五、来訪者
事は急を要している。急がなければならない。フレイバルもカーダットも承知していた。
しかし今は真冬。フェデルマの多くの地域に、多かれ少なかれ雪が降り積もっている。馬車や騎馬での通行ができないところも多く、徒歩の移動では隣の領地ですら遠い。山地があろうものなら、迂回が必要になる。
仲間内の連絡もままならないが、それが容易になる頃には、通達の期日も間近となってしまうだろう。
そんな焦燥と不安の中、リューベルトは十九歳になった。
帝国歴九十八年。
海の塔が焼け落ちた事件から六年となるこの春、フェデルマは大きな岐路を迎える——
三の月の始まり。
次第に温かみを増す日差しに、帝国南部の雪が少しずつ溶けていく。帝都からエドリッツ領までの、騎士団が通る大きな街道が安全に繋がるまで、それほど猶予はない。
まだ侵攻反対の声を上げるための備えは盤石ではない。すでに方針を決定した国相手に、確実な結果を伴う下準備なんてものはないのかもしれない。それでもフェデルマの逆行を止めるに、やるしかない。
時間を稼ぐために、単身でもガレフが帝都へ行き、声を上げることを検討し始めた矢先だった。彼らとは関係のないところで、堂々反対の表明をした貴族が現れたとの情報が入った。それも三家合同であるという。
予想外の出来事だったが、願ってもないことだった。すぐに帝都にて同調の意思を表したいところだったが、折悪くセームダルでも王と王弟の軍が一触即発の状態に発展し、ガレフは旅立てない状況になってしまった。
フレイバルとカーダットの領地もまだ雪が深く残る内陸部であり、帝都へ向かえていない。キュベリーも同様で、そんな状況を知らせ合うことも間に合っていなかった。
真冬の情報は、届くのが遅い。こんな時季にあえてそれぞれの領地に通達を届けさせられた役人たちも、さぞ苦労したことだろう。
反対表明をした三家はもともと雪の少ない南沿岸部だった。そのため役人が到着したのも早く、なおかつ出兵を命じられた立場の彼らは、その後の行動も早かった。
冬という季節が起こしたその時差が……悔やまれることになった。
国土拡大戦への参加を拒んだ彼らを待っていたのは、一定期間の領主権限の停止だった。つまり一時的とはいえ、領地と騎士団を没収されたに等しいことだった。
ここまでの厳罰を、誰が予測できただろうか。
理不尽な処分を下され、帝都から戻ることさえできなくなった領主に忠誠を誓う騎士たちが、黙って帝国騎士団への合流を受け入れるはずがなかった。彼らは貴族家騎士団の誇りを持って、主と同様に出兵命令を拒んだ。
それはまるで、あらかじめ用意されていたかのような、引き金となった。
まだ雪の残る街道を泥まみれになって駆け、イゼルの門を叩く影がふたつあった。厚い外套のフードを目深に被っていたが、冬の冷たさに戻っていた寒風で凍てついた頬にまで、泥はひどくはねていた。
その二名の人物にもっとも驚かされたのは、リューベルトである。
「イルゴに……ジグじゃないか! なぜ、そなたたちがここに!?」
イゼル城の広いロビーの中、外套を脱いでも泥に汚れている姿のまま、イルゴとジグは三年振りにまみえた真の主にひれ伏した。
「申し訳ございません、殿下……! 私たちは、陛下に暇を出されてしまいました……!」
「なっ——」
身辺から遠ざけただけではなく、リミカはついに彼らを城からも追い出してしまったのだという。
何があったのだ、と手に泥がつくのも構わず、リューベルトは二人の肩を荒々しく掴んで身を起こさせた。それは詰め寄っていると表現できるほど強く、実に彼らしくない行動だった。シンザたちが止めそこなったほどだ。
主の顔を直視することもできていないイルゴは、憔悴した様子で答えた。
「私たちは……リミカ陛下にご進言申し上げました。それがお気に召さず——」
「進言……一体何を?」
「カルツァ伯爵領への……騎士団の派遣を思い留まるよう、お願い申し上げました」
「……カルツァに、騎士団……?」
カルツァ伯爵こそが、反対を表明した三家の代表格であり、その領地はエドリッツ領の少し西にある。
イルゴは、三家の当主が実質幽閉されていること、彼らの領民や騎士団がそれに激しく抗議の声を上げたことを話した。
そしてそれを、ルイガンたちが「帝国への反逆」とみなしたことを。
「はん……ぎゃく? 何を……言っているんだ? まさか、帝国騎士団の派遣というのは……」
「はい……。『反逆者』たちの制圧です——」
帝国騎士団があっという間に、カルツァ領への出陣準備を整えていることを知ったイルゴとジグは、ルイガンに掛け合うことは不可能と考え、リミカを説得して止めてもらおうとした。
しかし彼女は、二人からの面会の申し入れさえ受けようとしなかった。侍従長と近衛隊長にされてから、ほとんど顔を合わせてもいない状態だったのだ。
二人は仕方なく、公務を終えたリミカが私室への廊下を歩いているところに、無理やり押しかける形を取った。リミカは素っ気なく去ろうとしたが、イルゴとジグへの待遇に戸惑いと同情を寄せていた侍女頭レナイの口添えのおかげで、どうにか話を聞いてもらえることにはなった。
帝国騎士団が国内の領へ向けて出陣することを、本当に陛下はご了承なさったのですか——イルゴたちの訴えに、リミカは不快の色を浮かべた。
「ええ、署名はしたわ。反逆の芽を小さなうちに積むために必要だと言われたもの」
「反逆だなど……誤解にございます! カルツァ卿は、ただ反対意見を述べたに過ぎません!」
「陛下……どうか騎士団にそのようなことをさせないよう……どうか、お願い申し上げます……!」
リミカは冷めた顔をしていた。
……こんな顔をする方だっただろうか。リューベルトより少し明るい色合いの青の瞳は、いつの間にこんなに暗い影を映すようになっていたのだろう。
「……そうやって……私を操るつもりでいたの?」
まったく予期しなかったリミカの発言に、イルゴもジグも、レナイまでも言葉を見失っていた。
「私を、あなたたちの思い通りの皇帝に育て上げて、こうやって操ろうとしていたのね?」
「な……何を……陛下……」
「二人とも長い付き合いだったものね。だから、何も疑わず信じてしまっていたわ」
少女の冷ややかな双眸に、みるみる怒りや憎しみ、そして悲しみの感情が浮かび上がる。
黒い予感に、イルゴたちの背中が氷のように冷たくなった。
リミカが二人を遠ざけたのは、難しい年頃の少女に対してそばに寄り添い過ぎたためでも、親や兄の代わりになれるはずもないのに、口やかましくしてしまったからでもなかったのだ。
何か誤解がある。恐ろしい誤解が。
それも、もしかしたら——誰かの意図によって生み出された誤解が。
「陛下、私たちは決してそのようなことは——!」
「もういいわよ! 頭も良くて何でもできたお兄様と比べられるのも嫌だったけれどっ……、私を利用するつもりだったなんて!」
間違った確信に興奮状態のリミカは、聞く耳を持たなかった。
「もう近寄らないで! あなたたちの顔なんか見たくない!」
そう叫んだ彼女の声は、泣き声に近かった。
イルゴとジグは、皇家の専有部と離れた城内の一角にて謹慎となった。
過去にも現在にも、二人に皇帝への不敬とみられる行動は確認されなかったため、周囲はこの処分に首をひねっていた。
しかしリミカの怒りが解けることはなく、何日も経ったあとついに罷免され、城を辞するしかなくなってしまったのだ。
イルゴとジグの肩を掴んでいた、リューベルトの腕から力が抜けた。顔は少々青ざめている。
妹が、何かひどい思い込みをしている。いいや、おそらく思い込みをさせられている。
「ルイガンか……あの男が、リミカに何か吹き込んでいたんだな」
また、いつの間にか、裏で。
ぎり、とリューベルトが奥歯を噛みしめる。
イルゴとジグは、かつてはリューベルトに仕えていた人物である。思想が新派寄りであることは察しのつくことだ。しかしこの二人に、政治的な力はない。だからルイガンもこれまでは放置してきたのだろう。
けれどロベーレの再会以後、二人はリミカを皇帝として育てようと、教育の時間を多く作るよう調整していた。旧派の者との接触は、さりげなく最小限にする努力をしてきた。
きっとそれを、ルイガンに見咎められたのだ。彼にしてみれば、リミカは無知な飾りであり続けてくれたほうが好都合なのだから。余計な知恵や関心を植え付けられる前に、排除しておこうと考えたのだろう。
寂しさを抱えながら成長し、不満や不安を感じやすい年頃のリミカに何を囁いたのか、彼女が二人に叩きつけた言葉からおおよその想像はつく。
「イルゴ殿、ジグ殿……。騎士団は、派遣されたのですか」
張りつめた声で、シンザが問いかけた。
二人が城から追い出され、リミカが孤独にさせられている件も重大だ。でも直近の危機は、カルツァ伯爵領である。
「……はい……」
これまでのことを話し終えてうなだれているイルゴに代わり、ジグが答えた。いつもは冷静な表情を崩さない彼も、打ちひしがれた顔をしている。
「ここへ来る道中……私たちはカルツァ領を通って参りました……。派遣された第五隊は、すべてを……終わらせておりました」
「終わらせ……た……?」
リューベルトはこれ以上問い質したくなかった。聞きたくない事実を突きつけられる——
沈黙の降りたロビーで、ガレフが静かに決着をつけた。
「『反逆者の制圧』というのは……もう済んだことなのですね?」
リューベルトの眼前で、二人は頷いた。
もうすでに、侵略反対の代表者への制裁は行われていた。
真冬でさえなければ逐次帝都の情報を得ているグレッド家だが、今回はまだ三家が受けた横暴な措置を知ることすらできていなかった。この遅れは真冬のせいだけではないだろう。此度の件は、何もかもが閉ざされた城内だけで即座に決まり、速やかに遂行されてしまった。
すべてが予定調和であったかのように。
「……カルツァは……カルツァの騎士団は……領民は、どうなったんだ」
震える声で呟いたリューベルトは、指先から身体までも細かく震えている。
問われた二人は、泥のついた唇を動かしかけたが、言葉は出てこなかった。押し黙る彼らから、リューベルトはふらふらと離れた。
「誰か……連れていってくれ」
周囲にいたグレッド家の使用人や騎士は、誰のことも認識できなかった。ガレフもヴィオナも、ナリーの顔もはっきり見えなかった。のろのろと見回していた中で、最後にシンザの顔にだけ、やっと焦点が合った。
「カルツァへ……私を連れていってくれ……!」




