十九、最後の反旗 残夜
殺意を感じる鋭い一閃だった。視認してから身を躱していては間に合わなかっただろう。ガレフやノルドレンが特殊なだけで、一般的には当主より騎士団長の腕前のほうが、数段勝っているものだ。
ビルダの出身を、リューベルトは知らない。侯爵家の団長ならば貴族の出なのかもしれないが、現在の彼に貴族籍があろうと、もともと平民の生まれであろうと、皇家に直接刃を向ける人間は、ルイガン以外では初めてだった。
「そなた、……いや、そなたらは、自分たちがしていることを、本当に理解しているのか?」
突き付けられる切っ先の奥にビルダを見据えながら、リューベルトは冷静に訊ねた。
「ルイガンは帝国を壊そうとしている。なぜここまで従う? フェデルマはそなたらの故国でもある……そうだろう?」
「それは、十一年前までの話」
動揺することなく、ビルダは答えた。
「この国は変わってしまった。たった一人正そうとなさった旦那様のことは、無慈悲に切り捨てた」
「正そうとしただと? それは先の皇帝皇后の暗殺や、先日の私の殺害未遂の話か?」
はっきりと表現しても、ビルダに臆する様子はなかった。ディーゼンとレスカの暗殺にも、この騎士団長は関わっていたのだろうか。少なくとも下御の儀の事件では、彼は協力したのだろう。白を切っていたが、実行犯ジレイスたちは彼の部下なのだから。
国を「正すために」ルイガンが用いた手段に、この男は反対するどころか従ったのだ。
「切り捨てられてもなお旦那様は、この国を元通りにするために、自己犠牲の道をお選びになったのです。ともに戦うのは我らの当然の務めであり、本懐」
「自己犠牲? 自分で破壊したところでかすめ取り、次の皇家に成り上がることがか?」
「ええ、そうなさるのが最上……しかし旦那様は、ここでともに滅ぶことになろうと、この国が新しく生まれ変わるきっかけを残そうとなさっている」
刺すような眼光でリューベルトを睨んでいたビルダの目に、少しの悲哀が浮かんだ。
ともに滅ぶ——それは思いがけない言葉だった。ルイガンはグランエイド家に取って代わる、もしくは新たな国を興す計画なのだと思っていた。
ジェブロに聞かせたという、共倒れといこう、という言葉を思い出した。イゼル陥落によって復讐を遂げ、この国の崩壊の口火を切ることだけに、命を賭す心積もりだったというのか。ビルダたちはその覚悟でいるというのか。
——その後フェデルマが新たに生まれ変わるなら、自分たちは死んでも良いだと?
無責任な独りよがりに、リューベルトの中で怒りと同情が混ざり合い、嫌悪感に近いものを感じていた。
「……そなたらは、それを本気で信じているのか。ロニー・ルイガンは、時代の変化が気に入らないから皇帝を手にかけた。今は逆恨みで国ごと消そうとしている。それだけのことだ。自己犠牲などという美談にはなり得ない」
断じるリューベルトに、ビルダは激高した。
「黙れ! ディーゼン陛下と、他ならぬあなたが、すべての元凶だ!」
「それも本気で信じているのか。現在の人々に支持されるフェデルマのかたちは、昔と今のどちらなのか、本当にわからないのか」
「ディーゼン陛下に与えられた飴に騙されているだけだ」
「それはそなたが実際に感じていることなのか? ルイガンの受け売りではないのか」
「……」
「命を懸けるなら、自分の目で見て感じろ。考えろ。忠義を尽くすとは、考えることをやめ、主人の言うことを鵜呑みにすることと同義ではない。愚かな判断だと思えば、主人を諌めることこそが真の忠義だ」
かつてダイルが、ベネレストにそうしたように。
彼は大喧嘩になったと笑っていたが、皇帝に対して本物の忠義を尽くしたのだ。きっとベネレストも心の奥では理解していたはずだ。ダイルがごく軽い罰で済まされたのは、彼がグレッドを継ぐ者だったことだけが理由ではないのだと思う。
「……黙れ……だまれえええ!!」
咆哮するビルダの額には血管が浮かんでいた。聞く耳を持たぬ彼は、剣を構えて突進した。
デューに雨を凌いでもらう中、置いていた砂時計が時間を知らせるたびに、ターシャはノルドレンの脚の止血帯を解いては、再び止血をやり直していた。こうして時々血を通わせなければ、脚が壊死してしまう。
「ああ、やっと止まってくれた……」
通り雨が止んだ頃、ようやく出血が止まった。ターシャは止血帯と砂時計をどかし、新しいガーゼや包帯を取り出して巻き始めた。
ずぶ濡れのデューは、静かにノルドレンを見つめている。
巻き終えると、ターシャはまた彼の脈を確認した。
ノルドレンが意識を取り戻す気配はない。何度止血帯で脚を締め上げても、やはりその痛みに反応を示すことはなかった。肌も冷えていて、不安に耐えられずターシャが脈を診た回数も、両手では数え切れない。
一日で一番低くなった気温に、ターシャの身体が震えた。ノルドレンが濡れないことばかり気にしているうちに、いつの間にか自分は雨粒を浴びてしまっていたのだ。髪も服も冷たく身体に張り付いていた。
しかしターシャには、そのことに気づく余裕もなかった。犯していた大失敗に、焦燥していた。
ノルドレンをどうやってエリガまで運べば良いのだろう。出血は止まったが、すでに大量の血を失っている彼は瀕死状態だ。傷だって、できるだけ早く医師による処置が必要である。
それなのにターシャ一人では、彼をデューに乗せることもできないのだ。誰かに声をかけて一緒に来ていれば、こんなことにならなかったのに。
「どう……しよう……」
ターシャ自身にさえ、ここがどこなのかわかっていない。人を呼びに行くにも、一歩目をどちらへ踏み出せば良いのかもわからない状態だ。
「デュー……あなたに、頼っていいでしょうか」
デューならばもう一度エリガと往復できるはずだ。ターシャが助けを求める手紙を書いて、持っていってもらえば——
「ど、どうしたのですか……?」
首を伸ばしたデューが、木々の間をじっと見つめている。耳もぴんと伸び、両方とも前に向けている。ターシャには特に何も感じ取れないが、デューは木々の奥にあるものを警戒している。
「何か……いるの……?」
ドン、とデューの前肢が地面を強く叩いた。大きくいななき、そこにいる何かに向かって威嚇を繰り返している。それに反応したのか、獣の呻く声が暗闇の中から響いてきた。
見境なく襲ってこないのなら、魔獣ではないと想像できた。でも普通の野生の肉食獣にとっても、今のノルドレンとターシャは格好の獲物でしかないはずだ。
きっとノルドレンを守りたい一心なのだろう。デューは一層大きくいななき、木の間を駆けて闇の中へ飛び込んでいってしまった。
「デュー! ま、待って——」
馬だって、獲物にされかねないのに。怖いはずなのに。
——お願い……帰ってきて、デュー……
少し離れたところから、馬と獣の争う声が聞こえ始める。
デューの勇敢な行為に、ターシャは目に涙をにじませながら口を押さえた。声を上げて獣をこちらに引きつけてしまったら、デューの決死の戦いを無駄にしてしまう。
けれど目を落とせば、血だまりもまだそのままだった。声を殺したところで、この血の臭いはどうしようもない。なんとかしてノルドレンを移動させ、獣避けの大きな火を起こすべきかもしれない。
それに適した開けた場所と燃えるものを探そうと、ランタンに手を伸ばした時。
別方向からこちらに近付いてくる足音が耳に入った。ヒトのものではない。四本足の生き物だ。
デューかと期待したのはほんの一瞬のことだった。今も戦ってくれているデューの鳴き声は、ずいぶん遠ざかっていたけれど、まだ聞こえていたから。
「……あ」
闇の中に見えたのは、腹を空かせた肉食の獣よりもギラギラと光る目。
直接見る機会が少ないターシャでも、ひと目でわかった。間違いなく……魔獣だった。
「やめて……だめ」
たとえノルドレンに意識があったとしても、魔獣には関係ない。相手の実力を推し測ることも、駆け引きもない。目の前にいる生き物を襲うのみなのだ。
ターシャはノルドレンの剣を手に取った。これを片手で振っているなんて信じられないほど、彼女には重たい。何よりも、彼女には剣術の心得がない。
フェデルマのほとんどの大人が、魔獣と戦うすべを身につけているというのに。あれほど優雅なエレリアでも、きっと弓を使って追い払えるのに。
……ここにいるのが自分なんかでさえなければ、ノルドレンを守れたはずだ。ターシャは恐怖よりもその悔しさで、涙をこぼしていた。
魔獣の足が止まることはない。それは大きな猪だった。
「お、お願い……ノルドレン様は……やめて」
殺される前にこの剣を突き刺せれば、ノルドレンは助かるかもしれない。ターシャはそれだけに懸けた。
魔獣が走り出し、彼女も必死に剣を突き出して向かっていった。しかし無情にも剣は魔獣の毛並みには刺さらず、ターシャは半身に体当たりを受けて吹っ飛ばされた。
手から剣は落ちてしまい、身体はぬかるむ地面に打ち付けられたが、すぐに懸命に起き上がった。魔獣は立ち止まってターシャを見ていたが、その顔を倒れているノルドレンに向けたところだった。
「やめて、やめてえええっ!」
無我夢中だった。ターシャはノルドレンと魔獣の間に割って入った。目の前に牙が迫り、反射的に顔と首を守る本能が働いて、腕が前に出た。
大きく口を開いた魔獣が噛み付いたのは、ターシャの左の手首だった。偶然にも大きな犬歯は避けていたが、肌に牙が食い込んだ。
噛み千切られる、と思った。しかしそうはならなかった。
魔獣が噛み付いたまま不満そうに首を振る。ターシャの軽い身体は再び地面に打ち付けられ、草の上を引きずられた。意識が遠のきかける。
「あああっ……!」
——やっぱり……なんて役立たずなの。
命を懸けたって、魔獣一頭も倒せない。
私だけが死ぬのなら良かったのに。
ノルドレン様を巻き込んで……
悔しくて悲しくて、左腕の痛みもわからない。
涙に覆われた瞳には、魔獣の顔さえ映らなかった。
「ターシャああ!」
女性の声が響いた。絶叫のような声が。
「魔獣ごときが——」
視界は滲んでいて見えないけれど、その声は。
左腕の先の大きくて黒い影に、突然現れた人の形の影が混ざった。
「私の親友を放せ!!」
銀色の雷が落ちた。そんなふうに見えた。
リューベルトとシンザの一行から離脱したティノーラとレマは、エリガへと馬を急がせていた。
雨を降らせていた雲が動き、前方の景色はずいぶん見えるようになっていた。夜は少しずつ終わりに近付いているのだ。
彼女たちが走る街道が森林地帯に入ってしばらく、道の上で血を流して倒れている二人の人間を発見した。馬を降りて確認してみたが、二人ともすでに遺体となっていた。
さらに進んだところで、また一人が地面に倒れていた。もう一度馬を降りてみたが、やはり息はなかった。
「さっきの二人と同じね……。この騎士服、ルイガン家じゃないかしら」
「はい。下御の儀の事件の時に、ルイガン家の騎士団長という人が着ていた制服と同じかと」
「ここはエリガとイゼルを結ぶ道からは外れているけれど……彼らがルイガンの送り込んだ妨害なら、戦ったのはリエフよね」
「ですが、ここが主戦場ではなさそうですね」
「そうね。三人だけで来たはずがないわ」
ティノーラは転がっていた槍を拾い上げた。穂のすぐ下で断ち切られている。見事な断面だった。この槍の持ち主が相手にしたのは、身震いするほどの達人だ。リエフ家の騎士なら、ノルドレンかもしれない。
「旦那様は今、どちらにいらっしゃるのでしょうか。私たちの行き先は、エリガでいいのでしょうか」
「予期せぬ敵の出現に、一旦エリガに引き返しているかもしれないけれど……異変を感じ取って、かえってレグスの丘へ急いで向かった可能性もあるわよね」
ここにきてティノーラとレマは迷ってしまった。ノルドレンとユリアンネはどこまで察知しているのだろうか。レグスの丘でガレフと合流していたとしても、ルイガンが関わっていることは知らせたほうがいい。ふた手に分かれるべきだろうか。
「やめてえええっ!」
突如森のどこかから聞こえてきた女性の悲鳴に、ティノーラとレマは互いを見やった。
戸惑いながらも一瞬で集中したティノーラの耳に、ザザッと草の上で何かを引きずる音が入ってきた。
レマよりも先に、ティノーラは森へ飛び込んだ。真っ暗だが、そんなものは怖くない。怖いのは、切羽詰まった悲鳴がターシャのものに聞こえたことだ。
少し南方向へ戻ったところに、ぼうっと弱い光があった。ランタンだ。そのそばにいるのは、大きな猪。いや、おそらく魔獣だ。その魔獣は何かに噛み付いている。
「ターシャああ!」
牙が食い込んでいるのは、ターシャのか細い腕だった。
「魔獣ごときが! 私の親友を放せ!!」
沸騰する怒りに任せて、銀色の剣身を叩き下ろした。
猪の首は太くて筋肉質だ。ティノーラの力では、一撃で落とすことなどできない。
狂ったような鳴き声を上げ、魔獣の口がいっぱいに開く。くわえていたターシャの腕が、牙から外れた。
すかさず足を突っ張って剣を引き抜いたティノーラは、魔獣が暴れる前に勝負に出た。その心臓へ向けて、思い切り細剣を突き立てた。剣身のほぼすべてが毛皮の中に沈む。ブルブルと痙攣したあと、魔獣は倒れた。
「ターシャ……、ターシャは!?」
レマが助け起こしたターシャの左腕はだらりと下がり、流れ出る血は指先から滴っていた。それでも、無事に手は繋がっている。指先も動いているようだ。あの魔獣の体格ならば、噛み切られていても不思議ではなかったのに。
傷の確認のため、赤く染まった袖を捲り上げると、中から何かの欠片がパラパラと落ちてきた。
ターシャの手首には、牙の刺さった傷が複数あった。そして宝石が砕け、ひどく歪められた腕輪がはまっていた。それは半年前の彼女の誕生日に、ユリアンネが贈ったものだ。これのおかげで牙は深く刺さらず、ターシャは左手を失わずに済んでいたのだ。
「ティノーラ……?」
顔を上げたターシャが、ティノーラを見た。うまく焦点が合わない様子だった。
なぜこんな森の中にターシャがいるのか、まったく理解が追いつかない。それ以上にティノーラを混乱させたのは。
「お、お兄様……?」
息があるのかもわからない、青白い顔をした兄が、そこに横たわっていたことだ。
たった今、すぐ横でターシャが魔獣に襲われていたというのに、ノルドレンは目を覚まさなかったのだ。
これは——
「ティ、ティノーラ……お願いです、早く……ノルドレン様をエリガへ……」
「……い、生きている……の?」
「生きてらっしゃいます! お願い、早く……!」
一瞬兄の生命を疑ってしまったティノーラは、こみ上げそうになっていた涙を飲み込んだ。
「誰か……医師と馬車を連れてきて! 大急ぎで!」
すぐさまレマが駆け出すと、ティノーラは兄のもとへ行き、その顔に触れた。
ひやりとした。でも……心許ないけれど、確かに呼吸をしているのがわかる。
おそらく返り血のせいで汚れている騎士服の上から、ターシャの服が掛けられている。少し持ち上げて覗き込むと、左の腿に丹念に巻かれた包帯が目に入った。それからすぐそばに残る血だまりを見て、ティノーラにはだいたい兄の置かれている状況が飲み込めた。
ティノーラは脱いだ外套を、ノルドレンに被せた。
「ごめんなさい、ティノーラ……。わ、私なんかが一人で来たって……力不足に、決まっていたのに……」
ターシャはぼろぼろと泣いていた。
「何を……言ってるのよ。この処置は、ターシャがしてくれたんでしょう?」
何があったのかはよくわからない。でもこの多量の出血を食い止め、兄の生命を保たせてくれたのはターシャで、魔獣からも身を挺して庇ってくれていたのはわかっている。
こんなにも雨と泥に汚れながら。左手どころか、魔獣に噛み殺されてしまう寸前だったというのに——
——あなたは、お兄様を想ってくれるのね……
「ありがとう、ターシャ……」
ティノーラは親友を抱きしめた。ターシャの身体も驚くほど冷え切っている。ここまで己の身を顧みず、彼女は兄のために戦ってくれたのだ。
馬の息遣いの音に顔を上げると、兄の愛馬がどこかから戻ってきたようだった。
「デュー……! ああ、あなたもだったのね。……大丈夫よ。お兄様は二人を裏切ったりしない。絶対に生きてくれるわ」
兄はずっと、強くて頼れる兄だった。そして真面目で思いやりがあって、礼儀正しい紳士だ。こんなに強い想いを寄せられて、応えないはずがない。
——そうよ、そんな人じゃ……ないもの。
「大丈夫……大丈夫、絶対に——」




