十八
猶予は小半刻。なら、敵を倒していくよりかわす方が早い。
六飛は紅珊を背負い、帆桁に跳んだ。紙の兵士に翻弄される海賊たちを下に見て帆桁を走り、屋形の陰に飛び降りる。海賊たちは甲板での戦いに出払っているのか、特に見張りもなく、案外簡単に船倉に下りることができた。
「見える?」
先に立って急な梯子段を下りてから、六飛は段の途中の紅珊に聞いた。明り採りの穴から差し込む月の光は細く弱い。六飛には十分な明るさだが、紅珊が見えているかどうか、わからない。
「少しは……」
と、答える声は自信なさげだ。六飛は紅珊が梯子段を下り切るのを待って、その手をとる。ゆっくりと積み荷の間を歩いていく。
梯子段を下りる前から嫌な臭いがしていた。いや、甲板にいたときも血の臭いはしていた。井達開が剣を振るっていたのだから、当然だ。だが、船倉に下りる引き板を上げたとたん、甲板とは比べ物にならないくらいの濃密な血の臭いがむあっと立ち上ったのだ。
つないだ紅珊の手が震えている。
「大丈夫?」
「……怖い」
答えに歯のなる音が混じった。
引き返した方がいいんじゃないか、と思った。見鬼である紅珊を怯えさせる何かが行く手にある。
それが何なのか、気を広げて探ろうとした。うまくいかない。酷い血の臭いに気が散らされてしまう。
足を止めた六飛の腕を、紅珊がそっと押した。
「行かなきゃ、六飛」
そうだ。船倉に娘たちがいるのか、生きているのか確認しなければ。もしも生きているなら、助け出さないと。
六飛は細く息を吐いた。神経を張りつめて奥へと進んだ。
最奥に扉があった。錠がかかっている。ここか? 六飛は錠に手を伸ばす。触れようとしたのだが、ぴりっと痺れるように指が跳ね返された。高の言っていた、呪か。
それを見て、紅珊が六飛の前に出た。取りだした紙の札に指先で文字を書き、ふわりと宙に飛ばした。札はひらりと舞って錠に張りつく。何かがばちっと弾け、札が落ちると同時に錠が外れた。
六飛は扉に触れた。触れることができた。このまま押せば、扉は開くだろう。だけど。
ここに来て血の臭気がいっそう生々しく濃い。流れ出たばかりの血の臭いだ。これは……。六飛は紅珊を見て、
「紅珊はここに……」
全部言わないうちに、紅珊は六飛の横をすり抜けた。意表を衝かれて、六飛の反応が遅れる。人間の紅珊にだってわかるはずのこの血の臭い、怖い、と口にした紅珊にはきっと踏み出せないだろうと思ってしまった。
腕をつかんだときには、紅珊は扉を押し開いていた。とたん、紅珊の体が硬直した。
糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる紅珊を抱きとめて、六飛は部屋の中に目をやった。明かり採りの穴から差すわずかな月の光を鈍く反射する、ねっとりとした床の赤。己の血を浴びて仰向けに転がる女がふたり。その、裂かれた腹部──。
腹を裂かれた白い山猫の姿が重なった。白風山の泉に映った母の。
瞳孔がきゅうっと細く絞られるのが自分でわかった。抱えた紅珊の体に爪を喰い込ませていた。抑えられなかった、全身の毛が逆立つような怒りと憎悪を。
そのときだった。
──あやかし
すぐ近くで、音のない声がした。
──仙狸の子……仙狸と、ヒトの子
ばっと振り向いた。白いモノが自分の肩を離れるのが目に入った。宙に浮いたそれは人形に切り取られた小さな紙片。紅珊が海賊たちに向かって放った式と同じもの。
とっさに打った手刀は空を切った。人形はひらひらと高く浮いて、くるりと巻かれると明かり採りの穴を抜けていった。
六飛は手刀を拳に握った。兵士になった人形の紙片の中に別の式が紛れ込ませてあった、ということか。王衛は兵士になるとだけ教えて紅珊に式を与え、紅珊は何の疑いもなく式を撒く。無警戒な自分の肩に式が貼りつく。
……やられた。




