六、皇帝の敵対者
ディーゼンは大国を率いた皇帝だが、妻や子どもたちのことを、とても大切に想う父親だった。確かに愛情深い人だった。この国のことだって愛していたと思う。
それなのに、毒殺されてしまった。
「父上は……憎まれるような人だったのか?」
リューベルトの声は、まるで迷子の幼子のような弱々しさだった。
「……いいえ! 憎まれるなど、とんでもないことでございます! 私の言葉が不足しておりました」
アダンはリューベルトに不安を与えてしまったことを深く詫びた。
「私が申したのは……政治的な敵対です」
「政治的……。父上の政策は、そんなに反対者が多かったのか」
「殿下は、この国や大陸の歴史をご存知でしょう」
「教わったことならば、もちろん覚えている」
古来から北大陸では、国同士が争ってどちらかが滅び、併合されるのも、王家が倒され新しい君主が生まれるのも、少しも珍しくない。セームダルやザディーノの向こうの大陸東部は特に激しく、名前も覚えられないほど小さな国家が乱立しては潰し合っている。
フェデルマ帝国の始まりも、そのうちのひとつに過ぎなかった。九十年余り前の建国当時は、現在の四分の一の広さもなく、今の領土の南側の沿岸部分、大陸の南西部を領土としていた国だった。
初代皇帝はベネレスト帝の曽祖父である。グランエイド家は建国時から皇家だ。
その後、フェデルマは異例の急成長を遂げる。当時の領土の周辺は、政変により分裂した小国がいくつもあった。最初は西の海まで領土を広げ、帝都を築いた。それからはその都を起点とし、領土の北側にある国々を支配下に入れていった。
現在の国土の形にしたのはベネレスト帝だ。ディーゼン帝は、国境の線をまったく変えなかった。
「過去、フェデルマはずっと国土を広げてきた。大きく方針を変えた父上に納得できなかった者がいるのは、私にでも理解できるが――」
「ベネレスト帝の御代を懐かしむ者は、今でも少なからずおります。しかし陛下は、そういう者の意見を封殺されてきました」
「父上が、そんな強硬なことを……?」
「はい。国の指針の大きな転換には、ある程度は仕方のないこと。陛下は民のために、重い舵を切っておられたです」
広げ続けるよりも、今ある土地を豊かにし、そこに暮らす民の生活水準を上げよう――父はそういう考えの持ち主だった。そのためなら、祖父の側近だった貴族たちとも対立したのだろう。
だがそれが大きな不満を生み、誰かに謀反を決断させたのか。
国政の実態について、リューベルトはまだ詳しく知らない。意見の相違で、相手の殺害まで企てるのだろうか。現実に実行するほどのことなのだろうか。それより、ネウルスの送り込んだ刺客の仕業だ、と言われたほうがまだ理解できると思った。
「あの火災も、誰かが故意に起こしたものだった、と考えるべきですね」
「出火原因などは、わかっているのか」
「多くの証言から推察するに、釜戸が火元であることは間違いないと思います」
当事者の話によれば、釜戸の中の火が、突然激しく燃え上がってしまったのだという。どうにかして消そうとしたものの、大きく暴れる炎は天井に燃え移り、それが瞬く間に横へと広がってしまった。炎が塔の階段を覆ってしまうまで、あっという間の出来事だったと、地上階にいた者は全員がそう言った。
「すぐに階段へ広がった……」
「はい。釜戸の中に何かしら易燃性のものが残っていて、不運にもそれが急激に燃え上がり、長年の間に天井に厚くこびりついていた埃に一気に引火したのだろう……と、調査報告書にはそう結論付けられておりましたが」
海の塔と山の塔は見張りのために建てられているため、地上階と最上階にしか部屋はない。中間部は螺旋階段だけだ。部屋もごく簡易的で、地上階の釜戸は、寒い時期の見張りの身体を温めるために設置されたものだった。そして、入り口に鍵はない。城内の誰でも使える釜戸である。
皇帝と皇后が二人で登る時、すぐに必要な一杯目のお茶のお湯は城の厨房から運んでくる。二杯目と、地上階で待機している従者たちは、そこで沸かしたお湯を使う。それがいつものことだった。だから従者たちは、いつもの通りに釜戸に火を入れた。
「釜戸に、何かが仕込まれていた……?」
「すべて燃えてしまったので、残念ながら今からでは調べようがないでしょう……。しかしそうなると、山火事のほうも疑わなければなりませんね」
「山火事を……?」
「はい。あれがあったから、塔の火災を消し止められなかったのです。あの日の帝都には、火の魔導士がおりませんでしたから」
「ああ……そうだった。北のほうで起きた山火事を消しに、前日から出払っていたのだったな」
火の魔導士は火を操る。すなわち、火を消すこともできる。水魔法は操る水があることが前提となるため、火魔法のほうが遥かに消火に向いている。火の魔導士がいれば、塔全体が燃える前に消し止めていた可能性は高かった。
ところがあの日は、城内の魔導士団と魔法修練所を含めて、帝都中の主立った火の魔導士が山火事の鎮火に駆り出されていた。規模が大きくなっていたため、放っておけば帝都も危険であり、それ以前に近くにある小さな町が焼けてしまう。そう憂慮したディーゼンが命じたことだった。
「なんという不運かと、誰もが思っていたことでしょう。山火事などそうは起きません。城内で火事が起きることも稀です。それが、重なった」
偶然起きた山火事を、利用したのかもしれない。
だがもしも、それさえも仕組まれたことだったのなら、ディーゼンが大胆な対策を打つと確信していたということだ。彼の国と民を想う気持ちを利用したということだ。
「山火事までも誰かの仕業だとしたら……そこまで、するものなのか」
リューベルトは苦しくなって目を閉じた。
そこまでして、父の命を確実に奪いたかったのか。
いや、暗殺の証拠隠滅が目的なのか。
「事故調査がもう終わってしまっていることも、問題かもしれません。複数人が当たっておりましたが、責任者は……陛下と考えを異にしていたクリーズ伯爵でしたので」
「クリーズ……」
彼は確か、宰相にこそならなかったが、ベネレスト帝に重用されていた人物だ。国土を広げる戦においても彼の騎士団は、帝国騎士団とともに先頭に立っていたのではなかったか。
クリーズにしてみれば、ディーゼン帝に活躍の場を奪われたということだろうか。
「クリーズが、怪しいだろうか?」
「それはまだわかりません。クリーズ伯爵よりも強く陛下に反発していた者もおりますから……」
「それは……誰なんだ」
「目立っておりましたのは、ジェブロ伯爵とバレン伯爵のお二人でしょうか」
リューベルトは、その二人の伯爵の人となりは知らなかった。だが中央政治に関わっていたから、城内で顔を合わせたことはある。
クリーズ、ジェブロ、バレン……三人の顔が浮かぶ。彼らのうちの誰かが、両親を殺害したのか。リューベルトは自分の肩をぐっと掴んだ。
「キュベリー……。どこかの国の間者が入り込んでいる可能性はないだろうか。国の内部崩壊を狙って、その最上部である父上を――」
「……そうですね。それも、あり得ます」
そう言ったアダンだが、その可能性は高くないだろう、とその表情は物語っていた。
「キュベリーは……内部の人間だと思っているのだな」
「――はい」
「どうして? お父様……」
エレリアもまた、あの優しいディーゼン帝が、内部の人間の裏切りに遭ったとは思いたくなかった。リューベルトと同じく、他国の間者の仕業と言われたほうが、まだ心の整理がつくと思っていた。
「これだけのことをするには、城内の事情に相当詳しく、自由に動ける者でないと不可能でしょう。そうなると間者は出入りの者ではなく、城に住み込みの使用人として入り込んでいる、ということになりましょうが、身元確認が取れない者は採用されておりません。昔から縁故採用が多いのはそのためです」
「使用人は全員、確実に帝国民だということか……」
「はい。ですが……決めつけてはいけませんね。とにかく、急いで調査をやり直しましょう」
それに、とアダンは考えていた。調査を終えられてしまった火災の件から証拠を探すより、皇帝に毒を盛った人物がいたのなら、そちらから追える可能性のほうが高いかもしれない。
「よろしく……頼む。キュベリー」
短い話し合いだったのに、リューベルトの胸には重いものが残った。
侍医の診察の時間が近付いてきていた。あまり長く扉を締め切って話し込んでいても、誰かに勘ぐられる可能性もある。イルゴに声をかけられる前に、アダンとエレリアは席を立った。
リューベルトは最後にもう一度、二人に感謝の言葉を述べた。
アダンはエレリアを一旦屋敷に送り届けるため、城から庭園へ出た。
視界の右端に色鮮やかなものが入り込む。気は急いていたが、アダンの足はそちらへ向いた。
そこは、ここ何日もの間、アダンが毎日のように向き合っているところ。炭と化した瓦礫の山ももう撤去された、海の塔の跡地。皇帝ディーゼンと皇后レスカが亡くなった場所だ。平民にはまだ開放していないが、城内の者と貴族たちが冥福を祈った色とりどりの花が、大量に供えられていた。
近付けば今でも、火災の臭いを感じる。
登城した時にしたように、アダンはその前で膝をつき、指を組んで祈りを捧げた。後ろからついてきたエレリアも、いつものようにそれに倣った。
アダンにとっては、ディーゼン帝は良き君主だった。公の場を離れた時には、一人の気の合う友人のように接してくれる、気取りのないお方だった。歴代のフェデルマ皇帝が見せなかった、温かさと優しさをお持ちだった。
レスカ皇后もすばらしいお方だった。国を変えようとする夫の背中を支え続ける、控えめで物静かだが、芯のある強さを備えたお方だった。
そのお二人を弑した者がいる。
アダンは拳を握りしめて立ち上がると、振り返って庭園を歩き始めた。
「……お父様」
横を歩くエレリアが、不安を隠せない顔で彼を見上げていた。
自分はどれほど怖い顔をしていたのだろうかと、アダンは少々無理をして表情を緩めた。
「どうした? お前はいつも通りにしなさい。お食事の時間には殿下の元へ行って構わないぞ」
「ええ……」
しかしエレリアの不安は、それではなかった。
「お父様……リューベルト殿下は、陛下と似ていらっしゃるわ。決して戦を好まれないお方よ。即位されたら、きっと陛下の政策を継承なさるわ」
「……」
「殿下も……とても危険なお立場なの?」
彼の人柄は、城内の人間なら知っているはずだ。彼がディーゼン帝と同じような皇帝になることは予想がつくだろう。疎ましい存在だと捉えられているのではないか。
今日の話の中で、リューベルト自身も確信していただろう。毒殺を警戒したことは、間違っていなかったのだと。
「……だからこそだ。だからこそ、急いで動かなければならない」
アダンはなるべく落ち着いた声でそう言った。それから、次の言葉を言おうか少しの間躊躇した。
彼も、父親なのである。自分の愛娘を危ういところへ行かせたくはない。しかし娘の皇太子への気持ちも、彼女がどうしたいのかも察しはついている。
「お前は……よくやった。これからも、殿下のお時間が許す限り、おそばにいなさい」
エレリアは瞳を潤ませ、頷いた。
キュベリー家の屋敷に送り届けられたエレリアは、すぐに城へ戻るアダンの背中を見送り……急に暗い予感に襲われた。声をかけて父を引き止めたくなった。
しかしアダンは、足早に行ってしまった。
渦巻く不安感に、エレリアは胸を押さえた。もしかしたら、ディーゼン帝の一番の理解者であった父もまた、危うい立場なのではないのか――