十、最後の反旗 宵
宿泊していたジェブロ領のクィルバからイゼルまでは、どう急いでも三日ほどかかる距離がある。
その間にルイガンたちに追いつき、リミカとレナイを取り戻し、一味を全員捕らえる、それが最善だ。リューベルトとともに来てくれている帝国騎士団は、本来カルツァ領との往復の護衛隊なので、人数は多くないが、精鋭揃いである。シンザとジグは帝国屈指の実力者だ。ルイガンがどれだけの従者を率いているのか知るすべはなかったが、追いつけた時には必ず捕らえられると信じている。
相手は女性を二人も連れているのだから、騎士ばかりのリューベルトたちより移動速度は劣るはずだ。イゼル襲撃阻止の実現性は充分にあると思っていた。
ルイガンとしても、追われることは確実にわかっているのだから、最短の道を選ばざるを得まい。自ずと選ぶのは同じ道程になるはずだが、二日経ってもルイガンたちの影は見当たらなかった。よほど無理な移動をしているのかもしれない。
必要な休憩や野営の最中にも、リューベルトは地図を睨んでいた。
「道は合ってる。休んでおけ」
シンザは言葉少なに、すぐに横になった。戦をよく知っている彼は、休むべき時に休む重要さを熟知している。
「ああ……わかった」
リューベルトは地図を畳んだ。
故郷が挟撃で襲われてしまうかもしれないシンザも、胸の奥ではとても平静ではいないだろう。
兄上たちはそう簡単にやられない——シンザの言葉は真実だと思うが、眠る前になるとリューベルトは、リミカとレナイに加えて、ガレフやヴィオナの無事も天に祈らずにはいられなくなる。
主であるロニー・ルイガン侯爵と合流した地点から、すぐに別行動に入ったルイガン家騎士団の小隊がいた。皇太子襲撃事件を起こし、ティノーラ・リエフに捕らえられた、ジレイス他数名が所属していた隊であった。
率いているゴーゲンと騎士らの目的地は、ロニーやビルダとは違う。もちろんこれは主の命令であり、主の願いを成就するための作戦のひとつであるが、ジレイスたちの無念を晴らすために取り計らっていただいた役目でもある。
彼らが目指すは、リエフ伯爵の領都エリガ。
ガレフ・グレッドは、ノルドレン・リエフに支援を求める使者を送っただろう。使者の足止めにはとても間に合わない。だからリエフ伯爵がイゼルへ向かうのを、直接妨害する。
規模のわからない相手を、少人数で制圧するならば奇襲しかなく、難しい地形を持つリエフ領では、その方法はほとんどひとつしかない。
グレッドとリエフの領境付近に到着したゴーゲンたちは、三十人ほどの小隊をさらに分け、待ち伏せの態勢に入った。
彼らはルイガン家騎士団の制服に着替えていた。すでに主は皇帝の身柄を手にし、兄皇子たちにそれを知られていることだろう。ならば今さら賊を装うなんて姑息で恥な真似はしない。ルイガン家騎士団として、誇りを持って戦う。
この国を生まれ変わらせるために、最後まで。
数日前にやってきたガレフからの遣いは、ノルドレンを驚かせた。
兄のセームダル王と緊迫した睨み合いをしているロザックが、突如フェデルマへ向けて進軍するなんて、誰が想像できたであろう。
「信じられないわね……どちらかといえば、王軍が攻めて来たと言われるほうが、まだ腑に落ちるわ」
母のユリアンネも、ガレフの手紙を読むなり、大きく眉間にしわを寄せていたものだ。
国王の兄は事あるごとに権威を振りかざし、曽祖父が興したセームダルの国土を拡大させたいと夢見ている。一方の弟は冷静な性格で、勤勉ゆえに現実主義。セームダル王家は、国民にも、近隣諸国の貴族たちにも、そう捉えられている。
セームダルの国内では、王軍は北部に、ロザック軍は南部に陣営を構えている。従って、王軍はリエフ家が、ロザック軍はグレッド家が監視する形になってきた。
王軍には、これまで特に動きはない。エリガ城に届いている最新の監視報告書には、確かにそうあった。だからノルドレンは、ガレフにもそう伝えてきた。
前回のガレフとの情報交換では、ロザック軍も動く気配はないと聞いたばかりだったのに。
「ノルドレン様っ……、もう発たれるのですか」
リエフ家の騎士服を纏ったノルドレンが廊下を歩いていると、ここ数日顔を合わせていなかったターシャが、向こうから急いで駆けてきた。
「準備が整った、出陣可能な隊だけ先に行かせるつもりだ」
すぐにイゼルへ行きたいところだったが、戦場に騎士団を送り込むというのは、相当の準備を必要とする。日帰りで行き来するものではないのだから、食料から武器、野営の道具、着替えに衛生医療具まで、すべて持参しなくてはならない。戦地となる領に負担をかけることはできないからだ。
「私も第一陣で行こうかと思っていたんだが、ちょうど今夜あたりに新しい情報が届く頃だと気づいてね。それを受け取ってガレフ様に持っていこうと思っている」
谷の向こうのセームダルの町に派遣している諜報員から、そろそろ次の報告書が届く頃だった。ロザックの動きを見て、兄王はどうしているのか。その情報はとても大事だ。
ロザック軍もまだ、レグスの丘に拠点を設営できたくらいの頃合いだろう。すでにガレフと衝突が起きているわけではあるまい。報告書を待つくらいの時間はあるはずだ。
「そう……ですか……」
ターシャの青空色の瞳が、まつげに翳って曇天に変わる。
彼女がエリガに来てからは、国境ではごく小規模なぶつかり合いしか起きてこなかった。それでもグレッド家やバーリン家と共闘するために、エリガを出発するノルドレンとティノーラを見送る時には、ターシャはいつも泣きそうな顔をしていた。
今回はこれまでの彼女の人生の中で一番、大きな戦になると感じ取っているのだろう。今にも不安に押し潰されてしまいそうな顔をしている。
「ターシャ、大丈夫だ。グレッド家の騎士団は帝国一強い。知らないかもしれないが、リエフ家だって弱くはないんだよ」
「……」
「でも、そうだな……ターシャは北のほうの町にいても構わない。最近のネウルスは少し静かになったからね」
「……そんな……そんなこと、しません!」
やけに強い口調で否定された。そんなターシャは珍しくて、ノルドレンは少々面食らった。
「た、戦いのお役に……立てないのはわかっています。でも、私だけ逃げるなんて……できません」
「ああ、言い方が悪かったね。そういう意味ではないよ。この機会に、領北部の視察をしながら、そこの人たちとゆっくり打ち合わせをしてきてくれればいい。私はしばらく行けないかもしれないから」
逃げるのでも避難でもなく、ノルドレンの代理の仕事とすれば、彼女は北部へ行ってくれるだろう。エリガにまで迫られることはないだろうが、そうしてくれたほうが、ノルドレンもより安心できる。
そう思ったのだが、ターシャは強く首を横に振った。
「いいえ……わ、私は、ここにいたいのです。できることを、したいのです」
「——ターシャ」
「お願いですから……遠ざけないでくださいっ……」
一人で乗馬はできるようになったが、ターシャの細腕は剣を振れない。ずいぶん元気になったとはいえ、ノルドレンやティノーラと比べると、やはり彼女は丈夫な身体とはいえない。
心優しく繊細なターシャが、もし戦を肌で感じることになったら、心労で倒れてしまうかもしれない。
「領主ができなくなることを、ターシャが代わりにこなしてくれるのは、とても助かることだよ」
「そ、それは……理解しています……でも、今回は、急ぎのお仕事ではありません。それよりも、今はここで……医療班を組織したいと思っています」
「医療班?」
通常、戦に同行するのは衛生官だ。ある程度の医療処置を学んだ一般騎士である。彼らの処置で充分でない場合、負傷者は近くの町まで運ばれることになる。残念ながら、その途中で落命する者も多い。
ターシャは、一刻も早い手当を必要とする負傷者を救えるように、騎士ではない専門医師やその助手が、戦場のそばまで行って専用の野営地を造り、治療を行える態勢を整えたいのだという。
確かにそれができれば、救われる命は増えるだろう。
「しかし……医師たちが危険な戦地の近くまで来てくれるものだろうか」
「協力してくださる方は……たくさんいます」
昨年からターシャは、自分が毎月診察を受けている医師の伝手を借り、多くの関係者に相談していたのだという。領民を守って戦う騎士団のため、数日ずつ交代でなら協力しようと言ってくれる医師がほとんどだったそうだ。
ただ、こんなに急に実践することになるとは思っていなかった。ガレフの手紙を知ったターシャは、医師たちへの本依頼と意思確認に奔走していたのだ。
彼女がそんなことをしていたとは、自身も忙しかったノルドレンはまるで知らなかった。
「すごいな……ターシャには、時々本当に驚かされる」
「か、勝手なこと……だったかもしれませんが」
「いいや。騎士団を守ることまで考えてくれていたとは思わなかっただけだ。ありがとう。頼むよ」
ノルドレンが見せた笑顔に、ターシャの頬がうっすらと赤くなる。
しかしこの時のターシャには、あえて口にしなかったことがあった。彼女はもともと書籍で医療についても学んでいた。それだけでは役立たないと考え、城の医師に頼んで、助手の見習いとして手伝いをしたこともある。
ターシャ自身も、医療班の一員になるつもりでいたのだ。
午後、リエフ家騎士団の第一陣が出発した。数十人規模だが、グレッド陣営の荷運びや見張り役を代わるくらいにはなれるはずだ。
ノルドレンは第二陣の準備をしながら、セームダル王の動向についての報告書を待っていた。
それが届いたのは宵のことだった。
「やはり……王軍は南部へ動き出しているか」
この予測はしていた。大きな気がかりは、王軍の狙いのほうだった。報告書によれば、王は「ロザックを討つ絶好の機会」として、意気揚々と出陣した様子、だという。
では、王とロザックの対立は解消していないのだ。
いつの間にか兄弟は手を組み、徒党を組んでレグスの丘からフェデルマを攻撃することにした——それがもっとも嫌な筋書きだった。ガレフが手紙の中でも懸念を示し、ノルドレンも疑っていたその線は、幸いにも消えてくれたようだ。
しかしこうなると、ロザックの真意はより不可解となった。グレッド家との戦闘中に、王軍に背後から突き崩されてしまうのは、もはや目に見えているではないか。北大陸の王族には珍しく、ロザックはそもそも戦を好む性格でもないはずである。だから将来フェデルマ皇家が周辺国に対話を持ちかける際に、一番応じてくれそうな王族の彼が、セームダルの実権を握ってくれたら、と思って見守っていたくらいなのだ。
「……どう考えても、おかしい」
聡明なはずのロザックが、グレッド家に対して必要のない戦を仕掛けた挙句、そんな末路を辿るものか。
いいや、そんな馬鹿げた道を選ぶ方ではない。
——ガレフ様との戦いを、やむない事と考えておられる……?
それくらいしか、理由がないのではないか。では自軍がふたつの敵に挟まれることになってでも、グレッド家と戦わなければならない理由とは何なのだろうか。
彼の性質を考慮すると、ひとつしかないのではないか。
——ロザック公は……兄王軍よりも、フェデルマをもっとも優先すべき敵だと判断している……? つまりセームダルのすべての民の敵だと……侵攻されると思い込んでおられるのでは?
少し前には実際にザディーノに侵攻しようと、腰を上げかけていたフェデルマだ。どこかでそんな噂が立っても不思議はなく、信憑性もかなり高く感じる話かもしれない。
民想いのロザックは、己の身を顧みず、国境を守ろうとしているだけなのかもしれない——
これはこれで、悪しき筋書きだ。そこまで民と国を思いやるロザックが、浅慮な兄王に滅ぼされてしまうのは、皇家もニ公も、ガレフもノルドレンも望むところではない。
「母上、私は今からイゼルへ行く」
「今からって……ノルドレン、もう夜じゃないの」
「確信はないとはいえ……もしかしたら、一刻を争うことかもしれないんだ」
もしノルドレンの推測が正しければ。
この戦は起こる前に止められるかもしれない。ロザックを説得するならば、もう一人の国境領主であるノルドレンも、その場にいるべきだと思った。帝国に進軍の意思はないと、軍を引いてみせれば、彼なら信じて撤退してくれるかもしれない。
ユリアンネやターシャは危険だと反対した。特にターシャには懸命に引き止められたが、ノルドレンは四人の伴を連れてエリガを出発した。
夜でも、十数年通い慣れた道である。今にも月が厚い雲に飲まれてしまいそうな空であるが、ランタンの灯りだけになっても馬を走らせられる自信はある。
越えるのが難しい山ばかりのリエフ領からは、基本的に北のバーリン領と南のグレッド領にしか出られない。南端部にあるエリガからは、どこへ行くにも、だいたいは川向こうのグレッド領を経由することになる。
エリガ周辺は貴重な平地なので、畑が続く。その間を縫う街道を進んでいくと、やがて遠くに横たわる川が見えてきた。それほど深くはないが川幅は広く、豊かな水資源をもたらしてくれる領境の川は、月の薄明かりを反射して弱々しく光っていた。
長い橋を渡ると、間もなく森林地帯に入った。
「旦那様っ!」
突然、先頭を走っていた騎士が大声を発し、腕を横に伸ばして減速を促した。
「どうした?」
「人が倒れています!」
ノルドレンが愛馬の背から身を乗り出してみれば、確かに道の真ん中に何かがうずくまっているような影がある。
何日も前からリエフ領民には、危険なためグレッド領には渡らないようにと、緊急命令を出してある。だから倒れているのは、それを知らない外部の行商人か誰かなのだろうと思った。
介抱しようと馬の足を止めた一行は、うつ伏せに倒れていた人物を見て絶句した。
その人はすでに息がなく、体温も失っていた。背中には明らかに剣による傷があった。
そしてリエフ家騎士団の服を身につけていた。
日中イゼルへ送り出した、第一陣の一人だったのだ。




