一、幕切れのあと
急転直下のロニー・ルイガン侯爵の辞任は、城に動揺をもたらした。彼は十四年もの間、宰相の地位にいた。父親のバイディーから数えれば二十年以上、ルイガン侯爵家は政治家の頂点にあり続けていたのだ。
次の宰相選出が急務となったが、皇帝リミカの関心は反逆事件のほうに強く寄せられていた。兄の無傷をしっかり確認して安堵したあとに、犯人はルイガン家の騎士だったと聞かされたのだ。父ディーゼン暗殺の犯人と結び付けて考えても無理はない。
「もしかして昔、お兄様に怪しまれていたから、ルイガンが逆恨みしたの……? じゃあ本当にお父様とお母様を裏切った犯人だったということ? お兄様まで狙うだなんて、許せない!」
「おそれながら陛下……証拠もないままに、陛下が家臣をお裁きになるようなことは、あってはなりません。それは私刑になってしまいます。今回のことも、ルイガン卿は関わりを否定なさっておりました。調査をお待ちください」
司法官に諭されたリミカは、むうっと頬を膨らませた。
皇帝は無二の最高権力者だが、独裁者ではない。フェデルマは法治国家である。皇帝は国内の誰よりも、法を破ってはならない存在なのである。
リミカの指摘は当たっているのだが……と、リューベルトも内心ではもどかしく思っていた。しかし司法官の言うこともまた真実である。どちらの件に関してもルイガンが主犯である決定的な証拠はなく、家臣全員が納得するだけの根拠も、今はない。いや、父と母の件に関しては、きっとこの先も出てこないだろう。ルイガン本人に認めさせない限り。
下御の儀の事件の調査が始まると、リューベルトを呼び止めたカルツァ領の騎士の未亡人女性はすぐに見つかった。結論としては、彼女は何も知らなかった。カルツァ領の出身ですらない、旅商人の娘だった。
皇子様を見たくて広場へ行き、退場通路付近で儀式を待っていた彼女は、カルツァ領の騎士だという男から、頼みがあると声をかけられたのだという。
死んだ同僚の奥方が皇子に訴えたいことがあるが、奥方は足に不自由があり、人混みに入れない。代わりにこの場所で皇子を呼び止めてほしい。そうしたら自分が、奥方を前まで連れてくる、と。
懸命に頼み込まれ、カルツァ領への同情もあった彼女は引き受けてしまった。
聴取の中でジレイスの似顔絵を見せられた彼女は、この男だと答えた。
この旅商人女性に悪意はまったくなく、善意の行動のつもりだった。リューベルトの口添えで、彼女への罰はごく軽いもので終わった。
ルイガン家騎士団に立ち入った調査では、いなくなったジレイス以外の騎士が、ちょうど六名特定された。すぐに帝国騎士団が、門を封鎖して誰も出られなくなっていた帝都中の捜索を始めた。
ところがそれは、二日と経たないうちに、呆気ない幕切れを迎えることになった。
都の片隅で、全員遺体で発見されたのだ。自害とみられた。
これによって、彼らがリューベルトを襲撃した理由は永遠に不明となってしまった。同僚騎士や友人の、忠誠心が一際強い者たちだった、という証言から、皇子のルイガンを疑った発言を知り、過激な反応をしたのではないかという、こじつけのような結論に落ち着く見通しだ。
裏に徹して動いてくれたティノーラの活躍で、暗殺者とルイガン家との関わりを暴けたものの、当主ロニーが仕向けたことだったのかは追跡不能で終わった。
「ルイガン家騎士団員の忠誠のあり方を……見くびっていたかな」
リューベルトの私室で、シンザが不機嫌そうにどすんと椅子に腰を下ろした。相変わらず他に誰もいないと、イゼルにいる時と同じ振る舞いになる。
「当主を守るために、死んだのだろうな」
「そうだろう。尋問の中で主の命令だったと判断されてしまったら、当主様は終わりだからな」
暗殺が成功しても失敗しても、一人でも捕縛された時には、そうする覚悟だったのだろうか。
帝国騎士団とは直接皇家に忠誠を誓い、その命に従う。貴族家騎士団の場合は、当主に誓いを立てる。普通はその当主が皇家に仕えるから、彼らも国のために戦うのだ。
イゼルに保護された時の、セスの言葉を思い出す。自分が仕えるのは生涯グレッド家だけだと言った。彼は魔導士で、個人的にダイルを敬愛する人物だが、忠誠を尊ぶ騎士たちが主のためにその生を懸けることは、充分に想像ができた。
今まで、ロニー・ルイガンが敵なのか、ルイガン家までが敵なのか、はっきりしていなかった。
先代夫人の母親が二年前他界しているので、ルイガン侯爵家自体は当主ロニーしかいない。だが家人や騎士団が当主のもとに強く結束しているのなら、その全員を注視しなければならないということになる。
とはいえその点はリューベルトが動かずとも、以前キュベリー家にしたように、厳しい監視を置かれているはずだ。何しろ反逆の大罪人を七人も出した事実があるのだから。
「私たちは……ルイガンを追い詰め過ぎたのだろうか。あんなに他への被害を顧みず、一か八かの襲撃を決行させるほどに」
「お前に対して打つ手を与えず、権力をリミカ陛下にお戻しさせる。俺たちだってそれしか対抗策はなかったんだ。過ちはあいつのものだ。後味が悪いのはわかるが、もう……気に病むな」
「気に病んでいるというか……不安が拭えないんだ。宰相を辞すると言った時でさえ、あの男の目はいつもとほとんど変わらなかった。本当に今回の敗北で諦めたのか、お前に見分けがついたか?」
「……いや」
ふいっとリューベルトから顔をそらしたシンザは、自分の腕を揉むように掴んでいた。
「あいつは……怖いよな。今だから言うが、俺はあの男を前にしていると……初陣の時のような、拭いようのない本能的な緊張が、腹の底を這うんだよ」
「そなたほどの実戦経験者が、ルイガンにか?」
ルイガンも帝国騎士である。六年前少年だったリューベルトはあしらわれたが、あの男がシンザに勝る腕を持つとは思えない。
つい怪訝そうな顔になったリューベルトを、シンザは見てもいなかった。
「俺が一番苦手な種の人間なんだよ。実際の戦闘になったとして、一手先を取るための感情の動きを掴めない気がするんだ。打ち合うことなく一太刀でけりを付けたい相手だな」
この城に入った日の会議で、リューベルトとルイガンは対立関係になった。剣を交えはしないが、ある意味では常に戦闘状態だった。
でもあの会議以外のルイガンはいつも同じ顔、同じ態度を取っていた。誰かとの雑談に表情を動かしていても、それが内面から自然と浮かんだものに思えない。貴族の建前と本音というものは、大概は汲み取り合えるものだが、ルイガンだけは本当のところが読み取れない。
「ああ。その落ち着かない感覚は私にもわかる。そうか、そうだな……今安心できないのも、ルイガンという男の不気味さの名残り……なのかもな」
外を監視に囲まれた館で謹慎しながら、現在のルイガンは怒りの炎を燃やしているのか、失敗から望みを絶たれて抜け殻のようになっているのか、どちらなのだろうか。
フェデルマ帝国の新しい宰相が決まった。久しぶりの二公体制となった。
一人はフレイバル伯爵、イルゴの父親である。
もう一人は、キュベリー伯爵の復帰となった。
当然この起用には異論が出た。
宰相の任命権は皇帝にあるが、リミカは今まで政治に手を付けてこなかった。自分の国を任せて良いと思える、信頼できると言える政治家など心当たりもなかったのだ。
そこで彼女は、兄の目を頼ろうと考えた。お兄様が信用している人にしよう、と。
その頃ちょうどリューベルトを訪問してきたのが、北方の領地のため、帝都へ上るのが下御の儀のあとになってしまったフレイバル伯爵だ。イルゴも一緒だった。
以前追い出した侍従の姿に、リミカは初めは閉口した。でも彼のことも、ジグのことも誤解だったと知らされた。自分がリミカのそばにいられない代わりに、イルゴとジグに頼んでいたのだという兄の話に、リミカは自分のことが情けなくて、恥ずかしくなった。
同時に、兄がフレイバル家とカーダット家に、厚い信頼を寄せているのだとわかった。その当主二人に宰相をお願いしようと考えた。しかしカーダットには、政治経験が皆無ですのでと、丁重に辞退された。
残念だったが、リミカはすぐに思い出したのだ。政治経験が豊富で、絶対に信用できる人がいたことを。
「陛下。私の復帰は、波風を立ててしまうでしょう」
それに引退間近の身ですから、と付け加えたアダン・キュベリーも、指名を辞退しようとした。でもリミカは引き下がらなかった。お父様の右腕だった人に今の私も助けてほしい、と懇願した。
心を込めてお仕えした、友人として扱ってくださった主君ディーゼンの、大切な姫君の懸命な頼みだ。アダンには断り切れなかった。
フレイバルはともかく、アダン対して当然のように起きた旧派の反発に、リューベルトは対策を提案した。アダンが宰相を辞め、侯爵から伯爵に降格した根拠となったあの裁判の公平さを、ルイガンがいない今、もう一度検証するというものだ。
思った通り、当時居合わせた貴族の大半が、あの裁判は強硬で不自然であり、認められるべきではなかったと回答した。意外だったのは、アダンを糾弾したクリーズ伯爵当人が回答を保留したことだ。公正な裁判だったと即答しないということは、アダンの復帰を暗に容認したも同然になる。彼でさえも、もはやルイガンと足並みを揃えてはいなかったのだ。
形ばかりのやり直し裁判が執り行われ、ザディーノによる港襲撃の責任は、当時の宰相アダン・キュベリーには問えないとの判断が下された。
ついにアダンの名誉と侯爵位を取り戻す日が来てくれた。
彼の宰相就任は、帝都の民にも歓迎されていた。
「まさか父が一線に戻るなんて……全霊を注いで職務を全うすると言って、なんだか若返ったような顔つきなのですよ。本当に、ありがとう存じます、リミカ様。それから殿下に、裁判のやり直しをご提言いただいたおかげですわ」
「やめてくれ。そもそも六年前に私があの不当な裁判を正せていれば、あんなことにはならなかったんだ。今回のことも、キュベリーの人徳によるものだ」
「いいえ。殿下がきっかけを作ってくださったからですわ」
晴れて事前の許可申請なしで城に上がれるようになったエレリアは、リューベルトやリミカを毎日のように訪ねてきてくれる。
今日は一年で一番の見頃を迎えている、皇家の庭園の色とりどりの花々の間を巡っていた。
「お兄様、早くエレリアにもう一度婚約を申し込んだほうがいいわ! 誰かに先を越されてしまったら困るもの。私、お義姉様はエレリアがいいんだからね」
「リミカ……兄の結婚をなんだと思ってる」
白くて大きな愛犬ルーニーと駆け出しながら、リミカが声を立てて笑った。
ウィルドやイーリオとも会えるようになり、リミカには目に見えて良い変化があった。すっかり博識になった二人に影響されて、苦手な勉学科目に向き合うようになったし、必要以上にリューベルトに付いて回ることはぐんと減った。皇家の区画からほとんど出ない生活だったが、城内を回って家臣に声掛けをするようにもなった。
以前は礼儀教育通りの表情作りをしていたそうだが、年相応に明るく笑うようになったと、レナイ自身も表情を緩めながら話してくれた。
「そのうちね、お茶会も主催しようかと思っているの。その時はエレリアも来てね」
「はい。もちろん参加いたしますわ」
「お茶会を……。そういえば、リミカはまったく開いていないようだな」
母のレスカは、定期的に開催していたものだ。皇后は貴婦人方の社交界の頂点でもあるので、毎回招待客を吟味し、満遍なく声を掛けるようにしていたようだった。
未成年にだってそれなりの付き合いは必要だし、リミカは皇帝なのだから、年上の成人している貴族令嬢たちとも、早くから親睦を深めたほうがより良かっただろうに。
「うん、そうなの。全然開いてなかったわ。以前に何度かは、周りに決められた招待客で開催したのだけれど、……苦痛で」
ルーニーの頭を撫でながら、リミカの横顔は一瞬だけ曇ったように見えた。
「でも、もう一度やってみようと思えたの。皇帝には求められていることだから、いつまでも逃げ続けていてもいけないし……。シンザさんのご婚約者も帝都にご滞在なら、ぜひ招待したいわ」
ティノーラの代理でお礼を述べながら、シンザはなんだか安心して目を細めた。リミカの心が前向きに変わってきているのは、彼にとってもうれしく感じることだった。
「あっ、エレリア、見て! アカシャが満開になっているわ」
「まあ、きれいですね。黄色は以前からありましたけれど、橙色も植えたのですね」
リミカたちが先に行ったので、シンザはリューベルトの隣に並んだ。
「陛下は、いいお顔をなさっているな」
「ああ。リミカは良い方向に向かっている。そろそろ本題に入れるだろう。皇家の正念場は……まだこれからだからな」
フェデルマ帝国はまだ、平和ではない。




