三、最年少宰相
ダイル・グレッドが帝都を去り、国境の守護者となってから一年が過ぎた。
その間大きな反乱は起きていない。ガリアデルの御代からはっきりと変わっていた。ベネレストの戦略通りである。身を切るような策でも、やはり正しかったのだ。ロニーはそれを微塵も疑っていない。
一方帝国騎士団では、最近ようやく入団と退団の希望者数の均衡が、元通りに落ち着いてきたところだ。以前退団していった騎士たちがほぼ戻ってきていない分、多少弱体化してしまったのは否めないだろう。
いずれ時が過ぎれば回復するとしても、隣国の制圧戦に臨むには少々早いと判断され、今しばらくは先送りとなった。現在は国内の治安維持に集中しているようだ。
ロニーも成人してから、帝国騎士の称号を得た。
彼としてはもう称号に興味はなかったのだが、バイディーは自分が得られなかったものを、当然息子が獲得するものと信じ込んでいたので、試験を受けてきた。
それに、確かにこのフェデルマでは、当主ともあろうものが帝国騎士ではないのかと、陰口を叩かれることがある。ロニーは血の滲むような努力を強要されてきたおかげで、試験の突破は一度目でかなった。これで少しでも若すぎる年齢に箔がつけられるなら、無意味なことでもない。
さらに一年後、ロニーは晴れてベネレストの家臣に召し抱えられた。
宰相が一人のみとなっていたため、もうひとつの空席に座れないかと無謀な希望を抱いていたが、いくらなんでも叶う可能性のない願いだった。ロニーはバイディー・ルイガン宰相の、正式な補佐に任命された。
見学と勉強をしていただけの時とは、まるで違う忙しさになった。夜まで城に留まることも多かったが、ロニーはあまりのうれしさに少しも苦ではなかった。こうしてベネレストの宰相の何たるかを、実務もこなしながら学んでいれば、必ず自分の番が来ると信じて疑わなかった。
不安を覚えたのは、さらに年月が経過してからのことである。
ベネレストが即位してから五年が過ぎ、ついに北東部にある小国の平定に乗り出した。
遠征は帝国騎士団が中心となるが、戦地に近い領主にも援護や加勢をするよう命令が下された。
ところが、それを断った領主がいた。帝国の盾ことグレッド侯爵である。
——何が「国境を守るしか能がありませぬ」だ! ベネレスト陛下の温情で生きているくせに!
ベネレストも目を釣り上げ、ダイルから届いた書状を燭台で燃やした。しかしなぜか「もう良い」と言って強制召集は行われなかった。
国境守備の要であることを利用する男に対して、なんと御心の広いことか。
しかし気が済まなかったロニーは、ダイルに抗議文を送った。遠慮のない誹りが読み取れるはずの文章に対して戻ってきたのは、陛下のお許しはいただいている、という素知らぬ態度を崩さない返答だった。
許し難き傲慢さに、ロニーがダイルに抱き続けていた怒りは軽蔑に変わった。名門貴族家が聞いて呆れる。グレッド家など、フェデルマの門番だけをしていれば良い。せいぜい門の前で愚犬のように吠えていれば良いのだ。
皇帝御自ら出向かれたこの小国の制圧戦では、刃を抜いて抵抗する者には非情な鉄槌を下すものの、必要以上の武力行使は避けられていたようだった。
そして王の降伏により、戦は終結した。
小さな事故が起きたのは、戦場の外のことだ。
左手首を包帯で固定し、顔にまで打撲の痕を残して帰城したベネレストを見るなり、バイディーは狼狽した。
「へ、陛下、そのお怪我は……!?」
「騒ぐな、ルイガン。馬から落ちただけだ」
帰還の途上、何かに興奮した馬が少々暴れ、落馬したのだという。特に原因を作った人間がいたわけでもなく、皇帝を狙った事件であった可能性は極めて薄かった。
——落馬? あの陛下が……?
騎乗中の不注意による単純な事故だとは理解したロニーだったが、内心ではバイディー以上に衝撃を受けていた。
馬術も完璧にこなすベネレストが、落馬。完全無欠のはずの皇帝が、不注意を犯して、大切なそのお身体に怪我を負われてしまった——
その雄々しい容姿が人から忘れさせるが、ベネレストは若くはないのだ。バイディーよりも年上で、五十を越えている。
考えたくもなった。でも……彼の御代は、いつまで続いてくれるのだろう。長命だったガリアデルのように、ロニーが宰相になるまで、帝位にあってくださるだろうか。ベネレストが理想を実現する手伝いを、ロニーは本当にできるのか。本当に、順番は回ってくるのだろうか……
可能性は、高くない。ロニーはそれに気づいてしまった。
どうしてだ。どうしてベネレストと同じ世代ではなかったのだろう。父と反対に生まれていれば、自分がベネレストに選ばれていたはずなのに。
——それに、父がいる限り、私は宰相になれない。
親子でニ公を務めるのは、絶対に無理だ。宰相が一人であることは初めてではないが、同じ家の人間が同時にニ公に立つことなんてあり得ない。あからさまな権力の集中は、他の貴族の反発を買う。皇帝は無益な争いの種は蒔かない。
——ああ、邪魔な男だ……。早く……一刻も早く引退しろ。そうでなければ、私が陛下の右腕になれないではないか。
「引退したくないなら……さっさと死んでしまえ」
バイディーがあれだけ固執していた出世。念願叶って手に入れた宰相の座を、あの男が返上する理由はない。きっとベネレストか、彼自身が死ぬまでしがみつく。
それならば、ベネレストよりも先に、なるべく早くバイディーに死んでもらう以外にない。
ガリアデルの時は、この願いが天に通じた。
しかし、四十代のバイディーはまだまだ健康だ。基本的に屋敷と城の往復しかしないあの男は、事故死もしそうにない。
今回はいくら願っても、天の助けは訪れなかった。
いつまでも待っていられない。
もう……自分の手で、実現するしかない。
父の書斎に侵入するのは簡単なことだ。ここにある文献は勉強になるからと、バイディーがロニーに読むよう命じていたのだから、扉の鍵の在り処も教えられていた。
そしてロニーは、この部屋に隠されている秘密をも知っている。父は知られていると気づいていない、黒い秘密を。
権力者であるバイディーに近付いてくる者は多い。中には裏社会に生きていると思われる連中もいる。たとえ会うだけでも、相手は選んだほうが良いとロニーは思うのだが、バイディーは利用価値の有無を吟味するために、ほとんどの相手と一度だけは面会した。そのうちの一人が、バイディーに押し付けたものを探していた。
「……これだ」
夜中、蝋燭の灯りを頼りに父の書斎机を漁っていたロニーは、目的のものを見つけてポケットにしまいこんだ。
それは、毒物の入った小瓶。
敵対する者をたった一度の接触で消せますよ——怪しげな男がそう言ったのを、ロニーはこっそり聞いていた。
父は野心の塊だが、それほど悪人ではなかったらしい。受け取ってしまった小瓶を開けることはなく、机の引き出しの二重底に封じて、男とは二度と会わなかった。
使わなかったのは賢明だと思う。本当にこれで自分の障害となる誰かを殺害でもしていたら、バイディーが毒を所持していると知るあの男に脅されていたのが関の山だ。
——でも、ものは使いようだ。
たった一度で消す必要はない。ロニーとバイディーは親子であり、仕事まで一緒なのだから、毒を盛る機会はいくらでもある。毒殺だとわからないほど時間をかければ良いのだ。
確実な結果が欲しい時ほど、焦ってはならない。他ならぬバイディーの教えだ。
ロニーは、目に見える効果は出ないであろう、極めて少量の毒をバイディーの食事や紅茶に入れ込み始めた。無理は禁物だ。誰にも見らることなく混入できる時にだけ実行した。
一回一回は極微量でも、確実に体内に毒物は蓄積されてゆく。それは数ヶ月という時間をかけてゆっくり、ゆっくりとバイディーを蝕み、弱らせていった。身体の変調を自覚してからの彼は、ロニーに任せる仕事量を増やし、できる限りのことを教えていった。
ついにバイディーは宰相の激務をこなすのが困難になり、休職を願い出た。
すぐに復帰するつもりの彼は、代理はロニーに任せてほしいと、ベネレストに申し入れてくれた。自分が不在の間に権力をかすめ取られたくない一心だったのだろうが、ありがたいことにこの願いは聞き入れられた。
ベネレストも他の人間たちも、バイディーはごく一時的な体調不良との認識だったのだろう。
この時を待っていたロニーは、宰相代理の任を完璧にこなした。周囲からは、弱点である若さを忘れてもらうために。ベネレストには、バイディーよりも使えると思ってもらうために。がむしゃらに働き、まだまだ勉強も怠らなかった。
もしも、バイディーがこの頃に引退を決意していたら、ロニーは小瓶を机に戻していたかもしれない。
しかし、そうはならなかった。バイディーの権力への執着は、ロニーの予想以上に強かった。少しでも体調が良くなると、復職しようとしたのだ。
——やはり、お前は……私の邪魔だ。
手を緩めるわけにはいかなくなった。
息子に毒物を飲まされ続けたバイディーは、休職からの復帰は叶わずじまいとなった。「原因不明の病」で彼は息を引き取った。
現職のたった一人の宰相の死去は、休職中だったとはいえ混乱を招いた。それを早々に収めるため、そして後釜の争いを起こさせないためにも、ベネレストは現状維持を選び、ロニーをそのまま宰相に起用することとした。
かくして、弱冠二十歳の宰相の誕生となった。
渇望してきた、この世にたったひとつの地位。
人生でこの上ない名誉に、涙しそうになったことを覚えている。
父親を死に追いやったことに対しては、特に何も感じていなかった。罪悪感とは無縁だった。バイディーも自分と家のために息子を道具のように扱ってきたのだから、これはその二十年間の報いである。
本当に尊敬できる方に巡り合わせてくれた——父親に感謝の念を覚えるとするならば、このひとつだけだった。
ベネレストの宰相として、皇帝の右腕として、ロニーは帝国の発展にひたすらに尽力した。
反乱は時々起きたが、領主が対処できる程度の規模に過ぎなかった。ベネレストの元に報告が来る頃には、ほとんどが鎮められていた。
フェデルマ帝国内は年々安全になっていると、ロニーは誇らしい気持ちで過ごしていた。現実がベネレストの理想に近付いてきていると、そう思っていた。
輝かしい月日だった。
災厄は、およそ二年後に待ち構えていた。ベネレストとロニーは、最大の失策をしてしまうのだ。
それは、ベネレストの二人の皇子の対立が、表立ってくることで始まった。
皇太子の座にあるのは上の皇子である。そう決めたのは先帝ガリアデルであり、上の子が継ぐという貴族共通の習慣に従ってのことだった。
ベネレストはこれまで常識を打ち破ってきた。これほど若いロニーを宰相に任じたくらいなのだ。貴族の慣例よりも実力を重んじてくれる。それならば皇太子の座もそうするべきだ。それが下の皇子の言い分だった。
もともと年子でライバル心を隠さない二人は、次の国土拡大戦でのベネレストの名代を希望した。これを制すればついに大陸第二の国ネウルスと、本格的に睨み合うことになる大きな区切りを迎える戦だが、ベネレストは体調が万全ではなく、戦線に出ることは控えると決まっていた。
皇子が二人とも同じ戦場に出陣することは躊躇われ、城内でも反対が出たのだが、皇子たちの熱意は余計に燃え上がってしまい、彼らは半ば強引に出征していってしまった。
騎士としての親心とでもいえようか。手柄を立てる機会は平等に与えてやらなければと、ベネレストも自分に言い聞かせてしまったのかもしれない。皇子たちを無理やり連れ戻すことはしなかった。
しかしこの時、やはりどちらか一人だけでも帝都に留まらせておくべきだった。たとえその皇子に恨まれても、殴られてでも、ロニーだけは沈着な判断をするべきだった。
先帝の時代から戦慣れしていたベネレストと、ロニーと同じ世代の若い皇子たちでは、指揮能力に大きな開きがあった。
苦戦させられ、さらには兄弟よりも良い功績を収めたいという焦燥に駆られた彼らは、争うようにその身を荒れる前線へと進めてしまった。
押し留めようとする家臣には苛立って恫喝し、相手国の策略を見誤って進行を続けて行き——そして、罠に嵌まった。
岩壁に挟まれた細い道に隊列を誘導され、頭上から狙い撃ちにされてしまったのだ。
実際の戦場経験の差というものは、こういう極限の時にこそ出てしまうのだろう。
降り掛かってくる岩や矢を掻い潜り、退避して生き延びた騎士は充分にいた。しかし、素早い対応と撤退ができなかった皇子たちは、側近が命を懸けて庇ったにもかかわらず——
二人とも戦死してしまったのだった。




