七、同類
帝都に戻る前、リューベルトとシンザがイゼルからカルツァ領都へ行った時は、そのすぐ東にあるジェブロ領はあえて通らなかった。
もっと以前、セスと三人でひと月ほど転々と旅をした時はその領内に入ったが、北部の町をひとつ見ると宿泊はせずにすぐ立ち去った。
ジェブロはリューベルトにとって、敵方の一人として認識されてきた。両親の仇ではないのだろうが、仇を探し出して戦おうとしたリューベルトから味方を奪い、その結果ルイガンによって帝都を追われることになった。キュベリー家は苦しい年月を強要された。
どうしたって、この人物と好意的に相対するのは難しい。
「ご滞在いただく予定の町には、日暮れ頃には着きますので——」
街道横の湖のそばで休憩中、わざわざジェブロ自らが飲み物を差し出してきた。リューベルトだけでなく、侯爵家の人間である近衛シンザの分までだ。
兄と同じ馬車に乗っていたはずのリミカが見当たらず、湖に足を浸して休んでいる彼女を見つけたジェブロは、そちらへもいそいそと持っていった。
この旅の最初の頃は、必要事項以外はこれといって会話もなかったのだが、日を追うごとにジェブロのほうから近寄ってくるようになった。擦り寄ってきていると表現しても大袈裟ではないかもしれない。
「ジェブロは、何というか……意外と節操のない男だったんだな。貴族らしい立ち回りというのか……」
「鳥肌が立ちそうだな」
リューベルトの横でシンザがばっさりと断じた。その物言いにイルゴは面食らって眉を上げていたが、ジグは表情を変えなかった。呆れたのはティノーラだ。
「シンザ。少しは言葉を濁したら?」
「ああいうのは好きじゃない。旧派と考えを異にしたなら、まずはその立場をはっきりさせるべきだ」
先頃会議で明らかにした、皇家と宰相の施政方針には、ジェブロは反対していたのだ。
六年前は彼と同じ立場だったクリーズは、旧派のやり方に行き詰まりを感じ、考えを変えつつあるようだった。アダンやフレイバルの意見に、真剣に耳を傾ける態度が見て取れた。
実のところジェブロもクリーズと同じ気持ちなのかもしれないし、家格を守るために仕方なく、いずれ中間派にでも合流する思惑でいるのかもしれない。
しかしルイガンが帝都内にいるうちは、バレンなどが面会に訪ねた際に、余計なことを耳に入れてしまうと考えていたのだろう。旧派を裏切るような行為を、自分を買ってくれていたルイガンに知られてしまうのも怖かった……おそらくそんなところだろう。
何にしても相手によって無節操に意見や態度を変える貴族は、シンザの嫌う種の人間なのだ。
「ジェブロ卿が、少しでも殿下に好印象を持たれようと努力なさっているのなら、この行程は安全になって良いではありませんか」
「確かに、そこは好都合ですね」
イルゴの見解に、ティノーラが頷いた。
ここまでの旅路は順調かつ安全だった。リミカの体力を考慮して、ゆとりある行程を組んでいたせいもあるが、予定通りにカルツァ領の北を迂回し、ジェブロ領に入って南下中だ。今夜から宿泊する町はそれなりに大きく、伯爵家の別邸があるので、そこに滞在する。
シンザが不満そうに、鼻にしわを寄せた。
「皆さん、気が緩み過ぎでは」
「卿への警戒を緩めてはいません」
ジグが真顔のまま即答する。近衛はシンザなので立ち位置に気をつけているが、リューベルトの身辺に対する彼の警戒態勢は、まさに近衛そのものだ。
「さすが、ジグ殿はわかってらっしゃる」
「ちょっと。私だって油断しているわけじゃないわ。ジェブロ様を信用もしてないしね」
ティノーラも腰に手を当てて言い切った。
黙ってやりとりを聞いていたリューベルトは、側仕えの騎士という立場のイルゴに耳打ちした。
「この言われようは、ジェブロが少し可哀想になってくるな」
イルゴは笑いを堪えながら頷いた。
皇家一行は、ジェブロ領の西端の町クィルバに到着した。
川の近くに位置したこの町は、川魚が豊富に捕れ、春は特に美味だとのことだった。
「この近くで釣りができるの?」
ロベーレで従兄弟と釣りをして、楽しかったことを思い出したリミカが、何気なく聞いた。
「はい、すぐ近くで。先々代当主の祖父が狩りよりも釣りを好んだもので、私も子どもの頃よくこの別邸へ連れてきてもらっては、教わったものでした」
「そう……いいお祖父様ね」
「ジェブロ領都は、もっと東であったな」
「はい。エドリッツ侯爵領に近いほうの、港のある街です」
ジェブロ領は、それほど東西に広くない。ずいぶん国境の近くまで来たな、とリューベルトは少し懐かしい心地になっていた。グレッド領から帝都へ移ってから、まだふた月も経っていないというのに。
——国境は大丈夫だろうか。
旅の間はそういった報せにあまり触れられなくなる。
バーリン、リエフ、グレッド、エドリッツが監視をし、守りを固めてくれているのだから、そう簡単に国境線を侵されるはずはない。そう信じているが……帰途に就く前に一度情報を取ってもらおうと思った。なんとなく、心が落ち着きを得られないのだ。
ジェブロ家が用意した晩餐では、春分け魚と呼ばれている、特産の白身の川魚が披露された。
帝都は海に近いため、川魚を食べる習慣はあまりなく、流通そのものが極端に少ない。イゼルでは食べているのでリューベルトは良いが、リミカには馴染みがないだろう。
春分け魚は塩で丸焼きが一番多い食べ方だが、慣れていないリミカでも食べやすいよう、ぶつ切りにした切り身と色の良い野菜を、香ばしい油でカリッと焼いたものがテーブルに上げられた。
「とても美味しいわ、ジェブロ。料理人の皆さんにお礼を伝えておいてちょうだい」
リミカやリューベルトが皿をきれいにしたのを、ジェブロは喜んでいたようだった。
カルツァ伯爵への遣いはすでに出してある。ほぼ予め伝えていた予定通りであるので、明朝ここを発って訪ねることになる。
領主とどういった話をし、犠牲者への謝罪と哀悼の意を表するのか。そのことについて、晩餐後に兄と最終確認をしようと思っていたリミカだったが、リューベルトは明日の馬車の中でも大丈夫だ、と言って早々に用意された部屋に引き上げさせた。リミカに疲労の色が濃かったのだ。カルツァに会う明日、体調不良を起こして予定変更になれば、印象を悪くしてしまう。
リューベルトたちも、さすがに少し疲れを溜めていたため、早めの時間に眠りについた。
起床時間には程遠い、まだメイドでさえも眠っている時間帯。
真っ暗な中起こされたジェブロは、眠気眼でしかめ面をしていた。こんな未明に、一体誰が訪ねてきたというのか。
ジェブロの部屋まで来訪者の手紙を運んできた執事は、心なしか顔色が悪い。
「若造の門番ならばともかく、なぜお前までがこんなものを受け取った? まだそやつは門に居座っているのか? 夜番の騎士団がいるだろう。追い払え」
何しろ今は、皇帝陛下とその兄君がご滞在中なのだ。おかしな輩を敷地内に入れるわけにはいかない。
「しかし、旦那様……確かあのお方は……」
この手紙を持ってきた者は遣いなのだという。本当の訪問者は遣い一人だけを寄越し、門まで来ていない。なので訪問者の視認はできていないのですが、と執事が前置きして、主が手に取ろうとしない手紙を裏返した。眉間のしわを深くしていたジェブロは、手紙の封蝋の紋を見た瞬間に、顔色を失った。
「ルイガン家の紋……!?」
「遣いの方は、ビルダ様でございました」
「そんな馬鹿な……ルイガン卿が来ているのか!?」
「私めなどには到底……この手紙をどうしたら良いか、旦那様にご判断をいただきとうございます」
ロニー・ルイガンには帰領命令が下ったはずだ。ここより北西にあるルイガン領へ、監視付きで旅立ったところも見た。ジェブロ領は通過地にはなり得ない。彼がここにいるはずなどないのだ。
執事が差し出し続ける手紙を、ジェブロはようやく手に取った。表には「親愛なるジェブロ伯爵」と、ごく当たり前な宛名がある。裏に返し、ルイガン家の紋の封蝋をもう一度見つめた。
なぜ今この町に来ていることを、彼に知られているのだろうか。皇家のカルツァ訪問は公式訪問だとはいえ、旅程は明かされていない。ルイガンは監視の中で得られた情報から予測したのか。
ジェブロが震える寒気を覚えたのは、日の出前の冷気のためではない。
封を開けてみると、一枚の紙にごく短い文章が書かれていた。
『貴兄が破滅をお迎えになる前に、ぜひ一度お話を』
「……破滅……」
一体何を言っているんだ、と思うと同時に、さらなる悪寒に襲われていた。
ジェブロはずっとルイガンに追従してきた。ディーゼン帝がご存命の頃、その宰相としての顔を保つルイガンが、旧派としては鳴りを潜めていた頃からだ。
侯爵位を残されたところで、ルイガン家の権勢は潰えた。彼こそがすでに破滅を迎え、旧派はもはや終わったのだ。
だからジェブロも身の振り方を再考しているというのに、今さら何だというのだ——
「どうなさいますか、旦那様」
「……会っては……みよう。何年も世話になった方ではあるからな。さすがに門前払いにはできない」
しかし、やはり敷地には入れられない。ジェブロは自ら門へと向かった。
待っていた遣いという男には、ルイガン家で開かれた旧派の夜会会場で幾度も見た覚えがあった。確かに団長のビルダである。この男がいるということは、本当にルイガンが来ているのだ。
ビルダが主を呼びに姿を消した間に、ジェブロは人払いをした。事情に疎い下っ端の使用人から、ルイガンと会っていたことが漏れたら、おそらく悪影響しか起きない。
「ジェブロ卿。お会いできて光栄です」
闇の中から現れたのは、紛れもなくルイガンだった。少し前なら想像もできない、旅人のような外套をまとった姿だった。
帝都城で顔を合わせたときと同じように挨拶をしたものの、ジェブロの表情は少し引きつっていた。
「……お手紙には、驚きました」
ルイガンからであることにも。その内容にも。
ジェブロとしては、できれば手早く話を終わらせたかった。この男に早く屋敷から遠くへ離れてもらいたい。できれば町を出ていってほしい。もしかしたらジグ・カーダットあたりが、早朝の見回りをしないとも限らないではないか。
「ジェブロ卿は、ベネレスト様から受け継がれたご思想を、お捨てになったのですか」
ルイガンは、驚くほど単刀直入に話を始めた。以前から雑談を省くことの多い男だったが、想定以上に唐突に後ろめたいところを突かれ、ジェブロは口ごもった。
「彼のお方は、裏切りをお許しになるようなお方ではありませんでした。それをおわかりの上で、今のお振る舞いなのですか」
「しかし……お、恐れながら……ベネレスト様はもう、十一年前に」
「時の経過など、問題になりません。我々は託されたのです」
距離を取って立っていたジェブロに、ルイガンがずいと寄った。
「保身に回るおつもりでしょうが、そううまく事が運ぶとお思いか。貴公はさんざん旧派として声高に意見を述べられてきた。今になって手のひらを返したところで、何を得られるというのです。待っているのは破滅だというのに、道化のような真似をなさるのは実にお見苦しい」
背筋が凍るのとは裏腹に、ジェブロはカッと怒りも覚えた。
「破滅とは何のことですか。私は——」
「本当におわかりにならないのですか。貴公は大きな恨みを買っているではありませんか。宰相アダン・キュベリー侯爵から」
「……っ」
恐れていることを指摘され、反論ができなかった。
キュベリーが失脚したきっかけの「事件」そのものは、彼の復帰後も表面上は変わりない。ザディーノの船が帝都近くの港を砲撃したがすぐに撤退したと、今でもそのままで記録、処理されている。
ただキュベリーは、あの当時疑っていた。あれはザディーノの攻撃ではなかったのではないかと。
ザディーノ製の船を所持しているのは、帝国でジェブロ家だけである。だからこそ、疑いの目をこちらに向けているかもしれないキュベリーに取り入るのは不可能であり、ジェブロは更なる上の権力者にまで嫌われないよう、必死に立ち振る舞っているのだ。
「キュベリー卿のことです。真実に辿り着いておられるのではないでしょうか。そして彼は、リューベルト殿下の腹心です。殿下は彼が着せられた汚名を真っさらにすすぐためなら、御自ら動かれるでしょう」
「……まさか、キュベリー卿はもう宰相に復帰なさったのに、皇家のお方が家臣のためにそこまで……」
「罪も無実も正しく……殿下はそういうお方ではありませんか? そしてその殿下が、今このジェブロ領におられる。それを利用なさらないと思いますか」
「何を、なさると……?」
「さあ、そこまでは……。ひとつ、例えばの話をするならば……貴公の使用人たちを、陰で問いただすかもしれませんね。ああそれとも、領都の視察をご希望なさるかもしれません。そしてザディーノから鹵獲した船を見てみたいと、それを動かせる船員に話を聞きたいと、おっしゃるかもしれません」
ジェブロは膝から崩れ落ちそうな心地だった。領都はもっと東であったな、と言ったリューベルトの声が、耳に蘇る。あれは何気ない会話と見せかけて、探りを入れられていたのか……
六年前船を操作させた船員の一人ひとりが、皇子の追及に耐えられるのか。今も雇用している者ならまだしも、すでに離職した者もいる。その者らがジェブロにそこまで忠誠心を持っているのか。
——とても、無理だ……
敵国を装って自国の港を砲撃し、時の宰相に冤罪を着せた。これが表沙汰になれば……まさに破滅。貴族籍の剥奪でも足りないかもしれない。
血の気を失ったジェブロに、ルイガンが囁く。
「我々は同じなのですよ、ジェブロ卿。未来は絶たれている。ここはもはや陛下のフェデルマではない、別の国です。居場所は与えられません。リューベルト殿下がおられる限り」
「——ルイガン卿!」
ジェブロは反射的に身を引いた。なぜルイガンがここに現れたのか、この館で何をしようとしているのか、恐ろしい予感に身体が冷え切っていた。
そんな様子を見たルイガンが、可笑しそうに目元を緩めた。
「誤解なさらないでください。貴公のご立派なお屋敷を、血で汚すようなことはいたしません。私とて、殿下がおられなくなっただけで、この国がベネレスト陛下の輝かしき時代に巻き戻るとは、もう考えておりませんので」
ルイガンの背後の黒い闇の中から、数人の騎士が足音も立てずに忍び出てくる。
ジェブロの足は固まり、動けなくなっていた。
「しかし、このまま落ちぶれるのは、あまりに不本意なのですよ。一矢報いてやりたいのです。殿下が帝国へ舞い戻った元凶、ベネレスト陛下の裏切り者に」
「裏切り者……?」
「ええ、そうです。まとめて一掃することができたなら、間違いなくフェデルマは、また変わる。貴公の過去の罪など、誰も探る暇はなくなるでしょう」
もう一度、ルイガンが接近してくる。
「貴公も私とともに——とは申しません。あなたはただ、案内をしてくださればよろしい。そして少しの間、目を瞑っていらっしゃれば」
すぐに終わらせ、私は去りましょう——
ルイガンはジェブロの耳元でそう囁き、肩に手を置くと、有無を言わさぬ強さで目の前の眠れる屋敷へと突き押した。




