十三
しばらくぼーっと座りこんでいたあと、六飛は立ち上がって廟堂の外に出た。もちろん、猫の姿はすでに影もかたちもない。あてもなく歩きだす。
真昼の城市はどこの通りもにぎやかだ。静かな場所を探して、街外れまで歩いてしまった。ほとんど使われていなさそうな古い水路の岸壁に腰を下ろした。
師匠がいつまでも人間界で一緒にいてくれるわけじゃないのは承知していた。だけど、こんな、突然、別れの言葉もなく……。
別れの挨拶がない、ってことは、きっとすぐにもどってくるんだよな──と、思いついた。老君とお茶を飲んだら。もしそうじゃなかったら、すごくさみしいじゃないか。
……それにしても、師匠はなぜあんな聞き飽きた話をして去ったのだろう。しかも、中途半端に話を終えて。仙が人と世界を分かつ原因になった争いが始まるところで……。
頭を殴られたように、気づいた。師匠、紅珊の腕輪に手を加えて、よかったのか?
師匠は、基本、いい加減だ。だが、仙境に住む白風子は仙界と人間界の境の番人だ。縁があって仙境に辿りついた人間以外には関わらない、という仙界のきまりはさすがに守る。六飛も山を降りるとき、この先は手助けしない、と念を押された。
なのに、なぜ、紅珊の腕輪を? 頼まれもしないのに?
むろん、いいことだったと思う。紅珊の気の流れが正しくなったのだから。だけど、良くも悪くも人とは関わらない、が仙界のきまりだったはず。そのきまりの原因になった長成子の話を、紅珊の腕輪の文字を直したしたあとにしたってことは、そこに何か意味があるのだろうか?
……わからない。けれど、思い返すと、紅珊が初めて腕輪を自分に見せたときも、白風子はそれに関心を示していたような気がする。紅珊の腕輪に、仙の気をひく何かがあるのだろうか。
腕輪は、先生──名前は、確か、王衛──が紅珊に与えたものだ。だが、腕輪の文字は間違っていた。なぜ? 王衛は岬の小屋で自分が残したあやかしの気を察知したくらいだから、半端なチカラの方士ではないだろう。うっかり文字を間違うとも、しっかり修得してない術を弄するなんてお粗末なことをするとも思えない。
……わざと? 心の隅にふっと暗く湧いた言葉に、六飛は自分で驚いた。そんなはずはない。王衛は紅珊の命の恩人だ。──だけど、あの腕輪は、紅珊のためにはなっていなかった。
紅珊の腕輪をよく見れば、何かわかるだろうか。仙の文字は読めないが、気配のようなものなら感じとれるかもしれない。
目を閉じて、顔を空に向けた。紅珊、どこにいるだろう。今夜会うことにはなっているけれど、少しでも早く腕輪のことを確かめたい。
昨夜、紅珊を見つけたやり方……は、まったくうまくいかなかった。日中は活動している人間の数が多過ぎる。月の光の助けもない。いろんな人の気配や雑多な物音が六飛の感覚をひっかいて、頭が痛くなっただけ。
諦めようとしたとき、肩先に、自分に向けられた誰かの気がぴりっと触れた。紅珊を探すのに集中して、人が近づいてきているのにぎりぎりまで気づかなかったのだ。ハッと振り向くと同時に、素早く後方に飛び退っていた。
六飛の肩を叩こうとしていた手を引っ込めて、男が目を丸くしていた。あのチンピラだ。六飛は右手を懐に入れ、流星錘をつかむ。
男はあわてて両の手のひらを六飛に向けた。
「おおっと、驚かせたのなら、すまん。野良猫みたいなやつだな、おまえ」
六飛は流星錘から手を離さない。ぎりぎりまで男の接近に気づけなかったのは、男に敵意も殺気もなかったからだ。だが、油断はできない。
苦笑いが男の面上に浮かんだ。
「そう尖るな。お仲間だろう? 六飛、っていうんだってな。俺は高だ」
眉をひそめ──思い出した。昨夜、俺はこいつの仲間になったんだった。県令の陰の手下に。
空の手を懐から出した。緊張は解かない。男の苦笑が深くなる。
「当家におまえを推薦したのは俺なんだがなあ。今夜、頼むぞ」
六飛の返答は待たないで、あっさりと背を向けた。六飛も黙って見送りかけたが。
「あ、待って」
この男なら、紅珊が普段どこにいるか、知っているかもしれない。
「紅……方士、県令に雇われた方士がどこにいるか、知ってる?」
確か、紅珊は、先生のところへもどる、と言っていた。
「方士? 王衛どのか?」
男は怪訝そうな顔をしたが、質問の理由は求めずに、答えをくれた。
「宮城の、西の庭園の離れに滞在していただいているが。今はそこにいるかどうか。城市にある廟を巡ってあやかしに対する防御の網を張っておられるそうだ」
すると、紅珊も城市の廟を回っているのだろうか。王衛のお供をして。
……それでは見つけるのは難しいな、と思った。見つけても、あの方士が一緒では具合が悪い。
男は六飛に軽く笑ってみせた。
「当家から何か含まれたか? あの方も周到なところがあるからな」
うなずいておいた。男はそれ以上は追及せず、じゃあな、と去っていく。
男の姿が視界から消えるのを待って、六飛は男とは別の方向に足を向けた。
日が落ちるまでどこかで眠り、暗くなったらすぐに宮城の西の庭園に忍び込んで紅珊を探そう。それなら、子時夜半まで余裕もある。
「師しょ……」
当たり前に振り向いて、半分まで呼びかけて気がついた。足もとには風が砂埃を舞い立たせるだけ。肩に乗っていないときはそこを歩いていたのに──白風子、いないんだった。




