な仙狸の子に、これ以上人殺しをさせたくないの。お願い、手伝って」
心が動きかけた。本気で『仙狸の子』のことを考えてくれているんだ、と。……だけど。
「ごめん、ちょっと、無理」
仙狸の子を調伏しようとしている方士の弟子と組むのはどうだろう。関わるどころの話じゃなくなるぞ。
「何の罪もない女の子がまた殺されちゃうかもしれないんだよ?」
紅珊の表情が切なそうになる。六飛の胸が痛くなる。それでも、
「……紅珊はもう危ないことはしない方がいいよ。方士、っていっても、女の子だし」
というか……人の動きを止める術が使える、って点断の術のことだろう。自分の気を飛ばして相手の気の流れを切断する術だ。チカラのある者が使えば、相手を金縛りにして息もできなくしたり、果ては命を奪えさえする術だけれど、動きを止める程度の初歩の腕前じゃなあ。
紅珊の大きな目が六飛をにらんだ。──と、ふいっと冷めた表情になって、視線を横へと滑らせた。
「じゃ、うどん代、払って」
とても不当なことを聞いた気がした。一文無しなのに、のこのことうどん屋に入ったのは──。
「紅珊、ご馳走してくれる、って……」
「一杯、御馳走する、って言ったわよね」
「でも、うまい、って言ったら、おかわりしてもいい、って……」
「普通、おかわりはもう一杯でしょう!」
紅珊は手のひらで卓をパンとたたいた。積み上げられた椀が、ガシャン、と跳ねる。
「十杯も、食べる?」
六飛は急いで目で椀を数えた。
「十杯も食べてないよ? 七……八杯?」
「信じられない。うどん八杯、どこに入っちゃうのよ。だいだいお願いを引き受ける気もなくてそんなにおかわりできるもの?」
だって、腹が減っていて、五年ぶりのうどんがすごくすごく美味しくて……。
師匠──助けを求めて膝の上を見ると、黒い猫はすっかり満足した様子で丸まって目を閉じている。そう、白風子には、耳飾りをもらったあと『山を降りたら、その先、わしは主を手助けせんよ』と言われている。人間界に関わらないのが仙界のきまりなのも知っている。──でも、この場合、師匠も一緒に肉を喰ったよね?
紅珊が、にこり、と笑んだ。
「お願いとうどん代、どっちにする?」
六飛はため息を落とした。ガタン、と椅子から立ち上がった。店の奥、仕切り板の向こうの女主人に、すみません、と声をかけた。
「あの、お金、忘れちゃったんですけど、うどん代の代わりに俺にできる仕事、ないですか」
女主人が、じろり、と六飛を見た。背中に紅珊があ然とする気配が伝わる。紅珊が両手を卓について立ち上がる音、店を出ていく足音を、六飛は振り向かずに聞いていた。