19「特訓の日々⑤」
三日目、午前――
「その『威圧』とかいう力、私覚えたくないんだけど、なしで済ませるのってできないの?」
『威圧』という力の来歴を知ったリラは、その依存性のある麻薬のような性質に怖気づいてしまっていた。
仮面の少年は笑う。
「そこまで怖がるものじゃない。今は『鏡』だ。マリオはおそらく持っている。一対一でも『鏡』は強い。同格なら一方的に受ければ、それで勝負が決まるほどだ。それに『鏡』対策はお互いに『威圧』を掛け合って対等の条件になるのが一番簡単だからな」
「使ったら気持ちよくなるとかいやだし」
気持ち良くなったか? とかマリオに訊かれたら憤死ものである。
「そう言ってくれるのは裁定者としては嬉しい限りだが、今回に限ってはもうどうしようもない」
少年は肩をすくめる。
「どういうこと?」
「君は俺と会う前から、既に『鏡』の契約を済ませているからだ。一度覚えた力を忘れることはできない。だから俺にできるのは、せいぜい安全な使い方を教えることだけだ」
「え?」
「君はもう『鏡』を使っている。例えば、裏手の山の中で襲われていた時もそうだ。瞬間的に相手が鈍くなって、自分が速くなったような感覚があったんじゃないか。あれが『鏡』だ」
リラはその言葉に思い返す。
「あれが…… あの時は幸運の力なんじゃないかと思ってたけど、『鏡』だったんだ」
確かに幸運の力というには戦いに向きすぎていた。
「『鏡』は、通常の契約でも習得できるが、才能のある者が苦戦していたり、格上との戦いをどうにか凌いでいたり、危機的状況で戦い続けているとたまに自然に習得されてしまうことがある。昔はちょくちょく、子供たちが剣の試合中に『鏡』と契約してしまうことがあった。君も以前にもそんなことはなかったか?」
「どうかなあ。たぶんなかったと思う。あんなことが起きたのは、あの竜に襲われた時が初めてだったし」
「じゃあ、あの時に契約したのかもしれないな。初めてだとしたら、かなり上手く使えていたぞ」
「やっぱり天才だったか、あたしは……」
どうやって使ったんだったかな……
その時の感覚を思い出そうとするが、全く思い出せない。
「使い方は覚えているか?」
「全然。必死だったから?」
少年は木の棒を拾うと軽く振った。剣を学んだ動きだ。そのままもう一本拾うと投げてくる。
「なら模擬戦といこう。既に契約していて、意識的に制御できていなければ、追い詰められた時に勝手に発動する。自然状態の『鏡』というのはそういうものなんだ」
◆◇◆◇◆◇
「勝てない……」
既に勝負は五戦五敗。負けに負け続けているのだが、さっぱり『鏡』が働く気配はない。
リーチ、腕力、反応速度、全てにおいて少年はリラ以下だった。『祝福』を使わない素の状態でも全く負ける気がしなかった。
それなのにあらゆる局面で少年はリラの上を行った。完全に読まれているのだ。そして対応する技が的確すぎた。これで決まりだと思った一振りを何度も当然のように切り抜け、返しの刃まで入れてくる。これだけやり合えば、少年が果てしなく隔絶した圧倒的技量の持ち主だというのは十分に理解できた。
その抑制のきいた技は、生涯全てを剣に捧げた達人が老化の果てに肉体的に衰えきった状態でなおも振るう剣に近いものなのだろう。
一つの人生が終わりを迎えるその直前に完成するような技がここにある。
技には心が宿る。この老人の技には恐れがない。己の滅びゆく肉体を正確に把握しながら、そこには死への恐れがない。その清澄な技は、死に極限まで近づくことで逆に活力を得ている。
永遠だからこその境地ではない。そこにあるのは一つしかない己の生を死の瞬間まで生き抜いた結果だ。その遺産がこの技なのだ。
しかし、そうと理解できたとしても、自分よりも小さな子供に負けるのは悔しかった。
「試合で負けそうなくらいじゃ出ないんだな。本当に死にかねないような危険が必要なのかな」
少年の呟きにリラはそろりと立ち上がって距離をとろうとする。
「逃がさないよ」
少年は笑った。その瞬間、身体が全く動かなくなる。どれだけ力を入れても、僅かに震えるだけだった。気付くと少年の左手には抜身のナイフが握られていた。振り上げられた刃はリラの目を狙っている。
「殺しはしない、痛いだけだ。助かりたいなら、自分の力で止めてみろ!」
低い声は笑いを含みつつも、冷徹だった。手加減なくナイフが振り下ろされる。
その瞬間、世界が減速した。同時に拘束が解ける。全身が勝手に動く。全開の『軽身』で上空に逃れる。
少年はその場で動きを止めていたが、しばらくしてナイフを服の中にしまい込んだ。
「それが『鏡』だ。感覚は掴めたか?」
言うほど気持ちよくはないような気がする。
すべすべしたものがのどを通るような感覚。
つるんとした快感と柔らかな満足感がある。
ちょーきもちいーとかいうんじゃなくて、でもおつまみみたいに少し癖になりそうな感じもした。
「……何となくは」
少年は右手で木の棒を振る。
「それじゃもう一度だ」
◆◇◆◇◆◇
それから何度か『鏡』を発動させて、リラはその性質が何となくわかりかけてきた。
この力は極限の集中を要求するのだ。
全ての注意を敵に向けて、その手足の動き、体勢の変化、僅かな重心のぶれまで全てを把握しきろうとする状態になって初めて『鏡』は効果を生み出す。
ただ、これも効果をオンオフしているというよりは、力の強弱を調整している感じがある。
何か形を自由に変えられる柔らかな金属の塊のようなものが頭の中に浮かんでいて、普段のでこぼこの石ころみたいな形のうちは何も効果がなくて、滑らかな面で構成された多面体に変形させきると途端に効果を発揮するのだ。
そしてこの変形は、リラの集中の深まりと共に進行していく。
この金属のような光沢を帯びた粘土のような石ころのような不思議なものは何なのか。これが『鏡』なのだろうか。
「だいぶ慣れてきたようだな」
またも『鏡』の効果を受け動きを緩めていた少年は、復帰すると木の棒を下ろす。次は何をするつもりだろうか。身構えたリラを見て、少年は笑い声をもらす。
「……安心してくれ、もう武器を出す気はない。大怪我をしても後に響く。それにこの発動方法は力の感覚の理解には適しているが、突き詰めても旧来の『威圧』にしか繋がらない。『鏡』は『威圧』とは全く別のアプローチからこの力を活用している。少し休憩して、今度は『鏡』としてのアプローチを試してみよう」
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