十五、最後の反旗 黒夜
日付が変わっても、ターシャは少しも眠る気持ちになれなかった。部屋にいても胸がざわついて、寝台に横になろうとも思えなかった。服を着替えた彼女は、燭台を手に部屋を出た。
階段の吹き抜けから、小さく人の話し声が聞こえてくる。それも何人もの人間の声だ。今宵のエリガ城は警備以外にも、眠りの中にない者がいるのだ。ノルドレンは急遽出発してしまったが、できる限り早く本隊も出陣できるよう、夜通しで荷造りなどの準備をしている者たちである。
落ち着けないターシャは、誰かと少しでも話したい気分だった。手伝えることもあるかもしれないし、階下へ行ってみようとした。すると急に何事かを知らせる緊迫した人の声と、それから動揺したような足音が遠ざかっていってしまうのを聞いた。
——何があったの……?
声は聞こえなくなってしまった。不穏なものを感じたターシャは、急いで階段を下りた。
出陣準備は倉庫内で進めていたはずだが、誰の姿もない。直接外へ出られる大きな扉が少し開いていて、今度はそこから話し声が漏れていた。外に出ると、厩舎の前に人が集まっていた。
「どう……したのですか?」
「ターシャさん……! なぜこのような夜更けに、こんなところへ……」
人々の中心には、繋がれていない一頭の馬がいた。集まった人たちを蹴り飛ばさんばかりの勢いで、蹄で激しく地面を叩き続けている。こんなに興奮状態にある馬を、ターシャは初めて見た。そして息が止まるほど怖くなった。
それは、ひどい暴れようのせいではなく。
左腹を真っ赤に染めたその馬が、この城の主の愛馬だったからだ。
「デュー! どうして……」
ノルドレンが乗って出たはずのデューが、どうしてここにいるのか。どうして傷を負っているのか。
「ノ、ノルドレン様は、どちらに……どちらにいらっしゃるのですか」
「それが……デューだけで帰ってきたのです。旦那様も、騎士の皆さんも、他の馬もいません」
「デューだけ……? どうしてこんなにひどい怪我をしたデューだけを……」
手当てをしようと、厩務員がデューに近寄る。主人に似て落ち着いた気質の馬であるはずなのに、おとなしく傷を見せてもくれない。やむを得ず狭い柵の中に追い込んで動きを制限し、とにかく傷口を洗浄した。痛むのだろうか、その間もデューはずっと鼻息荒く首を振り、蹄鉄の音を鳴らしている。
しばらくすると厩務員は、見守る人々に意外な見解を示した。デューの怪我は剣創、ただし浅いもので、これだけ暴れていても、もう出血は止まっている。おそらく総出血量も大したことはなかっただろう、と。
「じ、じゃあ……今の血は……」
きっとその場にいた誰もの胸に、同じ不安がよぎっていた。
これほど早く戦闘に突入している理由は、知りようもない。間違いないのは、どんな事態に直面したのであっても、デューはノルドレンと常に行動をともにしたはずであること。
「あの血は、ノ……ノルドレン様……の……」
「ターシャさん! しっかりしてください!」
遠征用食料の準備作業を担当していたメイドが、ガクガクと震えるターシャの背を支える。
「違う……きっと違いますよ! 旦那様は、それはお強い方なのですから!」
「そうです! 旦那様が倒した相手のものに決まっています」
他の使用人たちも、それぞれ自分に言い聞かせるように、同じような言葉を口にする。
領主の仕事を直接補佐する立場のターシャこそ、みんなを励まさなければいけないのに。こんな時、ティノーラがいたならば、どう指示を出すだろう——
「な、何か……起きたのは事実のはず、です……」
ターシャは、震える喉で懸命に声を上げた。
「騎士団長様と、ユリアンネ様に……すぐにご報告をお願いします……! レグスの丘は……もう戦場と化しているのかもしれません……。だとしたなら、陣を構える準備ではもう、遅いです。すぐに、ガレフ様の加勢に、行くべきかもしれませんから……!」
「わかりました、すぐに!」
使用人たちは素早く行動を開始した。ターシャを支えていたメイドだけは残ろうとしたが、自分のことはいいからと、彼女にも行ってもらった。
日の出とともに出陣するとしたら、緊急にやるべきことはたくさんある。ターシャも、こんなところで震えている場合ではない。なのに……身体が動かない。柵に掴まっていなければ、立っていることもできそうにない。黒々とした恐ろしい予感に飲み込まれて、どうにかなってしまいそうだった。
——ノルドレン様……!
ヒィンッ、とデューが一層大きな声で鳴いた。先程までよりも高く前肢を振り上げ、柵に体を打ち付けるように足掻いている。必死に外へ出ようとしているように見えた。
「デュー! 暴れないで、お願い……脚を傷つけたら大変です」
馬にとって脚の故障は命に関わる。なだめなければと、ターシャは子どものように泣きそうな顔のまま、デューのそばまで柵を伝っていった。
でも、触れようとしたところで手を止め、震えの収まらない指を胸に抱き込んだ。こんな自分が撫でたら、恐れの感情を読み取られ、より怖がらせてしまうだけではないか。ノルドレンの大切な馬が、もっと傷ついてしまうかもしれない……
すると、デューのほうが顔を寄せてきた。見ればぴたりと暴れるのをやめ、ターシャの肩口を鼻の頭でつついている。
「デュー……出たいのですね……? 馬房に戻りますか?」
気高いデューを、いつまでも檻のような場所に閉じ込めていてはかわいそうだ。落ち着いてくれたのなら、馬房に帰して休ませてあげたい。
ターシャが柵を開けると、デューは外に出た。導かなくても自分で帰れるはずだが、ターシャの前で立ち止まって、小さく前掻きをしている。
もしかしたら、泣きそうなターシャを慰めているのだろうか。デューこそ、ノルドレンと一心同体の存在なのに。はぐれてしまって不安なはずなのに。
ターシャは笑ってみせた。
「ありがとう……ございます、デュー……。化膿止めの軟膏を持ってきますね」
倉庫の片隅に用意していた、医療班として働くために一通りの薬や包帯などを詰め込んだ鞄。ターシャがこれを持って戦地に行くことについて、互いに多忙だったユリアンネとは、まだ話し合えていない。反対されても押し切るつもりだけれど、きちんと伝えなくては。
「傷口に触りますけれど、我慢してくださいね」
しかしデューは、すっと身を躱した。そしてまたターシャの肩口を鼻でつつき、小さく前掻きを繰り返している。
……何かを訴えているように。
「デュー……?」
ターシャの顔を見つめたデューは、その首を自分の背のほうへ振った。鞍を差している……そう感じた。
「乗れと……言ってくれているの……私に……?」
訓練でさえ、ノルドレン以外は乗せないと聞いた。妹の私のことだって乗せてくれないのよ、とティノーラが言っていた覚えもある。それなのに。
透けるようにきれいなデューの瞳を覗いているうちに、その思いがターシャへ流れ込んでくるような気がした。
「ノルドレン様は……やはり怪我をされているの? デューが、ひとりでここまで戻ってきたのは……助けたい一心で……」
不思議なほど、確信があった。デューはノルドレンの手当てをしてほしくて、ターシャを案内しようとしているのだと。
迷いは感じなかった。他に優先すべきことなんて何もないと思った。鞄を身体に括り付けたターシャは、厩務員が置きっぱなしにしたランタンを掴んだ。
「……連れて行ってください!」
デューはターシャを乗せた。主よりも乗馬技術が遥かに劣る彼女が、しっかりと鞍に腰を据え、両手で手綱を握るのを待ってから、蹄を鳴らして駆け出した。
漆黒の闇夜に消えていくターシャたちに、気づく者は誰もいなかった。
イゼルの街北部の住民の避難は、どうやら完了しているようだ。ルイガンの手下に強引に押されるようにして歩きながら、ヴィオナは心の中で少しほっとしていた。
明らかにルイガンはイゼルの城へと進んでいる。このままでは街の住民が逃げ込んでいる城が、開城させられてしまう。
いいや、果たして降参で済むのか。
ガレフとロザックが開戦間近なことも、ルイガンは承知の上でこの暴挙に出ているのだ。グレッド家の血を引く人間を打ち負かすことが目的ではなく、本気でイゼルを落とすつもりなのではないか。国境線の守備を崩壊させる気なのではないか。
……だとしたら、リューベルトとグレッド家への復讐に留まるものではない。まさに帝国への反逆である。
後方から、咽ぶリミカの声が聞こえる。こんなところで裏切りの真実を聞かされて、どれほど混乱し、感情を掻き乱されていることか。
リミカの手足は自由なままだ。おとなしくしている限りは、か弱い彼女にまで危害を加える気はないのかもしれない。
ヴィオナは何十という敵に囲まれている。ここからリミカを連れて逃げ出し、味方を解放し、攻勢に転じる道を探さなくてはならない。
城の前にある緩やかな坂道の麓に着いてしまった。幸いここの城門はすでに閉ざされている。
「さあ、開けさせてください、ヴィオナ嬢」
門の前に突き出されたヴィオナは、開けてちょうだい、と門に向かって声をかけた。
しかし、反応はない。
「無理ね。向こう側に誰もいないようだわ」
「陛下をお迎えしているのにですか? まったく、礼節をわきまえない侯爵家ですね」
「国境を守るしか能のない家ですもの」
ヴィオナの言葉に、ルイガンの眉が一瞬不機嫌そうに動いたように見えた。
後ろからビルダの声がした。
「早く開けたほうが良いと思いますよ。姫様の御身に何かが起きないとも限りません」
「何を……陛下には——」
ビルダの声に、ヴィオナは反射的に振り返った。自分よりも先にリミカを傷つけられてしまっては——そう焦ったが、彼女の目を奪ったのは、包囲されるようにして立っているリミカよりも、そのずっと奥、街の南端のほうが奇妙に明るくなっている光景だった。
その明かりは赤く揺らめいて、高い城壁の内側を不気味に照らし出している。よく見れば、煙も上がって見える。
街の南部で、火災が起きているのだ。あれは南門のすぐそば、拘束された騎士たちがまとめられ、見張られているところの周辺である。きっと松明が倒れたなどの事故ではない。
「あなたたち、まさか……!」
「いずれはここまで火が回ります。姫様を含めた全員で焼死しますか」
「それはっ……あなたたちもじゃないの」
「ええ、そうですね」
ビルダは変わらず落ち着いている。
何を考えているのか、感じているのか、理解ができない。もはや狂気的だ。彼らが掲げる反旗は、ここまで無謀な行動をさせるのか。
ヴィオナは寒気を覚えながら、首を横に振った。
「あなたたちのそれは……忠義じゃないわ。この主人には大義も何もない。こんな愚かな捨鉢の行為に、付き従うことなんてないのよ」
「住民が出てこないところを見ると、すでに城へ避難済みだったのですかな。まあまあ、上出来の対応です。ヴィオナ嬢」
構うことなく、ルイガンが続ける。
その時だった。ヴィオナやルイガンたちが集まっている、門前の小さな広場に面している家の植え込みから、突然水滴が弾け飛んできた。手桶で思い切り撒いたように。
瞬時にヴィオナは、そちらに背中を向けた。
空中を飛んでいた水が、意思を持っているかのように動く。水滴同士で引き合って、無数の割れたガラス片のようなものを形作る。その不思議な現象を視認したのも束の間、水の破片は騎士服の男たちに高速で襲いかかった。
植え込み近くにいた手下たちが、うめき声を上げてよろけ、何人かは倒れ込んだ。顔、手足、胴体、あらゆるところに水の破片は鋭く食い込み、服を裂き、肉体に突き立ったようだった。しかしもうその傷口に、刃物状のものは何もない。ただの水が血と混ざって滴っている。
「ヴィオナ様!」
植え込みから飛び出してきたセスが剣を鞘ごと投げ、ヴィオナは受け取るなりそれを引き抜いた。すでに彼女の拘束は切れていた。セスは、背を向けたヴィオナの手首を縛る縄を正確に切ること、それからリミカを確実に避けること、そのふたつだけに意識を集中して、水魔法を放っていたのだ。
その分他へは無差別に繰り出すことしかできなかった破片は、いつもの戦闘より敵の急所を突けていない。不意打ちで怯ませることはできたが、戦闘不能者はあまりいないだろう。
「あなたは陛下を!」
「はい!」
セスはすぐさま従った。
「くそっ! 魔導士が残っていたのか!」
今まで落ち着き払っていた、ビルダの怒声が響く。
目の前の事態について行けないリミカは、身を守る動作さえできずに立ちすくみ、その場に釘付けになっていた。
「失礼します、陛下!」
リミカのそばに辿り着くと、セスは持っていた小さな水筒の中身を、敵に向かって勢いよく撒いた。
水は再び魔法で操られ、鋭い刃がルイガンの手下を襲った。今度は容赦なく、手足の腱や、首の血管の致命傷などを狙う。何人かはその通りになった。
リューベルトの大切な妹に、こんな凄惨な光景は見せたくなかった。セスはリミカを庇うように引き寄せ、自分が壁となって視界を遮らせていた。
ヴィオナとセスだけでいつまでもここで戦っていても、それほどの時間はかからずに、頭数の力で封じられてしまう。ルイガン自身への護衛も固く、手を出せそうにない。
奇襲の効果があるうちに、リミカを連れて逃げようとしたセスの目の前に、敵が一人回り込んでいた。攻撃を避けようにも、魔法を使おうにも、今の彼は歩くこともままならないリミカを、両腕で抱え上げようとしているところで、手はふさがっていた。
おそらく標的は、魔導士の首ひとつだ。殺すのは邪魔をした者だけ……リミカは違うはずだ。
間に合わない。避けられない。そう覚悟した。でもヴィオナなら、リミカを引き受けてくれる。二人が逃げ切ってくれさえすれば、従者の役目は果たせたと思っても許されるだろう——
「セス!!」
間近でヴィオナの声がした。
眼前に人影が現れる。膝を屈めていたセスと同じくらいの人影が。
リミカからビルダを引き離すために、剣を交えている最中のはずだったヴィオナが、セスたちをその背中で庇っていた。盾となり、代わりに斬撃を浴びていた。
しかし彼女は、声のひとつも上げなかった。すぐに身体を反転させ、相手を斬り捨ててみせたのだ。
「ヴィオナさ……」
「行くわよ!」
リミカを抱えたセスを率いて、ヴィオナは一目散に逃走に転じた。三人はルイガンたちの包囲を抜け出し、夜暗と静寂に包まれる街の狭間へ姿を消した。




