十七、平民の街区の戦い
本人は隠そうとしていたため直接確認したことはなかったが、出会った直後からシンザは勘付いていた。リューベルトは火が苦手だということを。
野営で焚いた火を前にした時、慌てふためいたりはしなかった。しかしリューベルトは、焚き火からも、部屋を灯す蝋燭からも、常に一定以上の距離を保った。この六年間ずっとだ。彼が自分でランタンや燭台を持っているところを見たことはない。夜間のイゼル城の暗い廊下を一人移動するような時でも、灯りを持たずに歩いていた。
その忌避感はきっと海の塔の事件からなのだろう。
この傷を与えた人間が、今回の黒幕でもあるはずだった。もしも知った上で今回も火を使うことを選んだのなら、胸が悪くなる卑劣さだが、効果的な策ではあった。実際、民の避難を優先するリューベルトは逃げ遅れ、火に囲まれた結果身体が動かなくなってしまったのだから。
おまけに、比較的燃えにくい革製の長靴を履いていない、丈の長い礼装を身に着けたリューベルトが、あの場では一番火災に弱い服装をしていた。
騎士団員の皇家への固い忠誠心と、己を顧みない行動が、黒幕の計算を上回っただけだ。
少し焦げ臭い髪を、シンザはがしがしと手荒に掻いた。
——まさか、これほど……直接的に命を狙ってくるとは……
計算外はこちらもだった。見通しの甘さを悔やまずにはいられなかった。
第一に考えられたのは、リューベルトの事故死を狙ってくることだった。第一というより、ほとんどこれだと思っていた。だからグレッド家の騎士団員に、馬車が通る予定の道をあちこちから見守らせていた。裏で監視されていることを逆手に取って、強い警戒態勢を見せつけ、何もさせないつもりだった。
あとは会場で、恐喝などによって捨て駒にされた人間が現れないよう、シンザが見張っていた。そういう不審人物は、必ず挙動におかしな点が出る。見逃さずに対応する自信はあった。
唯一引っかかったのは、最後にリューベルトを呼び止めたカルツァ家騎士団員の未亡人女性だった。皇子を懸命に呼び止めたくせに、戸惑った顔で周囲を見回していた。本当に話したいことがあったのか疑わしい。ただし、あの女性から殺意や敵意は感じられなかった。
けれど彼女の行為によって、リューベルトは敵の弓隊が狙いを定めていた、あの場所に立ち止まってしまったわけだ。彼女を取り調べる必要はある。
道々に配備していた、グレッド家の騎士団員がシンザのもとに集まっていた。そのうち何人かは、帝国騎士団の暗殺者捜索の協力に向かった。
「城から魔導士も到着しました。広場の火災は、間もなく消し止められると思います」
そうか、と頷いたシンザはリューベルトを見やった。まだ立ち上がれる状態ではなさそうだ。本来の近衛、ジグが付き添っている。
「俺は殿下の代わりに、広場の鎮火を見届けてくる。少しの間、ここを頼む」
「はい。殿下の護衛はお任せを」
帝都の屋敷に常駐するグレッド家騎士団の中でも、彼らは精鋭たちだ。そして下御の儀の正当な護衛任務を給わっていない自分たちが、表立ってはいけないことも弁えている。彼らはさりげなく、入り組んだ路地の見張りに散った。
シンザは歩き出そうとしたが、裸足のままだった。しかしこんなに小さな路地まで、しっかりときれいにレンガが敷かれているので、素足で歩いても問題はなさそうだった。さすが帝国の中枢たる都である。
上級貴族家出身だと、平民の街区は馬車で大通りを通り過ぎるだけなので、シンザはこれまでこんなに細かい道を歩いたことはなかった。
火災現場は路地二つ分先である。たったそれだけなのに、ここからは見えない。火災特有の臭いが感じられるだけだ。馬車を所有する平民はほぼいないため、幅を取らずに造られた道と、道に迫って建っているニ階ないし三階建ての民家が密集していることによって、隣の通りの様子も窺い知ることができないのだ。
人口が多い平民の街区とは、大方はこういう造りなのだろう。こんな道が縦横に入り組んでいるとなると、暗殺者は逃げるのも隠れるのも難しくなかったはずだ。これほど大胆な手に打って出たのは、それを踏まえて逃げ切る手はずがあったからだろう。警備計画や騎士団員の配置を事前に把握していたとすれば、なおさら自信があったに違いない。
一人でも捕まえて自白を取れればと考えていたが、騎士たちは果たして捕縛に成功しているだろうか。
広場を焼いていた火災は、駆けつけた火の魔導士たちによって、外側から徐々に消されているところだった。風の魔導士は、煙や灰が街に広がらないように、空気の流れを操作している。
広場はもっとも大きな中心通りに面していたため、周囲の建物への飛び火は免れていた。一般の民やその生活に被害が及ばなかったのは、せめてもの救いである。シンザは少しほっとしていた。
リューベルトは無傷で助かったが、今回の事件はこちらの勝ちともいえない。
相手はこれほどに、なりふり構わない方法で皇子の殺害を企てたというのに、逃げ切られてこのまま何も証拠や手掛かりを掴めないのなら、むしろ負けのように感じるくらいだ。
「……頼む、捕まえてくれ」
シンザは近衛の役目で手一杯になってしまった。屋根の上の人影を、自分自身で追えていれば……どこまで逃げようと必ず捕まえてやったものを。
「頼む……ティノーラ」
「絶対に捕らえてみせる——!」
逃げる男の背中を追って、ティノーラは全力で屋根から屋根へと飛び移っていた。
リューベルトの下御の儀。
シンザは近衛として参加した。
グレッド家騎士団は「事故」が起きないよう牽制をした。
ティノーラは平民の振りをして、会場広場を遠巻きに見守っていた。
起きてしまった奇襲。シンザが発した捕縛指示に、ティノーラは帝国騎士団員の誰よりも先に動き出していた。
すぐあとに火矢が飛んでくるのが目に入り、広場で火の手が上がった。思わず戻りたくなって一度足が止まってしまった。混乱が加速し、助けを求める市民が、騎士団員たちに縋りつく様子が見えた。
今一番動けるのは自分のはずだ。シンザは無事に乗り切ると信じたティノーラは、赤い花の植木鉢を目指して、再び路地を走った。
ある建物の三階のバルコニーにそれを見つけた時、なぜシンザはここまで見えたのだろうと、緊迫感の中でも変な感心をしてしまった。
すぐに足掛かりを探し、目的の屋根の上へと、慎重に跳び上がっていった。
密集している建物同士、屋根の形や高さはまちまちになっている。それによって死角が多く、相手に先に発見されてしまうとかなり危険である。
いるのは数人の弓使いだと、ティノーラは思っていた。見張りを立てるほど組織立っているとは……思っていなかった。
「——!」
いけない、と悔やむと同時に、ティノーラは素早く身を躱した。命懸けの戦闘経験からくる本能だった。今まで身を潜めていたところには、見張りをしていたらしい男が振りかぶった剣が突き立った。
ティノーラは腹を括って剣を抜いた。
「そこまでよ、捕まってもらうわ!」
相手が何人いるのかはっきりしない。できることならば本当は、こんなに早く見つかりたくはなかった。
燃え上がる広場に向けて、追い打ちをかけるために大弓を引いていた男たちが、遅れて異変に気づき始める。
「チッ、騎士団に別働がいたのか!?」
「あら、そう見える? 光栄だけど、違うわよ!」
複数人を相手にするのに、一瞬でも無駄にしてはいられない。今この男たちは広場の襲撃のためにそれぞれの持ち場にいるが、時間をかければ、ティノーラは彼らに囲まれて不利になる。手近な相手から潰していきたい。
剣を振り下ろしてきたこの見張りの男が、指揮官に当たる人物だと思われる。調度良いので標的をこの男に絞り、ティノーラは迷いなく攻撃に出た。
遠くまで全員をはっきり確認できたわけではないが、男たちは仮面と外套を被っていた。こんな異様な身なりの相手は初めてで不気味だが、殺気溢れる戦場の相手を思えば、恐怖心など特に湧かない。
この男は、女性騎士とは訓練でも手合わせをしたことがないのかもしれない。それとも外見で判断して舐めていたのか。体格の劣るティノーラの攻撃に対して、すべて後手に回っている。この少しの打ち合いでも見抜けた。シンザやノルドレンの反応速度に比べたら、天と地の差がある相手だった。
防戦一方になった男は、ティノーラの力一杯の薙ぎ払いを剣の中央部で受けた。腕力の差は否めない。しかし受け止め切ったことで生まれた、一瞬の油断は見逃さない。ティノーラはすかさず体勢を変えて柄から左手を離し、大きく右足を踏み込む。もっとも得意な突き攻撃である。
ぐっと伸ばした右手の細剣が、火花さえ散らして相手の刀身を滑る。その切っ先が、剣を握る男の右肩に深く食い込み、背中側まで突き抜けた。
男が短く呻いた。ガランと剣が落ちる。
互いに真剣を抜いたのだ。戦いに容赦はない。ただしティノーラのほうには、この男の命を奪う考えはなかった。だから首や心臓などの急所ではなく、肩を狙った。これでもう、まともに剣は振れないはずだ。無力化して捕まえて、リューベルトを襲った理由を白状してもらう。
少しでも動きを止めていると、彼の仲間に弓で狙い撃ちにされてしまう。ティノーラは遠慮なく男の肩から剣を引き抜いた。再び呻き声を上げ、男はがくりと膝を折った。
落ちていた彼の剣を手に取り、ティノーラは尖った屋根の陰に入った。
——さあ、次からよ。
どうやって、どこから、誰に狙いをつけるか。
一人目は状況を把握される前に勢いで押し切ったが、次は出ていった瞬間に、全員が同時にティノーラを狙うだろう。向かいの建物の屋上にだっているはずだ。誰かと剣を交えている最中に、全方向からの弓攻撃を警戒するのは不可能だ。
いつもなら、シンザが後ろにいる。安心して戦えるのに。
——いいえ、何を考えてるの。シンザも戦ってる。これは同じ戦場なのよ。
ティノーラはじりっと動き、屋根の端から下を見下ろした。
一旦ここから下りて別方向からそっと上り、できる限り一対一になるように背後から仕掛ける。そんな作戦を考えていた。
「撤退! 騎士団が来る! 撤退しろ!」
突然の怒鳴るような命令に、ティノーラはびっくりして思わず振り返った。広場に近い方面から発せられたようだった。
「撤退……? ちょっと待って、だめよ!」
陰から顔を出したティノーラが見たのは、彼女には目もくれず、それぞれ隣の屋根へ飛び移って一目散に逃げ出す、五人の男の後ろ姿だった。通りを挟んだ向こうの建物からも、二人の男が逃げていくのが見える。
仮面も外套も着けたままのようだが、どこかの通りに下りてそれを脱ぎ捨て、街の景色に紛れられたら、もう捜しようがなくなってしまう。
こんなに素早く撤退を決め、仲間の声ひとつで四方へ逃走するとは、予想以上に潔い連中だった。予め取り決められていたのだろう。
乱入者の出現や、たかが女一人に仲間が負傷するという波乱にも、逆上しない、動じない……これは、まとまっているなんて程度ではない、むしろ組織立っている。
「待って……! 待ちなさいっ!」
ティノーラは、邪魔になる男の剣をその場に突き刺して手放すと、自分の剣は握ったまま、駆け出した。
一人でも、誰か一人だけでも捕まえなくては。
もし本当に組織なら、この男たちはただの雇われではないかもしれない。お金のためならどんな仕事でもする、裏社会の人間ではないのかもしれない。
むしろ対極的な——たとえば騎士の忠誠のため——リューベルトに消えてほしい誰かへの忠義を尽くすために、皇家に戦いを挑んでいるつもりなのかもしれない。
追いつけそうなのは、やはり負傷させた男だろう。少しくらい見失っても、怪我を目印にできる。
「絶対に捕らえてみせる——!」
肩を押さえて逃げる男の背中を追って、ティノーラは全力で屋根から屋根へと飛び移った。
いくらティノーラの剣が細くても、男の肩の出血はひどいはずだ。実際屋根には、ところどころに赤く丸い染みが落ちている。
けれど男は速度を落とすことなく、ティノーラの前を走っている。
——ああ、もう、失敗だわ! 肩だけじゃなくて脚の腱も切ってやれば良かった……!
あの時、男の仲間が引く弓が、ティノーラの背を今にも射抜かんとしているのがわかっていた。退避を優先してしまったが、細剣を引き抜いて物陰に入る間に、片脚だけでも動かせなくしてやっておけば、逃げられずに済んだのに。
屋根の上という慣れない場所を疾走しながら、ティノーラは悔しさに壁でも叩きたい気分だった。
彼女の追跡を振り切ろうと、男は右に左に向きを変えて屋根を渡る。この状況を帝国騎士団に見つけられたら、いよいよ逃げ道がなくなるのだから、彼は今のうちにどうにかしようと必死のはずだ。
時々姿が見えなくなるが、完全に身を隠す場所はなく、結局男は走って逃げ続けている。回り回って、もとの場所に近いところまで立ち返っていた。
黒い煙がもくもくと昇っているのが、大きく視界に入ってくる。まだ広場の火は消えていないのか。
——シンザ……殿下……、ご無事よね……?
不安になりかけたティノーラは、唇を噛みしめてそれを払い除けた。
突然、男が前のめりになるほど急激に減速し、真横へと逃走方向を変えた。ティノーラに間合いを詰められてしまう失敗にしか見えないが、追跡を撒く何かの策だろうか。そう勘ぐったが、すぐに理由がわかった。正面からも、彼にとっての敵が現れたからだったのだ。
「レマ!」
「お嬢様! この男ですね!」
下御の儀の折、レマはティノーラと反対の、入場通路側から見守っていた。事が起きてしまった時、すぐにティノーラと合流しようとしたのだが、避難する人々に巻き込まれ、遅れを取ってしまったのだった。
屋根に突き立つ抜き身の剣を下から見つけ、ここで何か起きていると思い、急いで上ってきたレマは、偶然にも男にかなり接近していた。自分の出現に一瞬足を止めて直角に曲がった仮面の男に、懸命に追いすがった。はためく外套にもうすぐ指が届く。全力で逃げようとする主人の敵に向かって、レマは飛び掛かった。
脚を掴まれた男は、傾斜のある屋根の上で豪快に転倒した。肩の出血と、ティノーラに追い回された疲労のせいだったのだろう。手が前に出なかった彼は、頭さえも防御することができず、側頭部をひどく打ち付けて失神したようだった。
男の身体は屋根の傾斜を転がり始めた。相手が気を失ったと気づかずに、脚にしがみつき続けるレマとともに。
「レマ、危ない!」
屋根の天辺を蹴ったティノーラは、傾斜の下方へ跳んだ。軒へと落ちていく二人の動きを見極め、逆手に持ち替えた細剣を躊躇なく男の頭のすぐ横に突き立てる。転がる男の胴体に、外套はすっかり巻き付いてしまっていたが、被っていたフードだけは逆で、髪からずり落ちていた。剣はフードと屋根を縫い取り、男の落下は止まった。
だが脚を掴んでいたレマは別だった。男の頭部が固定されても、身体の下半分はすぐに止まらない。レマの脚が、勢い良く軒からはみ出した。
「だめーッ!」
ティノーラは無我夢中でレマにしがみついた。必死になりすぎて、彼女と一緒に飛んだような気がした。
恐る恐る目を開けた時には、二人とも半身を空中に投げ出している状態だった。三階建ての建物の下の小さな通りには、火事で混乱する人々が大騒ぎで右往左往している。二人がここから転落していたら、あの人たちを巻き込んで石畳に叩きつけられ、大惨事になっていたかもしれない。
「お、お嬢様……ありがとうございます」
「いいえ……早く、上がりましょう……」
二人は慎重に動いて、屋根に座り込んだ。
レマはティノーラを見て、あっと声を上げた。ティノーラの右手から袖までが血で汚れていたのだ。
「お嬢様、お怪我を!?」
「えっ? ああ、違うわ、大丈夫。これはこの人の返り血よ。怪我はしてない。……やだ、あなたこそ血が出ているじゃないの!」
「あ……はい、踵が当たってしまって。これくらい平気です」
「平気って言ったって……」
ティノーラはハンカチを出し、血の滲むレマの口元を拭った。唇の内側が切れているようだ。
レマはお礼を言ってハンカチを受け取った。男の靴が当たった顎骨にも少し痛みを覚えていたのだが、走っている人間の脚に飛びついたのだから、踵で蹴られるくらいは彼女の想定内だった。
「お嬢様にお怪我がなくて何よりです。旦那様とシンザ様がお嘆きになりますから」
「あのね、私だってあなたと同じ帝国騎士なのよ。戦場で負う怪我くらい、いつでも覚悟しているわ」
「ふふふ、そうですけれど」
唇の血を押さえながら、レマは微笑んだ。もしティノーラが負傷していたら、ノルドレンとシンザがひどく悲しむのは本当だと思っていた。
「それよりも、お嬢様。今はこの人ですよ」
「ええ、そうね。捕まえたわ」
ティノーラは暗殺者が被る仮面に手をかけた。薄い金属製の無機質な表情の下から現れたのは、髪は短くきれいに刈り込まれ、ガレフよりいくつか年上に見える男の顔だった。




