11「リラの困りごと①」
夕刻――
日も沈んだ頃になって、やっと少年は解放された。少年は屋敷へと続く道をかなりゆっくりと歩く。仮面をつけていて表情は分からないが、今何を考えているのだろうか。最初に会った時には訳の分からないことを言う異常者という感じだったが、今は確かに、老賢者の風格を感じ始めていた。少し常識が違っていて暴力的なようにも感じるが、それも二千年前から人生を続けていると考えれば納得できなくもなかった。屋敷に戻った頃には既に夕日の残照も消え、頭上には星空が広がっていた。
屋敷まで着くとフォルトゥナは、当主に報告に行くのだろう、リラと少年から離れて廊下を歩いていく。
「今日はありがとう」
少年は、かけた言葉に反応することなく去るフォルトゥナの背中を見送って客間に足を向けた。その時だった。
「よう、リラ。今日は忙しかったみたいだな」
廊下の大時計の陰に小太りの少年、マリオがいた。
「何の用?」
マリオは笑う。
「教えておくぜ。結局、手を上げた連中の中で、まともに戦えそうなのはマランドロだけだ。でもあいつじゃ俺には勝てねえよな。今週末だ。それまでにしっかり身体を磨いておけよ」
それからマリオは裁定者を見る。
「お前が裁定者か。何を考えてんだか知らないがリラには手を出すなよ。後悔することになるぜ」
言いたいことだけ言って立ち去っていくマリオの背中を眺めつつ、少年は言った。
「なかなか強そうだ。歩む姿だけでも分かる。洗練された力強い動きだ。若いのによく修練しているよ」
その通りだけれど、あんな性根の腐ったクズをこの少年が評価するところは聞きたくなかった。
◆◇◆◇◆◇
リラは厨房で二人分の夕食を作ってもらうと客間に向かった。少年は仮面を外していたようだが、リラが戻ってきた時にはもう素早く仮面をつけてしまていた。少し残念だった。
「入る前にノックくらいしてほしいんだが、そんなに俺の素顔が見たいのか?」
「違うけど、なんでそう思う訳?」
「こんな仮面をいつも被ってれば、似たようなことが起きる。問い詰めれば白状する奴もそこそこいる」
「やっぱり気になる人って多いんだ。その仮面、外しちゃいけないの?」
「一応な」
「晩御飯、持ってきたんだけど、どうしようか?」
「いただこう」
少年は何のためらいもなく仮面を外した。
「え?」
素顔は、体格と声相応の幼い少年だった。
中国系とはどこか違う。台湾か、日本か、韓国か。北の方の国の顔立ちだ。女の子と見間違えるほどにかわいらしいが、老人のように疲れ切っているようにも見えた。
「外していいの?」
「つけたままじゃ飯は食えない」
「一人で食べるのかと……」
「せっかく二つ持ってきてくれたんだ。一緒に食べよう。それに初対面の相手に挨拶をする時には必ずつけておきたいが、親しくなった後は、他に誰もいない場なら外してもどうってことはない」
顔を隠したいって訳じゃなかったのか。
「結構かわいい顔してるんだ」
◆◇◆◇◆◇
用意された夕食は串焼きの山に卵スープだ。鳥肉と野菜の串にはぜいたくに香辛料が降りかけられている。スープの中には少量の香味野菜とふわふわとした卵。リラと少年はゆっくりと食べ始める。
「裁定者ってさ、自分では、やっぱり二千年以上前からずっと生きてるって感じなの? 死んだと思ったら赤ちゃんだったのを繰り返してるみたいな感じで生きてるの?」
リラの問いに少年は肩をすくめる。
「俺は俺だよ。過去の裁定者とは別人だ」
「でも記憶はあるんでしょ」
「今はな。でも俺たちは生まれてからしばらくの間は、自分の人生の記憶しか持っていないんだ」
「元は普通の人だったってこと?」
少年は頷く。
「俺たちは、ある程度成長して、記憶を受け入れる準備が整ったある夜から、数日眠り続けて、長い夢を見る。その夢は、夢で終わらず、目覚めた後もずっと記憶の中に残り続け、しばらくすると彼らの経験と知識を自分のものとして扱えるようになり、そして俺たちは裁定者になる」
「ふーん。それも転生って感じ!」
「転生というよりは過去へのタイムスリップみたいなものかな。八歳まで自分として生きて、その後、一時的にそのことを忘れて、裁定者として長い時間を過ごし、それから自分の人生に戻ってきたような気分だった。だからあくまで、俺は俺なんだ」
「それって、前世を思い出す、みたいな感じなの?」
「思い出したと感じるんなら、それは忘れていただけの自分の過去だろ? それは今の自分を作り上げた経験の一部だ。裁定者の記憶にはそういう既視感はない。どれも全く知らない別人の人生だった」
「でも何かを大切に思ったり、嫌だなって思ったりするのって、やっぱり記憶でしょ。そういうきっかけの記憶を受け取ったら、やっぱり同じように好きになっちゃうし、嫌いになっちゃうんじゃないの? 記憶も同じで、価値観も同じなら、それって結局、同じ人間になっちゃうってことじゃないの?」
「そうだな。影響は受ける。でもそれはスポーツの試合を見て自分でもやってみたくなったりするのと同じで、特別なことじゃない。同じものを見て、共に考えた者同士で、到達する結論が同じになるのは、そんなに珍しいことじゃない。だから同じ価値観になったからといって、同じ人間だということにはならない」
少年は自分に言い聞かせているかのように穏やかに言った。
「なんだか無理に否定したがってない?」
リラの問いに少年は笑う。
「……そうした方がいいと、過去の裁定者たちも言っているんだ。確かに初期のこの力の仕様をよく知らなかった裁定者の中には、記憶を継承した時、先代の偉大な人格まで受け継いだと勘違いした奴もいた。だが、ごっこ遊びをしていたそいつも戦場に立った瞬間に気付いた。自分には、ここで血を流す覚悟も、死ぬまで戦う覚悟も、全くなかったってな。結局そいつは、圧勝できる場以外では二度と戦わなかったが、そんな自分を常に恥じて、周囲からの蔑みを恐れ、未来の子孫たちにそんな自分の内面全てを知られてしまうことが耐えられなくて、最後はちょっとおかしくなっていた。こういう奴の人生を知ってしまったら、同じようにはできないだろ?」
「それはちょっとかわいそうかも」
死んだ後といっても、自分の人生全てを、それも納得のいかなかった人生を、隠すこともできずに誰かに見られてしまうのは、ちょっと嫌だなと思う。
「ああ、貧乏くじを引いたという奴だ。俺も偉大な先人の記憶だけを継承していれば、そうなっていたかもしれない。そいつが失敗してくれたおかげで以降の裁定者は、無自覚に英雄と同一化してしまうことも、必要以上に自分を卑下することも避けられるようになった。恥じるところのない人生なんて、そうそう歩めるものじゃないんだ。戦士として首尾よく恐怖を乗り越えられたからって、そういう奴がまともに裁定者として行動できるとも限らない。あの臆病者も、常勝の裁定者と恐れられ、政治屋としては逆に優れていたくらいだからな。結局、俺は俺ってことだ」
「でもそれって別人って言うほどなのかな。普通の人でも、普段は積極的でも、疲れて弱ってる時には消極的になっちゃうことはあると思う。若い頃と年を取った後でも違うんだろうし。それと同じで、宿ってる身体に合わせて変わってしまう部分があるだけで、本当の自分はやっぱり一人なんじゃないの?」
少年はしばらくの間沈黙し、それから答えた。
「君はどうしても俺を子孫の身体を奪いながら永遠を生きる悪霊にしたいようだな」
怒ってはいないようだが、呆れているようだ。
「そんなことないけど、でも……」
言われてしまうと自分でも不思議になる。
どうしてこんなに気になるんだろう。
「ちょっと、そう、憧れるかも」
「永遠の命を持つ悪霊にか?」
「違う、違う。永遠に生きたいなんて思わないけど、でも、なんというか、その記憶? 経験、知識、強さ…… うん、強さかな。私より小さいのに、そうやって一人で家族から離れて、立派に生きていけてるのってすごいと思う」
リラはその言葉を口にして、やっとそれが自分の本当の感情だということに気付く。
「……やっぱり君は力がほしいんじゃないか? そうか、分かったぞ。力と知識がほしくなるような困りごとがあるということだな」
少年もリラの反応を見て、すぐにその内心に気付いたようだった。
「俺はここでは部外者だ。だが助言するくらいはできる。無数の身体を渡ってきた亡霊だからな、経験ってものだけは飽きるほどにあるんだ」
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