56 月夜の夜に
心の声が聞こえる、この能力はいいところもあれば悪いところもあった。終始止まない声に頭を悩ませ、当然周りも聞こえるものと思っていたから、これが一般的でないことを知った時の疎外感と言ったら半端なかった。それでもこの能力に助けられたことは何度もあった。父という名の怪物の行動を先読みし、弟妹たちが傷つかないように立ち回る。時には外に逃げて龍の家にお世話になることもあった。
その経験から今、夜はハリス王子から逃げられないことを嫌でも悟った。
(最っ悪だこいつ盛ってやがる...。今まで逃げてきたのに....。)
夜の両腕は王子の強い握力で押さえつけられ、全く持ち上がらない。先ほどから脚をバタバタと動かしてはいるが、王子は鬱陶しそうにしているだけでこれと言って効果がない。こうなったら、話をして何とか隙をつくしかない。
「おいクソ王子、お前婚約者いるじゃん。こんな不貞働いていいと思ってんの?」
「これは立派な王族の仕事だよ、歌姫殿。いや、天使と呼ぶべきか。」
王子はニヤッと君の悪い笑みを浮かべ、下卑た目を夜の体へ向ける。そして右手を夜の体に這わせた。その手はすぐに夜の古い傷跡に触れた。その瞬間、夜の中で何かが爆発した。夜は解放された左腕を思いっきり王子の側頭部に当てる。近距離での攻撃に王子が怯み、咄嗟に怪我した頭に左手を持っていった瞬間、夜は両手で王子を押し退けベッドを転がり降りた。そのままドアまで走り開けようとしたが、外から鍵が掛かっているのかびくともしない。
(そうだ、歌えばいいんじゃん!)
王子は未だに側頭部を押さえていてこちらに来る気配はない。よし、と息を大きく吸い込もうと口を開けた。途端、後ろから瓶を口の中に押し込まれた。瞬時に口の中はアルコールと葡萄の香りでいっぱいになり、息をする隙間がなくなりゴボッと食道を通らなかった液体が吐き出される。喉が熱くなり、瓶が口を離れてからも暫く夜は咳き込んだ。
(何にも聞こえなかったのに....!)
突然のことにわけが分からなくなり、混乱している夜の背後で声が聞こえた。
「王子、先に睡眠薬でも飲ませて仕舞えばいいと伝えた筈ですが?」
閉じていたはずの扉が開かれ、中にランスロット宰相が入ってくる。夜は急速に体内を循環し始めたアルコールによって朦朧とした意識の中、ランスロットから離れようと何とか動く。しかしすぐに後ろ髪をランスロットに引っ張られ捕まってしまった。
「寝かせてはつまらないではないか。」
「王子、そうは言っても彼女は天使である前に人間だったのです。突然迫られたら誰だって逃げようとするでしょう?」
「そう言うものなのか?大抵の女は喜ぶものと思ったが...。ああそう言えば、歌姫殿の体には傷があったから、もしや既に誰かの手に....。」
王子の推測に宰相は事実か確かめようと、夜のネグリジェを一気に引っ張った。その白く浮き出た体は歳の割に貧相に見えた。そして確かに、腹にも背中にも無数の傷跡が残っていた。火傷痕に打撲痕、斬られたような痕まで見える。その傷にランスロットは顔を青くするどころか笑みを浮かべ、夜の耳元まで顔を近づけた。
「何だ、既に傷者だったのか。我々の言うことに従わねば、同じ痛みを味わうことになるぞ?」
その言葉に夜の顔がさーっと青くなり、体が震え始めた。その様子を楽しそうに見てから宰相は夜をベッドへ引き摺り投げた。アルコールでうまく力の入らない夜の体は最も簡単に王子のところへ戻された。王子は目の前に出された食事を舐めるように見つめ、頂こうとする前に宰相に苦言を呈した。
「いつまでここに居るつもりだ、早く出て行け。」
宰相は肩をすくめ、何かあればお呼びください、とその場を後にする。これでようやくありつけると、王子は嬉嬉と夜の下着を脱がせる。力が入らず頭もぼんやりとしながら夜はただひたすらに絶望していた。これから起こることではなく、傷を見られたことに。
これまで弟妹たちにさえ見せなかった体の傷。あいつらが残した私の傷。それは名誉の負傷であると同時に夜にとって恥ずべきものでもあった。誰にも見られたくない、触れられたくない。今まで隠してきたのに、龍にだって見られてないのに。それを見られた、暴かれた。私を形作ったこの傷を、私に悪夢を見せるこの傷を。最も簡単にこいつらは見やがった。同情も憐憫求めてなかったでも、この反応はもっと求めてなかった!私の秘密を暴いた、私の心に土足で踏み入った、こいつらはこいつらがこいつらに.....!
気づかないうちに夜の顔に涙がつたった。ぽろぽろと静かに流れる涙に夜も王子も気づかない。そしてそんな夜の脳内に声が静かに響いた。
《大きな絶望を感知しました。初代天使・アリアドネの命により、飛行の権能を解放します。》
何だ...?と夜がぼんやりと思った瞬間、背中が燃えるように熱くなった。
「うぁあっっっ?!」
夜の悲鳴に驚いた王子が手を離すと、夜は背を上にして自分の腕に噛みつきながらその痛みに耐えた。夜の背中は二つの瘤のようなものが盛り上がり、今にもネグリジェを突き破ろうとしていた。そして直ぐにそれはネグリジェを破り、姿が顕となる。白い骨の様なものに驚き悲鳴を上げた王子は、勢いよくベッドから飛び降りた。そうする間にも夜の背中の骨はどんどん伸びていき次第にそれはを2メートルにも上った。夜は痛みのあまり腕から血が出るほど噛んで声を殺している。そして骨が出来上がったと同時に、その骨に沿うように柔らかな白い羽毛が生えていった。夜からその光景は見えないが、それを見ている王子はあまりの美しさに声を上げることも忘れ息すらしない勢いで魅入っていた。
暫くして、夜の背中からは2対の大きな羽が生えていた。夜は痛みがなくなってもなお腕を噛み続けており、最早現実と夢の境もわからないような目をしていた。だらだらと流れる血の匂いに王子は漸く気付き、急いで宰相を呼ぼうと扉に向かった。扉が開かれると同時に、王子が夜を抱き止めたバルコニーに面している大きなガラス扉が開け放たれた。
「やぁやぁ、いい月夜だね、歌姫?」
面白そうに笑いながら入ってきた背の高い黒い羽を持った男に、宰相は目を見開く。
「な、何故あなたがここに...?」
「僕がどこにいようが僕の勝手だろう?君には関係のないことだ。それより...。」
男は音もなく夜に近づくと軽々と夜を抱き上げた。
「可哀想な可哀想な天使さん?僕と一緒に行こっか。」
「何をするか!歌姫殿を連れ去るつもりか!!」
突然激号する王子に男は冷たい一瞥をし、はぁと馬鹿にするようにため息をついた。
「あのさぁこの国の教育どうなってる訳?ねぇ確か君の管理下だったよなぁ、ウリエル?」
そう言うと、それまで男の後ろに隠れていたのか、ひょこっと小さな子供が出てきた。
「ウ、ウリエル様....?!」
王子は宰相が先ほどよりも驚いていることを不思議に思い、どう言うことだ、と目で訴える。
「はいはーい、みんなのウリエル様です。いぇい、いぇい。」
真顔でピースを決める少年に、王子は不愉快そうに顔を顰める。
「ウリエル様....。あなたは私に力を貸してくださっていたのではないですか?なぜ歌姫を連れ去るような真似を....。」
驚きと不安に満ちた表情をしたランスロットにウリエルと呼ばれた少年は一歩前に出ると、真顔のまますらすらと話す。
「はい、確かに力は貸していました。しかしあくまで力を貸すだけ。私はお前の味方じゃありません。いつから勘違いしていたんですか?」
その言葉にランスロットは驚愕し、さーっと顔を青ざめる。
「ほんとにさぁ君はいつも言葉が足りないんだよ、ウリエル。ていうかもうどうでもいいや、行くよ。」
長身の男はそう吐き捨てると大きな黒い羽を広げ、歌姫を連れて飛び立って行った。後に残されたウリエルは呆然としている二人に目を向け、静かに呟いた。
「いつの時代も人間は愚かだ。」
それは二人の耳には届かなかったが、ウリエルは気にせず男の後を追い、黒い羽を羽ばたかせた。
遅くなってすみません!気づいたらあれよあれよと言う間に時がすぎていてですね...。多分ずっとこんな感じだと思うので、気長にお付き合いください。




