二十四
「……放」
声は出た。だが、何も変わらない。だめか。今の俺では。この月光を遮る結界の中では。
王衛が紅珊を見て、深く息をついていた。
「やれやれ、おまえはまだ生かしておく算段だったのに」
紅珊に向かって、手を差し伸べるように腕を伸ばす。指をそろえて手のひらを上にして。その手のひらの上に、じわりと気が凝縮され、黒とも濃い紫ともつかない球となる。
「だが、半妖の肝と見鬼の肝を同時に味わう──そんな贅沢もよいか」
そうして、不意に紅珊に微笑んだ。優しく、包みこむように名前を呼んだ。
「紅珊」
たったそれだけで、鋭く張りつめようとしていた紅珊の気が崩れた。点断の術の構えが緩み、思わずというように王衛に一歩近づく。王衛がさらに笑む。紅珊の顔が泣きそうに至む。
「先生……!」
六飛は歯を喰いしばった。もう一度声を出す。
「放」
「朗」
六飛の声に、よく知った声が重なった。朗──その声が発したのは、良き月夜を意味する言葉。
幕が上がるように景色が色を変えた。重く澱んだ黒から、青みがかった銀色に。
結界に、月の光が降り注いでいた。
六飛は目を閉じ、全身にそれを受け止める。体に絡みついていた嫌なものが洗い流され、消え失せる。耳飾りに書かれた文字が剥がれ、水晶が砕け散る。
草が風に葉裏を見せて翻るように、六飛の髪が色を変えた。茶色味の強い黒から、月に照らされた霜の白へと。耳は和毛におおわれて鋭く尖る。開いた目の瞳は金色。降る光の明るさに、瞳孔はその金色を縦に切る。
ふり向いた。
王衛は突如差した月の光に目を眇めていた。だが、すぐに、紅珊に向かって手のひらの上に集めた気をふっと吹く。
月の光に身を滑り込ませ、六飛は空間を駆けていた。王衛の放った気が紅珊に届く寸前に、紅珊を抱き上げて再び光を抜ける。
王衛から距離をとって、腕に抱いた紅珊に目をやった。人の身であやかしの使う道を通って、紅珊は朦朧としている。かろうじて薄く開いた目で六飛を見て、驚いたように唇を動かした。
「……仙狸の、子……?」
六飛は、はにかむように少しだけ笑った。紅珊を地面に下ろし、すぐさま王衛を向こうとしたのだが。
ぱかん、と頭が殴られた。
「この愚か者が!」
「──ってー!」
頭を押さえて後ろを向いた。この殴り方、声──師匠。
やっぱり、白風子だった。猫の体は借りていない。白風山で一緒に過ごしたヒトの姿だ。六飛と同じ男物の服を着て、髪には白いものが混じり、小柄だが腹周りは豊満な『おばさん』が、拳を握り締めて立っている。
思わず、目が、うるっ、となりかけたが。
「なぜ主は人の話をちゃんと聞かん! 主の手には負えぬと警告したであろう。何のために、わしが語り飽きた話をわざわざ聞かせて去ったと思っておる!」
語り飽きた話? 聞かせて去った?
聞かされたのは、仙と人が世界を分かった物語だ。何故か白風子と長成子が戦う場面で中途半端に話が終わった。 ──え?
白風子はくるりと体の向きを変え、王衛に正対した。
「……何者か」
王衛の顔が険しくなっている。白風子の応えは嘲りを含みながらどこか寂しげだった。
「わしが誰なのかわからないとは浅ましきものになり果てたな、長成子」
うそ。六飛の膝が折れる。長成子。人を支配しようとして白風子と仙術合戦を繰り広げ、敗れて封印された仙人。
「……師匠、どういう……」
ふん、と白風子は両の拳を腰に当てる。
「紅珊の腕輪を修正し、長成子の話をして老君のところへ行く──どう考えても『紅珊の師はただのヒトではない。長成子が関わっている可能性がある。慎重に、わしが老君のもとから戻るのを待て』という意味であろう」
そうだったの? つまり、王衛は──そして、もしかしたら李源も、長成子が中に入り込んでいたとか憑りつかれていたとか、そういう……?
「いや、もっとはっきり言ってくれないと……」
「察しよ! 半分ヒトである主には、有り体に言い難いこともあるのじゃ。主の行動に気づいてわしがどれほど慌てたか。だが」
白風子は、横顔で笑った。
「がんばったのう」
「──何者かと聞いている」
ぎり、と歯噛みが聞こえそうな口調で、王衛が六飛と白風子の会話を遮った。いや、長成子が、と言うべきか。姿かたちは王衛でも。
白風子は顔の前でひらりと手を動かした。被りものを取り払うような仕草だ。六飛の目の前が鮮やかな朱色になり、
「……誰?」
見たことのない女がそこにいた。すらりとした長身。六飛に目をやって微笑む唇はふっくらと紅い。朱色の糸をふんだんに使った鮮やかな衣を華麗に着こなす美女。
長成子が呻いた。
「白風子」
いや、誰──と思ったが、
「わしたちにとって姿かたちなど意味ないものじゃろうに」
ああ、若くなっているけど、この声は師匠だ。これが本当の姿だったのか? 『おばさん』は変化の術だったのか。
「ここ何年か若い男とふたりで暮らしておったのでな。劣情を催されても面倒と思い、先程の姿でいた。後悔しておるが」
白風子は手を口許に当て、は、と息を吐く。
「多少は劣情を刺激するべきであった。体ばかり大きくなって、中身が十二から成長しとらん。情けない、ああ、情けない」
いや、情けないって......。劣情、て。
言い返したいことはあったが、あとでいいや、と思う。長成子が、じり、と半歩下がっている。かつて敗れた相手を前にして、六飛たちに対したときの余裕は見えない。地が割れ電が落ちる仙術合戦が始まる前に、紅珊を連れて結界の外に逃げなければ──と考えた六飛の耳に、白風子の声が飛び込んだ。
「六飛、主が戦え」




