十五、成人儀礼
建国から百年ほどのフェデルマ帝国の皇家では、いくつかの伝統的な行事がある。そのほとんどが、初代皇帝が遺した足跡に由来する。下御の儀もまたそうだった。彼が子どもたちを平民の街区にて馬車から降ろし、直接交流する機会を持たせたことが始まりだという。
会場となるのは、西側街区の中心地にある大きな広場である。年に数回ある大市や季節の祭祀、時には演説などにも使われるが、今日は帝国騎士団員が警備に当たる中、老人から子どもまであらゆる層の一般市民で大混雑となっていた。
カルツァ領の一件以来、帝都の民でも現皇帝に対する気持ちに変化が起き始めていたが、今回お目見えするのは、六年前に事故死と断定されながら、ご存命であったことが発表されたばかりの兄皇子である。ひと目くらいと興味を抱くのは、皇子様の姿を見てみたい若い女性だけではなかった。
「会場担当からの報告では、人でごった返しているそうだ。俺はすぐ後ろに付くが、お前も一人ひとりに注意しろよ」
「民を信用するなと言いたいのか? 近衛としては忠実だが、ずいぶんと冷たいことを言う」
「真面目に聞け。冗談で言っているんじゃない。ルイガンはいつも平静を装っているが、徐々に権力を削がれていく恐怖に、焦りも忍耐も限界が近いはずだ」
リミカは会議にも出席するようになった。何もしない皇帝ではなくなってきたことで、ルイガンに集中していた力は振り分けられつつある。それに伴い、身の振り方を考え直している貴族も増えてきた。旧派中心のルイガンの取り巻きさえ、明らかに結束が緩み始めた。この急激な変化をもたらしたリューベルトへの怒りは、ただならぬものだろう。
今日は比較的心配の少ない皇家専有区画どころか、外に出てきているのだ。思いがけない何かが起こる可能性は跳ね上がる。
「ああ、ちゃんとわかっているよ。そなたの腕も信頼している」
人の心配ばかりするシンザに、リューベルトはあえて気軽な雰囲気で笑ってみせた。
二人が乗る馬車の窓には、白いカーテンが下ろされている。外は見えないが、カーテン越しに降り注いでいた明るい陽光が途絶え、蹄鉄と車輪の音が反響しているのが聞こえる。すぐに明るくなり、耳に響いた音も小さくなった。
街区間の城壁門をくぐり、平民の街区に入ったようだ。
「ルイガンも来ているんだよな」
「宰相以外にも数名、有力な貴族が見届ける。もともとは成人した皇子皇女の、初の公務だからな」
本当ならば皇帝もこの馬車に乗って、子どもを会場に送り出して様子を見守る。しかし今回の場合は、リミカは妹で未成年のため、同行してきていない。城内のほうが安全だろうから、それで良かったと思う。
馬車が速度を落とした。会場に近付いたのだろう。それとほぼ同時に、大きな歓声が馬車を包み込んだ。
シンザが少しだけカーテンをめくって外を確認し、サッと元に戻した。会場に入れなかったのか、すぐそこの道端にも人が溢れていたのだ。
「想像以上にすごい人数だ。大人気だぞ、お前」
「……いいや、私ではないよ」
顔には出さなかったが、リューベルトも驚かされていた。本当のところは、皇家非難の罵声を浴びるかもしれないとさえ思っていたから。
「この歓迎は、過去の皇家……特に父上の功績に寄せられたものだろう」
リューベルトは歴代皇家の威光を着ているだけだ。彼はまだ何も成していないのだ。国のためにと身を切る思いで決断したつもりだったことも、実を結ばなかったのだから。
車輪が止まり、カーテンに御者の影が映る。
「殿下、到着いたしました」
「ああ。ご苦労」
馬車の扉が外へ開いた。窓越しとは比べ物にならない歓声の大きさに、背中がぞくぞくとし、震えそうになる。
「皇子様ー!」
「殿下ぁ!」
ほとんどは女性と子どもの歓声だが、リューベルトが馬車の外へ姿を現すと「おお!」と低音のどよめきも起こった。
「俺は模擬戦大会に出た時に、お会いしたことがあるんだ! 間違いなくあの時の皇子様だよ!」
まだ若そうな男の興奮した声が、リューベルトとシンザの耳に入ってきた。
「会ったことがあるって、お前、二回戦負けだっただろうが」
「皇家の方は一回戦から全試合観てたんだよ。それに俺が負けた相手は、優勝したあのグレッド侯爵様なんだ。ただの二回戦負けじゃない!」
「また言ってらあ」
ガレフに敗戦したという男は、なぜか胸を張っていた。最強の騎士と実際に対戦できたことだけで、彼の中では良い思い出なのだろう。
それはともかく、高い位置にある席から全試合を観戦していたリューベルトに対しても「お会いしたことがある」とは、さすがに誇張表現だと思うが、それだけ皇家の人間の姿を見たことは、特別な出来事だったということだろうか。
リューベルトが少年期に教え込まれた微笑みを作り、観衆に向かって手のひらを挙げると、彼らはさらに大きな歓声に拍手を加えて応える。
自分に向けられる数え切れないほどの笑顔に、今度こそ本当にリューベルトの身体の内側が震えた。
本当は、自分が今浮かべている、この見せるためだけの笑顔が苦手だった。年齢や性別を問わず、大部分の人間が好意的に捉える笑顔ですと、鏡の前で練習させられたものだ。偽物の笑顔じゃないかと、内心では反抗さえ覚えていた。
けれど、今になって理解した。皇家とは、国家をまとめるための偶像としての役割もある。人の心を掴み、拠り所とならなくてはならないのだ。
帝国民一人ひとりと言葉を交わすことは不可能である。真に求められるのは、民のための政策を実行することだが、度量の大きさや人間的魅力といったものを演出することは、国を預かる君主の一族には必要不可欠なことだったのだ。
「殿下! おめでとうございます!」
「生きていてくださってうれしいです!」
「ご帰還ありがとうございます、殿下!」
詳しいことは発表できていないというのに、六年間消えていた皇子をこれほど歓迎してくれるとは思っていなかった。
フェデルマの人々にとって皇家という存在は、まだこんなにも大きなものなのだ。
彼らをこれ以上——決して裏切ってはならない。
リューベルトは、配置された騎士団員が守っている、ピンと張られた境界のロープの向こうにいる観衆たちに近付いていった。
「——おい、……殿下」
戸惑うシンザの潜めた声が追ってくる。
本来は馬車を降りたところから、設置された絨毯の通路をまっすぐに歩き、演壇上で祝辞を受け取り、短く感謝の演説を披露するだけの儀式である。
だが初代皇帝は、民と子どもたちを触れ合わせたとの話だから、少しくらい直接対話しても良いはずだ。
「ごきげんよう、皆様」
最前列にいた子どもたちの数名が、よくわからない小さな悲鳴を上げ、頬を赤くして固まってしまった。兄妹というよりは友達同士で集まって見に来ていたように見える。その中で一番背の高い少女が、年上の責任感からか「ごきげんよう、殿下」と返事を絞り出した。
すぐ後ろにいた父親や母親らしき人たちが、まるで取り押さえるように、それぞれの子どもたちの肩を後ろから抱き止める。
「も、申し訳ありません。娘たちは緊張していて」
「ご無礼をしてしまい……」
「いいえ、驚かせてしまいましたか」
リューベルトはにこりと笑った。これは自然にこぼれたものだった。
「皆様にお集まりいただき、うれしく思っています。きみも、来てくれてありがとう」
抱き上げた父親の首にしがみつきながら、こちらをじっと見ている一番小さな男の子に、リューベルトは優しく微笑みかけた。怖がらせてしまったのなら悪いことをしたなと思っていたが、彼はなんだか真剣な顔で、うん、と頷いてくれた。
真横で見ていた警備の騎士団員を少々戸惑わせたが、見届け人の貴族たちにも注意されなかったので、その後もリューベルトは絨毯から外れた玉砂利の上を歩きながら、何人かと言葉を交わして歩いた。
馬車の中で注意しろと言われたことを忘れてはいない。騎士団員の立ち位置は意識しているし、避けられないほど一瞬で身体に触れられてしまうところまでは、接近しないようにしている。
それに、すぐ後ろにシンザの気配を感じる。予定にない行動に呆れられているかもしれないが、背中は心配いらないだろう。
「殿下。ここはご退場の通路です」
騎士団員に指摘され、リューベルトは会場の反対側まで来てしまっていたことに気がついた。
そろそろ登壇し、肝心の儀式を済ませてしまおうと考えた、その時だった。
「あ、あのっ——殿下……!」
退場通路のそばにいた女性が、声を張り上げた。騎士が押しとどめようとしていたが、女性は必死の面持ちでリューベルトを見つめていた。
「どうなさいましたか、ご婦人」
「私はっ……私は、カルツァ領で戦死した騎士の妻でございます! どうか、お話を聞いてください!」
リューベルトは一瞬息ができなくなった。
カルツァ伯爵の身は、今でも帝都に留められているという。リミカとともに直接会って話をしたいと周囲に伝えていたが、おそらくルイガンの反対により、まだ実現していなかった。
カルツァ領の犠牲者の親族と、こんな形で突然顔を合わせるとは思ってもいなかった。
「……きみ、いいんだ。皆様にはもう少し時間をいただこう。ご夫人、どうぞ前へお越しください」
「しかし、殿下……」
騎士は困ったように、演壇の後方で控えている貴族たちのほうを見やった。
貴族家騎士団の一介の騎士の妻の訴えを、皇家の人間が直接聞き取るというのは、非常識といえる。所属の貴族家の面目を潰してしまいかねないし、皇家がそこまですべきではない。
それは承知しているのだが、リューベルトには彼女を追い返すことができなかった。
「みな、少しだけだ。……すまない」
彼がカルツァ領に大きな関心を寄せていることは、ここにいる家臣たちは知っている。きっと、この場は公の場ですからお控えを、と進言したいのだろう。ちらちらと目配せをしあっていた。しかしルイガン宰相が黙って動かなかったことで、彼らは言葉を飲み込んだ。
そのうちにリューベルトは、女性のほうへ向き直った。
「ありがとう……ございます」
場所を譲る人々の間から進み出てきた騎士の夫人は、ロープの前で緊張した面持ちで俯いている。会場内の歓声もすっかり静かになっていた。
「お話というのは、亡くなったご主人のことですか」
「は、はい——」
リューベルトは聞き役になるために、待っていた。
しかし彼女はなかなか口を開かない。
どうぞと言ってもう一度促すのは、配慮に欠ける。彼女にしてみれば、亡くなった夫の無念を代弁するために、帝都までやってきたのだ。いざその時を迎えられても、すらすらと言葉が出るものでもないだろう。
皇子がじっと待つことで、かえって夫人は気圧されてしまったのだろうか。ちらりと、少し距離をおいて自分を取り囲む一般の人々に目をやった。
「えっと、あの……」
——ヒュン、と風を切る音が、右の耳に聞こえた。
ほとんど無意識だった。リューベルトの上体は後方へ倒れるようにして、何かを回避する行動を取った。その肩を掴まれ、さらに後ろへと荒々しく身体を沈められながら、右手側に乗り出してきた大きな影が光るものを振りかざすのを見た。
ドッという短い音と、次々に起こる悲鳴。
「シンザ!」
「下がれ! 自分が避けることだけを考えろ!」
見るまでもなく、理解していた。
すぐそこの地面には、シンザが剣で弾いた矢が突き刺さっていた。




