十七、決断
約ひと月ぶりにイゼル城へ帰還した三人は、ガレフやヴィオナの出迎えを受けた。彼らはお疲れでしょうと気遣うのみで、リューベルトに何も聞こうとしなかった。
旅の最中のシンザとセスもそうだ。何を考えているのかとは一度も尋ねなかった。こんなにわがままな頼みに、ただ付き合ってくれた。
グレッド家の者はずっと、リューベルトから何も引き出そうとしない。これ以上彼らの皇家への忠義を利用するのも、振り回すのもいけないことだと思った。今夜の晩餐の席、リューベルトは心の内を伝えようと決心した。
伝えたら……どんな反応をされるだろう。
グレッド家の四人は、いつも通り歓談しながら食事を進めていく。
一番最後に食べ終わったリューベルトは、そっと食器を置くと、静かに息を吸い込んだ。少しでも先送りにして今の機を逃したら、言い出す勇気が失せてしまうと感じていた。
「みな、聞いてほしい話がある」
緊張していた。初めてここへ来た時よりも緊張している。裏切るような気持ちだからだろうか。
「この一年……匿い、守ってくれたこと……本当に心から、感謝している」
ガレフたちは冷静な目で、リューベルトが噛み締めるように紡ぐ言葉を聞いていた。
「それなのに、私は……そなたたちの期待には……応えられない。キュベリーと、イルゴとジグにも——」
そこまで聞いてなお、全員が静かだった。
リューベルトは膝の上の拳を握り、ぐっと目を閉じた。
「私は……帝都には戻らない」
それは、決意の言葉。
周囲から、驚くような気配は感じられなかった。彼らはどう感じているのだろうか。
「ザディーノとネウルスが撤退した今、フェデルマは平和だ。国内優先の父の政策も変わっていない。ルイガンには変えられなかった」
夏の頃、ダイルが状況を分析していた。
旧派が政策転換しないのは、様子を見ているわけでも、新派の貴族に配慮しているわけでもない。
できなかったのだ。一般の民から上がった強い声によって。
フェデルマの民は、ディーゼンの死を悲しんだ。そして彼がたった五年の御代で起こした変化、国にもたらした豊かさや太平の時代を称え、その継続を望んだ。その声は帝都城の支配者が無視できないほど大きかった。
民は国土の拡大ではなく、平和を選び取った。国中を覆ったその思いに、ルイガンが打てる手などない。
「父と母は……ルイガンに命を奪われた。だが、民が選んだのは父だ。私の父上は……ルイガンに敗れてなどいない。父の想いのほうが勝ったんだ……!」
亡きディーゼンに従わざるを得ないルイガンは、すでに敗北者だ。どれほど口惜しい思いをしているとしても、引き続き民の望む内政を行っている。
そんな世に、リューベルトが出ていくことで何が起こるのか。起こすのはいらぬ混乱ではないのか。民が愛したディーゼンが殺害されていたと知らしめることで、内紛から反乱勃発のきっかけすら生みかねないのではないか。
皇家と貴族による勝手な闘争で、民を苦しめるのではないのか。
「私は、国を乱すことを望まない。だから……復讐を望まない。父も母も、……きっと……許してくれる」
リューベルトは目を上げた。ナリーとヴィオナと、シンザとガレフの顔を順に見つめた。
「そなたたちには申し訳なく思っている。ともに怒り、悲しんでくれたのに……私は一人で、引くと決めてしまった。キュベリーの名誉も……取り戻せないだろう。イルゴとジグにも、とても合わせる顔はない。だが、それでも……それでも、私は——」
「ご自分をお責めになる必要はございません、殿下。あなた様なら、その道をお選びになるかもしれないと、わたくしどもはお察し申し上げておりました」
ナリーの落ち着いた声は、リューベルトの心を締め付ける負い目に優しく響いた。
見れば、ガレフも頷いている。
察していた——やはり、そうだったのか。証拠の存在を知っても、リューベルトは何も言えなかった。外に行きたいと頼んだあたりから、きっとガレフたちは薄々勘付いていたのだろう。
「殿下、我々は帝国の盾……国を守ることを使命としてきた家です。殿下が民のことをお想いになって、国の平穏を守るために下されたご決断に、不満を抱く理由などありません」
「ええ、私も殿下のお考えを尊重いたします。……ご決断まで、お辛かったでしょう」
ガレフに続いて、ヴィオナも認めてくれた。
シンザだけが、無言だった。みんなが察していたなら、旅に付き合ってくれた彼がこの中で一番、この結論に至っていることを見抜けていただろうに。
「しかし……殿下。ひとつだけ問わせていただきたいのです。リミカ様のことは……どうなさるのですか」
ガレフの声は落ち着いていたが、その瞳には気遣わしげな表情が浮かんでいた。
「……リミカは……今はまだ、何もできないだろう。だが、これから学を修めていけば、名ばかりの皇帝でもなくなると……思う。それに」
そこで一度、リューベルトは呼吸を整えた。ガレフが問いかけたのは、そういうことではないのはわかっている。
帝都へ帰らず真実を暴かないということは、ルイガンをリミカの宰相の座に就かせたままにするということだ。そしてリミカに、兄の生存を知らせないということである。
「今のルイガンの権力は、あくまでも皇家の力を借りているものなんだ。リミカに刃を向けることはできないだろう? それにあの子を排除しても、現状打破はできない。得るものがないのに、再び暗殺などという極めて危うい橋を渡るとは思えない。ジグとイルゴもいてくれる。私が出ていくほうが、ルイガンを追い詰めることになって、よほどリミカを危険にさらすだろう」
「それは、そうかもしれませんが——」
「それから、真実だからといって……何も知らないあの子に、本当は両親は殺害されていたのだと教えるのは、とても残酷なことだ。私が黙っていることで、国も平和で、リミカもこれ以上傷つかないのなら……私はそれでいい」
「ご兄妹……再会が叶わなくなるのですよ」
「……ああ。だが……仕方のないことだ。私は遠くからでも、あの子を見守る。もしもリミカの身に何か起これば、その時はきっと駆けつける」
「そこまでのご覚悟ならば……もう何も申し上げることはありません」
「心遣いをありがとう……ガレフ殿」
臆病者と蔑まれても仕方ないと思っていた。この騎士の国をまとめ上げる家系の者が——自らも騎士の道を志して歩む者が、両親の仇を見逃すのかと。敵前で目を背け、逃げるのかと。
リューベルトがロニー・ルイガンを赦すことは、決してない。でも復讐というものに、帝国の民の暮らしと引き換えにする価値はない。そのはずだ。
迷った。悩んだ。悔しかった。まだ八歳の妹と別れるのも、皇家の未来を彼女だけに押し付けてしまうのも辛かった。
——けれど、決めたのだ。
これが、帝国の平和を目指したディーゼンとレスカの息子、リューベルト・グランエイドの決断だ。
「ガレフ殿……私を、騎士団に入れてくれないだろうか」
「えっ、……我が騎士団にですか?」
「ずっと、とは言わない。一人で生きる手段が身に付くまで、頼みたい」
いつまでも皇太子気取りで、この城に置いてもらうわけにはいかない。自分という大変な秘密を、今後もずっと抱えてくれとは言えない。
期限付きにしても、図々しい頼みであることは自覚している。しかし彼には、どこにも行く当てがない。正体を隠して一人で生きていく力をつける時間がほしい。自立の目処が立つまでだけでも、騎士見習いとして置いてもらえないだろうか。
リューベルトは一人前の騎士にはまだ実力不足だが、たとえ微々たるものでも、ガレフたちが国を守護する手伝いをさせてもらえたら、と考えていた。
ガレフは戸惑い顔で、こめかみを指で擦った。
「い、いえ、うーん……一般の騎士団員と横並びになっていただくのは少々——」
「無理です。団員がやりにくいでしょう」
急にシンザが横から口を挟んだ。とても不機嫌そうな顔で。
「セスみたいに、誰もがみんな、リューベルト様をリュートと呼び捨てにできるものではないのです。騎士にとっては忠誠や誓いが、命のように大事であることは、ご存知でしょう」
「シンザ、あなたね——」
ヴィオナが止めようとしたが、何かに驚いたような顔をして言葉を切った。
「だから……だから、この家に……加わればいい」
まるで絞り出すような、シンザの声だった。
「家族になればいい。私の弟になればいいんです」
「……シンザ……」
「それで良いではないですか。何が、ずっととは言わない、ですか。なぜ今さら、そんな遠慮を……」
シンザの声が小さくなって消え、一度部屋の中がしんと静まり返った。
その空気を明るいものへ変えてしまったのは、小さく吹き出したガレフの声だ。
「お前、泣きそうになっているのか?」
「はぁっ!? 違うよっ!」
顔を赤くして声を荒らげた弟に、ガレフが無邪気な子どものように口を開けて笑った。ヴィオナもナリーも口元を覆って笑っている。
リューベルトだけは、目の奥が熱くて、笑顔になれなかった。
「——しかし、シンザの案……なかなか良い案です。いかがでしょう、殿下。もしよろしければ、このままこのイゼルで、私たちの末弟におなりいただきたく存じます」
「……このまま、ここで……」
もちろん、正式な養子にはなれない。かつては行われていた、人身売買まがいの政略結婚を防ぐための法があるからだ。貴族家が養子を迎えるには国の許可が必要であり、身元の証明も求められる。リューベルトには不可能だ。
シンザとガレフが言っているのは、このままイゼルでともに生きようということ。家族のように遠慮はいらないのだということ。
居場所はここにある、ということ。
「私は……いるだけで、迷惑ではないのか」
「いいえ、まさか。もし殿下にどこかへ行かれてしまったら、それこそ心配で困ります」
「その時はシンザが、死に物狂いで探し回ってしまうでしょうしね」
「……姉上……」
まだ顔を赤くして目の上を掻いているシンザと、リューベルトの目が合った。
「本当に、良いのか……ここにいて」
「当たり前です」
照れ隠しか、シンザはまた怒ったように、顔中に力が入った表情になった。
「これからは、殿下とは呼びません。遠慮なく弟として扱いますよ。鍛錬だってもっと厳しくします。イゼルで暮らす以上、一人前の騎士になってもらわなくてはなりませんから。しっかり覚悟を決めてから、弟になってください」
「……ありがとう」
リューベルトの紺碧の瞳から、ひと粒の涙がこぼれた。
「ありがとう……」
——国のためにと、ロベーレから帝都へ連れて行かれた。皇子にされ、皇太子に担がれた。
裏切られ、追い出され、そして今、国のために生来の名を捨てる決意をした少年は、新しい「家族」に迎え入れられた。
第四章 終




