八、仇
初めの報告では、ザディーノが港を襲撃してきたと聞いた。次はクリーズ伯爵を筆頭に、数名の貴族たちが帝国騎士団を率いて迎撃に向かった、そういう報告だった。
リューベルトは心配でたまらなくて、ずっと部屋の窓から港のある南方向を眺めていた。
そして次に受けた報告は、ザディーノは撤退したというものだった。
それを聞いて、胸をなでおろした。侵攻は予想の範囲内ではあったが、こんなに帝都に迫ってきたのは初めてだった。やはり、父が急逝したところを狙われたのだろう。自分が即位しても、きっと軽く見られてしまう。しっかり努めなければ――
そんなことを考えていたリューベルトに、イルゴはもうひとつ、思いもかけない報告を続けた。
キュベリー卿が、襲撃を受けた責任をお取りになり、即時ご退任なさった、と。
「どういう……ことだ。なんだ、それは!」
イルゴは、アダンに近い者から聞いた、港で起きたという出来事を話した。話しながら、イルゴ自身も納得できていない様子だった。アダンが責任を取ることなのだろうかと、疑問を抱いているようだった。
当面の間、アダンは屋敷にて謹慎となるという。当然登城できるわけはなく、リューベルトから会いに行くこともかなわない。エレリアや弟たちも同様となった。
リューベルトは再び窓に取りついた。上級貴族である侯爵家の館は、城から近い。キュベリー家の屋敷の屋根が、ここから見える。
——なぜ、そんなことに……
どうしてそんな裁判が認定されてしまったのか。
ディーゼン帝やアダンと反対の思想を持つ者たちが、数の力で押し通した。イルゴに報告をくれた者は、声を潜めてそう言ったらしい。それから、ルイガン侯爵が認めてしまったことが大きかったと。
——反対の思想……。父上を裏切った者もその中にいたのか……?
もしかしたらその者が、ディーゼンと親しかったアダンを追い出そうと、裏で糸を引いていたのかもしれない。リューベルトからは、味方を奪った。
――キュベリーがこんなことになったのは……私のせいだ。
リューベルトがもっと早く相談していれば、アダンはきっと、自分の身辺のことまで警戒を張れていたはずだ。
後悔がリューベルトを締め付けた。なんとかアダンを助けたいと思った。
「イルゴ。ルイガンを呼んでくれ。話がある」
その力があるのはきっと、もう一人の宰相だけだ。
ロニー・ルイガンは、リューベルトの呼び出しに応じてやってきた。まるでこうなるとわかっていて、待っていたかのように、すぐに。
「その件でごさいますか。確かに、例外的なことではありましたが」
「ルイガン、そなたも認定したそうだが……なぜそんな判断になったのだ。せめて今からもう一度やり直せないのか」
「あの場で、多くの貴族方の承認を得てしまった件ですからね。あとから覆すのは、なかなか難しいことでしょう。司法の信用問題にもなりかねません」
「だが、正式な法廷でもなかったのに……」
「殿下がキュベリー卿をお庇いになるお気持ちは、私も理解いたします。エレリア嬢の父君ですからね」
ルイガンは微笑んだ。しかしその赤味の強い瞳は、笑っているように見えなかった。
その微笑みに哀情を含ませて、彼は続けた。
「しかし、今回のことで殿下のご婚約も……見合わせることになりましょうな。良いご令嬢でしたのに、誠に残念ですが」
「……私は、私情から言っているのではない。このフェデルマの宰相を裁くには、余りにも粗末で不自然ではないかという話だ」
まるで、やれやれ、とでも言いたげに、ルイガンは眉を上に動かしてみせた。
きちんと調べてからご報告したかったのですが、と前置きをし、彼は微笑みを消した。
「聞くところによりますとキュベリー卿は、クリーズ伯爵の調査報告を蔑ろにした上に、料理長に火災当日陛下にお出しした御膳のことまで、しつこくお聞きになっていたそうです。何か……、そう、まるで……陛下が暗殺されたと疑っているかのように」
「……! それは……」
思いがけない話になり、リューベルトはどきりとして口ごもった。
毒のことをルイガンに話して良いものか。信じてもらえるだろうか。アダンはリューベルトのために、それを調べてくれていたのだと話せば、判決の撤回に協力してくれるだろうか。
リューベルトは開きかけた唇を、再び閉じた。
アダンを助けたいからといって、ルイガンを信用できるかの判断を急いで大丈夫なのか。心のどこか深くから、警鐘が鳴っているのが、聞こえたような気がした。
「……いかがなさいましたか、殿下」
「キュベリーの、その行動については……今は不問でいい。それとは切り離して考えてくれないか」
「不問?」
ルイガンは大袈裟なほど驚いた。
「陛下が暗殺されたと、吹聴しようとしていたということですよ? この城を……いいえ、帝国全体を混乱させようとしていたというのに、ですか?」
「そうじゃない。キュベリーにそんなつもりはないんだ」
語気を強めたリューベルトを、ルイガンは驚いた顔のまま、黙って見つめていた。
急激に鼓動が速まっているリューベルトは、なぜかそんなルイガンから目を逸らせなくなった。
まさか、とルイガンは呟いた。
「殿下……すでにキュベリー卿から、そのような嘘を聞かされておられたのですか。いつからです?」
「ちが……」
「エレリア嬢……彼女ですか? そうなのですね? キュベリー卿はご自分の娘まで使って、そんな残酷な嘘で、殿下を操ろうとしていたのですね?」
「違う、エレリアは……何も吹き込みになんか来ていない。嘘じゃないんだ!」
どんどん誤った方向へ進んでしまっている。むしろアダンの立場が悪くなっている。
それでも、つい荒々しく席を立った自分に対して、平常心でいろと忠告する自分もどこかにいた。しかしアダンと、エレリアまでも悪く言われるのが、リューベルトには耐え難かった。
「……嘘ではない、とは?」
冷徹なまでの冷静さで、リューベルトを見上げながらルイガンが問う。
「何か、根拠がおありで?」
「……私が……頼んだんだ……調べてほしいと」
「殿下……。そこまでして一人の家臣をお庇いになるのは、あまり感心できませぬ」
「本当に私が頼んだんだ。父上と母上の死因は、火災ではなく……毒だと思ったから」
「……なんと」
ルイガンは落胆を隠せないという様子で、視線をリューベルトから下げた。
「そこまで……妄想に取り憑かれておられたとは」
「妄想……?」
「キュベリー卿に、そう刷り込まれたのでしょう」
「違うと言っているだろう! 私は……見たんだ。父上と母上の、最期の姿を」
「――それは」
ルイガンは一度、言葉を切った。
「……塔の上で、ですか」
その声音に、リューベルトはぞくりとした。
ルイガンの顔は、人形の顔を張り付けたかのように、感情が見えなくなっていた。
「――ルイガン?」
「塔に渡るなんて無茶をなさるから、……そんなものをご覧になってしまうのですよ、殿下」
「……ルイガン……」
「残念なことです。本当に」
リューベルトの身体が、芯から震え始めた。
アダンほど個人的な付き合いはしていなかった。でも父は、即位して以来ずっと、ルイガンを宰相から外そうとしたことはなかった。アダンと対象的な、自分とは違う視点をくれる彼の存在も大切なのだと言っていた。
……この男のことを、大切だと言っていた。
「ルイガン……そなたなのか」
後ずさり、飾りのように置かれている護身用の剣を掴んだリューベルトに対し、ルイガンは静かに立ち上がった。憐れなものを眺める顔で。
「心から悔やまれます。何かしら理由をつけて、あなたをどこかへ引きつけておくべきでした。実に簡単なことでしたのに」
瞬時に、リューベルトの足が動いた。
「貴様かああああっ!」
鞘の先を、ルイガンの腹の急所めがけて、突き刺すほどの勢いで繰り出した。
しかし、侯爵家当主で宰相の彼も、幼い頃から鍛錬を積んできた帝国騎士だ。まだ成人もしていない、身体も成長途中のリューベルトの激情任せの剣は、簡単にあしらわれた。
「いけません、殿下」
「黙れルイガン! そこへ直れ!」
リューベルトは剣を抜き放った。ガラン、と鞘が床に落ちる。
「なぜ……なぜだ!? 何があって、父上と母上を! 私はお前を赦さない!!」
「――殿下!?」
ただならぬリューベルトの怒声に、扉のすぐ外で待機していた近衛のジグが入ってきた。そこで、主人の皇太子がわなわなと震えながら、宰相に向けて抜き身の剣を構えているのを目の当たりにすることになった。
「で、殿下……?」
ジグには状況が読み取れない。リューベルトの、涙まで滲むほどの怒りの形相の意味も。
イルゴや他の護衛たちも部屋に入るなり、動きを止めた。見たことのない光景に、何をどう対応すべきなのか、誰もが判断できなかった。
「私が申した通りです、皆様」
ルイガンがリューベルトに相対したままで、惑うイルゴたちに語る。さも無念そうな口調で。
「殿下は、塔の火災のさなか、両陛下のお倒れになったお姿を目撃され……毒殺と思い込んでおられる。キュベリー卿に調査を依頼なさるほどに」
「……はっ……? 貴様、よくもそんなことを!」
「それでも、そうしなければ殿下が心の安定を得られないならばと……また扉を閉ざされるよりはと……考えておりました。しかし、本日のキュベリー卿のこともあり、家臣をお疑いのまま国葬や即位式をお迎えになるのも望ましくないと思い改め、お話を致しました」
ルイガンは少し腕を広げて、周りにいるイルゴやジグを見やった。
「しかし……殿下は、私が毒殺の犯人だと」
「そうだ! 私は見たんだ、あれは毒殺だった! すべてお前の仕業だったんだな!? それほど父上のことが邪魔だったのか!? キュベリーのことも!」
リューベルトはルイガンに向かって、一歩踏み出した。その瞬間、誰かに腕を掴まれ、捻り上げられた。不思議と痛みはなかったが、腕の力が抜けてしまい、剣は取り上げられた。小さな抵抗をする間さえなく、後ろから抱きすくめられるように拘束されていた。
その鮮やかな手際をみせたのは、ジグだった。
皇太子の近衛を務めるほど優秀な騎士に、リューベルトが敵うはずがない。
「ジグ……! やめろ、どうして……! お前もルイガンの仲間なのか!?」
「私は、誓って……殿下の近衛騎士でございます」
「……まさか、城内で抜剣なさるなど……。そこまでだったとは……」
イルゴが声を詰まらせた。彼も他の者も、やりきれない気持ちを隠せない表情で、身動きの取れないリューベルトを見つめていた。
平時の帝都城内において、基本的に抜剣は禁止である。いかに皇家といえど、相手が誰の目にも明らかな重罪人でもない限り、独断で手打ちにして許容されるものではないのだ。
正面から浴びせられる、いくつもの哀れみを帯びた眼差しは、すっとリューベルトの熱を冷やした。血の気が引く。彼を取り巻いているのは恐ろしい現実だった。
「待て……違う、本当なんだ……! 信じてくれ、私は本当に見たんだ!」
「炎が迫る恐怖や、ご両親を失われた衝撃が、そのような幻覚を見せたのでしょう。お可哀想に」
ルイガンの声は、同情に満ちていた。他の、誰もの目が、同情に満ちていた。
リューベルトが見た真実を知らない彼らの目に、剣を抜いて喚き散らしていた皇太子が、どのように映っていたのだろう。イルゴたちは敵ではなかったのに、味方でもなくなってしまったのだ。
「イルゴ殿。殿下には、国葬への参列はご負担になりましょう。即位式は無期限で延期とします。殿下にはしばらく、帝都から離れた静かな場所で、ご静養いただいてください」
「……はい、ルイガン卿」
「違うんだ……イルゴ、やめてくれ……!」
イルゴは深く頭を下げた。宰相の皇太子への配慮に、感謝しているのだろう。主人思いの侍従の行動であるのに、今のリューベルトには絶望感を与えた。
ルイガンの目がゆっくりと、イルゴからリューベルトへ戻ってきた。
「……やはり、私のことも……排除するんだな……ルイガン……」
ジグに身体の自由を封じられたリューベルトは、その美しい紺碧色の瞳にありったけの恨みを浮かべてルイガンを睨み、まだ子どもらしさの残る声には精一杯の憎しみを込めた。
ルイガンは首を横に振った。あくまでも、主君の乱心を悲しむ臣の顔で。
「排除だなんて。ご回復とご帰還を、心よりお待ち申し上げておりますよ」
ルイガンはまるで子どもを安心させようとするように、優しい声音でそう言うと、部屋を出ていった。