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炎国の騎士と北の夜明け  作者: 紘麻 涼海
第八章 炎国
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十九、最後の反旗 残夜

 殺意を感じる鋭い一閃だった。視認してから身を躱していては間に合わなかっただろう。ガレフやノルドレンが特殊なだけで、一般的には当主より騎士団長の腕前のほうが、数段勝っているものだ。

 ビルダの出身を、リューベルトは知らない。侯爵家の団長ならば貴族の出なのかもしれないが、現在の彼に貴族籍があろうと、もともと平民の生まれであろうと、皇家に直接刃を向ける人間は、ルイガン以外では初めてだった。

 

「そなた、……いや、そなたらは、自分たちがしていることを、本当に理解しているのか?」

 

 突き付けられる切っ先の奥にビルダを見据えながら、リューベルトは冷静に訊ねた。

 

「ルイガンは帝国を壊そうとしている。なぜここまで従う? フェデルマはそなたらの故国でもある……そうだろう?」

「それは、十一年前までの話」

 

 動揺することなく、ビルダは答えた。

 

「この国は変わってしまった。たった一人正そうとなさった旦那様のことは、無慈悲に切り捨てた」

「正そうとしただと? それは先の皇帝皇后の暗殺や、先日の私の殺害未遂の話か?」


 はっきりと表現しても、ビルダに臆する様子はなかった。ディーゼンとレスカの暗殺にも、この騎士団長は関わっていたのだろうか。少なくとも下御の儀の事件では、彼は協力したのだろう。白を切っていたが、実行犯ジレイスたちは彼の部下なのだから。

 国を「正すために」ルイガンが用いた手段に、この男は反対するどころか従ったのだ。


「切り捨てられてもなお旦那様は、この国を元通りにするために、自己犠牲の道をお選びになったのです。ともに戦うのは我らの当然の務めであり、本懐」

「自己犠牲? 自分で破壊したところでかすめ取り、次の皇家に成り上がることがか?」

「ええ、そうなさるのが最上……しかし旦那様は、ここでともに滅ぶことになろうと、この国が新しく生まれ変わるきっかけを残そうとなさっている」


 刺すような眼光でリューベルトを睨んでいたビルダの目に、少しの悲哀が浮かんだ。

 ともに滅ぶ——それは思いがけない言葉だった。ルイガンはグランエイド家に取って代わる、もしくは新たな国を興す計画なのだと思っていた。

 ジェブロに聞かせたという、共倒れといこう、という言葉を思い出した。イゼル陥落によって復讐を遂げ、この国の崩壊の口火を切ることだけに、命を賭す心積もりだったというのか。ビルダたちはその覚悟でいるというのか。


 ——その後フェデルマが新たに生まれ変わるなら、自分たちは死んでも良いだと?


 無責任な独りよがりに、リューベルトの中で怒りと同情が混ざり合い、嫌悪感に近いものを感じていた。


「……そなたらは、それを本気で信じているのか。ロニー・ルイガンは、時代の変化が気に入らないから皇帝を手にかけた。今は逆恨みで国ごと消そうとしている。それだけのことだ。自己犠牲などという美談にはなり得ない」

 

 断じるリューベルトに、ビルダは激高した。

 

「黙れ! ディーゼン陛下と、他ならぬあなたが、すべての元凶だ!」

「それも本気で信じているのか。現在の人々に支持されるフェデルマのかたちは、昔と今のどちらなのか、本当にわからないのか」

「ディーゼン陛下に与えられた飴に騙されているだけだ」

「それはそなたが実際に感じていることなのか? ルイガンの受け売りではないのか」

「……」

「命を懸けるなら、自分の目で見て感じろ。考えろ。忠義を尽くすとは、考えることをやめ、主人の言うことを鵜呑みにすることと同義ではない。愚かな判断だと思えば、主人を諌めることこそが真の忠義だ」


 かつてダイルが、ベネレストにそうしたように。

 彼は大喧嘩になったと笑っていたが、皇帝に対して本物の忠義を尽くしたのだ。きっとベネレストも心の奥では理解していたはずだ。ダイルがごく軽い罰で済まされたのは、彼がグレッドを継ぐ者だったことだけが理由ではないのだと思う。


「……黙れ……だまれえええ!!」


 咆哮するビルダの額には血管が浮かんでいた。聞く耳を持たぬ彼は、剣を構えて突進した。

 

 

 

 

 

 デューに雨を凌いでもらう中、置いていた砂時計が時間を知らせるたびに、ターシャはノルドレンの脚の止血帯を解いては、再び止血をやり直していた。こうして時々血を通わせなければ、脚が壊死してしまう。

 

「ああ、やっと止まってくれた……」

 

 通り雨が止んだ頃、ようやく出血が止まった。ターシャは止血帯と砂時計をどかし、新しいガーゼや包帯を取り出して巻き始めた。

 ずぶ濡れのデューは、静かにノルドレンを見つめている。 

 巻き終えると、ターシャはまた彼の脈を確認した。

 ノルドレンが意識を取り戻す気配はない。何度止血帯で脚を締め上げても、やはりその痛みに反応を示すことはなかった。肌も冷えていて、不安に耐えられずターシャが脈を診た回数も、両手では数え切れない。


 一日で一番低くなった気温に、ターシャの身体が震えた。ノルドレンが濡れないことばかり気にしているうちに、いつの間にか自分は雨粒を浴びてしまっていたのだ。髪も服も冷たく身体に張り付いていた。


 しかしターシャには、そのことに気づく余裕もなかった。犯していた大失敗に、焦燥していた。

 ノルドレンをどうやってエリガまで運べば良いのだろう。出血は止まったが、すでに大量の血を失っている彼は瀕死状態だ。傷だって、できるだけ早く医師による処置が必要である。

 それなのにターシャ一人では、彼をデューに乗せることもできないのだ。誰かに声をかけて一緒に来ていれば、こんなことにならなかったのに。

 

「どう……しよう……」

 

 ターシャ自身にさえ、ここがどこなのかわかっていない。人を呼びに行くにも、一歩目をどちらへ踏み出せば良いのかもわからない状態だ。

 

「デュー……あなたに、頼っていいでしょうか」

 

 デューならばもう一度エリガと往復できるはずだ。ターシャが助けを求める手紙を書いて、持っていってもらえば——

 

「ど、どうしたのですか……?」

 

 首を伸ばしたデューが、木々の間をじっと見つめている。耳もぴんと伸び、両方とも前に向けている。ターシャには特に何も感じ取れないが、デューは木々の奥にあるものを警戒している。

 

「何か……いるの……?」

 

 ドン、とデューの前肢が地面を強く叩いた。大きくいななき、そこにいる何かに向かって威嚇を繰り返している。それに反応したのか、獣の呻く声が暗闇の中から響いてきた。

 見境なく襲ってこないのなら、魔獣ではないと想像できた。でも普通の野生の肉食獣にとっても、今のノルドレンとターシャは格好の獲物でしかないはずだ。

 きっとノルドレンを守りたい一心なのだろう。デューは一層大きくいななき、木の間を駆けて闇の中へ飛び込んでいってしまった。


「デュー! ま、待って——」


 馬だって、獲物にされかねないのに。怖いはずなのに。


 ——お願い……帰ってきて、デュー……


 少し離れたところから、馬と獣の争う声が聞こえ始める。

 デューの勇敢な行為に、ターシャは目に涙をにじませながら口を押さえた。声を上げて獣をこちらに引きつけてしまったら、デューの決死の戦いを無駄にしてしまう。

 けれど目を落とせば、血だまりもまだそのままだった。声を殺したところで、この血の臭いはどうしようもない。なんとかしてノルドレンを移動させ、獣避けの大きな火を起こすべきかもしれない。

 それに適した開けた場所と燃えるものを探そうと、ランタンに手を伸ばした時。

 別方向からこちらに近付いてくる足音が耳に入った。ヒトのものではない。四本足の生き物だ。

 デューかと期待したのはほんの一瞬のことだった。今も戦ってくれているデューの鳴き声は、ずいぶん遠ざかっていたけれど、まだ聞こえていたから。


「……あ」

 

 闇の中に見えたのは、腹を空かせた肉食の獣よりもギラギラと光る目。

 直接見る機会が少ないターシャでも、ひと目でわかった。間違いなく……魔獣だった。

 

「やめて……だめ」

 

 たとえノルドレンに意識があったとしても、魔獣には関係ない。相手の実力を推し測ることも、駆け引きもない。目の前にいる生き物を襲うのみなのだ。

 ターシャはノルドレンの剣を手に取った。これを片手で振っているなんて信じられないほど、彼女には重たい。何よりも、彼女には剣術の心得がない。

 フェデルマのほとんどの大人が、魔獣と戦うすべを身につけているというのに。あれほど優雅なエレリアでも、きっと弓を使って追い払えるのに。

 ……ここにいるのが自分なんかでさえなければ、ノルドレンを守れたはずだ。ターシャは恐怖よりもその悔しさで、涙をこぼしていた。

 魔獣の足が止まることはない。それは大きな猪だった。

 

「お、お願い……ノルドレン様は……やめて」

 

 殺される前にこの剣を突き刺せれば、ノルドレンは助かるかもしれない。ターシャはそれだけに懸けた。

 魔獣が走り出し、彼女も必死に剣を突き出して向かっていった。しかし無情にも剣は魔獣の毛並みには刺さらず、ターシャは半身に体当たりを受けて吹っ飛ばされた。

 手から剣は落ちてしまい、身体はぬかるむ地面に打ち付けられたが、すぐに懸命に起き上がった。魔獣は立ち止まってターシャを見ていたが、その顔を倒れているノルドレンに向けたところだった。

 

「やめて、やめてえええっ!」

 

 無我夢中だった。ターシャはノルドレンと魔獣の間に割って入った。目の前に牙が迫り、反射的に顔と首を守る本能が働いて、腕が前に出た。

 大きく口を開いた魔獣が噛み付いたのは、ターシャの左の手首だった。偶然にも大きな犬歯は避けていたが、肌に牙が食い込んだ。

 噛み千切られる、と思った。しかしそうはならなかった。

 魔獣が噛み付いたまま不満そうに首を振る。ターシャの軽い身体は再び地面に打ち付けられ、草の上を引きずられた。意識が遠のきかける。

 

「あああっ……!」


 ——やっぱり……なんて役立たずなの。

 命を懸けたって、魔獣一頭も倒せない。

 私だけが死ぬのなら良かったのに。

 ノルドレン様を巻き込んで……

 

 悔しくて悲しくて、左腕の痛みもわからない。

 涙に覆われた瞳には、魔獣の顔さえ映らなかった。


「ターシャああ!」

 

 女性の声が響いた。絶叫のような声が。

 

「魔獣ごときが——」

 

 視界は滲んでいて見えないけれど、その声は。

 左腕の先の大きくて黒い影に、突然現れた人の形の影が混ざった。

 

「私の親友を放せ!!」

 

 銀色の雷が落ちた。そんなふうに見えた。

 

 

 

 

 

 リューベルトとシンザの一行から離脱したティノーラとレマは、エリガへと馬を急がせていた。

 雨を降らせていた雲が動き、前方の景色はずいぶん見えるようになっていた。夜は少しずつ終わりに近付いているのだ。

 彼女たちが走る街道が森林地帯に入ってしばらく、道の上で血を流して倒れている二人の人間を発見した。馬を降りて確認してみたが、二人ともすでに遺体となっていた。

 さらに進んだところで、また一人が地面に倒れていた。もう一度馬を降りてみたが、やはり息はなかった。


「さっきの二人と同じね……。この騎士服、ルイガン家じゃないかしら」

「はい。下御の儀の事件の時に、ルイガン家の騎士団長という人が着ていた制服と同じかと」

「ここはエリガとイゼルを結ぶ道からは外れているけれど……彼らがルイガンの送り込んだ妨害なら、戦ったのはリエフよね」

「ですが、ここが主戦場ではなさそうですね」

「そうね。三人だけで来たはずがないわ」

 

 ティノーラは転がっていた槍を拾い上げた。穂のすぐ下で断ち切られている。見事な断面だった。この槍の持ち主が相手にしたのは、身震いするほどの達人だ。リエフ家の騎士なら、ノルドレンかもしれない。

 

「旦那様は今、どちらにいらっしゃるのでしょうか。私たちの行き先は、エリガでいいのでしょうか」

「予期せぬ敵の出現に、一旦エリガに引き返しているかもしれないけれど……異変を感じ取って、かえってレグスの丘へ急いで向かった可能性もあるわよね」


 ここにきてティノーラとレマは迷ってしまった。ノルドレンとユリアンネはどこまで察知しているのだろうか。レグスの丘でガレフと合流していたとしても、ルイガンが関わっていることは知らせたほうがいい。ふた手に分かれるべきだろうか。


「やめてえええっ!」

 

 突如森のどこかから聞こえてきた女性の悲鳴に、ティノーラとレマは互いを見やった。

 戸惑いながらも一瞬で集中したティノーラの耳に、ザザッと草の上で何かを引きずる音が入ってきた。

 レマよりも先に、ティノーラは森へ飛び込んだ。真っ暗だが、そんなものは怖くない。怖いのは、切羽詰まった悲鳴がターシャのものに聞こえたことだ。

 少し南方向へ戻ったところに、ぼうっと弱い光があった。ランタンだ。そのそばにいるのは、大きな猪。いや、おそらく魔獣だ。その魔獣は何かに噛み付いている。

 

「ターシャああ!」

 

 牙が食い込んでいるのは、ターシャのか細い腕だった。

 

「魔獣ごときが! 私の親友を放せ!!」

 

 沸騰する怒りに任せて、銀色の剣身を叩き下ろした。

 猪の首は太くて筋肉質だ。ティノーラの力では、一撃で落とすことなどできない。

 狂ったような鳴き声を上げ、魔獣の口がいっぱいに開く。くわえていたターシャの腕が、牙から外れた。

 すかさず足を突っ張って剣を引き抜いたティノーラは、魔獣が暴れる前に勝負に出た。その心臓へ向けて、思い切り細剣を突き立てた。剣身のほぼすべてが毛皮の中に沈む。ブルブルと痙攣したあと、魔獣は倒れた。

 

「ターシャ……、ターシャは!?」

 

 レマが助け起こしたターシャの左腕はだらりと下がり、流れ出る血は指先から滴っていた。それでも、無事に手は繋がっている。指先も動いているようだ。あの魔獣の体格ならば、噛み切られていても不思議ではなかったのに。

 傷の確認のため、赤く染まった袖を捲り上げると、中から何かの欠片がパラパラと落ちてきた。

 ターシャの手首には、牙の刺さった傷が複数あった。そして宝石が砕け、ひどく歪められた腕輪がはまっていた。それは半年前の彼女の誕生日に、ユリアンネが贈ったものだ。これのおかげで牙は深く刺さらず、ターシャは左手を失わずに済んでいたのだ。


「ティノーラ……?」


 顔を上げたターシャが、ティノーラを見た。うまく焦点が合わない様子だった。

 なぜこんな森の中にターシャがいるのか、まったく理解が追いつかない。それ以上にティノーラを混乱させたのは。

 

「お、お兄様……?」

 

 息があるのかもわからない、青白い顔をした兄が、そこに横たわっていたことだ。

 たった今、すぐ横でターシャが魔獣に襲われていたというのに、ノルドレンは目を覚まさなかったのだ。

 これは——


「ティ、ティノーラ……お願いです、早く……ノルドレン様をエリガへ……」

「……い、生きている……の?」

「生きてらっしゃいます! お願い、早く……!」


 一瞬兄の生命を疑ってしまったティノーラは、こみ上げそうになっていた涙を飲み込んだ。


「誰か……医師と馬車を連れてきて! 大急ぎで!」

 

 すぐさまレマが駆け出すと、ティノーラは兄のもとへ行き、その顔に触れた。

 ひやりとした。でも……心許ないけれど、確かに呼吸をしているのがわかる。

 おそらく返り血のせいで汚れている騎士服の上から、ターシャの服が掛けられている。少し持ち上げて覗き込むと、左の腿に丹念に巻かれた包帯が目に入った。それからすぐそばに残る血だまりを見て、ティノーラにはだいたい兄の置かれている状況が飲み込めた。

 ティノーラは脱いだ外套を、ノルドレンに被せた。

 

「ごめんなさい、ティノーラ……。わ、私なんかが一人で来たって……力不足に、決まっていたのに……」

 

 ターシャはぼろぼろと泣いていた。

 

「何を……言ってるのよ。この処置は、ターシャがしてくれたんでしょう?」

 

 何があったのかはよくわからない。でもこの多量の出血を食い止め、兄の生命を保たせてくれたのはターシャで、魔獣からも身を挺して庇ってくれていたのはわかっている。

 こんなにも雨と泥に汚れながら。左手どころか、魔獣に噛み殺されてしまう寸前だったというのに——

 

 ——あなたは、お兄様を想ってくれるのね……

 

「ありがとう、ターシャ……」


 ティノーラは親友を抱きしめた。ターシャの身体も驚くほど冷え切っている。ここまで己の身を顧みず、彼女は兄のために戦ってくれたのだ。

 馬の息遣いの音に顔を上げると、兄の愛馬がどこかから戻ってきたようだった。


「デュー……! ああ、あなたもだったのね。……大丈夫よ。お兄様は二人を裏切ったりしない。絶対に生きてくれるわ」

 

 兄はずっと、強くて頼れる兄だった。そして真面目で思いやりがあって、礼儀正しい紳士だ。こんなに強い想いを寄せられて、応えないはずがない。


 ——そうよ、そんな人じゃ……ないもの。

 

「大丈夫……大丈夫、絶対に——」


 

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