十七、最後の反旗 夜雨
ヴィオナとセスは、レンガと土の上を進んでいた。
屋根の上を行くことも考えたが、南門付近の街並みは、炎によって明るく照らし出されている。屋根から屋根へ跳んで移動すれば、かえって目についてしまうのではないか、それよりは建物にできた暗い影の中を進んだほうが良いと考えた。
「雨が降ってきたわね」
「そうですね。このくらいの雨量じゃ、俺にはあの広範囲の火は消せないですけど、攻撃には好都合になりました」
「火消しもしたいけれど、今はみんなを助けるわ」
拘束されている者たちを解放しても、ルイガンという敵がすぐそばにいる以上、消火に手は回せない。
この区画は諦めざるを得ないかもしれない。ヴィオナはそう思っていた。イゼルは火災や焼き討ちも想定された街づくりになっている。大規模な延焼を防ぐため、一定ごとに幅の広い通りや広場が造られているのだ。ここを犠牲にするのは忍びないが、全体まで拡大することはないはずだ。
そろそろみんなが拘束されている花壇が近い。そっと建物の陰から覗いてみたが、見張りの姿はない。花の上に放り出されたはずの仲間さえ見当たらなかった。どこか別の場所へ連れて行かれたのだろうか。
リミカの侍女レナイが乗せられているという馬車が、見えるところまで移動してみる。通りに置かれたままであることを確認できたその時、ちょうど三十代くらいの女性が腰の後ろで手を縛られ、ルイガンの手下に連れ出されていくのが見えた。ヴィオナはリミカの侍女の顔はうろ覚えだったが、彼女で間違いない。
ヴィオナたちは隠れながら追いかけた。彼らはそう遠くない木造の建物へ入っていった。ドアが開いた時、よく知る声が複数聞こえた。騎士でもない女性のレナイまで連れて来たことを、非難しているような言葉だった。
「みんなもあそこにいるとみて良さそうね」
見張り役だった三人も、全員あの中にいるのだろうか。人質の間近にいられるとなると、どうやって乗り込もうか。ヴィオナたちはひそひそと作戦を話し合い始めたが、敵のほうが先に動いた。レナイを連れてきた男が、一人でドアから出てきたのだ。
「ヴィオナ・グレッド! どこかから見ているか!」
突然、男の大声が響く。
ヴィオナに呼びかけたということは、彼女がルイガンのもとを逃げ出したことが、すでに伝わっているということだ。そしてリミカを連れて街の外へ脱出せずに、仲間を救出にくることも読まれている。
ヴィオナとセスは、監視に残っていた三人よりも、敵は増えていることを悟った。
男は盾で防御を固め、もう片方の手には剣ではなく松明を持っている。
「お前の騎士団員は、この中にいる!」
そう言うと、男は松明の火を木製のドアに移したのだ。
じっと待つのはあまりにも怖くて、リミカは手探りで螺旋階段を上り、二階の部屋に移動していた。
そんなリミカの耳に、たくさんの馬の足音が聞こえてきた。それは窓越しの街の中からではなく狭間窓から、つまり壁の外からだった。
びくりとしたリミカは、頭から被っていた外套を深く引き下げ、こぼれていた金髪を覆い隠した。
外からもルイガンの一派が来たのだとしたら……どうしよう。どこに隠れよう。逃げたほうがいいだろうか。ヴィオナは、城壁の上へも出られると言っていた。
さらに階段を上り、雨の降る回廊に出ると、大きな街が一望できた。南端の一部は今も赤々と燃え続け、反対側にある城はただ静かに、そこにそびえていた。
「誰かいないか!!」
背後の下のほうから、怒鳴るような声が上ってきた。リミカはしゃがみ込んで、震える身を縮めた。
「頼む! 誰か出てきてくれ!」
外套の下で、リミカは目を見開いた。切羽詰まった様子はいつもと違う印象を与えるけれど、知っている声だと思った。
「俺だ! シンザ・グレッドだ! 頼むから誰か、門を開けてくれ!!」
リミカは胸の高さまであるレンガの壁に取り縋った。外へ身を乗り出した時、髪からフードが脱げた。
下にはいくつもの小さな灯りがあった。それと同じだけの人が、こちらを見上げていた。その中には、思った通りの声の主がいた。
そして、一番会いたかった人が。
「——お兄……さまっ!」
「リミカ!?」
リューベルトは思わず足を踏み出した。城壁の上に現れた金髪の小さな人影は、確かに妹の声で自分を呼んだ。
人影はすぐに、横に建つ門塔へ消えてしまった。しばらくして門の錠が外される音がすると、扉を引く鎖が軋みを上げ、大きな門扉がじりじりと内側へ動いていった。
「お兄様あ!」
人が通れるだけの隙間が開くと、大きすぎる外套を被った少女が飛び出してきた。紛うことなく、リミカだった。
「リミカ! ……よく、無事で……!」
リューベルトの喉が詰まった。腕の中に飛び込んできた妹は、兄の服にしがみついて泣いていた。
この三日間、どれだけ身体に負担のかかる移動を強いられ、恐ろしい思いをしていたのだろう。この子の肩は、こんなにも痩せていただろうか。顔を覗き込んでみれば、目の周りは黒ずみ、疲労や心労が色濃く表れていた。
「リミカ、怪我は……どこか、痛めてないか」
「だい……じょうぶ……。疲れてる……だけ……」
リミカの手は、兄の服を放そうとしなかった。やっと安心できるところに帰れたのだから、無理もないことだった。
本当は、彼女が心から安らげるまで、こうしていてやりたい。でも、今この壁の向こうで起きているであろうことは、その猶予を許さない。
「……リミカ、一人でここにいたのか? レナイはどうしたんだ? イゼルで何が起きているのか、教えてくれるか」
妹は、はっとした顔で、兄を見上げた。
「レナイは、まだ馬車に捕まっているの!」
「馬車に? レナイがリミカだけは逃がしてくれたのか」
「違うの……。イゼルに着いた時に、ルイガンが……レナイを死なせたくなければ、黙って門番とグレッドに顔を見せろって……私だけを馬車から降ろしたの。そこからは、離れてしまって」
「そうか……街の中の様子は?」
「すごく、静かだったわ。出迎えの人以外、誰もいなかったのかもしれない……街の住民は避難したようなことを言っていたの」
「……そうか。籠城……したのかもしれない。先に危険を察知できていたんだ」
話を聞いていたシンザが小さく呟いた。どうやら市民は守れていることに、ほんの少しだけ安心した顔をしていた。
しかしそれならば、ルイガンを制圧にかかったはずだ。グレッド家騎士団がいつも通りここにいたなら。
「リミカ、グレッド側はどう対応していた? 騎士団は出てこなかったか?」
「いいえ、出迎えの人たちだけ……」
「そうか……。南門付近で火事が起きているな。ルイガンはあそこか?」
「いいえ、お城の門の前よ。あそこが開かなくて、立ち往生になったの。そこで、ヴィオナさんと、水の魔導士の方が、私を連れて逃げてくれて——」
「ヴィオナ殿と……セスか。ガレフ殿には……グレッド侯爵には会っていないのか」
「……そう、そうなの……! セームダルのロザック様と戦いになってるって言ってたわ! そんなの、知らなかった……どうしてなの!?」
「それも、ルイガンの誘導なんだ」
リューベルトとシンザは視線を交わした。やはりガレフと騎士団は、すでに戦地へ行ったあとだった。彼はイゼルの守護に、ヴィオナとセスを残していたということか。
だが不思議なことに、その二人は姿を見せない。先程西門を開けたのもリミカ自身のようだった。
「陛下。姉とその魔導士はどこへ行ったのか、ご存知でしょうか」
「ヴィオナさんたちは——」
リミカの瞳はシンザから、また少し明るさの増した南の壁へ向けられた。
セスがすかさず、雨を使ってドアの火を消した。ついでに男に攻撃も仕掛けたが、火をつけた張本人は盾で身を守りながら、建物の後ろへ回り込んだ。
仲間が捕らえられている建物は、また煙を上げ始めた。あの男が建物の裏手から火をつけているのだ。煙を見る限り、容赦なく放火している。見えないので水魔法で消すのも難しく、消しても元凶が叩けなくては、すぐに同じことをされてしまう。
ヴィオナを誘き出す罠なのだから、敵方もあの建物を見張れるくらい近くに集まっているはずだ。動くのも危ないが、動かなくてもすぐに見つかるだろう。
火付けを止めに行きたいヴィオナたちは、周囲の屋根の上や壁の際に目を走らせた。建物の隙間にこちらを狙う矢尻を認めた瞬間、ヴィオナは物陰に隠れ、セスも身を引きながら水魔法を放った。距離が近く、弓を引く男は盾や腕などで庇うこともなかったため、首の急所を一撃で仕留めることができた。
しかし、男にも最後の意地があった。持っていた弓を、脇の家の窓に叩きつけて割ったのだ。
「まずい! 一旦隠れましょう!」
派手な物音を聞きつけた敵が集まってきてしまう。木造の家々の壁が爆ぜる音に紛れて、人の声や足音が近付いてくるのがわかる。
「でも、みんなを助けないと!」
早くしないと室内にも火や煙が回る。仲間を想うヴィオナを強引に引っ張り、セスは家の合間を縫って移動を始めた。
突然剣を抜いたヴィオナが、強く振り抜いた。すぐ横に矢が突き立つ。セスが気づかなかった敵に、ヴィオナが応じたのだ。矢の軌道を追って見つけたルイガンの手下に、セスが雨の攻撃を降らせた。相手は屋根から落ちた。
しかし、状況は思っているより悪かった。逃げた先には、いつの間にか壁のような火災が起きている。見上げれば、先程までより立ち上る煙は急増しており、辺りの民家や小道はさらに明るく炎に照らし出されていた。
この周辺にヴィオナが潜んでいるとみるや、敵が手当り次第に放火しているのだろう。
「もう、直接狙うより……焼き殺す気だな」
街の構造に詳しいのはこちらなのだから、相手にしてみれば、探し回るよりこうしたほうが安全で簡単である。
次第に煙が充満し始めた。おそらくもう八方を火に囲まれている。敵は外側へ退避していなくなっただろうが、焼死は時間の問題だ。
「セス……あなたなら突破口を開ける?」
鼻と口を服の袖で覆っているヴィオナの目に、怯みはない。何ひとつ諦めてはいなかった。
「水筒じゃまったく水が足りません。広範囲に魔法を使って雨をかき集めるのは、効率が悪くてかなり魔力を食います。その前にみんなを助ける分もあるし、たぶん俺、もう使い物にならなくなりますよ」
「戦いは避けるわ。みんなを解放したら逃げる。セスのことは、きっと誰かが背負ってくれるわよ」
「……はい。……えっ、本当に頼みますよ?」
ヴィオナたちは仲間の捕らわれている建物に戻った。火はほとんどの壁と屋根まで到達していた。外から火をつけられたとはいえ、もう中も相当危険な状態のはずだ。
「行きます」
セスは広く魔力を放ち、空を落ちてくる水から、地上に溜まり始めた水まで、魔力が届く範囲の水を目の前に収束させた。水筒の水と合わせた大きな水滴が、空中に形成されていく。セスは息を切らしながら、それを使って建物の火を消していった。大きな音と水蒸気を上げた水滴は、急激に縮小しながらも扉を解放し、建物に入れる程度には炎を弱めた。
ヴィオナはすぐに中へ入っていった。
縄を切る刃物も持っていないセスは入るのをやめ、次の用意を始めた。ヴィオナは行動が速い。すぐにみんなやレナイの手足の拘束を解き、出てくるだろう。あらかじめ道を作っておくくらいでなければ。
もう一度魔法を使って雨を集め、小さくなってしまった水滴に合わせていく。セスの身体ががくんと重くなった。無茶な魔法の使い方に、魔力が尽きかけていた。
それでも力を振り絞って水を操り続け、厚い炎の壁に脱出口を開けた時。
向こう側に人が現れた。ルイガン家騎士団の服を着た男が、こちらへ向けた弓に素早く矢をつがえた。
魔力を使い果たしたセスは、もうほとんど動けない状態だった。しかし少しでも身をよじって躱そうとしなかったのは——まさにその瞬間、彼の真後ろのドアから、ヴィオナが顔を出したところだったからだ。
ドン、という強い衝撃。
セスの身体は後ろヘ傾いた。
「セ——」
ヴィオナの前で、彼は仰向けに倒れた。ぴくりとも動かない。その胸には、垂直に立つ矢羽がある。
自分の目に映っているものを、ヴィオナは理解しなかった。受け容れなかった。決して受け容れていないのに。
身体の中で何かが——感じたことのない、形容し難い衝動が、爆発した。
「あああああっ!」
助けた者たちを置いて、ヴィオナはセスが開いた炎の間を駆け抜けた。真正面から、何の小細工もなく、一直線に敵に向かって。
セスを射抜いた男は、盾を取り出して防戦に徹した。慣れない剣でも次から次へと間隙なく繰り出すヴィオナの攻撃を、後退しながら、ただひたすらに男は防ぎ続けている。
——あねうえ、だめだ——
小さく。とても小さく……彼女は弟の声を聞いたような気がした。
目の前の仇への憎しみに囚われたヴィオナは、それ以外への注意が無くなっていた。ついに相手の盾が下がった瞬間、渾身の薙ぎ払いに手応えを得た。
無警戒にしてしまった背中への衝撃は、それとほぼ同時に起きた。
リミカからイゼルの現況を知ったシンザは、一人別行動を取り、南門へと街の小道を駆け抜けていた。
全方向に敵の気配を探りながらだったが、途中には誰もいなかった。火災の起きている区画が近付き、ついに見つけたいくつかの小さな人影も、シンザを見てはいなかった。どこかひとつの地点へ向かっている。何をしているのかわからないが、シンザはそこへ乗り込むつもりで追いかけた。
ギイン、という激しい金属音が立て続けに響いた。
炎の近くは昼間のように明るくなっている。盾で防御する男を、金茶色の髪を振り乱した姉が執拗に攻撃していた。圧倒しているが、複数人に背後に回り込まれたことに気づいている様子がなかった。
「姉上! だめだ!」
ヴィオナが異常に執着する敵の首を取った。
それとほぼ同時に、彼女の背に剣先が突き立てられるところを、シンザは遠くから為すすべもなく目撃することになった。
「やめろおおっ!!」
怒号のようなシンザの声に、ヴィオナを取り囲むルイガンの手下たちが一斉にこちらを見た。迫り来るのがグレッド家のシンザだと、すぐにわかったのだろう。帝国でも最上の騎士の一人と評され、優先して討伐すべき対象である彼を、大急ぎで迎え撃つ態勢を整えた。
シンザの一撃目を受けた相手は、彼の剣撃の重さを甘く見すぎていた。肘も膝も堪えきれずに身体が泳いだところで、あっという間に心臓をひと突きにされた。
次に剣を振り上げた者には何もさせなかった。シンザのほうから瞬く間に距離を詰め、一刀のもとに斬り伏せた。その隙を突いたつもりの敵のことは、盾で思い切り殴りつける。吹っ飛んだ男は仲間を巻き込んで倒れ込み、赤く染まったシンザの剣の餌食となった。
怒りをたぎらせ、全員討ち取ると決めたシンザを食い止められるような者は、この場にはいなかった。
膝をついていたヴィオナが、剣を支えにして顔を上げた時には、すでに立っている人間は弟しかいなかった。周囲に何人の敵がいたのか、彼女が知る時間さえもなかったのだ。
「……シンザ……あなた、来ていたの……?」
あれだけ無防備な背中を突かれたヴィオナだが、不思議と身体の前面は無事できれいだった。しかし、背中は一面の赤色が服を染め上げていた。位置と出血量から、シンザには……それが致命的であることがわかってしまった。
「な、情けないところを……見せちゃったわね。誘い込まれている……ことに、気づかないなんて……」
「姉上……」
「シンザ、西門に……陛下が……お一人、で……」
「大丈夫だ。陛下には今、リューベルトがついてる。帝国騎士団も一緒だから、安心してくれ」
「リュートと会えた……? そう……良かった……」
ヴィオナは心から安堵した様子で微笑んだ。子どもの時からからずっと見てきた、面倒見が良く優しい姉の顔だ。
「籠城を実行……したの。中にはお母様が……いるから、破られないわ……。イゼルを襲った敵は……」
「わかってる。兄上と騎士団が留守にしていることも、全部わかってるよ。俺とリューベルトが、必ずルイガンを討つから——」
「ヴィオナ様……!?」
グレッド家の騎士たちが、煤まみれで炎の合間から現れた。ヴィオナとセスに命を救われた仲間たちだった。そのうちの一人がレナイらしき女性を、他の一人が彼らと同じ騎士服姿の青年を抱えていた。レナイは表情もあって怪我も見当たらないが、青年のほうは胸に矢を受け、命を留められる状況には見えなかった。
シンザの目は彼に釘付けになった。それがセスだとわかったからだ。
「みんな……シンザと帝国騎士団が、来てくれたわ。私たちは今から、避難壕にいる……方たちの守りに徹しましょう……。必要なら街の外へ誘導を……」
「はい……承知いたしました……!」
騎士たちはいくつかある避難壕のうち、火災に近いふたつへ手分けして向かっていった。ヴィオナの状況は、彼らにもすぐにわかった。最後までイゼルの守護をまっとうしようとする主に、彼らは騎士として、従者として従ったのだ。
「シンザ……あなたも行って。それが……務めよ。それにみんなは……丸腰なの」
「でも——」
「この周辺の敵は……もう全員……あなたに討ち取られたでしょう……」
ルイガンがこちら側へ送った配下が、あれで全員とは限らないのだ。領主家として、すべての避難壕の市民の安全確保を見届ける必要がある。
しかし目の前の動くこともできない姉を……きっともう長くはもたない愛する家族を、一人にさせて置いていくことに、シンザは逡巡していた。
「いいのよ……ありがとう。……みんなや、お母様たちのこと……お願いね、シンザ……」
「……わかっ……た。安心して任せてくれ、姉上」
ふわりと微笑んだヴィオナの目に、こぼれかける雫を見たシンザは、顔をそらした。姉の帝国騎士としての矜持を尊重するための反射行動だったが、本当は自分も耐えるのが難しかったからでもあった。
駆け出したシンザの後ろ姿を、ヴィオナは沈黙で見送った。弟の心遣いは、今の彼女にはありがたかった。涙するのは心のみ、前へ進むことを止めないのが帝国騎士であるが、もうどちらも、守れそうにはなかったから。
首を横へ動かせば、すぐそばに、セスの身体が横たえられている。
その動かない腕に、ヴィオナは手を伸ばして指を乗せた。雨に濡れた騎士服を通しても、彼の体温を感じたかった。
「……ごめんなさい、セス……。私が……魔力切れにさせて、しまったから……」
その時、セスの腕が痙攣するように動いた。それから、わずかに咳き込んだのだ。
「セス……! い、生きている……の……?」
ヴィオナは力を振り絞って身体を動かし、セスに向き直った。一面が血液に覆われている背中を、奇跡的に開いてくれた彼の目から隠した。
セスの守護魔法のおかげで、身体の前面まで貫かれずに即死を免れ、最後に弟と会うことができたのだと、ヴィオナだけは理解していた。この背中は、自身の取り返しのつかない大きな失敗の結果であって、セスは精一杯に守ってくれたのだ。——いつの時も。
「ヴィオナ……さま……」
「セス……! シンザと帝国騎士団が来てくれたわ。陛下もリュートが保護しているって。イゼルはもう大丈夫よ」
「……そう……ですか……良かった……」
セスの口元が歪な形になった。安堵の微笑みだと、ヴィオナにはわかった。
「セス……無理をさせて、本当に……ごめんなさい」
「ヴィオナさま」
動けるとは思えなかったセスが腕を上げ、一筋の涙がこぼれてしまったヴィオナの頬を、そっと手のひらで包んだ。
「セ……」
「愛してます、ヴィオナ様」
セスの瞳は、ヴィオナだけを見つめていた。
こんなに近くで瞳を覗き合ったのは初めてだった。人生のおよそ半分を同じ城で過ごし、気軽に冗談も言い合う間柄だったが、二人はあくまでも主従関係だった。
だからもちろん、セスがヴィオナに対してそんな感情を抱くのは許されないことであり、ヴィオナはこれまで彼からこんな言葉をもらうことを、夢見たこともなかった。
「……もう一度、言って」
「——言いません」
セスの身体がわずかに震えた。笑ったのだ。
その瞳も表情も、とても穏やかだった。その奥からは、確かな深い気持ちを感じた。苦痛さえ消し去ってくれるような、陽の光のように温かな気持ちだった。
「なによ。答え……言わないわよ」
「要りません……よ……。俺は、従者です……。従者の誓いを、破るのは……今の一度きり……です」
ヴィオナは口をつぐんだ。
グレッド家に仕えていることが、俺の人生で一番の幸運で、誇りですよ——彼はそう言ってくれる人だ。魔導士だけれど、ヴィオナたち帝国騎士と同じく、その誇りを命と同等に大切にする人。
セスが目を閉じ、大きく呼吸をすると、再びヴィオナの瞳を見上げた。
「でも……天の国でなら、いい、かな……。そこでまた会えたら、その時は……もう一度、伝えます」
「天の国で会えるかなんて、わからないじゃない」
「何十年後だって……見つけます……よ。お婆さんの姿になって……いても」
ヴィオナの目元がぎゅっと歪んだ。
涙まで包んでくれるセスの手が、細かく痙攣している。ヴィオナは自分の手を重ねた。
「じゃあ、返事は……その時には、受け取って」
「……そう、ですね……天の国で……もらい、ます」
「約束よ。だから、必ず見つけてね、私を」
「はい……」
かならず、という形に、セスの唇が動いた。
そしてまぶたを閉じたセスの手は、ヴィオナの頬と手の間を、滑り落ちた。
「セス……」
寂しくなった手を彼の服の上に置いた途端、ヴィオナはがくりと上体を折った。呼吸は苦しく乱れた。
いつも通りを装うのは、すでに限界だったのだ。
「ごめんなさい、セス……。約束を守ってもらうのは、すぐに……なりそう……」
ヴィオナの身体は崩れるように、セスの隣に倒れ込んだ。
最期の瞬間にこんな隠し事をされていたと知ったら、彼は怒るだろうか。それとも、何の見栄ですか、なんて言って呆れるだろうか。
どちらでも構わない。セスはヴィオナを待っていてくれるのだから。
「私から、会いに行くわ……だから、その時は……」
きっと今まで何度も、何度も、黙って守ってくれていたセスの手に、ヴィオナは自分の手を乗せた。
『ヴィオナ、幸せになりなさい』
父の最期の言葉は、常に娘の胸にあった。
「うん……私、幸せだった——」
すべきことを終えて戻ったシンザは、彼とよく似た茶色の瞳を永遠に閉じた姉を前に、一人佇んでいた。
ヴィオナはセスに寄り添って横たわっており、二人の表情は微笑んで見えた。その姿はただの戦友……まして主従などではなかった。疎いシンザにも、はっきりとわかった。
「なん……だよ……そういうこと、だったのか……」
結婚適齢期に入っても、姉は婚約さえしようとしなかった。いくらでも縁談に恵まれていたはずなのに。兄から、もっと安全に過ごせるところへの輿入れを勧められても、頑ななくらいに拒んでいた。
イゼルを離れようとしなかった理由。そして今日、あれほどまでに冷静さを欠き、いつもなら見抜くはずの敵の策略にかかってしまった理由は……こういうことだったのか——
「早く、言えば良かったじゃないか……。兄上も母上も、俺だって、きっと悪いようにはしなかった……」
姉と親友のために、シンザは膝をつき、わななく指を組み合わせた。目をつむり、長く、長く……心から鎮魂の祈りを捧げた。
とうに雨の上がった空は、曙色に変わっていた。




