十二、初代皇帝の秘密
人々が寝静まった頃、帝都城を構成している塔の屋根を伝って動く、二つの人影があった。リューベルトとシンザである。彼らは窓を避け、身を沈めるようにして移動していた。
「リミカは部屋を変えていないようだが、本来はこの上が皇帝の居室だ。その窓から出て、何かしらロープでもカーテンでも持ってきて、ここに引っ掛けて地上まで下りる」
説明されたシンザが屈んでよくよく壁を見ると、鉤のように突出した部分を見つけることができた。装飾的に張り出した壁の陰になっているため、言われなければ目をやるようなところではなく、これに気づくことはできないだろう。
今いるこの場所自体も、塔と塔の谷間のようなところだ。外からの視線を遮り、庭園からも裏庭からも、城の窓からも目隠しにされているようだ。
「帝都城は複雑な外観をしているとは思っていたが、こんな理由があったのか」
「それは、外から内部が推し量れないようにするのが主たる目的だが……そうだな、ここが隠れることも計算されている」
リューベルトは、行くぞと言って飛び下りてしまった。自分で説明した通り、ロープを使って壁に沿って下りるのが正解ではあるが、五年間シンザに鍛えられてきた彼は、二階程度の高さを跳躍力だけで行き来するのは、もう簡単なことだった。
「それで? ここは何なんだ?」
あとから音もなく飛び下りてきたシンザは、辺りを見回した。城にぽっかりと空けられた小さな屋外空間のようだ。暗いが、きちんと草刈りなどはされている場所であるのはわかる。整備されているということは、誰かが来ているということだ。実際に四方を囲む壁には、城に出入りするための扉がひとつあった。
「皇家の私的な区画からしか出られない壺庭だ。あの扉は夜でなくとも常に鍵がかかっているが、こちらから錠をしてしまうこともできる」
リューベルトは扉の前でしゃがむと、隠すように下部に設けられている閂を動かした。
「もっとも、年に数回基本的な手入れをする時以外には、誰もここを開けない。皇家以外には用がないところだからな」
「だから、何のための場所なんだ」
「これだ」
奥側に進んだリューベルトの前には、誰か二名の名が刻まれた墓と思しき石が立っていた。あまり加工を施さず、もともとの岩の自然な形を活かしたような墓石だった。
「我がグランエイド皇家の祖、初代皇帝の……両親の墓だ」
初代皇帝の墓は、ディーゼンとレスカも眠っている皇家の墓所にある。入城を許可された者であれば、誰でも参じて祈ることのできる、公の場所だ。
初代皇帝の両親は、もちろん皇帝や皇后に即位したことがない。言わばただ人であるため、皇家の墓所ではなくここに祀られ、祈りに来るのは実の子孫である皇家の人間のみである。
だが初代皇帝がここに両親の墓を置いたのは、自分が祈るためだけではなかった。王族が命を狙われることも多いこの大陸で、自分と子孫の安全のためでもあったのだ。
剣を抜いたリューベルトが、墓石のきわにそれを刺す。土の中を探るように動かすと、良しと呟いて抜き、また違う箇所に同じことをする。それをもう一度繰り返し、剣を腰に戻した彼は墓石に取り付くと、ぐっと力を込めて押した。ほとんど自然の岩のような墓石が、ズズッと動く。どうやっても一人で動かせる大きさではない。自分より細いリューベルトの行動に、シンザは目を剥いた。
「普段は仕掛けで固定されているが、中は大部分が空洞なんだ。くり抜かれているんだよ」
「そ、そうなのか……驚いた」
「それでも重たいがな。ここに住んでいた頃は動かせなかった」
「まさか初代皇帝が、ご自身の親御様の墓碑に細工をされていたとは……」
「なかなか思わないだろう? これが入り口だ」
シンザが近付いてみると、井戸のような丸い縦穴が姿を現していた。梯子も掛かっている。
「地下道か……何も見えないな」
「昼間でも暗いが、一本道だから、小さな灯りでも迷うことはない」
用意していたランタンを口にくわえたシンザが、先に梯子を下りた。底に着いてから、灯りを動かして周囲を確認する。人が二人並んで立てるくらいの通路が続いていた。きっちりとレンガが組まれていて頑丈そうだ。地下水の侵食もなく、崩れる心配は感じない。空気の循環はどこかでされているのか、カビ臭さはなく、呼吸に問題もなさそうだ。
いいぞ、と上へ声をかけ、ランタンを目一杯持ち上げて縦穴の梯子を照らすと、すでにリューベルトは真っ暗な中を下りてきている最中だった。
「あのなあ、もう少し注意して動け」
「お前こそ何を言っている? ここは皇家の緊急避難路だぞ。簡単に崩落するはずはないし、入り口を知っている者も他にはいない」
「いないって……別にお疑いするわけじゃないが、リミカ様がおられるだろう」
「リミカは知らない。これは皇帝、皇太子、それからその嫡男のみ……つまりは帝位を継ぐ者だけの秘密なんだ。いつか皇家を離れるはずだったリミカには、教えられていない」
初代皇帝は子どもたちを等しく愛していたが、世の王族貴族では、家督の後継者を実の弟妹が妬むこと、または家臣に誑かされて長兄の命を狙うことは、そう珍しくない出来事だった。
この避難路が想定する緊急事態とは、落城や家臣の謀反だけではないのだ。万が一子孫たちが仲違いをした時、家族で命の取り合いにならないよう、後継者だけの退避手段を作っておくという側面もあった。
この初代皇帝の秘密の教えは守られてきた。これまでの例外といえば、教わったあと一度は廃嫡されていた、青年時代のディーゼンだけであったろう。
「ああ……違うな。実際に帝位を継がない私こそが、本当の例外になるか」
「おいおい、本当にそんな秘密を俺が知って良かったのか」
「何を今さら。お前なら死ぬまで秘密にしてくれるだろう?」
すべてが落ち着いたら、リューベルトが父の代わりとなって、リミカに教えなくてはと考えている。ただ、女の子であるリミカには、大人になってもあの大岩は動かせないであろうことが問題だが。
二人は足元に注意しながら、ひとつだけの灯りを頼りに進んでいた。シンザが反対側の手でランタンを掲げているので、リューベルト側は少し暗かったが、特に何も言わなかった。
「きれいな通路だな。少しも荒れていない」
「結局誰も使っていないからな。みな父親から教わる時と、息子に教える時にしか来ていないのだと思う」
「お前も、ディーゼン陛下と歩いた一回だけか?」
「そうだ。十歳くらいだったな。いざという時には、リミカを連れてここから逃げるんだと言われた。こんな暗い通路、リミカは怖がって無理だと答えたよ。本当は私も怖かったから」
「確かにこれは、十歳じゃ足が竦むな」
義兄弟の二人は小さく笑い声を漏らした。足音も声も、狭い通路に反響して、耳に返ってくるようだ。
「もしルイガンが表立って謀反を起こしていたら、父上はここから逃げられたかもしれないな。……いや、キュベリーとともに戦っていたか」
「なあ、リューベルト。お前本当に気をつけろよ? あれだけルイガンの神経を逆撫でしたんだ。いつ、どう狙われるかわからないからな?」
「逆撫でなら、そなたもしたではないか」
「あれは正論を返しただけだ」
「私だってほぼ本当のことしか言っていない。なんにせよ、私とルイガンとは対立するんだ」
厳重警戒が必要なことは、シンザに言われなくてもわかっている。
ルイガンからすれば、突如現れてリミカに兄として認定され、皇帝の後見人面をし、さらに遂行直前だった制裁の計画も阻止したリューベルトは、憎たらしい敵以外の何者でもないだろう。
「今日の会議を多くの者に見てもらったことは良かったな。帝位継承権はどうあれ、皇家に復帰だけはできそうだ。これで当面リミカの命は安全だろう」
どういうつもりで彼女を騎士団に同行させようとしていたのか、それははっきりしていない。だがルイガンは間違っても、リミカを死なせることはできなくなったはずだ。何しろ彼女がいなくなれば、グランエイド家に残るのはリューベルト一人になるのだ。次に即位されてしまったら、妹の復讐をされるのは目に見えている。
ルイガンが国の主導権を掌握するには、今まで通りリミカを飾り人形のまま据え続けなくてはならない。リューベルトに入れ知恵をされて、皇帝の責任に目覚めてしまってもだめだ。その権力を代行することができなくなる。
「つまりはお前に敵意が集中しているんだぞ。消すならこっちが先、しかもできるだけ速やかにってな」
「宰相といえど、皇家の区画に許可なしでは入れない。あの中にいる限りは、危険は低い思うが」
「使用人を脅してけしかけることだってあり得る。とにかくどこでも警戒は解くな」
「私が不審な死でも遂げたなら、リミカにも他の者にもいよいよ疑われるだろう。ルイガンとしてもやり方に悩むところだな」
「暗殺に見えないようにするか……、死体が発見されないようにするのが一番なんだろうが」
六年間姿を消していたリューベルトだ。またどこかへ行ってしまったという筋書きは、まあまあの説得力は持つ。
しかし彼が城内にいる限り、どちらも実現は難しいだろう。
「ところで、リミカ様は六年前のことを調べ直すとおっしゃっていたが……本気でおられるのか?」
「あのあとすぐ司法官に調査を命じていたのだから、本気で見つけ出して裁くつもりだろう。……だが、リミカには悪いが、証拠が出てくるとは思えない」
会議後に案内された客室にいたところ、着替えてから訪ねてきたリミカに連れ出されたリューベルトは、司法官が任命した調査担当に聴取をされた。シンザは海の塔のことには関わりがないため同席させられなかったのだが、リミカは隣でじっと聞いていた。
当時について聞かれても、実は彼にそれほど話せることはない。塔の上で見たもの以外には、リューベルトは何も目撃していないのだ。
あとはルイガンとの会話だが、それは証言しなかった。実際あの男は毒の混入については言及していなかったし、他に聞いていた者がいないので、言った言わないの水掛け論になってしまった場合、こちらに有利に働くとは限らない。家臣はまだ突然戻ったリューベルトに対して戸惑っていて、信頼関係は回復していない。制裁は止められたが、ルイガンより味方が少ないのが現状である。偽証と印象付けられてしまえば、立場は悪くなる。
なぜ六年前にルイガンを疑ったのか、とリミカから問われたが、日々の父の行動をよく知っていた立場で暗殺が可能なこと、アダンに対する明らかに偏った裁きを後押ししていたこと、彼が自動的に圧倒的権力を握ること、そのあたりが根拠だったとしておいた。
「……お、ここまでか?」
シンザがランタンを持った腕を伸ばすと、少し先で通路が途絶えていた。
「着いたな。この先が外だ」
最奥の壁には短い上り階段があり、その上もまた壁に突き当たって行き止まりに見えるが、リューベルトがその前でまた剣を使って仕掛けを外し、身体を使って壁を押すと、右端が外側へ動いた。壁の一部にしか見えなかったが、扉になっていたのだ。外部の空気が流れ込んで来るのを感じる。
出口は大きく開く仕組みではないが、シンザも通り抜けられる程度には動いた。
「ここは……」
ごく小さな何もない倉庫の中に見える。先に進んだリューベルトがドアに三つも付いている閂を外していると、シンザが彼よりも先に慎重に外へ出た。まず見えたのは見慣れた壁だった。夜の暗さでもわかる、帝都のそれぞれの街区を仕切る城壁だ。
「城の真横くらいか。下級貴族の街区の東の突き当りだな」
高台に建つ城を頂点に広がる帝都の街は、半円を描いている。それぞれの街区を仕切っている城壁は、街の一番端、つまり城の真横辺りで一枚の強固な壁に突き当たる。その高さと厚さは街区の壁とは一線を画しており、向こう側は帝都城の裏手となる。訓練場や魔法修練所を擁する広大な裏庭の敷地と、堀と城壁によって城の背面は守られているのだ。
どうやらこの避難路は、城やその敷地、堀などの地下を東方向へくぐり抜け、下級貴族の街区内の隅で、背面の城壁に密接した小屋に出口扉を潜ませていたようだ。
「……なるほどな。それであの場所で待ち合わせか」
「ああ。もう来ているかな。行ってみよう」
リューベルトは下級貴族の街の中心方面へ顔を向けた。街区の端では街の幅自体が狭く、館も店の類も建っていない。帝都が背後から攻められた時に備え、軍用倉庫や騎士隊の簡易宿泊所となる建物があるだけなので、帝都には何事もない今は、ほぼ人の行き来はない。
寂しい道を歩いていくと徐々に街が広くなり、まず現れるのは緑地公園だ。そこを通り抜けたならば、途端に大きく美しい貴族家の邸宅が並ぶ街の風景が現れることになる。
リューベルトたちは緑地公園の隅のベンチに、腰掛ける人影を見つけた。




