十四
空から城市に降りた闇の帳の中、六飛は警備の手薄な北の外壁を越えて宮城に忍び込んだ。ヒトの気膜で身を覆っているおかげで、霊的守りもうまく潜り抜けられた。ちょっと息苦しかったくらいで。
北は宮城の裏手にあたる。あまり使われていなさそうな建物や手入れの行き届いていない茂みもあって、隠れながら西の庭園に進むことはそんなに難しくはなかったが。
よく考えたら、俺、こんな厄介なことをする必要はないんじゃねえかなあ──なんて考えがするりと心に入り込んだ。
それが目的だった復讐はもう果たせない。生まれ故郷とはいえ、今は誰ひとり知り合いのいない城市。殺人事件の犯人が仙狸なのはただのうわさで自分は何もしていないのだから、そんなのほっといて、ほかの城市で幸せに暮らせばいいんじゃあ。
そう思った端から、ため息が出た。
『私が六飛を守るから』
きっぱりと言い切った紅珊の真剣な顔が浮かんで。
ひとりも知り合いがいない城市、じゃなかった。ひとり、知り合いができてしまった。
いや、ひとりじゃない。うどん屋のおばさんだって、今度会ったら、俺、挨拶をするだろう。方さん。というそうだ。もしかしたら、自分の家があった通りで食堂をやっていた方さんの子孫だったりして。実は、俺、張おばさんや福平の孫の孫と、その辺ですれ違っていたりして。
木立の陰の暗がりに融けるように佇んで、六飛は腕を組んで夜空を見上げた。月の位置はまだ低く、天頂を天の川が横切っている。自分が子どものときから変わらない景色。なんだか城市の人がみんな知り合いのような気がしてきた。
ここで暮らしたいなあ、と思った。自分を逃がしてくれた人たちや母のために廟を建ててくれた人たちの子孫が楽しそうに笑っていたら、自分も幸せな気分になれるんじゃ。それに──。
紅珊にも笑ってほしい。子どものころ辛かったせいだろうか、紅珊の笑顔、どこか突っ張ている感じがする。私、平気だから、って。そんなんじゃなくて、ただ楽しかったり嬉しくてしょうがなくて笑えればいいのにな。
ガキのころの俺みたいに。
小さく息を吐いて、腕組みを解いた。つまらないことを考えてないで、行くか。
巡回の衛士をやり過ごし、低い垣根を越えて西の庭園に入った。
辺りを見回しながら、庭園を進む。渓谷を模して並べた石と水路の向こうに、小さいが趣のある二層の建物があった。あれが『離れ』だろうか。
六飛は建物に向かって気を凝らす。紅珊は……いた。白風子が腕輪の文字を直したからだろう、紅珊の気は昨夜探索したときよりもずっとはっきりして、澄んでいる。ゆったり流れるように感じられるのは、眠っているのか、瞑想でもしているのか。
このまま紅珊の気に自分の気を寄り添わせたいような心地よさ、だったが。
不意におぞましい気配に触れて、六飛は反射的におのれの気をひき戻していた。暗く湿ったものが紅珊と自分の間に割り込んだような──不快感。
紅珊の近くに何かがいる。何か、とても良くないものが。
気を絶った。気を広げて相手の正体を探るのは危険だと判断した。逆にこちらの気を捕らえられてしまうかもしれない。体術頼みで建物に近づいて、肉眼で相手を見よう。
音もたてず、離れに寄る。紅珊の気を感じたのは二層部分だった。六飛は軽々と跳躍して一層の屋根に乗り、窓の下に身を潜める。
緩やかな呼吸音が聞こえた。寝息だ。紅珊はひとりで深く眠っている。
窓には玻璃が嵌め込まれている。六飛はそっと首を伸ばし、窓をのぞこうとしたが。
「この腕輪、誰が?」
柔らかに問う声がして、総毛立った。
呼吸の音はひとり分。紅珊ひとり分。
「……りう……ふぇい……」
たどたどしく答える声がした、紅珊の。
「それは、誰?」
問いかける声はあくまで柔らかく、優しげですらあった。この声は──。
「たすけて、くれたひと……わるい、ひとから」
「岬の小屋で、紅珊を悪者から助けてくれた?」
ゆっくりと問いが重ねられていく。
「それは、ヒトだった?」
あの方士だ。紅珊の先生。命の恩人。だが、それが言葉を発する前に息を吸う音は聞こえない。そして、紅珊は眠ったまま方士の問いに答えている。
「ひと……いいひと……つよくて……はくふうさんでしゅぎょうしたから……」
「白風山」
舌なめずりするような声に、膝の力が抜けそうになった。こちらが気を絶っていても感じる、暗く、どろりとした負の想念。
怖い。逃げたい。なのに、動けない。
「紅珊、その、ヒトを、私のところに連れておいで。できるね?」
「はい……せんせい……」
「いい子だ、紅珊」
ふっと気の圧が弱まった。──今だ。逃げるなら、今だ。
だけど、紅珊は?
ぎり、と唇を噛んだ。大丈夫だ。危害を加えられたりはしないはずだ。だって、紅珊は自分を方士のところに連れていくように命令を受けている。ここはいったん引く、しかないだろう?
飛び降りる直前の一刹那、窓を振り向いた。月明かりが差し込む部屋の中の光景が目に焼きつく。寝台に仰向けに寝ている紅珊、紅珊に覆いかぶさるようにしてその首筋に顔を埋める長い髪の男。
雲が月を隠した。暗くなった庭園を、六飛は一直線に駆け抜ける。垣根を越え、その陰にうずくまる。
体が震えた。
半分あやかしの自分にはわかった。紅珊はあの男に精と気を奪われている。自分にもやろうと思えばできることだ。たとえば、あの方士がしていたように、耳の後ろの気穴から。
なぜ? どういうことだ? 王衛とかいう方士は、死者の魂に引きずられかけた紅珊を助けてくれた、親切な方士じゃなかったのか?
そもそもヒトじゃなかったぞ、あれ。いや、俺も半分ヒトじゃないけれど。俺の気はあんなに禍々しくはないぞ、たぶん。母さんなんて父さんに『おまえの気は暢気の気だね』って言われていたくらいだから、俺の気も……。
いやいや待て落ち着け──六飛は自分に言う。そんなこと、どうでもよくて、たった今自分が目にした事実は──王衛はヒトではない。そして、紅珊の精気を吸っている。
胸が鋭く痛んで、六飛はきつく目を閉じた。つまり、紅珊は、助けられたのではなくて、食糧としてそばにつながれているということか。腕輪の文字は間違っていたのではなく、気を蓄えるために刻まれたのだ。
ふっと最悪の想像が浮かんだ。『仙狸の子』が人を操るといううわさ。娘たちを殺したのもさらったのも、同一の悪人たちだと考えていたが、その背後にヒトじゃないものが絡んでいたら? 『仙狸の子』を騙り、県令を操って悪事を働くナニカがいて、それが王衛だったら?
ヒトになりすまして人を操る、方術に長けたナニカ。たかが半妖の、自分が敵う相手じゃないんじゃないか。
……確かめる方法は、あるかもしれない。
六飛は月を見上げた。子時夜半まで、まだ時間はある。




