十四、最後の反旗 深更
領都イゼルは、もともとは違う名の平凡な町だった。およそ百年前、初代皇帝がフェデルマ建国を宣言した当時、彼とともに戦った一人である初代のグレッド侯爵が、この地域を領地とした時に名を改めたのだ。
彼は侵略してくる諸外国に対する砦として、今のイゼル城を築城した。さらに強固な城壁を建設し、国境最前線として戦いながら街を守り、豊かに発展させてきた。
今そのグレッド領都に迫ってきているのは、皮肉にも彼が想定した隣国ではなく、国内の敵である。
「南部の退避、ほぼ完了しました。北部の退避に移ります」
「了解。思ったより早いわね」
イゼルでは、東の国にレグスの丘を突破され、街に入り込まれるという、万が一の事態に備えた退避訓練を、年に一度ほどすべての住民総出で行っている。その訓練が初めて役に立ってしまった。
「動くのが難しい老人や傷病者は、各街区の避難壕に移動してもらいました」
「わかったわ。その方々の守りは?」
「残っている騎士団員では手が足りないため、戦闘志願をしてくれた市民に回ってもらいました」
「そう……ありがたいことね」
とにかく騎士が足りない。
門塔から見た限り、ルイガンの騎士団も大所帯ではないが、何しろこちらはセームダルとの戦いに全力を傾けているところなのだ。通常ならあり得ないほど、この街の守備は手薄な状態にある。
ヴィオナのもとに、南門番から知らせが届いた。早く迎え入れるよう、リミカが直々に口を開いたというのだ。
皇帝が地方都市の門番に直接催促の言葉をかけるなど、決して起きない出来事である。ルイガンに言わされているに違いないと、セスが不愉快そうに呟いた。
「しびれを切らして圧力をかけてきましたね」
「そうね。陛下の御身が心配だわ。これ以上待たせるのは無理ね」
南門を通したとして、街北部の避難が済むまでは、そこで時間を取らせるしかない。それからリミカを救い出す方法を探す。そのどちらも、相手の出方次第でできることは変わるし、限られてしまうだろう。
腹を決めたヴィオナは、鋼鉄製の扉の前に立つと、侯爵令嬢の控えめな笑顔を作った。
ついに開かれた城門を先頭でくぐってきたのは、意外にもロニー・ルイガン本人だった。少し下がっているリミカの傍らには複数の騎士がピタリと付き、その後ろから馬車と騎士団がまとまって入ってくる。
いつの間にかルイガン侯爵家の紋の旗が、堂々と掲げられていた。まるで戦地で士気を高めているかのようだ。
身振りもわざとらしく、ルイガンは淑女に対する紳士の挨拶をしてみせた。
「これはこれは、ヴィオナ嬢。お久しぶりですな」
「お久しゅうございます。陛下。ルイガン侯爵」
なぜあなたがここに、とルイガンに詰め寄るべきだろうか。国家から下された命令に、違反されているのではありませんか、と。しかし彼はまだ侯爵位を剥奪されておらず、さも皇帝陛下を護衛してきたという態度を取っている。こちらからすぐに噛み付くより、まずは言い訳を聞いてやることで、時間を稼いだほうが良いか。
微笑みの下でヴィオナが思考を巡らせていると、リミカがじっと見つめてきていた。
「あなたは、ヴィオナ……さん? お兄様の近衛の、シンザさんのお姉様?」
「はい。左様でございます、陛下。大変お待たせしてしまい、まことに申し訳ありませんでした。また、このような服装でお出迎えいたします無礼を、どうぞお許しください」
「い、いえ……こちらこそ、こんな時刻に急に……訪ねてしまったもの」
リミカも微笑みを浮かべたが、なんとも固くてぎこちない。そしてヴィオナから目を離さなかった。何か訴えようとしているように、強く強くヴィオナを見つめている。次の瞬間には泣き出してしまいそうにさえ見える。
——やはり、脅迫されておられるのね。
「……陛下、このイゼルは——」
「ずいぶんと陛下をお待たせしたことに、少々苦言を申し上げたきところですが」
リミカと直接会話をしながら、女性同士としてさり気なく近付いてみようと図ったのだが、ルイガンが邪魔に入った。
「グレッド卿は、おられないのですか」
「ええ。兄は少々留守にしておりまして」
「そうですか。私の予想では、あなたも留守にされていると踏んでおりましたが……外れましたな」
「……どうして、そのように?」
「ロザック・カウリオン公は、国の半分の騎士を率いているようなもの。援軍もない戦いは厳しいものになるでしょう。……ああ、だからこそ、グレッド卿は大切な妹君を置いていかれたのですかな」
「……っ!?」
ロザックが攻め込んできていると、なぜ知っているのか。援軍を得られていないことまで、どうやってこの男が嗅ぎつけたのだろうか。
ヴィオナも従者の騎士たちも、予想外のことに内心で焦燥した。このルイガンの行動は、グレッド家騎士団が現在ここにいないことにつけ込む作戦だったのだ。虚勢による脅しで隙を作らせることを考えていたが、それはまったく使えなくなった。
一方リミカは戸惑った様子で、えっと声を上げた。
「ロ、ロザック公って……セームダルの……? どうして戦いになっているの? 待って……、じゃあエドリッツに送った文書は、どこまでが本当なの!?」
シュッと、剣を抜く音がした。少女が怯えて息を呑む。
ビルダがリミカに剣先を突きつけていた。
「——何を……陛下に対して何をしているのです!」
「こんなところで、いつまでも上辺のやり取りをしている暇はないのですよ。時間がないのでね」
ルイガンの態度が、がらりと変わった。
こんなにも早く、体裁を繕うのをやめてきたか。
「……時間がない? 何を言っているの。あの男に早く剣を納めさせなさい!」
「お前たちグレッドは、リューベルト殿下を匿っていた。どうせすべて知っているのでしょう? 私がディーゼン陛下たちに毒を盛ったことも」
「……え」
何の前置きもない突然の罪の告白に、その場の全員が驚かされたが、一番反応したのはリミカだ。
兄は疑っていたけれど、結局はそれだけで終わっていた。物的証拠も状況証拠も弱く、家臣たちはいつまでも半信半疑で、この男に反逆罪を問うだけの材料は何もなかった。
下御の儀の事件後も、ディーゼンとレスカの暗殺については何も触れられなかった。新たな発見が何も出てこないことで、うやむやになってきた。
「……あなたなの? やっぱり本当に……犯人はあなただったの!?」
リミカは怯えを忘れ、青い瞳はみるみるうちに悲しみや悔しさに満ちていく。彼女はビルダの横をすり抜けて、ルイガンに迫ろうとした。
「ずっと私を騙していたのね! どうして!? どうしてあの優しいお父様とお母様をっ——」
我を忘れたリミカの肩を、ビルダが左手で掴む。ぶん、と無造作に腕を振ると、リミカは簡単に地面に倒された。
「陛下!」
「おとなしくしていてください、姫様。あなたの一番の役割は終わりましたが、まだ利用価値はあるでしょうから」
リミカが上げた悲鳴は聞こえていただろうに、ルイガンは振り向きもしなかった。
よろよろと顔を上げたリミカは、涙を流してルイガンの背中を睨んでいた。相変わらずビルダは彼女から離れない。ヴィオナたちへの牽制である。
「あなたたちっ……! よくも、そんな真似ができるわね……! 恥じるべきだわ」
不用意に動けなくなったヴィオナは、侮蔑の感情を隠さない。
リミカはまさしく姫なのだ。簡単な護身術を習っている程度だろう。同じ女性であっても、敵対し、成人騎士であるヴィオナに対してならばわかる。でも対抗するすべも持たない少女にこの暴力は、帝国騎士以前に人として最低だ。
ビルダは表情ひとつ崩さず、抜き身の剣を片手にリミカを見下ろしている。
「なんとでも。旦那様はお忙しいのです」
「ええ、そうなのですよ……ご自分の置かれている状況は、早々に理解してもらわねばなりません。主賓がいらっしゃる前に、大方終えておきたいので」
「……主賓? 誰が来るというのよ」
「こちらの話です。さて、ヴィオナ嬢。その右手にお持ちの剣は回収いたします。それから、両手を拘束しましょうか。そこの皆様の武器もすべてこちらにいただきます」
「……」
後方に控えていた騎士たちがいきり立つのがわかったが、ヴィオナはルイガンの従者に抵抗せず細剣を手渡し、背中側で両手首を縛られた。リミカに剣先を向けているあの男は、皇家の血筋など歯牙にもかけないようだ。ルイガンの命令なら、武器さえ持っていない女の子でも本当に傷つけるだろう。それはさせられない。
グレッドの騎士たちも、屈辱に耐え、ヴィオナに倣って次々と剣を手放した。
ロニー・ルイガンが満足そうに嗤う。
「ここでは姫様よりも、あなたのほうが人質として価値がある。城までご案内願いましょう。ああ、後ろの方々にはもう用はありません」
ルイガンの手下たちが、黙って剣の柄に手をかけた。丸腰で身構えるグレッドの騎士たちを見たヴィオナは、さっと彼らを守るようにして立ちはだかった。見据えているのは、賊の親玉ただ一人だけ。
「彼らを一人でも殺めたら、私は自害するわ。そうなれば、彼らがどうするかわかるかしら」
「一体、何の強がりです?」
「あなたの言う通りよ。彼らにとっては私が主。陛下よりも私のほうが優先されるの。私が死ねば、何を差し置いても、どんな手を使ってでも、その仇討ちに動くわ。あなただけは絶対に赦さないでしょうね」
「くだらぬ……はったりですね。グレッド家が、皇家を蔑ろにできるはずもないでしょう」
「そう思う? 私たちは、あなたのところよりもずっと、生死をともにして戦ってきた騎士団ですもの。絆の深さを疑うのなら、やってみせましょうか?」
それとわからないほど小さくルイガンが舌打ちしたのを、ヴィオナは見逃さなかった。自分のほうが多勢であるにも関わらず、彼はグレッド家騎士団との直接衝突は避けたいと思っているのだ。個々の力量の差を恐れているのか、主賓とやらが理由かはわからないが。
「……まあ、いい。縛ってその辺りへ捨てておけ。無力化すれば同じことだ」
騎士たちも全員、後ろ手にロープで縛られていった。女性騎士もいたが構わず手荒に連行され、南門の大通りの西側区画にある花壇に引き倒され、足まで縛られてしまった。
それらの様子を、すぐ近くの城壁の上から見守っていた者がいた。
「まずい……な……」
歯噛みしながら、壁に身を隠したのはセスである。
本来市街戦に備えるならば、充分な弓兵が城壁や屋根の上に控えているべきなのだが、あまりの騎士不足で配置できなかった。せめて戦闘が起きた場合の補助をと、ヴィオナはセスだけを別行動にさせたのだ。
手足の自由を奪われた騎士たちは、一箇所に集められて見張りも立てられるようだ。ヴィオナだけがルイガンたちのもとに残されたが、リミカとは一定の距離を取らされている。
——ヴィオナ様の拘束を解いてこれを渡せば、皇帝陛下一人くらい救えるか……?
セスは腰に下げている剣を掴んだ。今の彼は、騎士団員と同じ格好をしている。
遠隔から予測しにくい形で襲いかかる魔法は、魔力のない者にとって脅威であるため、魔導士は見つかり次第最優先の標的にされるのが常なのだ。周囲に紛れることでそれを防ぎ、かつ魔法の効果範囲まで敵に近付くため、昔から戦いの場に出る時は、こうして騎士団の制服と、扱えもしない剣まで支給されてきた。
セスならここからでも水の刃を飛ばせるのだが、命中率はどうしても低い。ヴィオナやリミカが同じ場に立っているのに、賭けのような攻撃は使えない。おまけにあれだけの人数がいては、数人無力化したところで意味がない。むしろヴィオナたちが物理的に盾に使われて、手も足も出なくなってしまうだろう。
——とにかく、あの二人を助け出さない限り、いずれ城に入られる。急がないと……
ヴィオナがルイガンに放った威嚇は、本当にはったりだ。グレッド家に仕える人間が、傷つけられている少女を見捨てられるはずなどない。あの場でリミカと家人の両方を守るために、ヴィオナは自らの身体を張って大嘘をついたのだ。
セスは城壁上の回廊を、身を潜めながら移動し始めた。もう一度確認にヴィオナのほうを盗み見ると、リミカが腕を掴まれて無理やり立たされているところだった。リューベルトにも少し似ているその顔が、身体と心の痛みで歪んでいた。




