十六、襲撃
近衛騎士シンザは、護衛対象を背にして立ちはだかった。本来の近衛用ではない、一般より大きな自分の剣を構えている。リューベルトのことは後ろ手に肩を押さえつけて低い姿勢にさせ、そのままで観衆からじりじりと距離を取っていく。
民が巻き込まれて怪我をすることを、この皇子は絶対に許容しない。また、ここではシンザ自身も剣を振りにくいのだ。
そんな彼に向かって、次の矢が風を切る。二本がほぼ同時であったが、シンザはどちらも叩き落とした。
初めよりも多くの人がその様子を目の当たりにし、悲鳴が大きくなったことで、会場中に混乱が撒き散らされた。何も見えていない後方の人々が、何が起きたのかと身を乗り出し、前列にいる子どもや女性たちがその圧力に恐怖を覚え、また別の悲鳴や泣き声が上がる。
「——だめだ! みな下がってくれ! 危険だから私から離れるんだ!!」
リューベルトが大声で呼びかけても、まだ何もわかっていない観衆は面食らうばかりだった。焦りともどかしさに、彼は標的にされている身でありながら立ち上がってしまった。
「みな、今すぐに避難を!!」
「馬鹿野郎! 自分の身を守れ!」
押さえていた手をすり抜けられたシンザは、背中に装備していた盾を素早く外すと、矢が来る方向から顔を動かすことなく、丸腰であるリューベルトの手にそれを押し付けた。
この会場に集まっているほとんどの人が、ここで起きていることをまだ把握できていない。急激に伝染するのは得体のしれない不安だけで、何だ、どうしたんだ、というざわめきが、状況をわかっている人の声をかき消してしまう。
大混乱の中も、矢は次々と襲い来る。弾いた矢が観衆の方向へ飛ばないよう気を遣うのも難しいが、シンザは見事にやってのけていた。
ロープの前で警備をしていた騎士団員が大きく腕を広げ、人々を庇うように、会場の外へと後退を促している。
ここが何かしらの緊急事態の現場になっていることが、ようやく観衆たちに知れ渡っていく。
「あの赤い花の植木鉢のある家と、その向かいの建物の屋根からだ! 捕らえろ!」
矢の出処と思しきところはかなり遠くの建物だったが、シンザだけがいくつかの人影を認めることができていた。彼が指示した建物へ、別の騎士団員たちが走っていく。
いつの間にかリューベルトや貴族たちのそばで、騎士たちが守りの態勢を整え始めていた。
「敵はどこに何人いるかわからない。盾で殿下をお隠ししろ」
これまで矢が飛んできた西方向は、シンザが引き続き受け切るつもりだが、当然他の全方向も疎かにできない。
民の避難が開始したことで、リューベルトたちは広場に取り残される形となっていた。
「ここにいてはどこからでも狙われる。このまま殿下を盾でお守りしながら、演壇後ろの壁まで移動する」
「はい!」
シンザは帝国騎士団員ですらないが、実戦経験が豊富な彼は自然と騎士たちに指示を出していた。
本当はすぐにでも路地などにリューベルトを隠したいのだが、会場外にまで殺到していた人々の避難は、まだしばらく終わらない。彼らのそばに逃げることは、リューベルト自身が望まないだろう。
「——来るぞ!」
シンザが場所を特定していたことで、遠くの屋根の上から何本もの矢が連続で放たれるのが、誰にもはっきりとわかった。
だがそれらは、これまでと違って、狙いすまして射ったものとは思えない緩い軌道を描いている。その上どれもこれもが、シンザたちが剣も盾も振る必要のないところへと逸れていった。
リューベルトを移動させまいとしているかのように、まるで包囲するかのように、無人となった会場中心部の地面に、無作為に矢が突き刺さっていく。
会場外を担当していた騎士たちが応援に駆けつけ、そのうちの一人が、ふと不審に思って立ち止まり、矢を引き抜いた。
矢に付いていた何かがするりと落ちた。最初は濡れた布切れに見えた。よく見ればそれは、括り付けていた紐が千切れた、もとは袋状だったと思われる薄い皮布だった。
同じ時、シンザも気づいていた。適当に放たれているとしか思えない大量の矢のすべてには、矢羽の他に何かが括り付けられている。それが地面に突き立った衝撃で弾け、液体を撒いていた。
「油だ!!」
シンザたちは、状況を悟った。
「走れ!!」
叫んだシンザの目には、一直線に向かい来る複数の火矢が映った。撤退は間に合わなかった。
もしもこの会場に、他にも細工が為されているのだとしたら——
一本の矢は、近衛用に作られた鞘で受け止めた。
一本の矢は、素手で矢羽を掴み、止めた。
離れたところの矢は、どうしようもなかった。
ボッと大きな音がした。前と左に、篝火が焚かれたように、突如人の顔の高さまで届くほどの火の手が上がる。
盾を構えた護衛たちに囲まれて、周囲がよくわからなかったリューベルトの目にも、それは入ってきた。彼は息を呑んだ。
最初に引火した複数の箇所から、異常な速さで火が広がっていく。
リューベルトは思わずルイガンがいた方向を振り返ったが、もうそちら側にも火矢が落ちて燃え上がり、見届け人たちが座っていた場所はよく見えなくなっていた。演壇が残っているのはわかる。木製の演壇よりも、砂利の敷き詰められた広場のほうが火で包まれていた。細かな玉砂利の下にも何か仕込まれていたのだ。
動く人影がないということは、ルイガンや他の貴族たちは警護の騎士にどこかへ誘導されたのだろう。
広場の真ん中で孤立状態のリューベルトたちだけが、炎に取り囲まれてしまっていた。
——ここまで、するのか……?
リューベルトの胸に、怒りと悔しさが突き上がる。
矢で狙われるのは、まだ理解できる。でもここには、あんなに大勢の人が集まっていたというのに。もし市民の避難が遅れたならば、火に巻かれていただろう。無関係の人間を巻き込むことを、敵はなぜ考慮していないのか。
赦せない。
そう強く感じるのに、リューベルトの脚には……手にも、力が入らなかった。震えている。呼吸がひどく乱れている。これは煙のせいなのか。
それとも、恐怖か。
眼前の世界を覆いつくす、揺らめく赤色。急激に迫る、苛烈な熱さ。
同じだ——そう感じてしまったリューベルトの意識は、過去の海の塔へ連れ戻された。
愛する妻に精一杯手を伸ばし、目を見開たままで倒れている父と、青く変わった唇を苦しそうに歪め、髪を振り乱して横たわっている母。
少年のリューベルトは左手で父の、右手で母の腕を掴み、バルコニーへ逃げようとしていた。
「うわあっ」
舞う火の粉によって服に引火したのか、自分の身体から煙が立つ。リューベルトは焦って素手で叩いて消し止めた。もう一度両親の腕を取って、バルコニーを顧みた。
父と母の身体を包む優美な衣服を、荒ぶる炎の手が撫でる。
大きく天井が軋んだ。それを皮切りに、左右や正面の壁が次々と音を立てて、ひび割れ始める。
「ああっ――」
その時……リューベルトは右の手に、小さな反応を感じたような気がした。
そちらに目をやると、母のレスカが頭部を動かしたように見えた。
『リュ……』
天井が割れた。轟音を立てて、目の前の部屋が消える。
その直前にリューベルトは、バルコニーへ転がり出ることで崩落から免れた。
「母上っ……!」
右手を伸ばしながら、しかしそこには戻れない。
リューベルトの目の前を、大量の瓦礫が落ちていく。
「母上! 父上!」
凄まじい音を立てて内部崩壊していく海の塔を、彼は為すすべもなく見ていた。
——違う。
これは、違う。違う。
ここは海の塔じゃない。リューベルトの瞳は、こんな光景は見ていない。
見ていないはずなのに、今それを見ているような感覚に襲われる。
頭が痺れる。現実と幻影の境が、焼け落ちる。自分の叫び声を聞いたような気がする。
けれど——思考が、回らない。
ガラン、と手から盾が落ちたが、その感触もその音も、意識に入ってこなかった。
「ご無礼を!」
騎士の誰かの声。
視界一面の赤に、黒い幕が下りた。
「俺はいい! 早く行け!」
シンザの声だ。いつもより少し苦しそうな声だ。
そうだ。自分が一刻も早く避難しなければ、シンザも騎士団員も避難できない。煙も吸い続けてしまう。
早く、動かなければ——
次の瞬間、リューベルトの身体が倒された。
「なんだ……っ」
真っ暗で何も見えず、上下もわからなくなっていたが、脚をまとめて掴まれている感覚でようやく理解した。リューベルトは二人の人間に、抱えて持ち上げられているのだ。
「退避いたします!」
頭の近くで先程と同じ騎士の声がした途端、激しい揺れが始まり、何も声を上げられなくなった。
間近で上がる、複数の人間の雄叫び。全身に焼けるような熱さ。より激しくなる揺れ。
すべて、ごく短い間だった。でも、ひどく長い時間だった。
揺れ方がゆっくりになると、砂利ではない地面に身体を横たえられたのが、感触でわかった。ぱっと目の前の暗闇が消え去る。リューベルトを包んでいた、何枚もの騎士団員のマントが取り払われたのだ。
「殿下!!」
「……ジグ……?」
膝をついたジグが見下ろしていた。カーダット家が帝都に到着したことは、昨夜ティノーラから聞いたばかりだった。
被せられていた何枚もの丈夫なマントのおかげで、リューベルトの肌も服も少しも火に焼かれていないことを確認すると、ジグは安堵に震えていた。
「よくご無事で……! 私も、もっと、おそばにお仕えできていれば……!」
リミカに遠ざけられた立場の彼には、下御の儀の警備に加わることなどできなかったことだろう。それでも心配して、できる限り近くまで来てくれていたのだ。
「早く! 早く火を消せ!」
「水はないか!?」
「手が空いている奴は手伝ってくれ!」
すぐ近くで騒ぎが起きている。はっと厳しい表情に戻ったジグはリューベルトに一礼し、そちらへ向かった。
過去の幻覚をまだ振り切れていないリューベルトは、起き上がることもできない状態だった。意識が肉体に戻れず、綿毛のように空中を舞っているような心地だ。その中でたった今経験した記憶が、途切れ途切れに浮かんでは消えていく。
——火を……消さなくて……は……
重たい身体をどうにか起こした時、慄然とした。
すぐそこで人が——倒れた騎士から火が上がっている。広場でリューベルトを守りに駆けつけてきてくれた者たちだ。彼らは歯を食いしばって悲鳴さえ上げず、仲間が火を消してくれることを信じて耐え続けている。騎士仲間が自分のマントで火を叩き、どうにか消そうとするものの、特に脚の火がなかなか消えない。
焦る騎士団員に分け入ったジグが、短剣を出した。火を纏う騎士の長靴を怯むことなく掴み、それを短剣で瞬く間に切り裂いて脱がせた。下から現れた足は赤くただれていたが、騎士の身体からはようやく火が消えた。
それに倣って他の騎士たちも同じ処置をされ、ついに全員が炎から解放された。
「お前は……ジグ……なのか? 殿下は……」
「ああ、大丈夫だ。ご無事だ。お怪我もない」
「……良かった……」
ジグは騎士団出身の近衛だったため、城や皇家の警備を担当する団員とは顔馴染みである。火傷を負った騎士はジグの言葉に安心して、倒れたまま目を閉じた。
「……なぜだ……なぜ」
リューベルトの心臓は破裂しそうで、息も切れ切れで、彼らを手助けにも行けなかった。
なぜ彼らはこんな目に遭い、リューベルトは無事なのか。
彼らが自分たちのマントをすべて差し出して、守ってくれたから。自らの身体を盾にするように、リューベルトを抱えてくれたから。油か火薬でも仕込まれていたらしい石の上を、炎の中を、構わず歩いてくれたから。
リューベルト一人だけが、あそこから無傷で抜け出せた。
「おい。自分のせいだなんて考えるなよ」
黒く焦げた近衛のマントを手に持ったシンザが、いつの間にか横に立っていた。
「シンザ……そなたは大丈夫なのか」
「大丈夫だ。俺もこれを被っていたし、自分一人なら、石をあまり踏まないよう跳べたしな」
そうは言っても、シンザも無傷では済んでいなかった。
広場中が燃えてからも、なおも飛んできた矢に対応し、一番最後まで残っていた彼の制服はひどい汚れようだし、いくらか顔や手の甲に火傷もある。髪の先も少し焦げて見える。シンザもすでに長靴を脱いでいたが、幸いなことにその素足に異常はなかった。
「彼らも大丈夫だよ。呼吸はできている様子だし、靴と皮膚も癒着していなかった。二度と立てなくなるほどではないだろう。きっと騎士団に復帰できるさ」
「……」
「リューベルト。知っているだろうが、帝国騎士たる者が任務に就く時には、いつでも命を懸けて全うする覚悟を決めているんだ。彼らを憐れむのは侮辱行為だ。称えてやれ」
「……わかって……いる。私がすべきなのは……これを引き起こした者たちを……特定し、裁かせることだ」
「ああ……そうだよ」
まだ動悸が収まらず肩で息をしているリューベルトは、焦点の定まらない目を通りに向けた。
平民街区の石畳の道路の真ん中に転がる、何足もの裂けた長靴からは、まだ小さな火が立ち昇っていた。




