四
船着き場に降りる石段に腰かけて、六飛は水路のさざ波に夕日が反射するのを眺めていた。水路に沿って建ち並ぶ白壁や黒い板張りの家々。水面に垂れる柳の枝が風に揺れる。そんな風景は、自分の記憶のままなのに。
自分が故郷を離れて百二十年。
「……踏雪は仇を討ってほしゅうて主を白風山に寄こしたんではないぞ」
隣にちょこんと座った猫が言う。
踏雪──六飛の母の名だ。
「山で数年過ごせば、人の世では百年の時が流れる。踏雪はそのようなこと充分に承知していた」
「……父さんも?」
──あの日、いつもの遊び仲間と山に行き、木の実や薬草で籠をいっぱいにして帰ると、近所の人たちが集まって六飛の家である薬屋を遠巻きにしていた。どうしの、と声をかけると、びくっと振り向き、六飛を見て割れるように道を開けた。その先に、たくさんの血の中に倒れている父が見えた。
籠を放り出して駆け寄った六飛に、父は苦しい息の下で、逃げろ、と言った。逃げろ、白風子様のところへ。
六飛は人垣を振り返って叫んだ。お父さんを助けて。
そこにいるのは、みんなよく知っている人たちだった。なのに、自分を初めて見るもののように見ていた。六飛のそばに走りだそうとした福平を、彼の母親がきつく抱きしめて止めていた。ぽろぽろ涙を零しながら。六飛が立ち上がると、ほぼ全員が一歩下がった。
助けてほしくて伸ばした手をつかんだのは、張のおばさんだった。おばさんも泣いていた。怒ったような真っ赤な顔で泣いていた。逃げな。お父さんの言う通りにしな。あたしたちには何もできない。そう言って、六飛の手を放り投げるように離した。助けてもらえないのだ、ということだけ、わかった。
お母さんは? 家に入って、母を呼んだ。返事はない。
お逃げよ、と張おばさんの声がする。お母さんは捕まった。早くお逃げ。あたしたちはあんたを見なかったことにする。
突然、その光景が心に飛び込んだ。場に記憶として残された強烈な思念が──兵士の肩に担がれた白い山猫。笑う県令、李源の顔。薬屋を出ていく彼らを遮ろうとした父に袈裟懸けに振り下ろされた刀──それが自分が戻る前にここで起きたこと。
早く! 悲鳴じみた声で張が叫ぶ。六飛はその声に弾かれるように家から走り出た。人垣を突き破って、山に走った。父の言葉通り、白風子のところへ。
白風子のことは母に聞いていた。一緒に山に入ったとき、六飛には見えるだろう、と滝の横を指さして教えてくれた。この道を行けば白風子に会える。どうしても困ったときは、ここを行って、白風子と呼んでごらん。ただし、それができるのは、一度だけだよ。
教えられた細い道を走った。不思議な道だった。そんなに大きな山ではないのに、どこまでも上っていた。走りながら、白風子、と何度も呼んだ。助けて、白風子。お父さんとお母さんを助けて。
やがて、走ることも歩くことすらできなくなって、倒れて意識を失うまで。
……いい匂いがして、目を開けた。柔らかな靄が辺りを包んでいた。靄の切れ目から桃の林が見えた。たわわに実った桃の間を、小柄な人影が近づいてくる。
「踏雪の子か」
静かに問いかけてきた、それが白風子だった。
今は、六飛のそばに座る猫の中にいる。
「……主の父は──雲飛はもちろん知っておったさ。主の逃げる先がどこで、そこで過ごすことが何を意味するか。雲飛は常識のある博識な男であったからのう」
軽く当てこすられているのはわかったけれど、言い返す気分ではなかった。父さんも、母さんも……。
「……俺の命さえ助かればよかったの?」
「うむ。それに、まあ、さほど仇など討ってほしくもなかったのじゃろう」
思わず白風子を見た。
「あんな……!」
酷いことをされたのに?
お父さんとお母さんを助けて、と頼む六飛を、白風子は小さな泉に連れていった。父じゃ、と促されて泉を覗くと、水面に人が集まっているのが見えた。目を凝らすと、粗末な棺を囲んでいた。棺の中には父の体が納められていた。母がどうなったかは見ない方がよい──白風子の言葉はため息とともに六飛の耳に落ちた。なのに、見せて、と叫んで泉に身を乗り出してしまった。
六飛はきつく目を閉じた。思い出すと、今も苦しい。せめて父母の無念を晴らしたい。ずっとそう思ってきたのに。
「仇を討ったあとどうするか、わしは主に何度も聞いた。主は何と答えたか」
李源を殺す。李源の子も親も、一族全部殺してやる。泣きながら叫ぶ六飛に、白風子は、ほう、とうなずき、しばらく時間をおいて尋ねるのだった。さて、李源も李源の一族も殺したあと、主はどうする──と。
あとのことなんか知らない──最初はそう吐き棄てていた。白風子が武術に優れているという母の話は覚えていたから、必死に頼み込んで弟子にしてもらった。何でもする、何でも言うことを聞く。だから、俺を強くして。たくさんの兵士に護られた李源を殺せるくらいに。
白風子との厳しい修行の合い間、六飛はあてもなく山を歩き回った。山はいつも柔らかな靄が流れ、靄が切れるといろいろなものが見えた。昨日は桃の林だったものが、今日は広い野原であったりした。こんな不思議な場所なのだから、父と母が笑って待つ家に辿りつくこともあるかもしれない。そんな気持ちになって遠くまで歩くこともあった。歩いて歩いて、なぜか白風子と住む簡素な小屋に戻るのだけれど。
季節はよくわからなかった。空気はいつも春のように暖かかった。けれど、時折り現れる野原では、花が咲き、散って、実を結んでいた。どこかで鳥が高く鳴き、草むらの穴で狐のつがいが子どもを育てていた。
その日も六飛は靄の中をさまよい、草の上に腰を下ろした。
辺りは花咲く野辺だった。開いたばかりの黄色い花が風に揺れていた。六飛の目の前で二羽の蝶が花の上を舞っている。葉の裏から蜘蛛の細い足が覗いた。
突然、涙があふれた。父と母を思ってではなかった。ただ、目の前で咲く花と、もつれあうように飛ぶ二羽の蝶と、葉陰に糸を張る蜘蛛を眺めていただけだった。なのに、涙が止まらなくなった。
蝶が飛び去り、花が閉じ、蜘蛛が蛇に飲み込まれるまで、六飛はそこを動かずにいた。
それから、白風子の問いに沈黙を返すようになった。仇を討ったあと、どうするか。心には靄の中に見た風景が浮かんでは消えていた。咲いて、散って、実を結ぶ花。子どもを育てるつがいの獣は魚を咥えて巣に運び、蜘蛛は小枝に銀色の糸をかけた。
やがて、六飛は幾十回と繰り返された白風子の問いに答えを返す。お父さんやお母さんと暮らしたように、誰かと一緒に暮らしたい。
そうか、と受けて、それきり白風子は六飛に仇討ち後のことを尋ねることはなくなった。
──今、白風子が、何と答えた、と言っているのは、その最後の答えのことだろう。
「踏雪も、雲飛も、主が健やかに成長し、好いた娘と添うて子を育て、幸せに暮らすことを願っていただけじゃ」
「……そんなの、仇討ちしてから……」
「親の仇でも、人を殺めて、自分だけ幸せになれるものかな。少なくとも、主には無理じゃぞ。まして、仇の家族まで殺しては」
「それは……俺も、最近は、娘まで殺すことはないかも、って……」
だけど、李源だけは本当に殺すつもりだった。
「……でも、俺は、父さんと母さんの無念を晴らしたくて……それができなくて、苦しいままなら、やっぱり……」
幸せになんて、なれない。
ぽん。白風子の柔らかな肉球が、六飛の膝に乗った。
「踏雪と雲飛の願いは、仇討ちではなく、主の幸せじゃ。李源のことは──やつは敵に捕らえられて殺された。楽には死なせてもらえなかったろうよ。身近な者たちも助かりはしなかったであろう。天が罰を下したとは考えられぬか」
六飛は、膝の上の白風子の前足から、水路に視線を戻した。揺れる夕日の色は明るい橙から濃い金色へと変わっている。
つう、と頬に筋をひいた涙を拳で拭い、六飛は、是、と頷いた。