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炎国の騎士と北の夜明け  作者: 紘麻 涼海
第六章 仕える者
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一、重なる底

 彼はとても後悔している。

 あれは、苦渋の決断だった。彼の本当の望みではなかった。だがそうする以外になかったのだ。

 そこまでの事態に陥ってしまった自分の詰めの甘さを、五年経った今でも彼は一人密かに悔やんでいる。

 

「いつでも……後悔は先に立たぬものだ」

「……? 何かおっしゃいましたか?」

 

 ふとした瞬間胸に蘇る悔恨の念に、口の中だけで呟いたつもりだったが、すぐそこにいた侍従の耳に届いてしまったようだ。

 

「いいや……。次の予定まで時間があるな。少し気分転換をしてくる」

 

 彼が帝都城内を歩けば、誰もが道を譲る。飾りの女帝以外の誰もが。

  

「お疲れ様でございます」

 

「ごきげんよう、ルイガン卿」

 

 ロニー・ルイガンは侯爵であり、宰相であり、この帝国の実質最高権力者である。

 

 彼が一人で進む先の廊下には、それぞれ二人の人物を描いた絵画が、等間隔に並べて飾られている。歴代の皇帝と皇后を描く大きな肖像画が五枚。

 ここを通ると、まだかすかに油絵の具の臭いを感じる。ディーゼンとレスカの絵が掛けられたのは、もう一年も前のことであるのだが、その後も絵師が何度か筆を加えているらしい。

 他の四枚は、皇帝か皇后が贔屓にしている絵師に、生前に描かせたものである。しかしディーゼンとレスカは非業の最期であったため、彼らの肖像画だけは没後に描くことになった。

 絵師が自分の記憶だけを頼りにすると、他者の記憶とは印象が異なるものである。仕上がった絵を見たリミカが、両親に似ていないと言って何度も描き直させたため、ここに飾るまで四年もかかってしまった。

 

 ロニーはゆっくりと廊下を歩く。

 フェデルマ帝国を興した天下の豪傑、初代皇帝。その志を忠実に継いだ二代。三代目はそれまでの諸国併合によって少しずつ積み重なっていた軋轢から、国内で反乱が多発してしまい、その鎮圧に追われた方だった。

 その第三代皇帝ガリアデルは、ロニーの少年時代に君臨していたお方である。実際にお見かけしたこともあったが、敬う気持ちは持っていなかった。

 彼が敬愛してやまないのは、ただ一人のみ。

 ロニーはその肖像画の前で足を止めた。鋭い青色の眼光で人を見下ろす、歳を重ねてなお冷たく整う貌を持つ、第四代皇帝ベネレスト・グランエイド。

 

「陛下……お怒りでございますか——」

 

 ベネレストの絵の隣にはディーゼンの肖像画、さらにその隣の壁にはまだ何も掛かっていない。ロニーはその空間に目を向けた。何十年と先の未来、そこに掛けられるはずだった肖像画を想像していた。

 即位直前に死亡した、幻の少年皇帝。

 ロニー・ルイガンは、とても後悔している。

 あの当時の彼は冷静さを欠いていた。強い焦りを感じていたさなかであった。完璧な準備を整えられる時間はとてもなかった。

 いいや、それは言い訳だ。

 最後にもう少しだけ想像力を働かせ、家族想いで勇敢な彼の少年を、時を合わせて自分のところにでもおびき寄せておけば。 

 ……殺めずとも済んだであろう。

 

 


 

 

 ルイガン家はロニーの祖父の代まで伯爵家だった。特に格も高くなかったこの家の地位を押し上げたのは、野心に溢れていた父のバイディーである。彼は権力を掴み取るために、皇太子時代のベネレストの思想を探り、その実現に役立つ存在になるための人脈作りを始めた。

 実際にベネレストに取り立てられることに成功し、侯爵位まで賜った上に宰相になったのだから、父がなかなかのやり手であったことは間違いのない事実である。

 しかし少年のロニーは、父のことがこの世界で一番嫌いだった。

 

 常に乱世の北大陸では騎士が尊ばれる。そんな大陸において最強を誇るこの国で、バイディーは騎士ではなかった。どんなに上位の貴族家の跡取り息子でも、平民と同じ帝国騎士の厳しい試験を突破し、称号を得ているのが当たり前であるのに、だ。

 騎士にならなかったのではなく、バイディーは試験を受けることも敵わなかったのだ。子どもの頃の事故で負った怪我のために、両腕の筋力を著しく失っていたから。

 幼い頃のロニーは何度も愚痴を聞かされたものだ。まともに剣も振れない男は、どんなに生きにくいものかを。

 だからこそバイディーは、政治を動かせる地位を欲した。騎士団に関わる役職は絶望的でも、頭脳を使って国全体を動かす宰相ならば目指せる。

 バイディーが抱えていた強烈な劣等感は、ただの領主で一生を終えることを許さなかったのだと思う。

 

 一家の主が大いなる野望に心を囚われると、妻子はその反動に翻弄されるものである。

 母はバイディーの腕のことも受け容れて嫁いできた人だった。それなのに彼のほうは、政略結婚としか捉えていなかったようだった。生まれたロニーのことも、ルイガン家の後継者としか見ていなかった。大切な息子として扱われた覚えは一度もない。

 子の誕生にも態度が変わらぬ夫に、ついに母も失望したのだろう。夫婦間に会話はなくなった。

 そんな家庭の居心地が良いはずもなく、親子三人で過ごした時間は、無言の食事以外にあったのかも思い出せない。


 父はロニーをまずは立派な帝国騎士に育て上げることに注力した。自分が騎士ではないからこそ、その鍛え方は必要以上に厳しかった。生半可な目標を持つことは許されず、伸びが悪いと思えばすぐに師を変えた。加減というものをわかっていなかった。

 並行して、これもまた何人も雇われた家庭教師との勉強が、日々入れ替わりで続く。夜は父が付ききりで、年齢不相応の試験のようなものを解かされる。連日の忙しい日々をこなすため、手入れが容易になるように髪もずっと短くさせられていた。

 母は母で、夫に愛されない分、息子へ注ぐ愛情が過多になっていく。それは次第に偏執的なものに変わり、理想の我が子像を押し付けてくるようになった。

 ロニーは、父からの期待も、母からの依存も、重たくて鬱陶しくて堪らなかった。

 

 友人もいなかったが、普通の少年と同じく騎士団に憧れ、若くして隊長に選ばれる自分を夢想するようになった頃。

 

「お前も政治の世界で生きるんだ」

 

 バイディーは、ロニーの将来をそう定めてしまった。

 十二、三歳の時だったろうか。ベネレストの元に通う父に、時折同行するようになったのは。

 当時のベネレストは四十代半ばだったが、そうは見えない秀麗な容姿と逞しさを保っていた。彼の表情、佇まい、身にまとう重厚な空気感は、黙ってそこに在られるだけで他者を威圧した。

 騎士としての腕も立ち、それでいて芸術を含め様々な方面への造詣も深く、さらに知略にも長けている。

 それまで会ったどの大人とも違う。バイディーなど足元にも及ばない。

 国の頂点に立つ人間とはこういうお方なのだと、ロニーは畏れとともに納得し、心の中で礼賛していた。

 

 バイディーは今のうちから息子に政治の世界を学ばせ、皇太子にも売り込んでおくつもりだったに違いない。しかしベネレストを素晴らしいお方だと感じても、父の思惑はロニーには煩わしいことだった。密かに抱いていた騎士として身を立てる夢を、諦めきれていなかったのだ。

 バイディーの設計通りの人生を歩むくらいなら、出奔や自害という手段さえも胸をよぎっていた。

 

「そなた、父親を疎んでおるな」

 

 ある時バイディーが少し離れた際に、ベネレストに唐突にそう言われた。

 それまではいつも、バイディーとベネレストのやり取りを聞いているだけだった。子どもの意見など口に出すな、まずは体感して学べと言われていたからだ。

 

「——えっ……あ……」

 

 ロニーは何も答えられなかった。初めてベネレストから直接言葉をかけられ、しかも自分では無表情に徹し、完璧に隠していたつもりの心の底を見抜かれたのだ。

 驚きと動揺に、急激にどくどくと脈打ち出した心臓が、口から出てきてしまいそうな気がした。

 皇家のお方から話しかけられて黙り込む非礼を、ベネレストは構う様子もなかった。

 

「生を受ける環境と親は選べぬものよ。その中で己の心に足る道を見極めねばならぬのだから、人とは難しいことよな」

 

 ベネレストはそれとわからないほど、わずかに目元に苦笑を浮かべた。もしかしたらロニーの思い違いかもしれないほど、小さく。

 ベネレストがくれた言葉はそれだけだった。


 ——気遣ってくださった……のだろうか?


 ロニーにとって、父母はどちらも疎ましい存在だった。それなりに裕福な貴族家に生まれたが、幸運だったとも思えなかった。むしろ一人だけで継いでしまったその血筋は、一層逃れようのない鎖のように感じていた。

 

 ——もしかして、ベネレスト殿下は……私と同じように……?

 

 ベネレストもまた、皇家に生まれたことを、大国に君臨する父親を、忌み嫌っているのだろうか。

 自分だけが、この方の気持ちの奥底を垣間見たのではないか——

 ベネレストが「密かに抱く悩み」に、自分のそれが重なる。大それた自惚れに、少年は浮かれた。

 父親よりもさらに年が上で、いつも次期皇帝として存在し、決してただ人としての感情を見せないベネレストに、畏れ多くもロニーは親近感を抱いたのだ。 

 父も母も、誰も彼も、ロニーのことを何も理解しない。ベネレストが初めて理解してくれた。ベネレストならロニーのことをわかってくれる。

 救いを見た。人生に光を見つけた。

 初めて感じる喜びに、彼の気持ちはすっかり囚われた。

 

 ——父じゃない。父よりも私のほうが、この方のお気持ちをお汲み取りすることができる。

 

 少年の強い思い込みは、帝国騎士団で出世する己の夢をも、あっさりと諦めさせた。フェデルマの宰相ではない。自分は「ベネレスト帝の宰相」になろう。 

 あまり内容が飲み込めなかった父たちの会話にも、真剣に耳を傾けるようになった。無理やり詰め込まれてきた知識もまだ不足している。経験の無さは論外だ。たかが数年で登れる壁でないことは承知していたが、少しでも早く父を超えようと、猛然とあらゆる努力を始めた。

 子の心を知らぬ親は、突如やる気になったロニーにただ満足げにしていた。

 

 思った通り、ベネレストは父帝ガリアデルを、少なくともそのやり方を好んでいないようだった。

 内乱を起こされた領主を処罰しているだけでは、体制の引き締めにはならない。一方的な罰と家の取り潰しなどを繰り返していては、むしろ国を支える屋台骨が減ってしまう。新しく細い柱ばかりでは、隣国に折られてしまいかねない。

 早く何か手を打たなければならないが、ガリアデルは聞く耳を持っていない。息子といえど、皇帝が振りかざす権力には逆らえないのだ。

 

 ——早く殿下がご即位なさればいいのに。

 

 ガリアデルではだめだ。

 この国の主に相応しいのはベネレストである。

 

 父は取り入る相手をベネレストに定めていたため、ガリアデルの統治下では、特に重要な役職には就いていなかった。だからロニーは城内にいても、あまり皇帝をお見かけしたことはない。

 何度か遠くから見えたガリアデルは、ただの老人にしか見えなかった。ベネレストのように堂々とした体躯もなく、威厳は枯れ、金髪はずいぶん白に変わって、怒鳴る声もしわがれていた。だがどれほど衰えても、皇帝は死ぬまで皇帝である。

 もはやロニーの目には、現皇帝であろうが、ガリアデルはベネレストが君臨すべき国を徐々に弱らせているだけの、邪魔な障害物としか映っていなかった。

 

「退位できないなら、……死んでしまえばいいのに」

 

 思っていても言ってはならぬことを、よく自分の部屋で独りごちていた。まだ怖いもの知らずの子どもだった。

 

 ガリアデルが崩御したのは、ロニーが初めてバイディーと城に上がった年と同年の、十の月のことだった。

 死を願ったら、本当に死んだ。

 ガリアデルは七十三歳と高齢だった。なんの不思議もない老衰死だったが、ロニーは自分の願いが通じたような心地でいた。

 やっとだ。やっと、真の皇帝がご即位なさる。

 その素晴らしい即位式には、ロニーも出席を許された。未成年の出席者など、片手で数えられる程度だ。それまでの人生の中で、一番誇らしく感じた出来事だった。

 

 第四代皇帝となったベネレストは、ガリアデルの宰相を二人とも解任した。

 従来通りニ公の体制を敷くに当たって、まず一人目に選ばれたのはバイディーだった。さらにルイガン家は侯爵位に引き上げられた。その日屋敷に帰ってからのバイディーの浮かれた歓びぶりは、ロニーが苛立って見ていられないほどだった。

 

 二人目の宰相は、帝国騎士団から引き抜いたという。

 実質副団長だといわれている第一隊隊長、ダイル・グレッド。

 名門侯爵家の次期当主であり、のちにただ一人ベネレストに歯向かって、たった一年で宰相を辞任することになる、不届き者である。

 

 

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