六、自由
アダンの思惑通りになったのは、夏の始まりの頃だった。五年後に当主を降りることを真冬に表明してから、予想していたよりも時間がかかった。何か企んでいると疑われたのか、直後は監視の役人が増員されてしまったことさえあった。
アダンは家庭教師やエレリアを介して、帝都にいるウィルドに少しずつ引き継ぎ教育を始めた。
一方社交界では、アダンの隠居は大きな話題になっていた。同情の声もあり、結局ただの敗者で終わったのかという声もあった。その誰にも共通していたのは、アダン・キュベリーの貴族としての立場はもうなくなった、という認識だ。
そんな状況を受けて、ようやくキュベリー家から役人が引き上げていった。
それなのに、エレリアは解放感でいっぱいにはなれなかった。監視される生活が長かったせいか、まだ遠くから見られている気がして、ないはずの視線を感じてしまう。
領地へ帰って以来、詳しい近況報告もできていないティノーラとターシャを、なかなか訪問する気にもなれない。けれど何となく居ても立ってもいられず、一度帝都へ弟たちの様子を見に帰ることにした。
「本当に、誰もついてきていない?」
道中何度も馬車から控えめに顔を出しては、エレリアは護衛の従者に問いかけた。そのたびに彼らは、まったく見当たりませんと応じる。
「もう、誰もいない……?」
もう誰にも、動向を観察されていない。帝都に着く頃になって、エレリアはやっと少し自由な日常というものを思い出していた。
館に到着しても、やはりキュベリーが雇っている者以外には誰もいない。ひと月前にウィルドたちからアダンに届いた手紙には、監視が出ていったと確かに書いてあった。
「手紙にあったのは、本当のことなの……?」
「うん、すごく清々した! 悪いことをしていなくても、見られているのは嫌だったから」
イーリオが両腕を広げ、身体を気持ちよく伸ばすような仕草をしてみせた。
もともとアダンもエレリアもいなくなったこの屋敷には、大した監視は置かれていなかったようだが、領地より先立って役人が引き上げたらしい。
「それにね、姉上。友達とも会えるようになったんだよ」
「お友達?」
意外な話に少し驚いたエレリアに、今度はウィルドが話し始めた。
「全員というわけじゃない。本当に仲良くしてた……父上たち同士も仲が良かった家の友達だよ」
エレリアとティノーラが出会うきっかけとなった城主催の茶会が、先日また開かれたのだそうだ。エレリアの時から三年経ったので、対象の未成年は全員入れ替わった。
十三歳のウィルドにも招待状が来てしまい、姉のように腫れ物扱いをされたり、見下されるのだろうと予想しながら会場に行った。
ところが、彼の周りには友人だった少年たちが集まってきたのだ。二年前にアダンへの対応を緩めるよう声を上げてくれた家の子どもも多かった。
「初めは疑ったよ。急に態度を変えられたことに、正直気分も良くなかった。でもみんな、私を訪ねる勇気がなかったと、最初に深く謝ってくれたんだ。自分の行動で家が傾いたらと思うと怖かったって」
その気持ちはわかるから、とウィルドが肩をすくめた。
エレリアが参加したお茶会でも、友達だった少女たちはクリーズ伯爵を恐れている様子だった。彼女たちがエレリアを盗み見る時、とてもやるせない表情をしていたのが思い出された。
「姉上が帝都に来た時には、謝らせてほしいっていうご令嬢もたくさんいたよ。今来ていると知ったら、そのうち訪ねてくるかもしれないね」
「……そう……。わたくしたちはもう、友人付き合いも許容されているのね……」
キュベリー家はそれほど落ちぶれたということだ。旧派からみれば、いつまでもこだわる必要もない家。むしろ締め付けを続けることで、また周辺の反感を買ってしまうほうが損失になる。潰せなかったが、もう怖くもない貴族家なのだろう。
政治権力的には失墜したけれど、どうやら本当に、待ち焦がれた自由を得られたようだ。今はそちらのほうが、エレリアには貴重に感じる。
物思いにふける姉に、イーリオがおずおずと質問した。
「ねえ姉上。役人がいなくなったのは、父上が自分のことを我慢したからなんでしょう?」
「イーリオ……。そうよ。わたくしたちのために、お父様は自分の経歴も名誉も投げ打ってくれたのよ。よくわかっているのね」
「違うよ。冬に父上がした宣言の本当の意味、私にはよくわからなかった。兄上がそう教えてくれたんだ。やっぱりそうなんだね」
「話を聞いて理解するだけでも、勉強になるのよ。今はそれでいいわ。ウィルドは自分で分析したの?」
「……五年後には家を頼むって言われたんだ。そういう勉強くらい……するよ」
なんだか照れた顔で、ウィルドは言葉尻を濁した。
嫡男のウィルドは生まれた時から跡取りだが、まさかこんなに早く当主の座を譲られるとは思ってもいなかったはずだ。急な話に戸惑っているだろうに、彼なりに覚悟を決め、研鑽を積んでいるようだ。
没落したとはいえ、ウィルドとイーリオならば、きっとキュベリー領を守っていける。エレリアは初めて弟たちを心強く感じた。いつまでも子ども扱いをしてはいけないかもしれない。秘密を明かすことをも、そろそろ考える時なのかもしれない。
イーリオが少し心配そうな顔をしていた。
「今年はまだ一度も帝都に来ないけど……父上は元気なんだよね?」
「ええ、大丈夫。元気よ。年次報告の時は疑われてしまった時期だったから、移動は見送ってわたくしが代理をしていただけ。もう制限されないのだから、お父様もお仕事が落ち着いたら、あなたたちに会いに来ると思うわ」
——もう、制限されない。どこへ行くにも、誰の目にもさらされない。
やっと実感を持ち始めたエレリアは、領地に帰ったらリエフ家に手紙を書こうと思っていた。
できるならば、エリガから近いイゼル城までも訪ねられたら……そう願いながら。
こんなに国の端まで来たのは、エレリアにとって初めてのことだった。
ティノーラは田舎と言っていたが、神聖にさえ見える険しい山々も、青い木々も、途中見えた段畑も、とてもきれいな景色だった。大きくはないが、エリガは人々の活気を感じる素敵な街だ。
最初に出迎えてくれたのはターシャだった。顔色も明るく生き生きとした彼女は、自信がなさそうに伏し目がちだった頃とは、ますます別人のようになっていた。
二人は手を取って喜び合った。
「エレリア! 会えて本当にうれしいです」
「わたくしもやっと訪問できてうれしいわ。元気そうね、ターシャ」
「はい、毎日楽しくて、とても充実しているんです」
すぐに侍女のレマを連れたティノーラもやってきた。彼女は会うなり、ぎゅっとエレリアを抱擁した。
「待っていたわ。やっと自由に行き来できるわね」
アダンが引退宣言までしたのに、なかなか監視が終わらないことを相当心配してくれていたらしい。
春にターシャを連れてベルスタへ遊びに来てくれていたのだが、そろそろもう一度行くつもりだったのよ、とティノーラは笑った。
「さあ入って! ああでも、残念だけど、私たちの積もる話はあとでね。明日でもいいわ」
「そうですね。もっと大切ですから」
「え? ごめんなさい、今日は何か大切な行事があったの?」
訪問の手紙に返事はもらっていたし、出発前にもう一度遣いも出していたのに、都合の悪い日に来てしまったのだろうか。
少々戸惑うエレリアをロビーに招き入れたティノーラは、あっけらかんと言った。
「違うわよ。リュート様が——リューベルト殿下がいらしているから」
「——えっ?」
エリガ城のロビーの真ん中で、エレリアは足を硬直させた。ティノーラの言ったことが、頭の中で繰り返される。
「ど、どなたが……」
「殿下よ。エレリアが、今日着く予定だって早馬をくれたでしょう? イゼルにも知らせたら、さっきシンザが急いで殿下をお連れしてきたのよ」
従者も馬車もなしで二人だけで来たからちょっと驚いたわ、とティノーラはいつもの少し呑気な口調で話しているが、エレリアはそれどころではない。
イゼルへ会いに行くことは本当に可能かどうか、相談しようと思ってはいたけれど……
「ま、待って、今日……今、お会いできるの?」
「そうですよ、応接間にいらっしゃいます。良かったですね、エレリア」
うれしそうな笑顔のターシャを前にしても、エレリアは笑えなかった。あまりにも突然のことに、心臓が破裂しそうなほどの早鐘を打ち始めている。脚の力が抜けて、床にへたり込んでしまいそうだ。
「待って……わ、わたくし……まだ、準備が……」
「婚約者に会うのに、準備なんていいじゃない。そんなにお待たせするわけにもいかないでしょう?」
ティノーラはエレリアの手を引いて歩き始めた。
「ル、ルディ、どうしましょう、わたくし……どこか変ではないかしら」
「身支度でしたら、大丈夫ですよ、お嬢様」
目を細めるルディがそう答えてくれても、エレリアは慌てて着ているドレスを見直す。
もとより伯爵家の居城を訪問するのだから、髪にもドレスにも、侍女ルディの仕立てに手抜かりはない。問題あるはずがないのだが、エレリアは落ち着けない。
扉の前で止まると、振り返ったティノーラがエレリアの頭から足先までをさっと確認した。
「うん、エレリアはきれいよ。いつも完璧」
「はい。見惚れてしまうくらい、とてもきれいですよ、エレリア」
「か、からかわないで……」
自分がどんな顔をしているのかも自覚できない。
フェデルマ国内では小さいほうだけれど、かつては王城だったこの城の、美しい飾り彫りの施された堂々たる扉。この向こうに——
息切れしてしまいそうなほどの激しい鼓動に、エレリアは思わず胸をおさえて大きく息を吐き出した。
くすりと笑ったティノーラが、扉をノックした。
「シンザ、エレリアが来たわ」
応えて出てきたのは、親同士が親しく、互いに小さな頃から知っているシンザ・グレッドだ。お久しぶりですと挨拶を交わすと、彼は中へ向かって、俺は庭にでも出てる、と言ってエレリアの横を過ぎていった。
「じゃあ私たちも、外でお茶でもしているわね」
ティノーラはエレリアを中へ押し込むと、扉を閉めてしまった。
ルディもティノーラたちと外に留まったので、気づけばエレリアは一人、応接間の扉の内側に立たされている。
複数人の足音が遠のいていくのを、背中で聞いていた。




