五、手を取る相手
数日間何も口にしていなかったリューベルトは、体内に負担をかけないために、まるで赤子向けのような野菜粥を用意された。
灯りの置かれたテーブルに着き、スプーンを手にしたリューベルトの手が、細かく震えて始めた。抑えようとしても止まってくれない。心臓は奇妙に早くなってくる。
そんな彼の様子を見て、エレリアは同じものを先に口に入れた。食事を急かしているのではないだろう。安心させようとしてくれているのだ。
エレリアがリューベルトと同じものをと希望したため、城の料理人の顔に泥を塗ることなく、自然とキュベリー家の料理人が作ることになったこの食事に、緊張する必要はない。意を決して、リューベルトは三日ぶりの食事を取った。
食事量が自然と増える年頃のリューベルトには、物足りない献立だ。それなのに満足してしまった。相当体内を弱らせてしまっていたようだ。
到底満腹にはなるはずのないこの簡素な晩餐に、エレリアがうれしそうに微笑む。彼女の顔を見ているうちに、リューベルトの手の震えは次第におさまってくれた。
幸い骨折はなかったリューベルトは、湯浴みのあと皇家の専有区画の部屋へ移っていた。今までいた部屋は、とにかく一刻も早く身体の状態を診るために、火災当日にアダンが手近な部屋に寝かせた客室だった。リューベルトの私室は海の塔があった場所に近いので、眺めの良い別の部屋に移動した。
ようやく扉を開いたリューベルトに、ロニーが皇帝と皇后の国葬準備の進捗を伝えに来た。
すでに現在自領にいる貴族たちには、早馬にてこの辛い報せを送った。フェデルマはこの北大陸で群を抜いて領土が広い。貴族たちが帝都に集まるまで、まだあと何日も要するだろう。
皇帝の葬儀では、次期皇帝が言葉を述べる場面がある。状況を考えて、通常より短い時間とする方向だという。
「エレリア様には、殿下のお隣にお立ちいただく予定でおります」
エレリアの肩に力が入った。
次期皇帝の隣に立つ女性――それは次期皇后だ。
「はい、承知いたしました。精一杯務めます」
「ご負担が大きいかと存じますが、お二人にしかお務めになれぬことにございますので」
今は療養を第一に、と言って、ロニーは部屋を出ていった。
そのしばらくあとに、アダンが来た。
彼は、娘が皇太子の部屋で食事を取ることにしたと、ついさっき聞かされたばかりだった。
「エレリア、殿下に無理を申したのではあるまいな」
「いいや、無理を言ったのは私だ。キュベリー」
エレリアをたしなめようとしたアダンを、リューベルトが止めた。本当に、エレリアは助けてくれているのだから。
アダンは、治安の維持や情報収集をしていた。火災を見ていた帝都の民には、皇帝の崩御も広く伝わってしまっている。不安や動揺は、治安悪化の要因ともなる。だがそれはまだ、騎士団が見回りを強化すれば防ぐことができる。
情報の流出を制御するほうが難しい。
西大陸から来ている商人の口を塞ぐのは、ほぼ不可能だ。西大陸の国々との関係は悪くないが、問題はそこから北大陸の他の国へ情報が流れることだ。今までも常にその危険はあり、その情報戦はお互い同様のことだった。しかしこれほどまでに深刻な事態は、できるだけ知られるのを遅らせたい。
どう手を打っても、時間の問題だろう。
「侵攻してくるだろうか」
「否定はできません。特にセームダルやザディーノは、以前よりこちらへの勢力拡大を図っていますから」
フェデルマ帝国は、この大陸の西部を広く治めている。よって陸地の国境線があるのは東側だけだ。北からネウルス、セームダル、ザディーノの三つの国と国境を接している。
セームダルとザディーノの二国は、昔から幾度も国境を侵してきている。
「監視を強化しております」
「しっかり頼む。戦は、避けたい」
リューベルトは少し目を伏せた。
父ディーゼンは、この戦乱続きの大陸の一国の主でありながら、戦を好まなかった。敵対関係である三国に、何度も和平交渉の使者を送っていた。これまでの歴史も含めて、話し合いで決着をつけようとしたのだ。しかしどの国もまともに耳を貸さなかった。ネウルスとザディーノにいたっては、一度も返事を寄越さなかった。
リューベルトにも、他の国を蹂躙して国土を広げることを、是とする考えはない。
「承知しました。今上がってきている報告では、どの国にも動きはありません」
このまま何も起きなければいい。リューベルトはそう思った。そうすれば、こちらから騎士団を送り込んだりしない。父が敷いた平和が続いてくれる――
あれ以来、イルゴとジグは食事中だけは部屋を出て行き、扉を閉めた。もうすぐ皇帝と皇后にならなければならない少年と少女に、二人だけで話をする時間を与えてくれているようだった。
少しずつ普通の食事に戻りつつある。
骨折はなかったとはいえ、関節や神経はところどころ痛めていた。侍医と身体を動かす練習を始めたことも、心身の回復に役立っていた。
支えなく歩くことができるようになったリューベルトは、イルゴに頼んで、海の塔の跡地へも行った。父と母の墓はまだない。御霊に逢いに行くとするなら、今はここしかない。
イルゴが用意してくれた花束を捧げ、まぶたを閉じて指を組んだ。
両親の死は現実として受け入れていた。最後に二人の顔を見たのは彼自身なのだから。
あれは夢か幻ではなかったのかと思いたくなることもあるが、皮肉にも一人で部屋に籠っていた時間が、この現実をリューベルトに定着させていた。命を脅かされた体験のためか少し霞んで見えるその記憶を、幾度もなぞってしまっていたから。かすかな期待をして待っていても、両親の見舞いはなかったから。
こんなに早く、こんなに急に父と母がいなくなってしまうなんて、考えたこともなかった。こんな運命ではなかったはずなのに。殺されても仕方のない人たちであったはずがないのに。そのことを考えるたびに、抉られるように胸が痛む。
ゆっくり開いたリューベルトの目には、まるでのしかかるように厳かにそびえる、巨大な帝都城が映る。
この中に両親と自分の敵がいるのだと思うと、その敵はどれだけいるのだろうかと考えると、悲しみと同じくらいの恐怖に、身が竦みそうになる。
「殿下……父には、話してみませんか」
ある日、エレリアが切り出した。
誰を信じるか、どう判断したらいいか、短い二人きりの時間に話し合ってきたものの、まだ決められないでいた。それは、ずっとすべての人を疑い続けることであり、事態も進展していない。
リューベルトはエレリアに、即座に返事をできなかった。
「父は……皇帝陛下を決して裏切ったりしません。わたくしの目から見ても、陛下を敬愛しております。宰相の役を賜ったことも、グレッド侯爵様のご推薦をいただいたからなのでしょうけれど、陛下がご指名くださったのですから」
エレリアはずっと父親を信じていたはずだ。それでも、何者かの策略によって両親を喪ったリューベルトの心中を慮って、父親だからなんて簡単な理由で意見は出せなかったのだろう。
リューベルトも、信用して良さそうな人物を考えた時、思い浮かぶ顔にアダンは入っていた。理由はもちろん、エレリアの父親だからという一点だけではない。
国土拡大に意欲がなかった戦嫌いのディーゼンは、長年の争いで荒廃した国土回復に重きをおいていた。国威発揚より民の生活に寄り添おうとする彼の政策を、アダンは全面的に支持していたのだ。意見の不一致はない。
そして個人的にも、二人は仲が良かったと思う。だからこそディーゼンは、キュベリー侯爵夫人の葬儀に、リューベルトやリミカまで連れて参列したのだ。
加えて娘が皇太子妃に内定しているのだから、客観的にみても、アダンはディーゼンを裏切る理由が、一番ないはずの人物だ。
「うん……私も、話すならキュベリーではないかと思っていた」
エレリアは、ほっとした表情になった。
「ありがとうございます……殿下が話して良いとお感じになった時に、お願いいたします」
こんなに大きな秘密を、毎日父親に隠し続けていたエレリアのほうが、もしかしたら自分より苦しかったのかもしれない。リューベルトは、次にアダンが来た時には話そうと決めた。
果たして信じてくれるだろうかという不安から、少し鼓動が速まった。
フェデルマでは、宰相は二人であることが多い。
世襲制ではないが、ロニー・ルイガン侯爵の場合はその父親も宰相を務めていた。父親のバイディー・ルイガン侯爵が仕えたのは、ディーゼンの父でリューベルトの祖父である、ベネレスト帝である。
ベネレスト帝の御代では、ほとんどの時期で宰相はルイガン侯爵一人だった。ニ公が揃っていたのは即位してからの一年程度だけで、そのもう一人の宰相だったのがグレッド侯爵だ。
ディーゼン帝は皇帝の座に就く時、グレッド侯爵に宰相に戻るよう望んだ。しかしそれは辞退され、アダン・キュベリーを推薦されたという。
そうしてディーゼン帝の元で宰相となったアダンは今、リューベルトから受け入れにくく信じ難い話を聞かされていた。
「両陛下は……塔の上で、煙に巻かれる前に、すでに亡くなられていた……と……?」
リューベルトは頷いた。もうだいぶ癒えたとはいえ、まだ傷跡や包帯の目立つ身体だった。
今朝アダンから訪問の先触れがきたので、エレリアも伴うよう頼んだ。アダンの用事は簡単な報告事項と見舞いだったが、リューベルトはそのあとで扉を閉めて三人だけにしてもらい、ついにエレリア以外にも秘密を明かした。
「お父様、お願い……殿下のお力になって」
エレリアの懇願するような声を最後に、三人はじっと押し黙った。
衝撃に耐え切れなくなったアダンは、背筋を曲げ、両肘を膝についた。視線を落とした彼の、落ち着こうとしているような、いつもより大きな呼吸音だけが聞こえる。
「キュベリー。私は、こんな悪趣味な嘘はつかない」
「はい、もちろん……殿下をお疑いすることなどございません。しかし……」
アダンは一度大きく息を吸い、吐き出すと、姿勢を正してリューベルトに向かい合った。父帝と同じ黄金の髪に縁取られている、年齢に似合わぬ威厳も備えた美しい顔は憂いを帯び、アダンを見返していた。
「なんと、お辛い思いをされていたのか――」
「エレリアが支えてくれていたんだ」
「そうですか……。エレリア、お前もがんばっていたのだな」
愛娘に柔らかい視線を向けると、アダンは再びリューベルトに向き直った。厳しい表情に変わっていた。
「ご信用くださったことに、私は感謝を申し上げるべきかもしれませんが……そんな悠長なことはしておれません」
「それでも私は、二人が私を信じてくれることに感謝する」
アダンは伏し目がちに、ごく小さくゆっくりと首を横に振った。彼も、娘にも言っていなかったことを、ここで初めて口にした。
「偶然が過ぎる……そう感じてはいたのです。あまりにも不幸が重なり過ぎではないかと。……それに、陛下は……ある意味、敵の多いお方であられましたから」
「え?」
——あの温厚な父上に、敵が多い?
アダンのその言葉は、リューベルトには理解できなかった。