68 脱出・ラピス王国
影で隠れていた姿が顕になる。2メートルを超えそうな身長、長いマントから覗くひょろひょろと脱落した手足、そして顔を覆う真っ白な面。目の位置に穴が空いている以外になんの特徴もないその面が、メアリーには酷く不気味に見えた。
「おや、怖がられてしまいましたか。これは申し訳ない、しかし私の素顔を見れば女性なら卒倒してしまう!それは私の求めるところではないのでね。だがどうやらこちらの小さなレディは興味津々なようだね?」
そう言ってカーデン商会会長・アララトは背を屈め、マーシャの目線に合わせた。
「初めまして、レディ。生まれたばかりのあなたには私の姿は面白く見えるようだ。」
「...うまれたばかり?」
「そう、レディ、あなたはこの世界を知り始めたほんの赤子に過ぎない。何が危険で何が安全なのか、自分という存在を、身の振り方を今まさに学んでいる最中なのだ。そうでしょう?」
仮面からはなんの表情も読み取れないが、低く脳に響く彼の声から暖かな感情をマーシャは感じ取った。
「...うん。私は生まれたばかり。だから仮面を被るあなたが不思議。どうして被っているの?」
「フッ、正直なレディだ。うーん、そうだな。人によるが私の場合は顔を見られると不利益だからだ。」
「ふりえき、、、」
「そう、不利益。私にとってマイナスに働くということだ。さあこの先は自分で考えるといい。そんなことよりあなたにはやるべきことがあるようだ。」
アララトの言葉にマーシャはメアリーを振り返る。彼女の不安気に揺れる瞳に、懇願するように組まれた両手に、どんな想いが込められているのだろう。
(人の気持ちってむずかしい、、、。)
寒くて独り凍えていたあの頃に比べて、今はずいぶん温かいところにいる。清潔な服に温かい食事、ふかふかのベッドも、学ぶことだってあの頃は到底考えられなかった。初めて触れる人の優しさも、自分にしかいない仲間も。それでも時折酷く不安に苛まれる。本当はメアリーもお姉ちゃんも、私が憎いんじゃないか。私のことが嫌いなんじゃないか。あの乳母の方がずっと分かりやすかった。いつでも私を嫌っていて、それを隠そうともしていなかった。だから今の暖かいこの環境が実は夢なんじゃないかって、あの冷たく独りぼっちだった狭い部屋が現実なんじゃないかって。
(それが...すごく怖い。)
今のメアリーからは、私と同じような感情を感じる。メアリーも怖いって感じてる...?でもどうして怖いんだろう。何が怖いんだろう。
グッとメアリーは唇を噛み締め、何か言葉を探すように視線を彷徨わせ、ようやく口を開けた。
「マーシャ...今すぐにでも敵が来るかもしれないんです。早く.....逃げましょう。」
きゅっとメアリーの大きな手がマーシャの小さな手を包み込んだ。メアリーの手は暖かいはずなのに、今は氷のように冷たく震えている。それに驚くと同時にマーシャはようやく気づいた。メアリーがマーシャを心配しているということに。
(メアリーは私が殺されちゃうって思ってるのかな。)
そうはならないだろう。むしろ殺されるとしたらメアリーの方だ。精霊王と契約を結べるマーシャは敵にとって有用で、そのマーシャを守るメアリーは邪魔だから。なのにメアリーは自分よりもマーシャの心配をしている。その事実が、マーシャにとっては非現実的で同時に心拍数の上昇を感じた。
(体があったかい...不思議。お姉ちゃんたちと一緒にいてからずっと体が変な感じだ。)
でも、それは塔にいた頃のようなしんどさじゃなくて、日差しに穏やかに体を預ける草花のような暖かく柔らかいものだ。
「...そうだね。またみんなでお茶会したいもん。早くヒビス王国に帰ろう。」
マーシャの言葉にメアリーはぱあっと顔を輝かせ、ぎゅっと抱きしめた。
「わぁー、可愛らしいねぇ、姉妹みたいだ!よかったら私も混ぜて...嘘嘘冗談だからそんなに歯を剥き出しにしないで....。」
気づけばマーシャとメアリーが抱きつく前で体を屈め近づいていたアララトに、空が牙を剥き出し唸っていた。アクアもさりげなく体をアララトとマーシャたちの間に挟み、遮っていた。
「ねえ会長さん。さっき、言ってたよね、アクアの魔法石が欲しいって。そしたら私たちを安全にヒビス王国に戻してくれるんだよね...?」
「勿論だとも。精霊王の魔石なんて中々手に入らないからね、10個とか言ったけど欲を言うならもっと欲しい...まあそこは精霊王様の意見を聞かせてもらいましょうか。」
「うーん、そうねぇ。正直あなたにこれっぽっちもあげたくないけど、マーシャがどーしてもって言うならあげないこともないわよ。」
瞳を空中に向けていたアクアがマーシャを伺うようにチラリと見つめた。当のマーシャは床をじっと見つめ考え込んでいるようだ。
「...会長さんは、アクアの魔石を何に使うの。」
「ふむ、当然の疑問だね!それは勿論、金になるからだよ。知っての通り今この地では魔石の採掘が滞っている。水の精霊を怒らせたとかいう馬鹿げた理由だったけど、それも歌姫様が鎮めたから、まぁ恐らくすぐにでも採掘は再開するだろうね...。」
アララトは器用に陰絵をしながら話を進めていく。
「ただそれだと、商人は採掘を待つまで魔石を売れなくなる。どうせならどこよりも先に価値のあるものを持っているのだと、世間に公開したいんだよ。ただ売り払うんじゃあ勿体無い。自分たちはどこよりも先に魔石を持っているという証拠が欲しいのさ...!」
そうしてひょろひょろとした腕を大きく広げたアララトは、だからプリーズギブミーなどと言いながらそのまま手のひらをアクアの前へ持って行った。
(本心じゃない気がするんだけど...。)
と思いながらも一応は納得できる理由を提示されたマーシャはアクアに合図を送る。アクアは特別大サービスよぉ、と言いながらアララトの手のひらに蒼く光る魔石をゴロゴロとだした。
「お、、、おぉぉおおおぉぉおおお!!!!!これはこれは、また随分と立派なものを....!いやぁそれじゃあ頑張らなきゃなぁ。よし、レディ、あなたたちを安全に傷一つない状態で家に返しますよ。これは契約です。こちらにサインを。」
いそいそとどこかに魔石をしまったアララトは、またもどこからか契約書を取り出した。マーシャはその契約書をじっくりと読み、変な箇所がないのを確認すると自身の名を綴った。
「では、確かに。これより契約の内容に従い、ヒビス王国まであなた方をお連れいたします。」
パンパンッと小気味よくアララトが手を鳴らすと、二つの影が音もなくマーシャたちの前に現れた。
「彼らはあなた方の護衛です。馬車はこちらで商人用のものをご用意致します。洋服も変えた方がいいですね、念のためこちらの変身薬を服用ください。副作用がない代わりに6時間しか持ちませんので、ご注意を。それでは後は彼らに任せますので、私はこれで。」
「まって!」
部屋の奥へと進もうとしたアララトのマントの裾をマーシャは掴みながら呼びかけた。アララトは振り返り、マーシャの目線まで屈みながらなんでしょう?と尋ねる。
「会長さん、ノアの知り合いだよね...。どうやって知り合ったの?」
「そういえば、私あなたの話ノアから聞いたことないのよね。どういう仲なの?」
アクアも興味津々と言った様子でアララトを見つめる。アララトはその様子に軽く笑いながら立ち上がり答えた。
「ただの腐れ縁ですよ、レディ。」
そしてアララトは今度こそ部屋の奥、影の中へと消えていった。後に残されたマーシャたちはアララトの部下の手によって手際よく着替えさせられ、馬車に詰められ、夜が明ける前に建物を出た。




