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炎国の騎士と北の夜明け  作者: 紘麻 涼海
第五章 幼君の治世
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七、在る限り

 先を歩くシンザを、ターシャが小走りで追いかけた。彼は背が高くて大股で歩くので、ターシャにとっては追いつくだけで一苦労するくらいだった。

 

「シンザ様! 外へおいででしたら、ご一緒にお茶をいかがですか?」

「え? ああ、でも……女性が揃う席に俺がいても、お話の邪魔でしょう」

 

 ティノーラとターシャだけならともかく、レマやルディもいる。正直にいえば、四人もの女性がおしゃべりに花を咲かす場面に同席して、シンザの居心地が良いとは思えなかった。

 

「もうすぐノルドレン様もいらっしゃいますから、ぜひ。お二人なら肩身も狭くなりませんでしょう?」

 

 エレリアと、急だったがリューベルトという来客があるのだ。ノルドレンは仕事を早めに切り上げて、階下へ降りてくるはずだという。

 

「ノルドの仕事は終わるのですか。じゃあ、お言葉に甘えましょう」

 

 良かったです、と笑顔を見せたターシャは、レマに伝えに戻った。かしこまりました、と準備に向かうレマに、ルディがお手伝いいたしますと言って同行する。

 シンザたち三人は、正面玄関へ歩き始めた。

 

「どうかしましたか、ティノーラ?」

 

 ふと立ち止まって振り返ったティノーラに、ターシャが不思議そうに声をかけた。先ほどまでとは一変し、ティノーラは少し不安そうに顔を曇らせていたのだ。

 

「うん……大丈夫かなと思って」

「エレリアですか? 確かに、ちゃんとお話しできるか心配になるほど、緊張していましたものね」

「そうね。でも気になるのは、エレリアよりもリュート様のほう……」

「リュート? あいつもかなり緊張していたな。でもちゃんと会話できるかなんて、俺たちが心配することでもないだろう?」

「話せるかじゃなくて……話の内容よ。リュート様はもしかしたら……」

 

 ちらりと見えた、応接間で待っていたリューベルトの表情。彼はエレリアとの再会を辛く感じているのでは、という疑念がティノーラの中に生まれていた。

 でも、ここで他人が気を揉んでも、仕方のないことだともわかっている。

 

「いいえ、何でもないわ。二人が話し合って答えを出すことだもの」

 

 ティノーラはシンザたちと外へ出た。

 

 


 

 

 静まり返った応接間。

 エレリアは目を上げられずにいた。

 あれほどお会いできる日を待っていたお相手なのに、何をしているのだろう。

 

「……エレリア……、久方ぶり……だな」

 

 躊躇いがちな男性の声だった。

 エレリアの顔が、無意識のうちに正面へ上がる。

 部屋の中央に立っている人は、いつも心にあった人とはずいぶん違っていた。体格も、まとう雰囲気も、先ほどの声も、もう大人のものだった。初対面の相手には冷たい印象を与えてしまうほど整った顔も、以前より日焼けもして、男らしく引き締まっていた。

 でも紺碧の瞳が放つ優しい輝きは、少しも変わっていない。

 

「……殿下……」

「元気そうで安心した……エレリア」

 

 少しぎこちなく、彼は微笑んだ。

 エレリアも同じように微笑んだ。

 

「殿下もお元気そうで……。それにずいぶん背が……お高くなりましたね」

「そう……だろうか。言われてみれば確かに、イルゴの背を抜いていたんだ。……ああ、まだそなたは聞いていないかな。実は四の月に、イルゴとジグと話せる機会に恵まれて——」

 

 話し始めそうになったリューベルトは、急に言葉を切って、首をごく小さく左右に振った。

 

「今はその話ではないな。そなたに会えたら、話したいことがたくさんあったんだ……謝らねばならないことも、お礼を言いたいこともあったはずなのに……なぜだろうな。今、何も出てこない」

「お礼も何も……わたくしには必要ありませんわ。殿下が生きていてくださっただけで、それだけで——」

「エレリア……」

 

 リューベルトの微笑みが、わずかに陰る。

 

「私はもう、殿下と呼ばれるような身ではない。それは聞いているだろう? ただのリュートなんだ」

「御名がお変わりになったとしても……わたくしにとってのあなた様は、何も変わりませんわ」

「……いいや、変わったよ。私ほど将来が見通せない男は、そうはいないだろう……。リュートとしての存在も証明できない。家名すら得られないんだ」

「殿下——」

 

 ふい、と彼の目がエレリアから外された。

 途端に、予感が湧き上がった。

 海の塔の事件直後のリューベルトは、自分の命が狙われている可能性を悟って、婚約をやめようと言った。自分の巻き添えにしないようにと考えて、エレリアを遠ざけようとしていた。

 見つめるエレリアを見返してくれない彼の顔が、あの日の彼と重なる。むしろ十三歳のあの時よりも、エレリアに対する拒絶感が強く伝わってくる。二人の間に流れる空気が、厚い壁のように堅く感じる。

 エレリアは冷えていく手のひらを握り締めた。

 

「ようやくお会いできたというのに、殿下はわたくしから距離を取ろうとされている……なぜでしょうか、そう見えます」

「……そうだな、私たちは距離を置く……それが、正解なのだと思っている」

「正解……? 将来が見通せないからですか」

「そなたが皇太子妃になりたくて、私との婚約を承諾してくれたのではなかったことは知っている。だが今となっては……そなたには貴族籍があるが、私は正式な結婚などできようはずもない身だ。そんな私と隠れ住んでくれなどと……望むわけがないだろう」

 

 耳にしたくない話だった。

 でも、それが現実。

 二人は決して結婚はできない。リューベルトが自分を死んだと偽った時、さらに表舞台に戻らずこのままにすると決めた時に、それは決定的になった。気づいていたし……人知れずこの国に身を捧げた、彼のその覚悟も理解していた。

 せっかく耐え忍んで、守り切ったキュベリーの貴族籍。リューベルトがエレリアの将来を、掴めるであろう幸せを、自分のことよりも大切に思ってくれるからこそ、彼は離別の選択を正解という。

 でも、エレリアの正解はこれではない。違うのだ。

 

「殿下はやはり、お変わりになっていませんわ。お優しい方のまま。……ですが、婚約をやめたほうが良いというお話なら、三年前のあの日にも、わたくしはお答えしております。お忘れですか」

 

 リューベルトが視線を戻す。二人の瞳が再びひとつの線で繋がる。

 

「わたくしは、嫌です。たとえ父が受け入れても、嫌です。いいえ……たとえ父からも、同じことを望まれたとしても、嫌です」

「エレリア……。落ち着いて考えてくれ。キュベリー家はこれから、ウィルドたちが立ち直らせるだろう。確かにそれはまだ、長くかかることかもしれないが、そなたほどの女性なら、政略の絡まない縁談にも巡り会えるはずだ」

「わたくしはどちらの貴族家へも嫁ぎません。『お亡くなりになっているお方』から、それをとやかくおっしゃられても困りますわ。もうわたくし自身が決めていることですので」

「……」

 

 ぴしゃりと言い切るエレリアに、リューベルトは戸惑いの色を浮かべている。

 何も言えなくなった彼に向かって、エレリアは足を踏み出した。凝り固まる空間を打ち破るように、一歩一歩進み、近付いてゆく。

 

 ——遠いある日、城から帰った父が、皇家の御紋の封蝋がされた手紙を預かってきた。差出人の皇太子とは、母の葬儀でご挨拶をしたことしかなかった。弟たちも含めた城への招待状を読み、首を傾げたその日は、まだお互いに十一歳だった。

 彼が十三歳になった頃、将来を誓い合った。

 それからふた月と経っていなかった。それが最後になるなんて思わずに「また、のちほど参ります」と約束して別れた日——


 二人はずっと、ほとんど目線の高さが同じだったのに、今はエレリアが少し上を見上げなくてはならない。彼の姿も変わったけれど、きっとエレリアも変わっている。もう卵だって食べられるようになったのだ。

 別れていた時間は、それほど長かった。

 

「もうひとつ、お忘れのようですわ。たとえわたくしのためとお考えになったことでも、お一人で無理はなさらないと、あの日肝に銘じてくださったはず。あなた様はすべてお忘れになってしまうのですね」

「忘れていない。あの日ばかりじゃない。そなたがくれた言葉は、何ひとつ——」

「ならば大切な約束を守ってくださいませ。子ども同士でしたけれど、婚約式もしておりませんけれど、わたくしに求婚してくださったのは、間違いなく……今、ここにおられるあなた様でした」

 

 エレリアの足が、リューベルトの前で止まる。もし互いに腕を伸ばしたなら、届くところで。

 

「あなた様がこの世界に存在なさっている限り、わたくしの幸せはそこにしかないのです。貴族の娘としての幸せなんて求めていません。皇太子妃や皇后の地位もいりません。覚えていてくださったではありませんか。あなた様をお支えしたいと思ったから、わたくしは求婚をお受けしたのです」

 

 あの日と同じように表情を歪めるリューベルトが、本当に歪んで見えた。エレリアの瞳が濡れていた。

 

「殿下のお心のうちを……教えてくださいませんか」 

 

 色白な手を彼に向かって差し出した。

  

「すべてを手放されても、どうか、わたくしの手だけは、ずっと——」

 

 声がつかえた。涙がこぼれてしまいそうだ。

 泣きたくなどなかった。できうる限り気持ちを伝えたかった。あの日のように、彼が心を許してくれる人間でありたかった。拒まれたくない。今日彼の言う通りに従ったなら、もう会える日は来ないだろう。

 

 歪んだ視界の中で、目の前の人影が近付いて大きくなった。そして前方へ引き寄せられる感覚のあと、額が何かに当たり、背中も頬も温もりに包まれる。

 

「——エレリア、そなたの……言う通りだ。私は変われていない。こんなに……中途半端で身勝手なままだ。離れるべきだとわかっているのに」

 

 リューベルトの腕の中で、エレリアは彼の言葉を聞いていた。絞り出すような声は、彼の苦悩そのものなのだろう。

 

「……殿下……」

「本当は、諦めたくなくて……、情けないことを明かすが、何度も何度も考えていたんだ……一緒にいられる道がないかと……。だが、何度考えても、そばにいてもらうのは間違いだという結論になった」

 

 グレッド家にすら相談せず、リューベルトは皇家を捨てることを決めてしまった。

 もちろん、エレリアにも相談できなかった。彼女は婚約をやめず、また会える日をいつまででも待つと、ティノーラを介して伝えてくれていたのに。

 月日が経つに連れ、リューベルトは自分のことを、エレリアを縛っているだけの存在ではないかと感じるようになっていった。彼女の気持ちを信じられるからこそ、その悩みは大きくなり、これからずっと足枷の存在となってしまう現実を恐れた。


「私ではもう相応しくない。きっと約束を守るべきじゃないんだ……正すべき間違いなんだ——」

「いいえ」


 そっと目を閉じたエレリアは、見たことのない騎士服を着るリューベルトの肩に頬を寄せた。

 とても温かな安堵感に包まれていた。立場や環境をこれほど変えられてしまっても、やはり彼は彼のままでいてくれた。

 

「正しいか間違いかなんて、決める必要がないことです。わたくしは、あなた様と在りたい……ただ、それだけなのですから」

 

 この先彼が、ずっと不確かな存在として生きていくとしても。もしかしたらグレッド家のために、ここを去らなければならない日が来ても。他国にだって他大陸にだって、エレリアはともに行く。必要なら彼と同じように名前だって捨てよう。

 

 ぎゅっと、エレリアを抱きしめるリューベルトの腕に力が込められた。強く、でもどこまでも優しく。

 

「——愛している、エレリア」

「……はい」

「本当に……本当に、会いたかったんだ」

「はい……わたくしもです」

 

 きっとこれが、互いに一番言いたかったこと。

 

「愛しています、リューベルト様」 

 

 やっと会えた。直接声を聞けて、直接触れ合えた。

 エレリアの腕も彼を抱きしめると、二人は自然と唇を重ねた。


 約束の外形なんて変わってしまっても構わない。二人で支え合って生きていけるのならば、それだけでいいのだから。


 

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