五、帝都を守るのは
帝都のどの街区でも共通して、東西の隅に当たるところに住宅は建っていない。公園や倉庫、軍事施設しかないはずだ。
人間が火を用いて生活する場所ではないところで、火の手が上がっている。しかも黒煙は、一筋ではなかった。
「火事……また!?」
イーリオがつい声を荒らげた。
彼の言う通り、また、だ。
これだけの人間が生活をしている都なのだから、火事は時折起こる。大抵は人力の消火活動で収まるが、大きくなりそうならば隣の家を焼く前に、火の魔導士が出動して消し止めることもある。
都市における火災の恐ろしさは、誰でもよく理解しているだろう。そして先日の下御の儀の事件で、その恐怖を強く再認識させられたはずの平民の街区で、今また火災が起きているのだ。
エレリアたちは思わず格子を掴んで目を凝らした。
「三箇所……いや四箇所か? ほぼ同時に……?」
「一体何があったというのかしら」
煙が立ち昇る四箇所は、少し離れている。ここから火災現場は見えないが、同じ火元ではないだろう。
上空へ上がる煙は風にたなびき、混じり合って、都の空の一部を灰色に変えてゆく。
やがてエレリアたちの耳に、ずっと遠くから勢いよく押し寄せてくる、不吉なざわめきが届いた。
「おい、あっちを見てみろ!」
「反対側からもだ!」
「一体何事なんだ……!?」
人々が東側からまるで順番のように、反対へと首を動かす。そのすべての双眸には、今映っていたものとほぼ同じものが映り込んだ。もやもやと昇る煙が、空の青をうごめく灰色に変えていた。
「あれも、東の端の辺りじゃないか? 姉上……これはどう考えても異常だ!」
「ええ、明らかに人為的だわ」
ウィルドと同様、エレリアも確信していた。イーリオは不安そうに兄と姉を見ていたが、最初に提案をしたのは彼だった。
「城へ行って、火の魔導士を呼ぼう!」
「——そうね、そうしましょう」
城でも煙は発見されているかもしれないが、魔導士の出動が即断されるかはわからない。あれらはすぐに消し止めるべきだ。人による悪意の炎だとすれば、一刻でも早く。
自分たちならば、城へ入るにも許可取りはいらない。直接城内にある魔導士団に要請に行ける。
茶会用のドレス姿であるエレリアは、とても弟たちの足について行けない。そこで魔導士の説得は次期侯爵のウィルドに任せ、エレリアとイーリオは少しでも円滑にことが進むよう、それぞれの門番に、魔導士が来たら名を検めずに、すぐ門を開放するよう伝えておくことにした。
中央と東側の街にある門にはイーリオが向かった。エレリアは西側の街のうち、まずはこの近くにある平民の街区へ下りる門へと急いだ。
エレリアの名と魔導士を呼ぶ旨を伝えると、門番はすぐに了承した。現宰相の娘の理にかなった依頼なのだから、門番に断るという選択肢はないのだが、エレリアは「ありがとうございます」としっかり礼を述べた。それからすぐに上級貴族街区へ通じる門へ、ドレスを持ち上げて駆け出す。
そちらの門番とも話し終えた彼女は、その時さらなる事態の悪化に気づかされた。道ゆく人の多くが中央方向へと走り始めたのだ。
少数だが、中には真反対へと走る貴族もいた。そういう人は取り乱して、必死の形相だった。
「どいてくれ! 私の屋敷はそっちなんだ!」
ひとつ向こう、ふたつ向こうの通りでも同じことが起きているようだった。
戸惑いながら見渡せば、今度は下級貴族の街区の西側奥から幾筋かの煙が上がっていた。
——そんな……、この街まで……!?
一体、何が起きているのか。誰が何の目的でこんなことをしているのか。街区の中心地へと避難しているこの群衆の中に、もしかして犯人はいるのだろうか。
エレリアは逃げる人々を目で追ったが、ここには貴族だけではなく、その使用人たちも、この街に貴族相手の店を構えている富裕の平民もいるのだ。顔を見ただけでは誰なのか知らない人が大半で、どう疑ってかかれば良いのかもわからない。
今明らかなのは、単独犯ではないということ。平民の街区の東西の距離はとても長い。あんなに時間差なく火事を起こすには、必ず二人以上が関わっている。
「姉上!」
ウィルドが門の向こうからやってきた。魔導士を四人連れている。魔導士団にはもう少し火魔法を使える魔導士がいるはずだが、東側へも行ってもらったのだろう。
この街にも火事が起きていることを知った彼らは、かつてないこの異常事態に驚きを隠せずにいた。
「キ、キュベリー様……下の街区の煙が……多すぎませんか?」
魔導士の一人が、南の空を指差した。
ここから見ると、今や帝都の上空すべてが灰塵によって黒く覆われている。
「確かに……おかしい。それほど風も吹いていないのに」
ウィルドが人々の間を突っ切って、下の門へと向かう。魔導士たちもエレリアもそれに続いた。
青ざめた門番が開いた門の先には、認識していたよりひどい光景が広がっていた。
平民の街区では東西の端だけではなく、見える限りでもたくさんの場所から火の手が上がっていたのだ。明らかに生活圏の建物が焼かれている。
「なんで……なんでこんなことに」
切羽詰まった声で、ウィルドが呟いた。
エレリアはサッと魔導士たちを振り返った。
「お願いします! 行ってくださいませ! 早く!」
「は、はい……ではこの街区と手分けして」
「いいえ、全員で! あちらのほうが深刻です!」
「でっ、ですが——」
侯爵令嬢に詰め寄られても、魔導士たちはすぐには動けなかった。
火を消す魔法は下等魔法だが、あれだけ多くの火災を消火していたら、きっと平民の街区だけで魔力が尽きてしまう。貴族街区を後回しにした挙句に手が回らなくなったと露見した時、どんなお咎めを受けることか。
そこへカッカッと、荒々しい足音がそばまで寄ってきた。
「聞き捨てなりません、エレリア様! 平民の街区を優先させるのですか!? あなた様の独断で!?」
エレリアに食ってかかってきたのは、ニッキーだった。クリーズ家の屋敷はこちらのほうにあるため、心配して急いで帰ってきたのだろう。
ニッキーの後ろでは、やはり西側に屋敷を持ち、彼女と同じ意見らしき貴族たちが、まるでエレリアを包囲するように集まり始めている。彼らは伯爵家の中でも格の高いほうだった。
実はこの近くには、厳しく通行を管理されているが、帝都城前広場まで上れる細い階段が存在する。そして屋敷の二階相当の高さからは遠くに海が望め、中央通りの喧騒からも外れているこの一帯は、いわばこの街区の一等地なのだ。
「皆様。こちらの被害はまだ倉庫の区画だけ。どなた様かのお屋敷が燃えているわけではありませんわ。現場も点在していないのですから、人の手でも対応は可能です!」
「ですが、貴族家の大きな館に燃え移れば、一大事になります」
「我々には人手で火消ししろとおっしゃるのか」
「ここに比べて、平民街区は建物が密接しているのです! この間にも、被害は一層拡大しています!」
これほど多数の貴族を相手にしても、エレリアはまったく引かない。ウィルドでさえ見たことがないほど、彼女は激しい剣幕で訴えた。
「あなた方にはあの光景が見えないのですか!? 人が生きる区画が被害に遭っているのです! 何よりも大切なのは命でしょう! 人の命よりも、ただ貴族街区だからと誰もいない建物を優先するだなんて、あってはならないことです! こんな問答をする暇があるのなら、できることを始めてくださいませ!」
いつもは淑やかな侯爵令嬢が見せる迫力に、ニッキーたちはたじろぎ、反論の言葉も出なかった。
「——魔導士様? 魔導士様だ! みんな! 魔導士様がこんなに早く来てくれたぞ!」
門の向こう側で、火の魔導士の存在に気づいた一般の人々から、心の底からうれしそうな大歓声が上がる。次から次へと発生する火災によって、恐怖の只中にあった彼らには、火魔法の使い手は救世主のように感じられたのだ。
「ウィルド、あなたは同じことをイーリオのほうにも伝えて。そのあとは修練所へ行って、応援をお願いしてきてちょうだい。急いで!」
「わかった!」
城の裏にある魔導士を育てる修練所には、何人かは火魔法の講師と生徒がいるはずだ。きっと力になってくれる。
弟を送り出したエレリアは、躊躇う魔導士たちに門をくぐるよう促した。彼女に迷いはない。もしここにリューベルトがいたならば、同じようにするとわかっている。今度は平民の街区へ向かって、彼女は大きな声を張り上げた。
「皆様! 城の魔導士はすべてそちらに行っていただきますので、彼らをご案内くださいませ! できる方は彼らの支援を! それから子どもや弱き方々の避難のお手伝いを!」
さあ今度こそ行ってください、とエレリアは魔導士たちの背中を押して行かせた。彼らは平民出身だ。本音では早く救けに向かいたかったことだろう。
「くっ……もう、仕方がない……私たちはあれを消しに行こう」
「しかし……水桶はどこだ」
ニッキーの後方にいた貴族男性たちがやっと動き出そうとしたが、使用人に聞かなければ、自分の屋敷内の水桶の在り処もわからない有様なのだ。
今の今まで初期消火にも取りかかっていなかったせいで、倉庫周辺の火はどんどん大きくなっている。
この一番西側の区画に屋敷のある者以外は、すっかり姿がなくなっていた。少し中央寄りの屋敷では、煙や灰を避けるために固く戸締まりが為されている。中に家主がいるのか、東側へ避難したあとなのかもわからない。これでは、協力者を探して連れてくるには時間がかかるだろう。
ここにいる貴族が各々雇っている使用人を総出にしても、人手が足りるかどうか。
「とにかく……やるしかない。やってやろうではないか」
遅ればせながら、彼らも腹を決めて行動を開始した。高位の貴族であっても、騎士の鍛錬を欠かさない国だ。力や体力にそれなりの自負を持つ者たちである。
エレリアは西の奥を——大きな建物の向こうで揺れる姿を見せ始めた、赤い炎を睨みつけた。自分にできる最善のことは何かを考えていた。
平民の街区も貴族の街区も関係ない。人の命を守り、人の生活もできる限り守りたい。
「——皆様!」
エレリアはもう一度、平民の街区へ向けて声を上げた。
「もしお手隙の方がおられましたら、こちらにご助力をお願いいたします! 余っている水桶もお貸しいただきとうございます!」
彼女の声を聞いていた民は大勢いたが、皆一様に困惑していた。この緊急事態で門は開け放たれているが、普段は常時閉ざされていて、彼らがそこを通り抜けることはほぼないのだ。
「……でも、俺たち平民が、貴族街区に無断で入るのは……」
許されないことだった。平民にとってこの門の向こうは、異なる領域だった。
「確かに城壁で区切られておりますけれど、ここはひとつの都ですわ! 都を守るのは、都に住むすべての人間です! どうかお力添えを!」
反応は芳しいとはいえなかったが、訴えたいことは言い終えた。次にできることをするために、エレリアは火災現場へ急いだ。男性に比べたら微力でも、消火活動の人手がないよりはましなはずだ。
踵の高い不安定な靴を脱ぎ捨て、ふわりとしたドレスの裾を絞って結んだエレリアは、水路と現場の間にできつつある、水桶を受け渡す人間の鎖に加わった。男性が水を運び、女性は空の水桶を水路へ戻す列を作っている。
やはり圧倒的に人手が足りない。隣の人に桶を受け渡すまでに何歩も歩かなければならず、ひどく効率が悪い。
応援を探しに行くべきかとエレリアが迷っていると、すぐ隣に人が入ってきた。
「あなた様のお屋敷は、ここにないというのに……」
「——ニッキー様」
「誰よりも率先して、火消しに加わるなんて」
ニッキーも、ドレスを絞って靴を脱いでいた。彼女の母親らしき女性も同じように列に入ってきた。ふと周囲に目をやれば、使用人の平民階級ばかりだった空の水桶の列に、ドレス姿の女性が次々と参加し始めていた。
回ってくる桶を受け渡しながら、ニッキーは少し目を潤ませているようだった。
「私は……自分が情けなくなりました」
この時ニッキー・クリーズは、人生で一番の恥を感じていた。
彼女はエレリアと同じ年、同じ月の生まれであった。それを知ってから、幼心に密かなライバル心を抱いてきた。
父親同士が政敵となってからその意識は加速したが、本当は侯爵家で宰相の娘のエレリアが妬ましかった。没落してからも華を失わない姿が憎らしかった。そして、そんな感情を晒す自分の醜さに、気づきもしなかった。
たった今、エレリアの勇気と実行力に胸を打たれてしまい、ついに思い知らされた。悔しくも彼女と自分の差に納得したのだ。
かつて皇太子妃候補にまでなったのは、家柄のおかげではなく、彼女自身の輝きのためだったのだ、と。
「……ごめんなさい……エレリア様」
「……? 何への謝罪でしょうか、ニッキー様」
「それは……え……っと……」
結局自尊心が邪魔をし、そんな胸の内を口には出せないニッキーは、何でもありません、と必要以上に強い口調で言ってしまった。
「あなた様ではなく、私こそがここの住人だと……そう言いたかったのです」
「ええ。どうにかして消し止めましょう」
仏頂面のニッキーは目を合わせてくれないが、エレリアにはなぜか、先程までよりも彼女との距離感が近くに感じられていた。
しかし、なかなか火の勢いは弱まらない。肝心の水を運ぶ男性の人数が不足している。体格の良い女性がそちらに回ったが、そもそも水桶も足りないのだ。
ウィルドならば、言われたこと以上に、水の魔導士や人手や道具類も手配してくるだろう。火事の鎮火には火魔法が最適解だが、水を近くまで運びさえすれば、その水を魔法で操ってもらって効率良く火を弱めていくのも有効だ。
——もっと水路が近ければ、直接魔法で水を引っ張れるのでしょうけれど……ここでは遠すぎるわ。
水桶もどこかで滞って来なくなってしまい、手持ち無沙汰になってしまったエレリアは、何気なく水路を振り返った。
そしてうれしさに、思わず声を上げたのだった。
「……皆様!」
こちらへとやってくる人々で、にわかに通りが大賑わいになっていた。貴族も混ざっていたが、多くは下の街区の住人たちだった。へこんだり、縁が欠けたりした不格好な桶で水を汲み始め、次々と形成されていく新しい人間の鎖で、それを火災現場へと運び始めた。
「君たち……手伝いに来てくれたのか」
先ほどエレリアに抗議した貴族男性は、見も知らぬ男に一度休めと言われて作業から外された。彼はこれまで服をびしょびしょに濡らし、肩で息をしながら、水路の水を汲む係を担っていたところだった。
「力仕事なら俺たちも負けませんよ。火を消したら、ここに入ったこと、お咎め無しにしてくれますよね」
エレリアの訴えに応え、先頭を切って上がってきた平民男性が、にっと笑って水桶を水路に突っ込んだ。
貴族男性もにやりとしたが、さすがに腕も腰も疲れ、水路のほとりにがくんと尻をついた。
「当たり前だ。とても……助かるよ。ありがとう」
——その後も彼らは、ウィルドが手配した城からの応援人員も、すべて下の街区へと送り出した。
貴族と平民の共同手作業のみで、下級貴族の街区西側倉庫の火災は、あらかた鎮圧することに成功したのだった。




