第10話 狂愛
「でも、これで一緒に行ける。会えて嬉しい……待たせたね。愛してるよ、千春」
男の手はもう震えてなどいなかった。
千春に笑みを向けながら、ためらいなく自分の首をかっ切った。生温かい男の血が目の前に吹き出す。
俺は一瞬気を失いかけたが、すぐに千春の顔が頭を過った。千春を、千春を助けなければ。
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狂った愛。
誰かを狂ったように愛したことはあるだろうか。
自分に気持ちが向いていないとわかっても、それでもどうしても手に入れたいと思うほどの深い愛。
他人をコントロールすることはできない。それは当然わかっている。それでも自分に目を向けてほしいと試行錯誤して注目を向ける。
赤ちゃんが母親に向ける愛情に似ているかもしれない。その気持ちは成長するたびに、どんどん理性を伴い、選ばれなければ愛されないことを知る。
失恋すれば、泣いて泣いて泣いて、普通の人は諦めて別の道へ進む。最終的に、自分を愛してくれる人、自分でも受け入れてくれる人と結ばれるだろう。
相思相愛。純愛なんて数少なく、半数の人が多少の妥協によりパートナーを決めているのではないだろうか。
それができない人間も一定数いる。自分が愛する人に何が何でも自分を見てもらおうとする。
赤ちゃんと母親の関係のように泣き喚いたら振り向いてくれるほど、人間は単純ではない。
だから、誰かを蹴落として注目を集めるしかない。愛する人の愛する人を蹴落として、傷つけて、その場所から無理やり追い出すしかない。
その隙間に入り込むのは私。私が勇気に愛されるためには、そうするしかなかった。
勇気が男と付き合っていると知り、私は燃えるような嫉妬で気が狂いそうになった。
そして、この男に憎悪の気持ちが湧いた。
女に負けるならまだしも、私は男に負けたのだ。私が知る限り、勇気は高校時代、女と交際していたはずだ。根っからの同性愛ではないはずなのに、どうして?
この男が勇気に選ばれた意味が全く理解できなかった。
勇気に送り迎えしてもらっている時、夜道で思い切って私から手を繋いだことがあった。短いスカートを履き、私はあの女々しい男から勇気を奪おうとしたのだ。
それなのに、勇気は嫌がって私の手を振り払い、「俺、大切な人がいるからそういうのされるともう送れない」と言った。異性も愛せるはずの勇気は、女である私に見向きもしない。
そんな時、母から聞いた。
「勇気くん、何だか変わった人と付き合ってるらしいけど、知ってる? この前、勇気くんのお母さんとお茶した時に聞いたのよ。どんな人か教えてくれなかったけど、結構悩んでる様子で。交際をやめてほしいって直接言いに行ったこともあるみたい。あ! 勇気くんには秘密よ〜」
私がストーカー事件で勇気に送迎してもらうことが決まると、母は勇気の親に連絡を取った。ストーカーという危険人物と関わらせてしまうから、一応確認のためと言って。
それから連絡先を交換して、たまにお茶する仲になったらしい。勇気とあの男の交際を、母親はよく思っていないんだ。
私は使えると思った。
勇気の母親を装い、あの男に嫌がらせの手紙を送りつけたのだ。
勇気と男は同棲している。だから、男の勤めるレストランに。
「勇気の前から消え失せろ」
「気持ちの悪い汚れた体で勇気に触るな」
「勇気の人生を引っ張っていることに早く気づけ」
「死ね」
どんな言葉を送っても、あの男は勇気と別れることはなかった。
なんで? どうして? そこまでして勇気にくっついていたいの?
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
イライラがピークに達しそうな頃、勇気が大学で男と電話しているところを見かけた。
「ええ? 咲ちゃんにまたお小遣い送ったの? 本当に妹想いだなぁ。まぁたった一人の家族だもんな」
いもうと…?
私はすぐにまた、あの男に嫌がらせの手紙を書いた。
「勇気と別れなければ、妹の咲を殺すぞ」
そこから程なくして、勇気は大学に来なくなった。あの男と別れたのだろう。
私は確認のために、勇気の家へ向かった。異臭が放つほどに放置されたゴミ。随分とやつれた顔で、男との別れを悲しんでいる様子だった。
あの男は勇気にここまで愛されていたのか。私は怒りで震えるように涙を流した。
でも、もう勇気は誰にも渡さない。絶対に、私のもの。
自分の心の隙間を埋めるために付き合い始めたことに、申し訳さを感じた勇気は私と結婚し、子どもを授かった。私たちの幸せは確約されていたというのに。
男に刺された瞬間、これは罰だと思った。
愛する人の愛する人を蹴落として、傷つけて。
愛する人もまた同じように傷つけた。
ふさわしくない場所に、いてはいけない私が居座り続けた罰。
私はもう……死んだのかな?
「おぎゃ〜おぎゃ〜」
遠くから未来の声が聞こえる。
未来は私たちの子ども。この子には何の罪もない。私と勇気のかけがえのない娘。
私には未来を愛す権利がある。未来は私に無償の愛を求めるはずよ。それは勇気にも……
私はもう罰を受けた。だから、この子を育て上げるまでは。もう少し勇気と一緒に……ごめんなさい。
許して……お願い……お願い……