二十三
西の庭園に巡らされた壁を越えたとき、ぬらりとした液体の中に入ったような感覚があった。風がない。動くものの気配がない。月の光も墨を通したように翳り、六飛は息苦しさを覚える。自分のあやかしとしてのチカラが弱まるのをはっきりと感じた。
月の精気が遮断された、結界。張られた罠の中へ飛び込んでしまった──そう覚った。
引き返すことが浮かんだ。が、思い止まる。もう、逃げない。
それに、どうせ、出られない。空気が泥のように重く手足に絡む。
「よく来た」
声がした。六飛の耳をして声の出所がわからない。だが、前方に一段と闇が濃い場所がある。そこへ目を凝らした瞬間、強い光が弾けた。
目から頭の中まで、真っ白な鋭いもので貫かれた気がした。反射的に両手で目を覆い、退がろうとしてよろめく。
何者かの手のひらが胸に当てられた。強い力ではなかった。衝撃はごく軽く、なのに体中に波紋のように広がった。
あっけなく仰向けに倒された六飛の上に何かが乗った。手のひらの下で閉じた瞼からぽろぽろと涙が零れる。それが頬に伝って流れるのを、何かが笑って眺めている。
手首がつかまれ、顔から手が制がされた。
体が動かなかった。肉体ではなく、気の流れが縛められてしまっている。目も開けられない。だが、それ以外の感覚は取りもどしていた。自分の上に馬乗りになっているモノ。息づかいが聞こえない。粘るような負の気配。王衛だ。
勝てるとは思ってなかったけれど、ここまで何もできないとはびっくりだ。最後の札を切るヒマさえ与えられなかった。あんまり見事な完敗で、悔しくすらない。惜敗も完敗も、結果は一緒だし。
あとは紅珊が俺の言ったことをちゃんと聞いて逃げてくれればいいんだけどなあ、と思った。がんばりそうで、心配だ。
くすくすと笑う声がした。
「仙狸の子。……母親と同じ手がこうもうまく嵌まるとは、笑える」
……母親?
頭の中が空っぽになった。
「逃して惜しい思いをしていたが、白風山に隠れていたか。思わぬ拾い物をした」
まだ痛む目を無理矢理に薄くこじ開けた。残った視力の中で王衛が唇の両端を上げていた。
王衛は六飛の胸に手を下ろした。胸から腹へ、ゆっくりと手を這わせ、肝臓の位置で手を止めた。堪え切れないように、くくっ、と喉を鳴らした。
「よい体をしている。白風子がさぞかし大事に鍛えたのだろう。これを引き裂いたら、白風子はどんな顔をするか」
仙狸。母親。……白風子? 混乱する頭で六飛は必死に考える。なんでそんな言葉が出てくるんだ。こいつは一体......。
玉衛の顔が歪み、弛んだ。頬から首に垂れた脂肪。光のない細い目と、薄い唇。
李源。
息が詰まった。父母の仇が目の前にいる。母の腹を生きたまま裂いた男が。
「覚えていたか」
顔は、すぐにもとの整ったものに戻る。
「あの男、せっかく仙理の肝を食したのに、首を切られてしまっては使いものにならなかった」
暗いものが炎のように六飛の身の内に揺らぎ立つ。こいつは……。
「だが、この体を得て、ふたたびチカラは戻りつつある。娘たちの肝、紅珊の精気も好い馳走となった。……そして、おまえの肝をもらい」
にた、と美しい顔が歪む。王衛ではない、李源でもない、何かが笑う。
「次は、井達開をいただこうか。心を奪うとっかかりがなくて難儀していたが、ヒトならぬおまえの肝を喰らってチカラを増せば、あの男も手に入ろう。そして、まずはこの県の人間を私が正しく治めてくれる」
殺してやる──と思った。目の前にいるモノが何なのかはわからない。父母を殺したものだとだけわかる。このまま何もできずただ喰われるなんて耐えられない。
必死に唇を動かした。放と。だが、声が出ない。六飛のわずかな唇の動きを眺め王衛の顔でそれは笑う。
「ほう、その耳飾りはそういうものであったか。ならば、私が封じを解いてやってもよいぞ。解いても、この結界の中では何もできないが」
六飛の腹を離れた指が耳飾りを抓む。六飛は瞬きも忘れて上にいるモノをにらむ。六飛の視線に込められた烈しい憎悪とかすかに混じる絶望に、それは束の間目を細め、かたちのよい唇が最初の音を形づくろうとしたとき。
「青龍!」
暗く凝った結界に細く光の筋が走った。結界のぬめる空気を突き通して、玻璃の珠を転がすような澄んだ声が九字の呪言を響かせる。
「白虎朱雀玄武勾陳南斗北斗三台玉女」
薄い刃のように気が飛来した。六飛の上に乗ったモノはふわりと浮きあがって六飛から離れ、それをかわす。
「六飛!」
駆け寄った紅珊を、六飛は言じられない面持ちで見上げる。どうしてここに? 朝まで目覚めないはずなのに。
「ひとりで無茶しないでよ。六飛はあたしが守るって、言ったでしょう?」
紅珊は、とん、と手のひらで六飛の胸を軽く突く。六飛の気を縛っていたものが霧散した。そして、紅珊は六飛を背中に庇うように立ち上がる。紅珊の視線の先には、羽毛のようにふわりと地に降り立った王衛。
「……先生じゃない」
紅燕は手首の腕輪を投げ捨てた。右手の人差指と中指を立てる。点断の術の構えだ。自分に言い聞かせるように、低く、繰り返す。
「あれは、もう、先生じゃない」
やめろ、と六飛は言おうとする。が、まだ声がうまく出ない。王衛の術は解けたが、結界内部の澱んだ気そのものが六飛の体を重くする。
六飛は紅珊が来た方に首をねじった。結果が綻び、月の光が薄く差し込んでいる。
なんとか体を返して、六飛は月の光に腕を伸ばした。




